●ニューヨーク・アクターズ・スタジオのふたりの同期生
ポール・ニューマンが死んだ。9月26日、83年の生涯だった。ポール・ニューマンとジェームス・ディーンとは、ニューヨーク・アクターズ・スタジオの同期だったという。もっともジミーの方が若く、生きていれば77歳になる。日本風に言えば喜寿である。6歳年上のポール・ニューマンは、ジミーが死んだ後から映画のキャリアをスタートさせた。
僕が映画に目覚めた1960年代半ば、ポール・ニューマンはすでにハリウッド・スターだった。実力派の俳優で、いくつかの代表作を持っていた。エリザベス・テイラーと共演した「熱いトタン屋根の猫」(1958年)は、舞台俳優をめざしたポール・ニューマンの実力が発揮されたテネシー・ウィリアムズの戯曲の映画化だった。
「左ききの拳銃」(1958年)は、後に「奇跡の人」(1962年)や「俺たちに明日はない」(1967年)を作るアーサー・ペン監督作品であり、ポール・ニューマンがビリー・ザ・キッドを演じた西部劇である。実際のビリー・ザ・キッドの写真を見ると、ガンベルトが逆についている。故にビリー・ザ・キッドは左利きだった、という説をとった映画だった。
後に、僕は「ビリー・ザ・キッドが写っている写真は、裏焼きだった。キッドは左利きではなく、本当は右利きだったのだ」という話を聞き、中学のときに憶えた「ザ・レフト・ハンディド・ガン」という原題を虚しくつぶやいた。なぜ伝説を伝説のままにしておけないのか、と悲しくなったものだ。
その後、「ハスラー」(1961年)で、ポール・ニューマンは人気を得る。賭けビリヤードで生きている自信満々のハスラーの若者。彼は「ミネソタ・ファッツ」という老練なハスラーと勝負をして敗北し、自堕落な生活に浸る。足の悪い恋人が自殺し、再びミネソタ・ファッツに挑戦する。
その後、マーティン・リット監督の「ハッド」(1962年)に出演し、ポール・ニューマンの演技力は高く評価された。「ハスラー」「ハッド」と好評が続いた結果、ポール・ニューマンは「動く標的」(1966年)のタイトルも「ハーパー」とすることを主張した。
僕が初めて映画館で見たポール・ニューマンの映画が「動く標的」だった。ロス・マクドナルドの原作は「The Moving Target」で、私立探偵リュウ・アーチャー・シリーズの第一作だった。僕はリュウ・アーチャー・シリーズが映画化されるというので期待していたのだ。
しかし、映画雑誌によるとポール・ニューマンは主人公の名前を「ルー・ハーパー」に変更させ、映画のタイトルを「ハーパー」にさせたというのだ。理由は「H」で始まるタイトルの映画がずっと好評だったから…。その記事を読んでポール・ニューマンは「ワガママなハリウッドの勘違い野郎」なのだと僕は思った。思い上がっている、と反感を抱いた。
リュウ・アーチャーは、僕にとって大切なヒーローだった。当時、「ギャルトン事件」「ウィーチャリー家の女」「縞模様の霊柩車」とロス・マクドナルドは最高傑作「さむけ」に向けて、立て続けにリュウ・アーチャー・シリーズの名作を書き続けていた。新作が出るたびに前作を上まわる深みを加えていた。
それなのに、リュウ・アーチャー・シリーズで最も深みのない通俗的な第一作「動く標的」を映画化し、おまけに名前まで変えてしまうなんて…、と僕は憤慨した。それでも、映画を見にいったのは、当時、僕のお気に入り女優だったパメラ・ティフィンの水着姿に惹かれたからである。
●ハードボイルド私立探偵映画の思い出の一作
今から考えてみれば、リュウ・アーチャー・シリーズ全盛期の諸作は映画化するには向かなかったと思う。じっくり本で読むと深い感銘を受けるが、リュウ・アーチャーが様々な人物に会い話を聞くだけの展開であり、アクションはほとんどない。拳銃はまったくと言ってよいほど出てこないし、あったとしてもリュウ・アーチャーが誰かに後頭部を殴られて昏倒するくらいである。
これでは、ハリウッド的私立探偵映画にはならない。しかし、初期の数作はミッキー・スピレイン作品ほどの派手なアクションはないけれど、それなりに通俗ハードボイルド私立探偵小説の形を継承している。だから「新・動く標的」(1975年)として、ポール・ニュ−マンが再びルー・ハーパーを演じたのも、原作はリュウ・アーチャー・シリーズ二作目の「魔のプール」だった。
しかし、原作と違い映画版「動く標的」は、オープニングのシーンとラストシーンが印象的なハードボイルド映画の名作になった。僕の同世代の人たちで、この映画を好きだという人たちは多い。僕も、中学生のときに見て、好きになった。ロバート・カルプ、シェリー・ウィンタース、ローレン・バコールといった顔ぶれも豪華だった。
「動く標的」は「ハーパー」(アメリカ版だけのタイトルらしい)というタイトルバックに続いて、探偵ハーパーの朝の様子が描写される。コーヒーを煎れようとするが、コーヒーの缶は空っぽ。仕方なく、捨ててあるドリップ式のフィルターを拾い上げて湯を注ぐ。
ハーパーは離婚した中年のうらぶれた私立探偵の侘びしさを、ファーストシーンから醸し出す。珍しいことにハーパーは半袖のホワイトシャツに細いニットタイを結び、村上春樹さんによれば「ブルックスブラザーズ製のナチュラルショルダーのスーツ」を着る。
彼が乗るクルマは、ツーシーターのオープンカーだ。弁護士の依頼を受けて、失踪した億万長者の邸宅に赴くと、車椅子に乗った婦人が現れて「夫を捜して」と言い出す。邸宅のプールサイドでは、自家用飛行機のお抱えパイロットと富豪の令嬢が水着姿で踊っている。
やがて、富豪が誘拐されたのがわかる。身代金の受け渡し役を頼まれたハーパーは指定された廃船にいくが、富豪を見付けた途端に後頭部を殴られて昏倒し、気が付いたときには富豪は殺され身代金は奪われていた。彼を助けにきたのは、今回の仕事の依頼をしてきた友人の弁護士である。
ここから、複雑な家族関係が明らかになったり、新興宗教の教祖やお抱えパイロットの意外な恋人が登場してきたり、後のロス・マクドナルドの作風を予感させるような展開があり、最後に、アッと驚く犯人が指摘される。ハーパーは犯人に真相を解き明かし、去ろうとする。犯人が、その背中に拳銃を向ける。だが…。
この映画のラストシーンを好きな人は多いだろうな。僕もラストシーンのベストスリーには入れている。
●二本の監督作品の間に出演した「明日に向かって撃て」
「動く標的」と同じ年、僕は「引き裂かれたカーテン」(1966年)を見にいった。ヒッチコック監督の久しぶりの新作で、「サウンド・オブ・ミュージック」(1965年)で人気女優になったジュリー・アンドリュースとの共演だった。もちろんジュリー・アンドリュースはシリアスな演技を通し、一曲も歌わない。ヒッチコックの新作で期待しただけに、僕はひどくがっかりした記憶がある。
だが、ポール・ニューマンは裏切らなかった。「暴力脱獄」(1967年)という不思議な映画で彼は復活した。原題は「クールハンド・ルーク」と韻を踏んでいる。酔っ払ってコインパーキングを壊した罪で刑務所に服役したルークという男が権力に屈せず、自由を求めて脱獄に挑み続ける映画は、当時の気分にフィットしたのだろう。この映画を生涯のベストに挙げる人を僕は知っている。
ポール・ニューマンのフィルモグラフィーを見ると、「暴力脱獄」の後に初めての監督作品「レーチェル・レーチェル」(1968年)を作っている。妻のジョアン・ウッドワードを主演にした作品で、監督に徹した。40を過ぎて、自分で監督したくなったのかもしれない。
「レーチェル・レーチェル」の公開は、僕が高校三年生のときだった。四国高松では上映されなかったと思う。翌年、僕は上京し、池袋の文芸坐などでよくかかっていたが、見逃したまま現在に至っている。僕が見たかったポール・ニューマンの監督作品は、自らも出演した「オレゴン大森林/我が緑の大地」(1971年)である。
切り出した大木に足を挟まれ湖に沈んだ父親を助けようとするポール・ニューマンのシーンは、今も鮮明に甦る。彼は大きく息を吸い、水中に没した父親に口うつしで空気を送り続ける。だが、彼は父親が水中で溺れていくのを見続けるしかない。ほんの少し下の水面で父は死にかけているのだ。こんな地味な映画で、こんなに緊張感が漲るシーンも珍しい。監督としてのポール・ニューマンに敬服した。
二本の監督作品の間にポール・ニューマンは「明日に向かって撃て」(1969年)に出演している。まだ新人同然だったロバート・レッドフォードに花を持たせた映画である。しかし、ポール・ニューマンが演じたブッチ・キャシディのとぼけたキャラクターがなければ、サンダンス・キッドはあれほど引き立たなかったはずだ。
有名な崖下への飛び降りシーン。保安官たちに追い詰められたふたりは、戦うか崖下の河に飛び込むかを迫られる。戦おうとするサンダンスにブッチは「ホワイ?」と問う。言いにくそうな表情のサンダンスが「アイ・キャンノット・スイム」と怒鳴るように答える。間をおいて笑い出すブッチ。次のシーンでは、ふたりは大声を上げて飛び降りる。サンダンスとブッチは、ベルトでしっかりとつながっている。
日本公開は1970年2月だった。前年の暮れには「ジョンとメリー」(1969年)、1月には「イージー・ライダー」(1969年)が公開された。僕は大学入試を目前にして、ガールフレンドと一緒に「明日に向かって撃て」を見にいった。映画館を出た後、思わずバート・バカラックの「雨にぬれても」を歌ってステップを踏んだ。そのあまりの下手さにガールフレンドが笑った。
主人公ふたりが蜂の巣になって死んだことを予感させるラストシーンなのに、後味のよい映画だった。ユーモアにあふれた映画であり、最初と最後に映されるスクリーンの映像にかぶさるカタカタという映写機の音がいつまでも耳に残る。B・J・トーマスの歌う「雨にぬれても」が聞こえてくる。キャサリン・ロスを自転車に乗せて走るポール・ニューマンの笑顔が浮かぶ。
「エデンの東」(1955年)「理由なき反抗」(1955年)「ジャイアンツ」(1956年)という三本の映画だけで、永遠の命を得たジェームス・ディーンとは正反対の人生だったかもしれないが、「明日に向かって撃て」という素敵な映画を出演作に持てたポール・ニューマンは、本当に幸せな俳優だった。83歳の大往生だと思いたい。
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
変化のない日常なので、ここに書くことに苦労します。平日は、ほとんど社内にいて、様々な仕事をしているのですが、まあ、簡単に言えば「雑用」です。しかし、どんな仕事も必要とされる度合いは同じです。重要度は違うかもしれませんが…
●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/shop/shop2.asp?act=prod&prodid=193&corpid=1
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受賞風景
< http://homepage1.nifty.com/buff/2007zen.htm
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< http://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/04/post_3567.html
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- 映画がなければ生きていけない 1999‐2002
- 十河 進
- 水曜社 2006-12-23
- おすすめ平均
- ちびちび、の愉悦!
- 「ぼやき」という名の愛
- 第25回日本冒険小説協会 最優秀映画コラム賞
- すばらしい本です。
- ものすごい読み応え!!
by G-Tools , 2008/10/10