●自分の写真とは思えないほどモノクロームは美しかった
学生時代、四畳半の下宿で暗室作業にいそしんだ。フィルム現像は小型タンクでやっていたから、明るい部屋のままで大丈夫だった。どちらにしろフィルムをパトローネから取り出してタンクの中のローラーに巻き付けるのは、完全に光を遮断しなければならないから、お座敷暗室では無理なのである。だから、両手が入れられる黒い布が二重になったダークバッグを使った。
しかし、プリント作業なら多少の光の漏れは大丈夫だ。だから、僕はいつも夜になると雨戸を閉め光をシャッタアウトして、押入から暗室用具を取り出した。暗室ランプを柱に取り付け電源を入れると、部屋の中が赤い光で充たされる。小さなちゃぶ台に引き伸ばし機を載せ、イーゼルをセットする。引き伸ばしレンズをねじ込む。
畳に新聞紙を敷き、四つ切りのバットを三個並べる。最初のバットに現像液を注ぎ、二番目に停止液、三番目に定着液だ。部屋の隅にある炊事場の狭い流しにも水洗用のバットを置く。天井近くにロープを張り、水洗が終わったプリントを乾かせるように洗濯バサミのようなクリップをぶら下げた。
その準備が整うと、いよいよ作業開始だ。現像を終え乾燥させ6コマにカットしたネガフィルムをガラスの圧着板に挟み、フィルムのブレが出ないようにして引き伸ばし機にセットする。引き伸ばし機のランプを点灯させる。レンズの絞りは開放だ。引き伸ばし機の一番下の白いボードに拡大された像が映る。
そのネガ像を引き伸ばし用ルーペで確認し、レンズを調整してピントを合わせる。トリミングしたい場合はイーゼルをあてがってみる。これでいいとなったら、レンズの絞りを絞り込む。像が暗くなる。ランプを消し、光に当てないため黒いビニール袋に入れられた印画紙を手探りで取り出す。僕は三菱製紙のゲッコール硬調用紙を愛用した。光沢紙ではない。
印画紙をボードに置き、イーゼルのトリミング位置を合わせる。ここで息を整え、背筋を伸ばす。そのまま右手を引き伸ばし機の上に伸ばし、ランプのスイッチをオンにする。本当は厳密に露光時間を計らなければならないのだが、僕はいつも勘でやっていた。
露光時間が適切だったかどうかは、印画紙を現像液につけたときにわかる。露光があまりに過多だと、つけた瞬間に真っ黒に変わっていく。これは、引き伸ばしレンズを絞り込み忘れたときによくやった失敗だ。レンズを開放絞りのまま露光すると、印画紙に当たる光量が多すぎて印画紙は真っ黒になるのだ。
しかし、現像液に印画紙をつけ、しばらくして適正な露光のポジ像がフッと浮かび上がってきたときは、なにものにも代えがたい感激だ。だから、暗室作業を始めると、いつも徹夜になった。気が付くと、雨戸の隙間から朝の光が差し込んでいる。そうすると、ようやく僕は作業を終え、使用した現像液などをタンクに戻し、引き伸ばし機を片づけ、暗室ランプをオフにする。
雨戸を開けると、早朝の光がいっせいに差し込んでくる。その光の中でロープにクリップで吊されたプリントを見た。モノクロームのプリントをしみじみと眺めるのである。黒と白とグレイの階調だけで再現されたモノクロームは、美しかった。自分が撮影した写真とは思えなかった。
●スクリーンを飾ったモノクロ女優たちに逢える
僕は、モノクローム映画を偏愛している。特に1940年代から50年代のハリウッド映画、フランス映画が好みだ。出てくる俳優はハリウッドならハンフリー・ボガート、グレン・フォード、アラン・ラッド、リチャード・ウィドマークなどであり、フランスではジャン・ギャバン、リノ・ウァンチュラ、ミッシェル・コンスタンタンなどだ。
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「暗い画面が多いから」あるいは「暗黒街を描いているから」フィルム・ノアールと呼ばれたという説もあるようだが、フランスで「セリ・ノアール(暗黒叢書)」という犯罪小説のシリーズが発行され、映画も「フィルム・ノアール」と呼ばれるようになったと、昔、読んだ。フランス人は犯罪小説が好きなのかもしれない。犯罪小説を原作としたフィルム・ノアールにも数々の傑作がある。
ハリウッドでフィルム・ノアールとカテゴライズされる映画を大量に製造したのは、WBの文字をスーパーマンの胸のマークのようにデザインしたロゴで有名なワーナー・ブラザーズである。ジョン・ヒューストン、ハワード・ホークスといった監督たちが活躍した。巨匠というべきフリッツ・ラング監督も途中から参加した。
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グロリア・グレアムについて映画評論家の山田宏一さんは「40〜50年代のモノクロ女優の中で、だれの裸をいちばん見たかったかといえば、それはイングリッド・バーグマンでもなく、ローレン・バコールでもなく、ラナ・ターナーでもなく、バーバラ・スタンウィックでもない──それはグロリア・グレアムだった」と書いている。
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「復讐は俺に任せろ」のグロリア・グレアムは、若きリー・マーヴィンが演じるギャングの頭の軽そうな情婦役だったが、妻を殺された元刑事のグレン・フォードに惚れて協力する。だが、それを知ったリー・マーヴィンは怒り、沸騰しているコーヒーポットをつかんで彼女の顔にぶちまける。
リー・マーヴィンのサディストぶりは当時の映画としては凄まじいが、顔半分に火傷を負ったグロリア・グレアムが後半では劇の中心になる。前半のかわいい女が、後半では復讐に燃える女に変わるのだ。そんなグロリア・グレアムが気に入って、僕はもう一度再生ボタンを押した。そのとき、息子が部屋に入ってきた。彼は画面を見て、いけないことをしている父親を見付けたように、こう言った。
──黒白じゃん。古い映画、見てんだねぇ。
●昔の映像はすべてがモノクロームだった
昔、テレビも映画もモノクロームだった。映像は、すべてモノクロームだったのだ。我が家にカラーテレビが入ったのは、東京オリンピックの前だ。とすれば、僕は中学一年生である。アルバムに残っている写真がカラーになるのも、やはり中学生になってからである。小学生の頃の写真は、すべてモノクロームでしか残っていない。
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それは写真でも同じで、カラーフィルムで撮影しカメラ店で現像とプリントを依頼すると、メーカーの現像所に送られ大量に処理される。だから、プリント料金はどんどん安くなった。しかし、カメラ店にモノクロフィルムの現像とプリントを頼むと、カラーよりずっと高い料金をとられるようになった。結局、需要と供給の関係が価格を決める。
「泥の河」の公開前、僕は監督の小栗康平さんをインタビューした。そのときに「みんな制作費がなくてモノクロームにしたと思っているようですよ」と振ってみると、「今じゃモノクロームの方が金かかるのにね」と監督は笑った。もちろん、監督は昭和30年という時代を表現するためにモノクロームを選択したのだ。
そうだとすると、最近の若い人たちがモノクロームの映像を見て「古い」と感じるのは故なきことではない。「モノクローム=古い」というイメージが定着しているのである。だけど、僕は今でもモノクロームの映像を見ると心が和む。暖かくなる。懐かしい。そこでどんなに悲惨な物語が展開されても、何か心を打つものがある。
特に、モノクロームの世界でしか逢えない女優たちの素晴らしさは、僕を魅了する。彼女たちは肌の色も、髪の色も、目の色も、すべてグレイトーンで描かれるだけだ。髪のグレイを見て、僕はブロンドなのかブルネットなのかを判断する。もしかしたら赤毛なのかもしれない、あるいはプラチナブロンドなのかも…と想像する。
何もかもリアルに再現し、すべてを見せてしまう映画より、色さえ想像しなければならないモノクロームの世界の魅力は棄てがたい。
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
5、6年前には花粉など何ともなかったのに、段々ひどくなる。週末は部屋に籠もっていたが、片目に異物感があり、とうとう目があかなくなった。本も読めず、DVDも見られない。音楽を流し、目を閉じているだけだ。そうしていると、やっぱり眠くなる。
●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/suiyosha/1400yomim/1429ei1999.html
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受賞風景
< http://homepage1.nifty.com/buff/2007zen.htm
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< http://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/04/post_3567.html
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- 映画がなければ生きていけない 1999‐2002
- 十河 進
- 水曜社 2006-12-23
- おすすめ平均
ちびちび、の愉悦!
「ぼやき」という名の愛
第25回日本冒険小説協会 最優秀映画コラム賞
すばらしい本です。
ものすごい読み応え!!
by G-Tools , 2009/03/13