●「恋人が東京にいっちっち」と嘆く歌が流行った頃
昭和30年代半ば、僕の叔父が四国高松で結婚式を挙げ、新婚旅行に向かったのは東京であり熱海だった。小津安二郎監督「東京物語」(1953年)で描かれたように、熱海が新婚旅行のメッカだった時代もあったのだ。宮崎が「フェニックス・ハネムーン」で売り出すずっと以前のこと。今や、ハネムーンを国内旅行ですまそうとする男は、恋人に婚約破棄を迫られる時代になった。
その叔父の新婚旅行みやげは、東京タワーの文鎮だった。東京タワーの下の土産物店で買ったものだ。東京タワーは完成したばかり。文鎮も赤銅色に輝いていた。しかし、文鎮だから横長にしなければならなかったためか、東京タワーに並んで国会議事堂がついていた。だから小学生の頃、僕はずっと、国会議事堂の隣りに東京タワーが建っているのだと思い込んでいた。東京は、遙か彼方の別世界だった。
「ALWAYS 三丁目の夕日」(2005年)は、昭和33年の東京が舞台だった。東京タワーが着々と天に向かって延びていた頃だ。「ALWAYS 続・三丁目の夕日」(2007年)は、その翌年の昭和34年の設定である。東京タワーはすでに完成し、都民の希望の象徴になっていた。テレビが急速に家庭に入っていった時代である。テレビによって東京の様々な情報が地方にももたらされ始めた。
その頃、毎年春になると日本の高度成長を担うことになる金の卵を乗せて集団就職の列車が上野に着いた。「就職列車にゆられてゆれて」上野に中学を卒業したばかりの少年少女が着くのは、昭和30年代の春の光景だった。「あゝ上野駅」の歌がヒットしたのは昭和39年、東京オリンピックの年である。高校への進学率が格段に伸びていたその頃にも、まだまだ地方からの集団就職はあったのだ。
昭和34年、「ぼ〜くの恋人、東京へいっちっち」と歌ったのは守屋浩である(彼の「有難や節」は名曲です)。その前年、三橋美智也もとんびに向かって「そこから東京が見えるかい」と歌った。東京は「世界の中心」ではなかったかもしれないが、少なくとも「日本の中心」だった。高度成長が始まろうとしていた時代である。
昭和30年代、東京は憧れの都会だった。みんな東京へ出たがった。守屋浩の歌の最後は「僕もいこう。あの娘の住んでる東京へ」である。しかし、東京へ出た彼らはどうしたか? それは吉永小百合と浜田光夫を中心とした日活青春映画を見ればわかる。彼らは、工員、店員、蕎麦屋の出前持ち、お手伝いさんなど底辺の労働力として便利に使われた。彼らが、日本の高度成長を底のところで支えたのである。
その頃、夢を抱えた青年たちは東京をめざした。昭和34年、シナリオライターになる夢を抱いてしまったばかりに、高知県中村市に住んでいた中島丈博も東京をめざした。そのときの体験を元に、後に彼は「祭りの準備」(1975年)を書く。だが、彼はすんなりとシナリオライターになれたわけではない。都会の隅でアルバイトをしながらのしがない下積み体験は、NHK銀河ドラマ「青春戯画集」になった。
しかし、東京はそんなによいか? 東京で夢が叶う人間より、夢破れる人間の方が圧倒的に多いのだ。死屍累々…、東京には無数の夢の欠片が落ちている。
●田舎者は都会のシステムを知らないと恥をかく?
僕は東京に出てきて来年で40年になる。25年ほど前からは千葉県に住んでいるが、会社は都心にある。そこへ34年間、ときどき出社拒否症になりながらも出勤し続け、生活の糧を得てきた。僕のような存在を千葉都民と呼ぶのだろう。千葉県浦安市にあるくせに「東京ディズニーランド」と自称しているのと似たようなものである。
18の頃の僕は、東京へ出ることに心が躍った。ひとりで暮らせること、そこが東京であること、それだけで期待感に胸を膨らませた。後にカミサンになるガールフレンドを残したまま上京するほど、東京には魅力があったのだ。昭和30年代にあった「憧れの東京」という単純な想いを抱いていたわけではないが、東京にいけば映画や芝居がいつでも見られるという「文化の中心である東京」の魅力は感じていた。
最初に住んだ赤羽線(現在は埼京線になっている)板橋駅では、場末の映画館でアート・シアター・ギルド(ATG)の作品が見られることに驚いた。僕は風呂帰りに大島渚監督「新宿泥棒日記」(1969年)などを見て、東京に出てきたことを実感した。新宿の花園神社にいけば、唐十郎たちが紅テントを張っていた。そんなアングラ演劇の聖地へも下宿から明治通りを二時間も歩けばいけるのだった。
しかし、地方出身の田舎者であることを思い知らされることもあった。初めて新宿駅へ出たとき、僕は改札があったので切符を置いてそこを通った。ところが、その先にまた改札があったのだ。今から思えば乗換改札だったのだが、僕はほとんどパニックになった。カフカ的不条理の迷宮世界に迷い込んだかと思った。しかし、よほど田舎者に見えたのだろう、訳を話すと小田急の駅員は切符なしで改札を出してくれた。
憧れのジャズ喫茶「新宿ピットイン」に出かけたときも「知らない」ことで恥をかいた。「ピットイン」にいく前に腹ごしらえをしようと思って、僕は新宿駅ビルのレストランに入った。空いていたので窓際のテーブルをめざして歩き出した途端、レジにいたおばさんが怒ったような声で「食券買ってください」と言った。レジで食券を買うスタイルだったのだ。
その先入観があったからだろう、「新宿ピットイン」への階段を勇んで昇るとレジがあり、太ったおばさんが陣取っているのを見た瞬間、僕は財布を取り出したのだ。しかし、レジの前に棒立ちになった僕を太ったおばさんは怪訝そうに見上げた。僕は目だけ動かして店内を見渡した。そのとき、自分の失敗に気付いた。景気よく出てきたものの空気が違うことに気付き、慌てて周りを見るステテコに腹巻き姿の植木等のように間の悪い瞬間だった。
僕はいっそ「こりゃまた、シッツレーしました!」と言って店を出てしまいたかったが、照れ笑いをしながら隅のテーブルに腰を降ろすしかなかった。「この田舎モン!」という客たちの視線が刺さる。コーヒーを頼んだものの僕は上の空だった。ジャズだって何がかかっていたか憶えちゃいない。僕は不自然ではない時間だけいて、そそくさと店を後にした。以来、裏にあった「ピットイン・ホール」には何度かライブを聴きに出かけたけれど、店の方には一度もいかなかった。
今も僕は思う。東京はそんなによいか? 少なくとも都会のシステムを知らない田舎モンには冷たい街なんじゃないか。
●「牧歌的」という言葉をそのまま映像にしたような映画
「天然コケッコー」(2007年)のたったふたりの生徒(付き添いの教師は三人)の修学旅行を見ながら、僕は「東京がそんなにいいのか」と疑問を抱いた。主人公のそよ(夏帆)はまわりに人間ばかりがいる東京でうんざりし、慣れない交通機関やエスカレーターや階段に疲れ果てる。様々なシステムに慣れていないし、地下に入れば方向さえわからない。
そよの同級生の大沢くんは東京生まれの東京育ちだが、一年ほど前に母親と一緒にさよの住む山と田圃しかない田舎にもどってきた転校生だ。彼は渋谷あたりで昔の同級生たちと再会し、その途端に都会の中学生に戻ってしまう。仲間たちはダサいそよをバカにし、そんな仲間たちの世界に馴染んでいる大沢くんは、そよとは別の世界の人間のように見える。
そよの通う学校には、小中学生全員で六人しかいない。そよは最年長の中学二年生で、子どもたちのお姉さんのような存在だ。しかし、夏休み前、大沢くんが転校してくる。初めての同級生。それも東京育ちのかっこいい「イケメンさん」だ。そよの胸が騒がないはずがない。しかし、大沢くんは何となくとっつきにくい。「なんで、こんな田舎に…」と思っているのだろう。
大沢くんの母親とさよの父(佐藤浩市)は、昔、何かあった仲らしい。大沢くんの話をすると「あの家とは付き合うな」と父は怒鳴る。そんな夫を母親(夏川結衣)は気にせず、家族を温かく見守っている。ある日、母と歩いていたそよは、父と大沢くんの母親が抱き合っているのを目撃して慌てるが、母は気が付いたのか付かなかったのか、何もなかったように暮らしている。そよが心配して「お父さん、浮気しとる」と言うと、「たまにゃ〜ええよ」と落ち着いたものだ。
なかなか馴染まなかった大沢くんだが、みんなで海へ泳ぎにいこうと誘うと一緒にくる。しかし、みんなは海への近道は自殺者の幽霊が出ると怖れて遠回りするが、大沢くんだけが近道へいく。一瞬迷ったそよも大沢くんと一緒に歩き出す。その一日で大沢くんは身近な存在になり、大沢くんもみんなに溶け込んだ。そよの日々に張り合いのようなものが生まれる。なのに、修学旅行で東京の友だちに会った途端、大沢くんは別の世界の人になったのだろうか…。
さよの世界は、僕にとっては懐かしい香りのする理想郷である。牧歌的という言葉がそのまま映像になっているようだ。見渡す限りの田園風景。遠くに里山が見える。日盛りの白い土の道。木造の校舎。板張りの廊下。そんなシーンを見ているだけで、涙が出そうになる。こんな世界が本当にまだ残っているのだろうか。映画を見ながらそんなことを意識したのは最初だけ。何も考えず美しい風景に浸り、心が癒されるような時間が過ぎた。
小学一年生だろう、おしっこを漏らしてばかりいるサッチャンという女の子がいる。その後始末は、そよの仕事だ。そよはやさしくサッチャンを慰め、「気にしないでいいのよ」と言うように下着を脱がせて身体を拭い、体操着に着替えさせる。床にたまったおしっこを拭き取り、下着を洗う。大沢くんが転校してきた日も、そよはサッチャンの下着を洗っていた。しかし、そよは大沢くんの前でサッチャンの下着を背中に隠そうとしてしまう。
大沢くんがやってきたことで、そよの中の何かが変わったのだろうか。ある日、おしっこを漏らしたサッチャンにきつい言葉を投げる。サッチャンが学校に出てこなくなる。病気だと言うが、そよは「わしのせいじゃ」と悩む。そよがサッチャンの家にいったとき、サッチャンは黙ってそよに抱きついてくる。そよが抱き返す。身長差のあるふたりの静かな抱擁。暖かい何かが伝わってくる。胸が熱くなる。この映画で一番印象的なシーンだった。
──もうすぐ消えてなくなるかもしれんと思えやあ
ささいなことが急に輝いて見えてきてしまう
そよが口にするセリフが「天然コケッコー」のキャッチフレーズに使われていた。それは、いずれ誰もが失わなければならないものなのだ。人は子供のままで生きてはいけない。そよは町の高校へいき、大沢くんは東京の高校を受けるかもしれない。その先はもっとわからない。そよも「人がいっぱいいて疲れる」東京に出るかもしれない。
自分が充実できるやりたい仕事を求めたら、未だに東京へ出るのが早道なのかもしれない。僕も就職のときに帰郷する選択肢はあった。だが、広告や出版という仕事にこだわったために東京に残った。出版という仕事ほど東京に集中する業種はない。そんなわけで、東京はそんなによくはないが、仕事のためにいるしかないのである。そう思っている人が僕の世代には多い気がする。歳をとって郷愁に心を占められているのかもしれないけれど…。
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
毎日が特に記憶に残らず過ぎていきます。金太郎飴のような日々ですね。朝、目覚めると何曜日だったかがわからないことが多く、ちょっと不安になります。とりあえず、毎日、酒だけは呑んでいるという非生産的な日々です。梅雨空がよけいに暗く見えます。
●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/suiyosha/1400yomim/1429ei1999.html
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受賞風景
< http://homepage1.nifty.com/buff/2007zen.htm
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< http://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/04/post_3567.html
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- 映画がなければ生きていけない 1999‐2002
- 十河 進
- 水曜社 2006-12-23
- おすすめ平均
- 特に40歳以上の酸いも甘いも経験した映画ファンには是非!
- ちびちび、の愉悦!
- 「ぼやき」という名の愛
- 第25回日本冒険小説協会 最優秀映画コラム賞
- すばらしい本です。
by G-Tools , 2009/06/19