●日本人のモラル低下を示す図書館の本への仕打ち
カミサンが市の図書館でパートとして働き始めて10年ほどになるだろうか。週に3日だけだが、土日のどちらかは必ず出勤している。最初は近くの分館だったけれど、数年前から少し離れた団地の中の分館に通っている。そのせいか、新刊情報に関してはかなり詳しくなっていて、最近の小説家については時々教えてもらうことがある。「誰々の本がよく動く」などと、実際の貸し出し現場の話は現実感がある。
以前に通っていた図書館は市内に10数カ所ある分館の中で最も利用率が悪く、カミサンに「たまには一緒にいって、本を借りてよ」などと、同伴出勤をねだるホステスみたいなこと(経験はないけれど)を言われたが、利用率が低いと問題にされることもあるという。毎日、貸出件数はどこの分館が少なかったかコンピュータで集計され、カミサンの分館はいつもビリだと嘆いていた。

イギリスの図書館は貸出件数に応じて作家にいくらかペイされると聞いたが、日本の場合は「無料貸本屋」的存在になっている面は否定できない。本を買わない人は、本当に買わない。借りるのが当たり前と思っている。「あの本いいよ」と薦めると「貸して」と言う。そういう人に本を貸すと、まず返ってこない。本の価値を認めていないのだ。大切なものだと認識していたら、絶対に返す。彼らは、本当の本好きではない。


図書館には本好きの人がくるのだろうが、カミサンの話を聞くとトンデモナイ人々も多い。図書館の本を万引きする。借りた本を返さない。数カ月延滞しているので催促すると逆ギレされる。ページを切り抜く。書き込みをする。本を紛失したので「弁償してほしい」と言うと、「俺の税金で買った本なのに、なんで弁償しなきゃならん」と怒り出す。弁償する本は「ブックオフの100円本でいいですか」と訊く奥さんは、まだマシな方なのだ。
古い団地の中の分館だから、やってくるのはお年寄りが多いらしい。毎日、図書館で時間を潰す人もいる。僕が「トンデモナイ人は若い人?」と訊くと、年輩の人やお年寄りだという。そんな話を聞くと、人は歳を重ねても何も学ばないし、成長しないのではないかと思う。経験を重ねることは、自分を磨くことだ。しかし、経験を素通りさせたら何も学べない。人は自覚的に生きていかない限り、成長はできないのではないか。
●男の裏切りの現場を通りから見上げるみじめな女
恋人に裏切られた傷心を抱えたままさすらい、その中で出逢った他者を鏡として自分を成長させ、新しくなって戻ってきた女がいたなと、あまり脈絡はないけれど僕は少し前に見た映画を思い出した。その映画はラブ・ロマンスとして紹介されていたが、僕にはビルドゥングス・ロマンのように思えた。経験から学び、成長する人間が僕は昔から好きなのだ。
赤や青のネオンに彩られたマンハッタンの夜、女は通りから好きな男の部屋の窓を見張る。みじめな行為。自尊心もプライドもなくした行動だ。恋人の不実を、裏切りを確認することに何の意味があるのだろう。女は、その時点ですでに、恋人に新しい相手ができたことを確信している。恋人の誠実さを確認するために見張っているのではない。彼女は、もう恋人を信じていない。
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「疑心暗鬼」とは「疑心、暗鬼を生ず」の略だ。人に疑う心が生まれると、それは次第に成長する。苦しいほど、人の心を圧迫する。日々、心が安まらず、何をしていても疑心に捉われた己を自覚する。いっそ、その疑いが真実だとわかった方がマシ、とさえ思う。恋人の裏切りが確実になったのなら、思い切れる。相手をなじることができる。罵れる。未練を断ち切れる。
女も、そう思って恋人の部屋の窓を見つめていたのかもしれない。もちろん、恋人の裏切りは確実になる。新しい相手が窓の向こうに見えたのだ。女は傷心を抱えて、いきつけのカフェの前に立つ。だが、入れない。彼女は、恋人に裏切られ、嫉妬心を抱えたままの自分を自覚している。そんな女のままで、カフェのマスターに会いたくない。今までの自分でいたくない。生まれ変わった自分を見せたい。そう思ったに違いない。
「カフェ・クルーチ」と書かれた店のカウンターには、大きなガラス瓶が置いてあり、中には様々が鍵が入れられていた。色とりどりに見えるのは、キーホルダーのせいだ。その鍵のひとつひとつに、様々な物語が宿っている。恋人が別の女と食事をしていたと聞き、疑心が生まれた夜、女はカフェのカウンターに男の部屋の鍵を放り投げ「彼がきたら鍵を返して!」とマスターに言付けた。
次の夜、女は再びカフェに現れてマスターから様々な鍵にまつわる物語を訊く。マスターはひとつの鍵を持ち「これは数年前、若いカップルが置いていったもの」と口を開く。そして、ある鍵を懐かしそうに掌にのせ「これはイギリスのマンチェスター出身の若者の鍵だった」と言う。若者は全米マラソン大会に参加し、その記事を書くはずだったがカフェのオーナーになったと語る。その鍵は、彼にかつての夢や希望を思い出させる。
「どうして棄てないの?」と訊く女に、マスターは「もし棄てたら、扉は永遠に閉じられたままだ」と答える。だからだろうか、数日後の夜、女は「あの鍵を返して」とやってくる。マスターは、恋人と復縁したのだろうと推察し、さみしそうな顔をする。彼は、すでに彼女を愛し始めている。そうして、女もそのことを感じている。
だから、恋人の部屋の窓を見上げた夜、恋人の裏切りを確信し、カフェの前までやってきた女は中に入れなかった。恋人への疑惑と嫉妬に苦しめられた夜、女はマスターの言葉と売れ残ったブルーベリー・パイに慰められた。マスターは優しく抱きしめてくれた。そんなマスターに、心変わりした男への未練を残したまま会えなかったのだ。変わらなければ…、そう決意した女はニューヨークを離れアメリカ中を放浪する。
●男の部屋を見上げ昔のみじめな自分を許容し微笑む女
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ウォン・カーウァイ作品は物語の面白さを見せるというより、凝りに凝った映像と音楽で観客の心に直接響く切なさのようなものを伝えてくる。「マイ・ブルーベリー・ナイツ」では赤や紫で彩られたブルーベリー・パイのアップに白いクリームが溶けて流れるカットや、赤や青のライトで照明されたカフェ、ダイナー、バーのシーン、赤や青の字でメニューが書かれたガラス越しに写される会話シーンなどが登場人物たちの心情を表現する。
テネシー州メンフィスのバーでウェイトレスを始めたエリザベスは、カウンターで最後まで呑んでいる中年男アーニー(デヴィッド・ストラザーン)と知り合う。彼は警官で、去っていった妻を思いきれず、アルコール依存症を治そうと努力しながら、結局、いつも酒に溺れて人生の辛さを忘れようとしている。マット・スカダーのようにアルコール依存症患者の会合に参加し、禁酒をした印に白いチップをもらっているのだが、それはもう何枚もたまっている。
アル中の私立探偵「マット・スカダーのように」と僕は書いたが、この映画のシナリオにはウォン・カーウァイと共にローレンス・ブロックの名前がクレジットされている。マット・スカダーの生みの親で、マンハッタンの夜を舞台にした物語ならお手のものだ。もしかしたら、ウォン・カーウァイはローレンス・ブロックの愛読者だったのかもしれない。
アル中気味の警官と妻の物語は哀しい結末を迎え、エリザベスは何かを感じとる。生きるために必要な何かを得るのだ。それは、人生の深みを学ぶことに他ならない。互いに惹かれ愛し合いながら、どうにもならない関係がある。互いを傷つけ合うしかない関係…。エリザベスはメンフィスを去る警官の妻を見送りながら、共感でもなくエールでもない、それでいて心温まる何かを送る。
次にエリザベスが知り合うのは、ネバダ州の場末のカジノで強気にカードゲームを続けるレスリー(ナタリー・ポートマン)だ。賭けに出た大ばくちで負けてしまったレスリーは、車を買うために金を貯めているというエリザベスの話を聞き、その金を出資しないかと持ちかける。「負けたら私の車をあげるわ」と言うレスリーの指さす先には、オープンタイプのジャガーの新車がある。
エリザベスは承知しレスリーは賭けに戻る。賭けが終わり戻ってきたレスリーに「どうだったの」と訊くと、「車をあげるわ」とレスリーが答える。しかし、ラスベガスまで送ってほしいとレスリーが言い、ふたりの旅が始まる。やがてラスベガスにいるというレスリーの出資者は父親であり、二人の仲は修復不能なほどこじれ、深い確執があるらしいことがわかる。だが、その父親が入院し死にかけていると連絡が入る。
レスリーは自分を呼び戻すために父親が嘘をついているのだと断言する。「誰も信じちゃダメ」と、レスリーはエリザベスに教える。しかし、レスリーとの別れ際に「少しは信じなさいよ」とエリザベスは大声をあげるのだ。自分を棄てた妻を忘れられなかったアーニー、父親を愛しながら確執から抜けきれなかったレスリー、そんな他者との交流の中からエリザベスは成長し、再生する。一年後、彼女は再びカフェの前に立つ。
そのエリザベスには、一年前、カフェの電話で男を罵り「あいつに鍵を返しておいて!」と出ていった女の面影はない。彼女は、学び、成長し、再生したのだ。かつて嫉妬と傷心を抱えて見上げた恋人の部屋の窓には「空き室」の看板が出ている。彼女はそれを見上げ、一年前のみじめな自分を許容し、今はそんな次元から遠く隔たったところにいる人間の余裕を見せて微笑む。
成長することとは、かつて許せなかったものを許容できる余裕や包容力を獲得することなのかもしれない。それは、結局、自分以外の存在に対する優しさだ。だから、図書館(とは限らないけれど)で人を怒鳴ったりするような年寄りにだけはなりたくないな。穏やかに、ニコニコと微笑んでいる好々爺でありたいと自戒を込めて思う。
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
7月9日から夏休みをとって帰省します。あちらは水不足が深刻なような話ですが、その後、改善されたのでしょうか。このテキストが掲載される頃には帰ってきているはずですが、もう梅雨明けになっているでしょうか。梅雨があければ暑い夏。
●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/suiyosha/1400yomim/1429ei1999.html
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受賞風景
< http://homepage1.nifty.com/buff/2007zen.htm
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< http://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/04/post_3567.html
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- 映画がなければ生きていけない 1999‐2002
- 十河 進
- 水曜社 2006-12-23
- おすすめ平均
特に40歳以上の酸いも甘いも経験した映画ファンには是非!
ちびちび、の愉悦!
「ぼやき」という名の愛
第25回日本冒険小説協会 最優秀映画コラム賞
すばらしい本です。
by G-Tools , 2009/07/17