●手術で最終回を見損ねた「ナショナル・キッド」
少し前のことだが、同僚から「扁桃腺で熱を出して休んだ」と聞いた途端、いきなり子供の頃に受けた扁桃腺の手術を思い出した。兄の自転車の後ろに乗ってウオノメを切ってもらいに医者にいったのを別にすれば、自分の体内に初めてメスが入ったときだ。その日にちまでわかる。1961年4月27日。何だか最近、体に関する古い出来事を思い出す。
扁桃腺とアデノイド、切り取られた肉片を3個見せられた瞬間が甦った。9歳の僕は思わず目を背けた。血にまみれた白く丸い肉片だった。自分のものとは思えなかった。医者は「確かに切り取りましたよ」という証拠なのだろうか、必ず切り取ったものを見せる。10年ほど前には、カミさんの切り取られた大腸を見たことがある。
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48年前、小学4年生になったばかりの僕は、目隠しをした姿で椅子に座らされた。のどの奥の両側に何本もの麻酔注射をされた。部分麻酔だから意識はあるし、医者と看護婦のやりとりも聞こえる。手はどうなっていたのだろう。椅子に固定されていたとしたら、どう見ても拷問である。そう言えば「カジノ・ロワイヤル」の底の抜けた椅子に縛り付けられた拷問場面は有名で、映画化された「007/カジノ・ロワイヤル」(2006年)でも再現されていた。
記憶では、手術は30分くらいかかった気がする。その間、口を開け続けていた。「はい、もっと口を開けて」という医者の声で、思いっきり口を開いた。「見えてきたぞ」という声と共に何かをハサミで切り取られるような感覚があり、舌の上にボトリと肉片が落ちてきた。おそらくアデノイドだろう。あのときの生理的なイヤ〜な感触は、50年近くたっても忘れられない。
少し前のことだが、同僚から「扁桃腺で熱を出して休んだ」と聞いた途端、いきなり子供の頃に受けた扁桃腺の手術を思い出した。兄の自転車の後ろに乗ってウオノメを切ってもらいに医者にいったのを別にすれば、自分の体内に初めてメスが入ったときだ。その日にちまでわかる。1961年4月27日。何だか最近、体に関する古い出来事を思い出す。
扁桃腺とアデノイド、切り取られた肉片を3個見せられた瞬間が甦った。9歳の僕は思わず目を背けた。血にまみれた白く丸い肉片だった。自分のものとは思えなかった。医者は「確かに切り取りましたよ」という証拠なのだろうか、必ず切り取ったものを見せる。10年ほど前には、カミさんの切り取られた大腸を見たことがある。
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48年前、小学4年生になったばかりの僕は、目隠しをした姿で椅子に座らされた。のどの奥の両側に何本もの麻酔注射をされた。部分麻酔だから意識はあるし、医者と看護婦のやりとりも聞こえる。手はどうなっていたのだろう。椅子に固定されていたとしたら、どう見ても拷問である。そう言えば「カジノ・ロワイヤル」の底の抜けた椅子に縛り付けられた拷問場面は有名で、映画化された「007/カジノ・ロワイヤル」(2006年)でも再現されていた。
記憶では、手術は30分くらいかかった気がする。その間、口を開け続けていた。「はい、もっと口を開けて」という医者の声で、思いっきり口を開いた。「見えてきたぞ」という声と共に何かをハサミで切り取られるような感覚があり、舌の上にボトリと肉片が落ちてきた。おそらくアデノイドだろう。あのときの生理的なイヤ〜な感触は、50年近くたっても忘れられない。
今から思えば、扁桃腺とアデノイドを除去する手術にしては、ずいぶん安易だった気がする。入院だって「ひと晩でいい」と言われた。兄が同じ耳鼻咽喉科に蓄膿症の手術をして入院していたから、そのベッドでひと晩一緒に寝ていけばいい、ということになった。その夜、兄とは逆の側からベッドに入って眠った。ふたりとも子供だったから、その方が大人用ベッドでゆっくり眠れたのだ。
翌日には自宅に帰った。それからしばらくは、流動食だった。学校の給食のときも特別扱いしてもらった記憶がある。のどの痛みを意識しながら、給食係が大きな深鍋から脱脂粉乳をすくっているのを、教室の入り口の柱にもたれてぼんやりと見ていた記憶がある。あれは何をしていたのだろう? 僕のための流動食のスープか何かを待っていたのだろうか。固形物がのどを通るときには、痛みを感じた。一ヶ月くらいは、そんな状態が続いた。
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なぜ、手術した日を憶えているかというと、僕はその日に見たくて仕方がなかったテレビドラマがあったのだ。「ナショナル・キッド」というヒーローものである。その日が最終回だった。前回まで欠かさず見ていたのに、最後に主人公が地球の危機を救う姿を見ることができなかった。僕の中では、未だに地球の危機が続いている。その最終回が1961年の4月27日。番組提供は、「明るいナショナル」の松下電器だった。翌週から「少年ケニヤ」が始まった。
●「ナショナル・キッド」に出ていた少女のその後
「ナショナル・キッド」は東映の制作だった。そのため、東映所属の子役がいろいろ出演している。数年後、東映制作の青春映画でヒロインをつとめる本間千代子も出ていたらしいが、よくは憶えていない。後に太地喜和子という名前になる志村妙子という少女も出ていた。
太地喜和子という女優は、僕はずっと文学座から出た人だと思っていたのだが、少女の頃から東映ニューフェースとして映画に出演し、俳優座養成所を出て文学座に入ったらしい。杉村春子の後継者とまで言われていたが、1992年10月13日、地方公演がはねた後、飲酒して何人かと同乗していた車が港から海に落ち溺死した。
昔、津坂匡章(現在は秋野大作)が太地喜和子と結婚していたと知って驚いたことがある。太地喜和子といえば、妖艶でセクシーでグラマラスな肢体を持つ女優なのに、津坂匡章はひょろひょろした情けなさそうなキャラクターで売り出した人だったからだ。もっとも、太地との結婚生活は早々に破綻している。何しろ「恋多き女」と言われた女優だ。
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津坂匡章はテレビ版「男はつらいよ」で、フーテンの寅の弟分のテキ屋をやっていたのが印象に残っている。映画版も最初の何本かには弟分で出ていたが、いつの間にか出なくなった。太地喜和子もシリーズ17作目「男はつらいよ・寅次郎夕焼け小焼け」(1976年)のマドンナで登場し、多くの助演女優賞を獲得した。芸者の役で和服姿がよく似合った。
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舞台では「欲望という名の電車」「唐人お吉」「近松心中物語」などの代表作があるが、映画では主演というより助演で印象的な役を多くやっている。最初に評判になったのは、新藤兼人監督作品「藪の中の黒猫」(1968年)だった。その後、「触覚」(1969年)「裸の十九歳」(1970年)と新藤作品に出演している。「裸の十九歳」は永山則夫が起こした連続射殺魔事件の映画化だった。犯人役は若き原田大二郎である。
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その新藤作品の間に、太地喜和子は森谷司郎監督作品「弾痕」(1969年)に出演した。加山雄三のスナイパーものだ。この時期、加山雄三は若大将シリーズの間を縫って「狙撃」(1968年)「豹(ジャガー)は走った」(1970年)「薔薇の標的」(1974年)などに主演した。スナイパーを主人公にしたアクション映画である。
「弾痕」で太地喜和子が演じたのは、主人公が心惹かれる前衛的な彫刻家だ。彼女は実年齢では20代後半だったが、すでに落ち着いた大人の雰囲気を身に付けていた。しかし、太地喜和子が受けたのはヌードも濡れ場も辞さない、いわゆる「体当たり演技」であり、情熱的な女の役だった。男と怒鳴り合い、太股も露わに組み付いてくるような演技だった。
そんなイメージがあるからだろうか、芸者や情婦や娼婦の役が多かったし、本人もそんな女を演じることに熱心だった気がする。「弾痕」の翌年に公開になった「やくざ絶唱」(1970年)では、勝新太郎を相手に蓮っ葉な情婦を演じていて、今でも僕の記憶は鮮やかだ。
●太地喜和子さんのいるところだけが明るく輝いていた
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「やくざ絶唱」は増村保造監督作品。勝新太郎がやくざな兄貴で、高校生の妹は売り出し中の清純派だった大谷直子が演じた。大谷直子はNHKの朝の連続小説のヒロインが決まっていたのに、岡本喜八監督の「肉弾」(1968年)で全裸を晒し、お堅いNHK幹部を悩ませた若手女優だった。
自分が育てたと自負している兄は妹を聖なる存在として守り続け、兄の異常なほどの過保護と干渉に反発する妹は様々な男たちを誘惑し、男との関係を兄に見せつけようとする。彼女の相手は教師役の川津祐介であり、若き美青年だった田村正和などである。
太地喜和子が演じたのは、兄妹の家にころがりこんでくる勝新太郎の情婦である。太股を露わにしたミニドレス、肩や背中を露出した洋服、時には下着姿でうろうろする。妹の目の前で兄に抱きつきセックスをねだる。それを冷ややかに見つめる妹の目が印象的だ。
その時の太地喜和子は、結局、妹を選択したやくざな兄に家を追い出されるのだが、そのときの兄妹を罵倒する演技が凄い。勝新太郎にくってかかり、むしゃぶりつく。元来、大柄な印象がある女優だったが、スクリーンからはみ出すかと思うほどの動きで迫力があった。こんな人に別れ話を持ち出したら怖いだろうなと、僕は思った。
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太地喜和子が勝新太郎と噂になったかどうかは知らないが、勝新太郎は女優として太地喜和子が気に入ったのだろう。「顔役」(1971年)「座頭市物語 折れた杖」(1972年)「悪名 縄張あらし」(1974年)など、勝プロ制作の作品に起用した。「顔役」と「座頭市物語 折れた杖」は勝新太郎自身の監督作だ。
「浮き名を流す」という言葉があるが、それは太地喜和子にこそぴったりだった。酒と男が好きだと公言し、ホントに酔っているのではないかと思わせるようなテレビコマーシャル(もちろん酒の)に出演し、ふっくらとした頬の目立つ顔で流し目を見せ、テレビの前の男たちを性的な興奮と恐怖によって震え上がらせた。最近の言い方だと草食系だった僕は、怖ろしさだけが印象に残った。
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太地喜和子のフィルモグラフィを見ると、映画の出演作は意外に少ない。池波正太郎の「その男」を映画化した三隅研次監督の遺作「狼よ落日を斬れ」(1974年)の尼の役、深作欣二監督作品「資金源強奪」(1975年)の主人公の情婦役を経て、「男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け」で評価され、80年代に入ると出演作は激減する。
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僕は一度だけ、太地喜和子を見かけたことがある。田宮二郎主演の「白い巨塔」が評判になっていた頃だから、1978年である。太地喜和子は主人公・財前の愛人役だったと思う(それにしても、情婦や愛人の役ばかりですね)。僕は「白い巨塔」収録中のフジテレビの廊下で彼女を見かけたのだ。
当時、僕は「小型映画」という8ミリ専門誌の編集部にいて、毎月、フジテレビ・デザイン室のデザイナーに依頼していたタイトル原稿をもらいにいっていた。カラーの一枚タイトルで、「運動会」「春の遠足」「ピクニック」などと描いてもらうのだ。あの頃、日本テレビ、TBS、フジテレビのタイトルデザイン室にはよく通ったものだった。
新宿区河田町の女子医大近くにフジテレビがあった頃だ。半蔵門線の曙橋駅はまだできていなかったから、僕はバスで河田町へ通っていた。受付で断って勝手知ったるデザイン室への通路を歩いていた。当時のフジテレビは、温泉地の老舗旅館のように増築増築で迷路のような廊下になっていた。一度では憶えられない。
途中、スタジオの前も通る。僕は、その一角だけが明るく輝いているように見えて、ふっと目を向けた。そこに細い目をさらに細くしてにこやかに微笑む太地喜和子がいた。もちろん、彼女が微笑んでいた相手はスタッフである。一瞬、僕は見とれた。芸能人にはオーラがある、とよく言われるが、僕はあのときにそれを信じた。明るい色の和服を身に着けた太地喜和子さんには、確かにオーラがあった。
スタジオの外でスタッフと打ち合わせをしていたのだろう。だが、どこにも特別な照明はなかったのに、確かに彼女のいるところだけが明るく輝いていた。僕は「うまい女優だ」とは思っていたが、特別にファンだったわけではない。僕は、ふくよかな人よりスレンダーでスリムな人に惹かれる。だから、そのときも「太地喜和子がいる」くらいにしか思わなかった。しかし、あの一瞬のことが記憶には刻み込まれている。
そのときから14年後、「太地喜和子さんが車で海に落ち死亡」というニュースを聞いたとき、僕は「ナショナル・キッド」に出演していた10代の少女を思い出し、やがて「やくざ絶唱」の怖いお姉さんが甦ってきた。
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
先日、内藤陳さんの誕生パーティに参加してきました。夕方から出かけて店に入ると、オーナーシェフの兄弟分カルロスから「おう、兄弟!」と声をかけられ、西村健さんには「痩せたんじゃない」と言われました。西村さんのラーメン探偵シリーズ「ゆげ福」(講談社文庫)は必読です。ラーメンが食べたくなって、食事制限中に読むと辛いですね。
●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/suiyosha/1400yomim/1429ei1999.html
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受賞風景
< http://homepage1.nifty.com/buff/2007zen.htm
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< http://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/04/post_3567.html
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- 映画がなければ生きていけない 1999‐2002
- 水曜社 2006-12-23
- おすすめ平均
特に40歳以上の酸いも甘いも経験した映画ファンには是非!
ちびちび、の愉悦!
「ぼやき」という名の愛
第25回日本冒険小説協会 最優秀映画コラム賞
すばらしい本です。
by G-Tools , 2009/09/25