〈ブリット/ロストクライム・閃光/初恋/山桜/必死剣鳥刺し/斬る〉
●珍しく息子とふたりで映画を見にいった
先日、珍しく息子とふたりで近くのシネコンへ映画を見にいった。「ロストクライム・閃光」(2010年)のチケットを2枚もらったからだ。1968年12月10日、午前9時15分、雨、府中刑務所裏の道路で起こった三億円強奪事件を元にしたミステリ映画である。映画も、そのシーンはモノクロで忠実に再現してあった。
当時、僕は高校2年生で、その日、「ブリット」(1968年)というスティーブ・マックィーン主演の刑事映画を見て、夕方、映画館を出ると世間は大騒ぎになっていた。「ブリット」はとてもよくできたアクション映画で、サン・フランシスコの坂道を全速力で走るのを車の中から撮影したショットでは、本当に酔いそうになった。しかし、そんな余韻も三億円事件騒ぎでどこかへ吹き飛んでしまった。
自宅に戻っても、両親がその話題で盛り上がっていた。翌日、学校でもその話題で持ちきりだった。おそらく日本中の人々が同じような会話をしていたのではないか。その後、様々な憶測が週刊誌などで書かれ始め、大藪春彦の小説に似た話があり犯人はそれを真似たのではないかとか、全共闘の仕業ではないかといった説が様々に語られた。
●珍しく息子とふたりで映画を見にいった
先日、珍しく息子とふたりで近くのシネコンへ映画を見にいった。「ロストクライム・閃光」(2010年)のチケットを2枚もらったからだ。1968年12月10日、午前9時15分、雨、府中刑務所裏の道路で起こった三億円強奪事件を元にしたミステリ映画である。映画も、そのシーンはモノクロで忠実に再現してあった。
当時、僕は高校2年生で、その日、「ブリット」(1968年)というスティーブ・マックィーン主演の刑事映画を見て、夕方、映画館を出ると世間は大騒ぎになっていた。「ブリット」はとてもよくできたアクション映画で、サン・フランシスコの坂道を全速力で走るのを車の中から撮影したショットでは、本当に酔いそうになった。しかし、そんな余韻も三億円事件騒ぎでどこかへ吹き飛んでしまった。
自宅に戻っても、両親がその話題で盛り上がっていた。翌日、学校でもその話題で持ちきりだった。おそらく日本中の人々が同じような会話をしていたのではないか。その後、様々な憶測が週刊誌などで書かれ始め、大藪春彦の小説に似た話があり犯人はそれを真似たのではないかとか、全共闘の仕業ではないかといった説が様々に語られた。
「ロストクライム」は、2002年、男の他殺体が隅田川に浮かぶところから始まる。その死体は、かつて三億円事件の犯人グループのひとりと目された男のものだった。定年間近の刑事(奥田瑛二)は、三億円事件のときに新米の刑事だったのだが、そのとき一緒に動いた先輩(原田芳雄)に事件が迷宮入りにされた本当の理由を訊きにいく。
奥田瑛二と組む新人刑事は渡辺大。渡辺謙の息子だそうだが、目線に親子らしく似たものを感じた。ちゃらんぽらんな刑事が次第に男らしくなっていくところが、おきまりの流れとはいえ、なかなか健闘していたと思う。目新しさを出すために、彼と同棲しているのが元ヘルス譲という設定は、少しやりすぎではないかと思う。それに、不必要なベッドシーンが多い。
三億円事件の直後、車の常習窃盗犯で警視庁の白バイ警官を父親に持つ少年が青酸カリ自殺を遂げており、「ロストクライム・閃光」はこの事実を元にフィクションを作り上げていた。映画では父親を刑事(夏八木勲)に設定し、この男の存在がプロローグに謎として提出され、ラストシーンの悲劇的な結末に結びつく。
34年経って、当時、犯人グループと目された人々がひとり、またひとりと殺されていく事件の真相を、老刑事と若い刑事が警察組織を敵にまわしても追及するのがメインストーリーで、それに三億円事件の真相と、その事件によって引き起こされたいくつかの悲劇の全貌が明らかになっていく。
ラストシーンの盛り上がりは、さすがにベテラン監督・伊藤俊也だけあって、感動させるものがある。雪のちらつく隅田川沿い。ブルーシートの小屋に、今は浮浪者になっている夏八木勲が寝ている。そこへ事件の真相をつかんだ奥田瑛二と渡辺大がやってくる。かれらの問いに、夏八木が真相を語る。その悲しみに充ちた物語に、僕は思わず涙を流した。
さらに、もうひとつの悲劇を背負った男が現れる。そんな人間たちの悲しみを抹殺するように、警察組織が彼らを取り巻いている。だが、警察組織はふたりの刑事を含めて事件関係者の消滅を願っているのだ。この映画には連続殺人犯も登場する。しかし、真の悪は警察権力であり、その権力に逆らえない警察官たちである。
奥田瑛二の悲痛な叫び、その奥田瑛二を救うために雪の降る川に飛び込む渡辺大...。そんな彼らを取り巻き、見つめ続けるだけの警官の群れをクレーンで捉えたショットに、38年前「女囚701さそり」こと松島ナミをして恨む男(夏八木勲が演じた刑事)を追って警視庁に殴り込ませ、そのシーンに日の丸を重ねた若き伊藤俊也監督の変わらぬ権力批判を見た。
●40年以上経っても三億円事件は映画化される題材
三億円事件などまったく知らない息子と「ロストクライム・閃光」を見た後、「どうだった」と訊いたら「面白かった」と言う。「あの監督はベテランでね」と言うと、「手堅い演出だったね」と答えた。なかなかイッチョマエのことを言うではないか、と親バカになりそうだった。
「本当に三億円を運んでいたガードマンの人は、犯人だと疑われて自殺したの?」と息子に訊かれたが、それは知らなかった。青酸カリ自殺した白バイ警官の息子のことは、何かの本で読んだことがある。運転手でガードマンという人のことは初耳だった。それは創作かもしれないが、三億円事件の犯人として取り調べられマスコミも大騒ぎした結果、人生を狂わされた人がいたのは事実だ。
それにしても事件から40年以上経っても、まだ三億円事件は映画化される題材なのだなあ、と少し感慨深い。最近でも宮崎あおいが主演した「初恋」(2006年)がある。宮崎あおいが白バイ警官の扮装をして三億円を奪う。「ロストクライム・閃光」もそうだったが、オートバイを覆っていたシートを引っかけたまま走るのは事実だからだ。それほど、あの事件は細部まで有名になった。
僕は長谷川和彦が脚本を書いた「悪魔のようなあいつ」を思い出す。1975年の6月から9月にかけてTBSで放映された、ジュリーこと沢田研二が三億円事件の犯人を演じたテレビドラマである。藤竜也も出ていた。演出は久世光彦だった。先日、ユーチューブで関連のある映像をクリックしていたら「悪魔のようなあいつ」にぶつかり、何だか懐かしかった。
さて、「ロストクライム・閃光」を見終わってロビーに出て、「おとうは、ついでに『必死剣鳥刺し』を見て帰るけど、どうする」と訊いたら、さすがに「帰る」と言う。映画好きのDNAは、息子にはあまり引き継がれていないらしい。昔は3本立ては当たり前、映画館のはしごもよくやったものだ。ロードショーのはしごなど、2本見るだけではないか。
「必死剣鳥刺し」(2010年)は、評判がいい。藤沢周平さんは生前、自作の映画化は許可しなかった。「用心棒日月抄」などテレビドラマはいろいろあるが、映画化作品は山田洋次監督の「たそがれ清兵衛」(2002年)が最初である。藤沢周平の愛読者としては絶対に見なければ...と、僕は初日に見にいったが、よほど途中で出ようかと思った。藤沢周平的世界とは、異なる映画だった。
そう、山田洋次が好きな人は見ればいい。山田洋次的世界が好きな人は喜ぶだろう。映画としての評価も高い。しかし、そこには僕が愛した藤沢周平的なるものは、微塵も存在していなかった。藤沢周平の原作は、単なる物語の素材だった。加えて致命的な改竄が行われている。すべては山田洋次の世界だった。はっきり言うと、その映画に僕は腹を立てた。藤沢周平が見たら、きっと怒るだろう、と僕は思う。
藤沢周平さんは映画も好きだったし、翻訳ミステリの愛読者でもあった。ハードボイルド小説が好きで、時代劇でハードボイルドをやろうとしたのが「彫師伊之助捕物覚え」シリーズだ。間違いなく、藤沢作品のコアにはハードボイルド的なものがある。キリッとした白刃の輝きのような鋭さが潜んでいる。加えて、初期作品に顕著なニヒリズムと諦念。ヒューマニズムや人間の善意を核にする山田作品とは合わないのだ。
だから、「隠し剣鬼の爪」(2004年)も「武士の一分」(2006年)も僕は見にいかなかった。とはいっても僕も軟弱だからテレビ放映のときには見たのだが、やはり藤沢周平的なるもの、藤沢周平作品が伝えてくるスピリッツはどこにもなかった。どちらの映画も僕が好きな短編を題材にしているのに、その小説から僕が感じた深い悲しみは描かれていなかった。
それは、やはり山田洋次という日本が世界に誇る偉大な(と僕はあまり思っていないのだけど)映画人が、自分の表現世界を作るためにたまたま藤沢周平の短編を素材にしたから起こった齟齬だと思う。だから、藤沢周平の小説が好きな人には、山田洋次作品は勧めない。もちろん人はそれぞれだから、藤沢周平的世界を山田洋次が描いてくれたと思う人もいるだろうが...。
●ただひたすら自分が好きな藤沢周平的世界を再現しようとした
藤沢周平さんが、なぜ自作の映画化を許さなかったか、山田洋次作品を見てわかる気がした。一方、藤沢周平の世界に無条件に惚れ込んだ黒土三男監督の「蝉しぐれ」(2005年)を見て、僕は泣いた。映画としては、山田洋次作品の方がずっと完成度が高い。だが、原作を読んで10数年、黒土監督は「蝉しぐれ」の世界を映像化するために執念を燃やし、一度NHKでテレビドラマとして脚本を書き、さらに映画化を実現した。
それは、ただひたすら自分が好きな藤沢周平的世界を再現しようとしたために、ストレートに原作のスピリッツを伝えてくる。切なさや悲しみや喜びを、喪失感や寂寥感を、美しい四季の風景が甦らせる。「蝉しぐれ」を初めて読んだときの、胸の震えるような気持ちをもう一度味合わせてくれたものだった。
篠原哲雄監督の「山桜」(2008年)もそうだった。僕は監督が誰かも知らずに見にいった。これが山田洋次監督作なら「山田洋次が藤沢文学を映画化」などと声高に喧伝されるのだろうが、黒土監督や篠原監督だと「藤沢周平の...」という冠しかつかないのだ。そして、「山桜」も藤沢周平的なるもの、その精神を再現することに努めた映画だった。
藤沢さんは、よく出戻り(露骨な言葉ですいません)のヒロイン(「必死剣鳥刺し」もそうだ)を登場させるが、婚家で虐げられている不遇の若妻(田中麗奈)は、藤沢周平の世界ではおなじみだ。彼女が亡き叔母の墓参をするところから物語は始まる。帰り道、ふと満開の山桜の見事さに見惚れ、ひと枝を折ろうとするが手が届かない。
そのとき、「とって進ぜよう」と声がして、ある武士が枝を折ってくれるのだけど、このシーン、見事である。小説の描写のようにヒロインの主観的視点でカットを割り、観客はヒロインと同じように姿の見えぬ男の声を聞き、驚き戸惑うヒロインの胸の裡に共振れする。視線を向けると、そこには涼やかな目をした男らしい武士(東山紀之)がいる。そのときのヒロインのときめきを、男の僕さえ感じた。
実家に戻り、山桜を活けた後、ヒロインはその武士が弟と同門で、かつて自分と縁談があった相手だと知らされる。弟は「姉さんが、あの方と一緒になっていればなあ...」と今も悔しがる。彼女の嫁ぎ先は、父親が小金を貯めて金貸しをしており、その息子である夫は出世にしか興味のない俗物だ。妻の視線に「おまえは嫁いできたときから、わしをバカにしておる。その目をするな」と当たり散らす。
東山紀之が演じる武士は、まじめで必要なことしか言わず寡黙である。藩内の派閥には距離を置き、どちらに与するということもない。しかし、身の裡に静かな正義感を抱いている。ある日、彼は自分の考えから藩の有力者を斬る。それが藩内の人々にとって正しいことだと信じたからだ。だが、彼は何の弁明もしない。神妙に縛につき、入牢する。
彼の老母(富司純子)を案じたヒロインが屋敷を訪ねると、「息子がいつも話していた方ね」と歓待される。「『あんな家に嫁いで』と息子は怒っていた」と言われ、ヒロインは戸惑う。この辺になると、もう藤沢周平の原作の文章まで浮かんでくる。監督は、どの人物にも端正な所作をさせている。田中麗奈のキリリとした立ち居振る舞いが印象に残るし、さすがに緋牡丹お竜だった人は隙がない。禁欲的で美しい、武家の女たちである。
●地味で風采が上がらず不細工だが優しさと理想を失わない男
「必死剣鳥刺し」(2010年)の兼見三左エ門は、豊川悦司が演じている。原作のイメージは、僕にとっては室田日出男だった。今なら、松重豊(フジテレビ月九ドラマに出演中)でもいい。しかし、松重豊じゃ客は呼べないから、まあ、我慢する。剣豪で藩主筋の別家を演じるのが吉川晃司だから、時代の流れを感じる。吉川晃司は、何と言っても「テイク・イット・イージー」(1986年)の人だもの。
兼見三左エ門は、「山桜」で東山紀之が演じた手塚弥一郎と同じ種類の人間だ。藤沢周平が最も愛した主人公の典型である。理想の男だったに違いない。地味で風采が上がらず不細工だが、現実の厳しさを知りつつ優しさと正義感と理想を失わない無口な男である。私欲がなく、自己犠牲を厭わない。常に潔く、禁欲的で、しかし、他人を包み込む包容力を持っている。
冒頭、能好きの藩主のための演目が終わり、愛妾が拍手をする。場違いな振る舞いに戸惑う侍女や侍たち。しかし、藩主は「かわいい奴じゃ」という風に頷き、恥をかかせないために自分も拍手をする。仕方なく藩主に従う侍女や侍たち。それだけで藩主が愛妾に溺れているのがわかる。藩主が席を立ち、侍女に付き添われた愛妾が廊下に出ていく。
兼見三左エ門が立ち上がり、愛妾を追い「しばらく」と声をかける。振り向く愛妾を左手で押さえ、抜いた小刀で心臓をひと突きする。その間の無駄のない動きが印象的だ。説明もなく無駄を省いた描写である。監督が描きたかったものが伝わってくる。クールでハードボイルドな世界を期待させられた。
原作は藩主が愛妾に溺れ、愛妾が政治に口出しをするために藩内が乱れたという背景説明を数頁ですませているが、映画化に際しては愛妾を殺傷し、閉門蟄居を命じられた兼見三左エ門の一年間の描写の間に回想を挟む脚色で、実にうまく展開している。愛妾の権力を笠に着た横暴が描かれる。その間、亡き妻(戸田菜穂、いいですねえ)との生活の回想も入れて、映画的に膨らませている。うまいなあ。
「必死剣鳥刺し」は、冒頭の愛妾殺しがなぜ行われたのかという謎解きが主人公の閉門の間にあり、そのときに妻の死のいきさつがわかり、その妻の姪の里尾(池脇千鶴)が三左エ門の世話をしている理由もわかるようになっている。この映画のヒロインは里尾で、池脇千鶴の立居振る舞いがとてもいい。廊下を歩くシーン、ふすまを開けるシーン、箱善を運ぶシーン、どれも素晴らしい。まさに武家の妻女。
この映画を見ていて僕が思い出したのは、市川雷蔵が主演した時代劇群である。特に三隅研次監督の「斬る」(1962年)だった。僕の大好きな時代劇だ。できれば棺桶にLD(出たときにすぐに買った)を入れてもらいたいと思っている。禁欲的で端正で、凛とした美しさを湛えた傑作である。悲劇ではあるけれど、だからこそ見るたびに心が洗われる。
「必死剣鳥刺し」も悲劇だ。しかし、ラストシーンは原作に忠実に描いており、そこに救いを感じる観客は多いだろう。悲劇を救いのないまま終わらせず、希望を感じさせるようになった後期の藤沢作品である。生きていくのはしんどいし、裏切りは常にある。だからといってグレるのではなく、誠実に、自分の信念に殉じる生き方をしたい、と改めて思わせてくれたので「必死剣鳥刺し」は◎だった。
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951
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iPadを買って、いろいろ試している。商売柄、電子書籍は大いに関係してくるので、いろいろダウンロードしたり、見にいったり。自宅もWi-Fiポイントにした。これだけ持って歩けば済むのなら楽なのだけど、そうもいかない。