〈七年目の浮気/お熱いのがお好き〉
●「昔と逆のこと言ってるよ」と言われることがある
ここまで変わる、とは僕も思わなかった。最近、歳とって「ソゴーさん、昔と逆のこと言ってるよ」と言われることが時々ある。本人は変わっていないつもりでも、他の人の目には変節したように見えるのか、と少し反省する。完全に逆の立場になったということでは、たとえば、僕は昔、労働組合の闘士(?)だったが、今は会社の労務担当である。組合を弾圧(?)している。
若い頃、「最後の砦だけは守るぞ」と意地を張っていた。権力者には媚びるまい、上司に楯突く気概はなくすまい、と小心者である己を鼓舞していた。理不尽な仕事への横やりには、ああだこうだと反論し(おかげで「言い訳ソゴー」と言われた)命じられた通りにはしなかった。団交で経営者を相手に机を叩いて怒鳴った(おかげで「瞬間湯沸かし」と言われた)こともあるし、社長室で「そうは、おっしゃいますがね」とムキになった。
そんな姿を見ていた僕より10年くらい後に入ってきた連中は、編集から総務経理部に異動し、すっかり会社側になった僕の言動を見て「変わったなあ」とため息混じりに言う。そう言われると、若干、忸怩たるものもあるのだが、本質的なところでは変わっていないぞ、と言い訳もしたくなる。しかし、最近は言い訳しても無駄だと学び、所詮、評価は他人がするものだと、相手が言うことをそのまま聞くように努めている。
しかし、極端に変わったのは、そういう思想信条や考え方ではなく、実は血圧の話だ。昔、僕は低血圧で朝が辛く、毎朝、ぼーっとした状態で電車に乗り、会社に通っていた。午前中はまったく調子が出なかった。あれは、本当に辛い。夕方くらいから血圧が上がってきて、夜は元気になる。当時の上司には、「きみは残業になると元気だな」と呆れられた。「5時から男」と自称した。
●「昔と逆のこと言ってるよ」と言われることがある
ここまで変わる、とは僕も思わなかった。最近、歳とって「ソゴーさん、昔と逆のこと言ってるよ」と言われることが時々ある。本人は変わっていないつもりでも、他の人の目には変節したように見えるのか、と少し反省する。完全に逆の立場になったということでは、たとえば、僕は昔、労働組合の闘士(?)だったが、今は会社の労務担当である。組合を弾圧(?)している。
若い頃、「最後の砦だけは守るぞ」と意地を張っていた。権力者には媚びるまい、上司に楯突く気概はなくすまい、と小心者である己を鼓舞していた。理不尽な仕事への横やりには、ああだこうだと反論し(おかげで「言い訳ソゴー」と言われた)命じられた通りにはしなかった。団交で経営者を相手に机を叩いて怒鳴った(おかげで「瞬間湯沸かし」と言われた)こともあるし、社長室で「そうは、おっしゃいますがね」とムキになった。
そんな姿を見ていた僕より10年くらい後に入ってきた連中は、編集から総務経理部に異動し、すっかり会社側になった僕の言動を見て「変わったなあ」とため息混じりに言う。そう言われると、若干、忸怩たるものもあるのだが、本質的なところでは変わっていないぞ、と言い訳もしたくなる。しかし、最近は言い訳しても無駄だと学び、所詮、評価は他人がするものだと、相手が言うことをそのまま聞くように努めている。
しかし、極端に変わったのは、そういう思想信条や考え方ではなく、実は血圧の話だ。昔、僕は低血圧で朝が辛く、毎朝、ぼーっとした状態で電車に乗り、会社に通っていた。午前中はまったく調子が出なかった。あれは、本当に辛い。夕方くらいから血圧が上がってきて、夜は元気になる。当時の上司には、「きみは残業になると元気だな」と呆れられた。「5時から男」と自称した。
あれは、30前半の頃だったか。2月の雪の朝だった。かなり低気圧の日である。僕は目が覚めても躯が動かなかった。指一本、動かすことができないのだ。痺れているというか、躯が自分のものではないような感覚だった。そのまま2時間近く寝床にいて、ようやく這うようにして起き出し、病欠の連絡を会社に入れて、カミサンの「病院いったら」の言葉に従った。
雪の積もった道をソロリソロリと歩いて、すぐ近くの病院にいった。「朝、まったく躯が起き上がらなかったんです」と訴えると、初老の医師は「血圧測ってみましょう」と言った。定期検診などで血圧を測ると、上が90台、下が50〜60前半くらいの数値だった。ところが、医者は「あんた、78しかないよ」と言った。「下がですか」と僕は聞き返し、医者は「上の数値だよ」と答えた。
それで、自分は極端な低血圧症なのだと思い込んだ。自己イメージの形成である。「低血圧症は特に問題はないよ。血圧が上がるまで、少し辛いくらいだ」と言われていたので、若い頃から検診で「コレステロール値が高いよ」と診断されても、血圧が低いから大丈夫だと高を括っていた。
しかし、50代に入った頃からか、朝がまったく辛くなくなった。ときには、起きたくない早朝に目が覚める。すぐにベッドから起き上がる。歳とると朝早くなるというのは本当だな、と実感していた。血圧は定期検診でしか測らなかったが、いつも正常だと言われていた。上が100〜110、下が60〜70くらいだった。
ある日、起きるとめまいがした。天井がぐるぐるまわっている。後頭部に妙な緊張感がある。何かが張り詰めている感じだ。ジンジンする。躯が起こせない。気持ちが悪く、起き上がるとフラフラした。仕方なく「休む」と会社に連絡をし、数時間経った頃に医者にいくと血圧を測られた。「178と98です」と医者が言った。僕は自分の耳を疑った。
定期検診で「血圧はいつも正常だと言われています」と言うと、朝だけ高い人もいるという。変態性高血圧(?)というのだそうだ。以来、血圧計を買って朝、昼、夜と測ってみると、確かに、朝がひどく高くて150〜160あり、下は90台である。ちょっと後頭部が緊張しているなと思うときは、160を超え、下が100をオーバーしている。完全な高血圧症だった。
しかし、人間の体質はそこまで変わるものか、と僕は信じられなかった。ずっと自分は低血圧なんだと思ってきたから、その自己イメージから抜けられない。20代に比べて20キロも体重が増えたのに、未だにスリムな(傍から見れば貧相に痩せた)青年の頃の自己イメージが消えないのと同じである。人は歳をとり、極端に変わってしまうこともあるのだと、最近は言い聞かせている。
●マリリン・モンロー伝説を下敷きにした倉本ドラマ
「低血圧なんだよ、あたい」と歌ったのは、鬱陶しい喋り方をしていた頃の桃井かおりである。デビュー映画「あらかじめ失われた恋人たちよ」(1971年)で写真家の加納典明と一緒に聾唖のカップルを演じ、ほとんど脱ぎっぱなしだった印象がある桃井かおりだが、僕はショーケンと共演した「青春の蹉跌」(1974年)で女優と認めた。
「青春の蹉跌」はロマンポルノの旗手だった神代辰巳監督作品だからリアルなセックスシーンが多く、桃井かおりは物怖じもせず裸を見せていたが、僕はやはりあの喋り方が苦手だった。しかし、日本テレビで倉本聰さんが書いたショーケン主演ドラマ「前略おふくろ様」で、ショーケンの従姉妹の役「恐怖の海ちゃん」として登場し、独特の個性を生かした演技で一般的にも人気が出た。
倉本さんは桃井かおりがお気に入りだったのだろう、その後、彼女を主演にした連続ドラマ「祭りが終わったとき」(1979年)を書く。このドラマは凝った展開で、ドラマのオープニングシーンがヒロインの葬儀なのである。誰も知らぬ者がいない有名女優になったヒロインの死から物語が始まるのだ。彼女の貧しい踊り子時代から知っていたルポライター(竹脇無我)が、彼女を回想する。
もちろん、倉本さんお得意の一人称ナレーションは竹脇無我が担当した。竹脇無我の恋人(萩尾みどり)の踊り子仲間が桃井かおりで、彼女は金がなく、当時全盛だったビニ本のモデルをやる。その写真を撮ったカメラマンは、彼女の肉体の魅力を見抜き「あの子は大物になる。それまで写真は発表しない」と言う。やがて、ヒロインが大女優になったとき、その全裸写真が流出する。
そのカメラマン(柳生博)は、ルポライターとはいえ恐喝まがいのこともやるようなブラック・ジャーナリズムの世界にいる竹脇無我の仲間である。竹脇無我もヒロインが大女優になった頃、大出版社の編集長から「彼女の伝記を書かないか」と依頼される。彼は、ヒロインの母親が精神病院に入っていたことや、男性遍歴(その中には将来を嘱望される青年政治家もいる)を書くのである。
こんな話、どこかで聞いたことはないだろうか。そう、ノーマ・ジーンという名前を持ち、世界中の男たちから愛された胸やボディラインの美しさを惜しげもなく晒した金髪女優の実話である。一般的には、マリリン・モンローという名前で知られていた。「祭りが終わったとき」は、そのモンロー伝説を下敷きにしたドラマなのだ。
「祭りが終わったとき」でテーマ曲のように使われていたのが、「低血圧なんだよ、あたい。お昼過ぎなきゃ起きられないよ」という桃井かおりの歌だった。実際にヒロインは低血圧の設定で、女優になっても撮影現場によく遅刻をする。マリリン・モンローもそうだった。しかし、マリリン・モンローと桃井かおりに共通項があるとは、当時も今も僕には思えない。
●死後に様々な伝説が流布されたハリウッド女優
マリリン・モンローの遅刻癖に振りまわされたのは、ビリー・ワイルダー監督だ。モンローはトラブルの女王だった。その辺のことはビリー・ワイルダーに取材した伝記「自作自伝」に詳しいが、ビリー・ワイルダー自身が辛辣な人で「言葉はカミソリだらけ」と、何本も一緒に仕事をしたウィリアム・ホールデンに言われた。ワイルダーの言葉はカミソリのように人をズタズタにする。モンローもワイルダーのそんな評判を聞いていたのかもしれない。
しかし、言い過ぎかもしれないが、マリリン・モンロー出演作で映画史に残るのは、ビリー・ワイルダーが監督した「七年目の浮気」(1955年)と「お熱いのがお好き」(1959年)しかない。ジョン・ヒューストン監督の「アスファルト・ジャングル」(1950年)にはワンシーンしか出ないから、出演作から除外した上での評価ではあるけれど。
「七年目の浮気」は、地下鉄の通風口の上でスカートをパラシュートのように翻させるシーンで有名だが、このときのエピソードも「ビリー・ワイルダー 自作自伝」には出てくる。モンローはジョー・ディマジオと結婚していた頃で、そのロケにやってきたディマジオは大勢の見物人に囲まれて、自分の妻が太股も露わな姿を何度も晒していることに耐えられなかった。
そのことが原因かどうかはわからないが、ディマジオとモンローは離婚する。学歴もなく、肉体だけで人気が出た胸の大きな頭の弱い女優というイメージが彼女にはついてまわった。そのことを一番気にしていたのは、モンロー自身だった。彼女はハリウッドからニューヨークに出て、演技の勉強をし直すのである。それも、かのアクターズ・スタジオに入って...。
そのことが縁だったのかもしれないけれど、モンローはアメリカを代表する劇作家アーサー・ミラーと知り合い結婚する。「るつぼ」「セールスマンの死」という代表作を持つアーサー・ミラーは、ワイルダーによると「ハリウッドをバカにする鼻持ちならない奴」だったらしいが、モンローが初めて結婚したインテリである。
モンローは、16歳の時に最初の結婚をする。相手は近所の工員だった。次に正式に結婚した相手は、1941年に54試合連続ヒットの記録を持つ野球選手だったジョー・ディマジオだ。彼はアメリカ人にとっては、英雄だった。その次がアーサー・ミラーである。しかし、モンローは1960年に「恋をしましょう」でフランス男のイブ・モンタンと共演し、私生活でも恋に墜ちる。
モンローとアーサー・ミラー、モンタンとシモーヌ・シニョレの二組の夫婦が同じテーブルに付いている写真が残っている。僕は、その写真を見たときに、彼らは一体どんな会話をしていたのだろうと思った。互いのパートナーたちは、何を考えていたのだろう。あの写真を見たときに、「これで小説が一本書けるんじゃないか」と僕は思った。
エリア・カザンは自伝の中でモンローと関係があったことを明かしているが、彼によれば「モンローは言い寄られると断れない女」だったらしい。おまけに彼女には、言い寄る男がいっぱいいたのだ。ジョン・F・ケネディも、弟のロバートもそんなひとりだったと言われている。
マリリン・モンローは大量の薬物を服用し、そのせいで撮影には遅刻し、言い訳として「スタジオが見付からなかったの」とまで言った。彼女と仕事をすることは相当に大変だったが、それでも彼女が干されなかったのは、人気があったからだ。ワイルダーは、そんなモンローを我慢して使い続け、「お熱いのがお好き」を完成させた。おかげで、モンローもシュガーという酔っ払いの可愛い歌手という代表的なキャラクターが残せた。
マリリン・モンローほど、死後に様々な伝説が流布されたハリウッド女優はいない。出版された本も数え切れない。いや、死後に流れた映像も圧倒的に多い。ケネディ大統領の誕生日に「ハッピー・バースデイ・ディア・プレジデント」と歌う姿は、何度流れたことか。何年か前には、カップヌードルのテレビCMでも毎日のように流れた。
1962年8月4日、マリリン・モンローはロサンジェルスの自宅ベッドで死んだ。36歳だった。当時、日本のマスコミは大騒ぎしていたけれど、小学生だった僕には関係のないことだった。僕の母親と2歳しか違わなかったのだ。まったく興味は湧かなかった。僕は、オードリー・ヘップバーンに夢中だった。
マリリン・モンローも、生きていれば83歳になる。彼女も歳を重ねて、何かが変わったかもしれない。女優を続けていたとすれば、早起きになってスタジオに一番乗りしていたりして...。若い女優の遅刻を注意し、「マリリンさんだって、若い頃は遅刻常習犯だったって聞きましたよ」と逆に言い返されているかもしれない。
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
久しぶりに入社試験を行った。6年前、初めて採用担当になったときの試験には大勢の応募があり、大きなホールと教室を借りた。そのとき以来、10名以上の採用にタッチしたが、誰も「ソゴーチルドレン」とは呼ばれていない。中には社内で会っても挨拶しない人間もいる。採用するまでは、みんな愛想がよかったのだけどなあ。
●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/suiyosha/1400yomim/1429ei1999.html
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受賞風景
< http://homepage1.nifty.com/buff/2007zen.htm
>
< http://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/04/post_3567.html
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- 映画がなければ生きていけない 1999‐2002
- 水曜社 2006-12-23
- おすすめ平均
- 特に40歳以上の酸いも甘いも経験した映画ファンには是非!
- ちびちび、の愉悦!
- 「ぼやき」という名の愛
- 第25回日本冒険小説協会 最優秀映画コラム賞
- すばらしい本です。
by G-Tools , 2009/11/13