〈若さま侍捕物帖シリーズ/二十四の瞳〉
●小学校の運動場や神社の境内が会場になった屋外上映会
我が家にテレビがくるより以前のことだった。映画好きの父親は月に何度か、家族を連れて映画館にいった。その帰りに食堂によって外食をするのが、当時の我が家の唯一の贅沢だった。そこで食べるのはせいぜいが支那ソバだったのだが、あの味の記憶は今も鮮明に甦る。食堂を出ると、母親は大判焼き(今川焼きのようなもの)を4個買って帰宅した。
その頃、主に見ていたのは東映時代劇だった。職人の家だ。両親も小学校しか出ていない。洋画などというものは、インテリが見るものだった。それに母親はよく「字幕やらいうもんは、スカン」と言っていた。当時、日活映画と東映映画の封切館が2館並んでいて、父親は小林旭の渡り鳥シリーズを見たがったが、母親は東映の時代劇を好んだ。僕とふたつ上の兄も中村錦之助のチャンバラの方がよくわかった。
映画は、めったに見られないものだった。テレビは高価だったし、映像は非日常だった。我が家の裏庭をつぶして建てたアパートにひとりで住んでいるお姉さんがいて、我が家より早く高価なテレビを買った。僕と兄は、そのお姉さんの部屋でテレビを見せてもらうのが楽しみだった。「七色仮面」をよく見せてもらった。
その頃、夏になると屋外上映会が行われた。小学校の運動場や神社の境内が会場になった。僕がよくいったのは、多賀神社だった。当時、僕は花園町に住んでいたのだが、その後、名称変更で多賀町になった。今は何という町名になったのかわからないが、多賀神社が近くにあったのは間違いない。もっとも、今でも僕は花園町という優雅な町名に愛着がある。
●小学校の運動場や神社の境内が会場になった屋外上映会
我が家にテレビがくるより以前のことだった。映画好きの父親は月に何度か、家族を連れて映画館にいった。その帰りに食堂によって外食をするのが、当時の我が家の唯一の贅沢だった。そこで食べるのはせいぜいが支那ソバだったのだが、あの味の記憶は今も鮮明に甦る。食堂を出ると、母親は大判焼き(今川焼きのようなもの)を4個買って帰宅した。
その頃、主に見ていたのは東映時代劇だった。職人の家だ。両親も小学校しか出ていない。洋画などというものは、インテリが見るものだった。それに母親はよく「字幕やらいうもんは、スカン」と言っていた。当時、日活映画と東映映画の封切館が2館並んでいて、父親は小林旭の渡り鳥シリーズを見たがったが、母親は東映の時代劇を好んだ。僕とふたつ上の兄も中村錦之助のチャンバラの方がよくわかった。
映画は、めったに見られないものだった。テレビは高価だったし、映像は非日常だった。我が家の裏庭をつぶして建てたアパートにひとりで住んでいるお姉さんがいて、我が家より早く高価なテレビを買った。僕と兄は、そのお姉さんの部屋でテレビを見せてもらうのが楽しみだった。「七色仮面」をよく見せてもらった。
その頃、夏になると屋外上映会が行われた。小学校の運動場や神社の境内が会場になった。僕がよくいったのは、多賀神社だった。当時、僕は花園町に住んでいたのだが、その後、名称変更で多賀町になった。今は何という町名になったのかわからないが、多賀神社が近くにあったのは間違いない。もっとも、今でも僕は花園町という優雅な町名に愛着がある。
花園町に住む子供たちは、本当なら花園小学校へいかねばならなかったが、花園小学校へいくためには観光通りという交通量の多い幹線道路を渡らなければならなかった。今とは較べものにならないほどの交通量だとしても、その当時としてはよく車が通る大通りだったのだ。その大通りは、荷物を運ぶ馬車も通るし、ロバが牽引する蒸しパン販売の馬車(ロバパンと僕らは呼んでいた)も通った。
そこで、母親は距離も近く、大通りを渡らずにすむ松島小学校への越境入学を企て、僕は松島小学校へ通うことになった。その小学校の道を挟んだ隣が野球で有名だった高松商業だった。戦前に高松商業に在籍した水原は、同時期に高松中学野球部キャプテンだった三原侑と大学時代からプロまで続くライバル物語がよく知られていた。僕の小学生当時、高松商業が春の選抜高校野球で優勝し、大騒ぎだったのを憶えている。その高松商業の正門の斜め向かいに多賀神社があった。
あれは、僕が小学校3年か4年の頃だと思う。60年安保の年か、その翌年だろう。多賀神社の夏祭りだったのかもしれない。「今夜、多賀神社で映画やるぞ」というニュースが学校中に伝わった。そういう口コミは異常に早かった。僕は友だちのFくんと一緒に、明るいうちから多賀神社にいった。僕はスクリーンを張るための枠作りから見るのが好きだったのだ。
●木枠にスクリーンが掛けられ映写台に映写機が設置された
最近の建築現場の足場は、長い鉄パイプとプレート状の鉄板(鉄だと重いので軽い合金だと思う)を組み合わせて組んでいく。横の柱と縦の柱を合わせる部分は、きちんとボルトとナットで締め上げて固定する。しかし、昔は長い丸太と荒縄で組んでいた。ボルトとナットの部分は荒縄で縛っているだけだった。そこに細い板を置いて足場にした。今から考えれば、不安定な足場である。
屋外映写会のスクリーンを張る枠組みも、同じように作っていた。細い丸太と荒縄である。横長の枠を作り両脚を付ける形になるが、倒れたら大変なので脚の部分はしっかり作っていた。強風でスクリーンが風をはらんだら、倒れることだって想定できたのだ。もっとも、強風の場合は、上映会は中止になっただろう。風で少しスクリーンが揺れるのは、いつものことではあったけれど...。
映写機を置く台も背の高いものが作られた。35ミリ映写機ではなかったはずだ。貸し出しフィルムは16ミリだと思う。16ミリの映写機でも上映のための免許は必要である。僕は、後に就職して16ミリ映写機を扱うことが増え、図書館で一日講習を受ければ上映免許を取れると聞き、取りにいこうかと考えたが、あの上映会では上映は誰が担当していたのだろう。
当時のフィルムが、可燃性のセルロイドだったかどうかはわからない。セルロイドだとすると、消防法で規制されていたかもしれない。それなりの免許を持っていないと、映写機の操作はできなかった可能性がある。当時、映写画面がずれて二階建てになったり、コマを止めた途端にランプの熱でフィルムが燃え始めることもあった。フィルム貸し出しと一緒に、映写技師にもきてもらっていたのだろうか。
木枠にスクリーンが掛けられ、映写台に映写機が設置される頃には、もう薄暗くなっていた。夏のことだから7時を過ぎていた。映写機に大きなフィルムのリールがかけられる。人々が集まり始め、僕らは一番前に立っていた。境内の上映会は立ち見だった。だから、スクリーンは高めの位置に設置され、みんな上映中はスクリーンを見上げる形になる。本当は、少し後ろから見た方が首が楽なのだ。
それでも、僕らは真ん前に陣取った。僕らの前に人はおらず、上映が始まればスクリーンの世界に完全にのめり込めたからだ。気が付くと、周りはかなり暗くなっていた。外灯なんてないし、商店の明かりなんかもない。昔の夜は、暗かった。ヤブ蚊をうちわで追い払いながら、みんな今か今かと映画が始まるのを待っていた。そして、映画が始まった。岩場に打ち寄せる波が映り、東映の三角マークが現れた。
そのとき、僕が見たのは大川橋蔵主演の「若さま侍捕物帖」シリーズ(1956〜1962年)であることは間違いないのだが、シリーズは10本あり調べてみたけれど、どれと特定することはできなかった。それぞれ簡単なストーリーも読んでみたのだが、どの作品もよく似ていて特徴がない。ただ、僕が見た年代から推理すると、初期の作品ではないかと思う。
僕の記憶が確かならば、モノクローム作品だった。シリーズ5作目までがモノクロ作品である。「地獄の皿屋敷」「べらんめえ活人剣」「魔の死美人屋敷」(1956年)と「鮮血の晴着」「深夜の死美人」(1957年)である。1作目と2作目は封切りでは同時上映された作品で、ストーリーが続いているらしい。3作目は上映時間が90分あり、立ち見には長すぎると判断されたのではないか。
4作目の上映時間は60分、5作目が58分である。昔の2本立て、3本立てのプログラムピクチャーは、せいぜいそれくらいの上映時間だった。これなら7時半くらいから上映を始めても8時半には終了する。当時の子供たちにとっては、9時は深夜だった。夜更かしした気分になったものだ。
映画が始まったとき、若さまは恋人の膝枕で畳の上に横になっていた。そこへ誰かが登場し、何かを依頼した。そのシーンの記憶はある。事件が起こり、若さまが乗り出す。それからの記憶は断片だが、般若の面をかぶった人物が登場したのは間違いない。若さまが黒装束の一団に襲われる。誰かが夜の神社の境内で、藁人形に五寸釘を打ち付ける。しかし、そんなシーンは、当時の東映時代劇には山ほどある。
だが、僕らは映画に熱中したし、大人たちだって楽しんでいた。恋人の危機を救うために若さまが江戸の街を疾駆すると、観客は拍手した。黒装束の一団に囲まれた若さまが、相手をバッタバッタと峰打ちにしているとき、黒装束のひとりが木の陰から若さまを短筒で狙うと、「卑怯だぞー」という抗議の声や「若さま、うしろ、うしろ」と教える声が上がった。
●月に一度「映画教室」という授業があり早めに集合した
それが、1960年前後の僕を取り巻く映画環境だった。後に僕は、同じ頃、フランスのヌーヴェルヴァーグが、世界の映画界に衝撃を与えていたことを知った。ジャン・リュック・ゴダール監督の「勝手にしやがれ」(1959年)が日本で封切られたのは、1960年3月26日のことである。もちろん、そんな映画が四国の地方都市で公開されるはずはなかった。
日本映画界でも大島渚、吉田喜重、篠田正浩といった新人監督たちが活躍し始めていた。邦画五社(東映、日活、東宝、松竹、大映)の封切館は四国の地方都市にもあったから、それらの映画は東京と同じ頃に封切られた。しかし、当時の僕は何も知らなかったし、そんな映画を見ても「わけがわからない映画」として思えなかっただろう。
ところが、意外なことに僕は吉田喜重監督のデビュー作「ろくでなし」(1960年)の予告編を見た記憶がある。何だか怪しそうな映画だなあと思ったのだけれど、今も記憶に残っているのは、それだけ強い印象を受けたのだろう。我が家は松竹映画とはあまり縁がなかったのに、なぜ予告編を見ているのか。月に一度、学校で連れていってもらった「映画教室」のときに流れた予告編かもしれない。
当時、全国的なカリキュラムだったのかどうかはわからないが、月に一度「映画教室」という授業があり、その日は早めに学校に集合した。運動場で整列し、先生の注意を聞いた後、みんなで列を組んで映画館へ向かった。もちろん文部省推薦の教育的価値の高い映画を見るのだが、僕はいつもワクワクしていた。映画館は、小学生たちのために早朝に上映するのである。
僕は小学校入学前だったので見られなかったのだが、兄が映画教室で「ビルマの竪琴」(1956年)を見てきてパンフレットをもらっていた。それをうらやんだ記憶がある。小学校に入れば学校で映画を見にいけるんだ、と幼稚園の生徒だった僕は思ったのだろう。早く小学校に入りたいと願ったものだった。
僕が映画教室で見た作品は「ノンちゃん雲に乗る」(1955年)「名もなく貧しく美しく」(1961年)「ゲンと不動明王」(1961年)などだが、中には内容はほとんど忘れてしまったものの「母ちゃん、しぐのいやだ」(合っているかどうかもわからないのだが)という、タイトルだけが頭にこびりついて離れない、忘れたいのに忘れられないといった映画もある。
●木下恵介監督とその一派の作品は映画教室向きだった
映画教室で見た映画は、やはり松竹が多かった気がする。特に木下恵介監督およびその一派(松山善三さんなど)の作品は、映画教室向きだった。もっとも、僕は木下恵介を知らず、後にTBSテレビ「木下恵介アワー」で放映された阪東妻三郎の息子たち(田宮四兄弟)が出演した「おやじ太鼓」、「木下恵介・人間の歌シリーズ」のあおい輝彦主演でヒットした「冬の旅」を見て、その名前を刻み込んだ。
しかし、僕はそのずっと前に木下恵介監督作品を映画教室で見て、感動していたのである。それも2本あった。「喜びも悲しみも幾年月」(1957年)と「二十四の瞳」(1954年)だ。こういう映画を真っ白で何も知らなかった少年時代に見ると、身の裡から湧き起こってくる言いようのない感動に打ち震える。僕もそうだった。誰が監督したとか、誰が出ているなんてことは関係ない。その映画が描くもの、その映画が伝えてくるものに僕は捉えられたのだ。
「喜びも悲しみも幾年月」については以前にも書いたが(「映画がなければ生きていけない」第2巻452頁参照)、木下恵介監督は「善なるもの」を描く人だと思う。「喜びも悲しみも幾年月」には、嫌な人間はひとりも出てこない。しかし、60年近く生きてくると、そういう映画に対して意地の悪い見方をしてしまう。だから、木下作品を映画教室で見せてくれたことに、今の僕は感謝している。
「二十四の瞳」は、僕の地元の映画だった。小豆島が舞台だが、金比羅さんも出てくるし、高松港も登場する。映画というハレの舞台に、地元が登場するのである。小学生にとっては、それだけで何か晴れがましい気分だった。だから僕は、小豆島の分校を舞台に展開される、昭和初期から戦後までの10数年間の物語に溶け込んでいったのだ。
新任の大石先生(高峰秀子)が担当した12人の生徒の中には、弁当も持ってこられないひどく貧しい家のものもいた。その女の子は、生活のために高松に働きに出される。大石先生と同級生たちが修学旅行で金比羅さんに泊まった後の、高松の食堂で働くその女の子と大石先生の邂逅シーンは、当時の僕に強い印象を残した。
食堂の因業な女主人(浪花千栄子)は、丁寧そうな言葉に皮肉を込めて大石先生に応対する。教え子に会えないまま帰ろうとすると、女の子がやってくる。その子がけなげだ。彼女は、やさしい言葉を掛けてくれた大石先生に、精一杯のやせ我慢を張り別れる。そこへ連絡船がフレームインしてくる。女の子は耐えられず、とうとう涙を流す。そのシーンを見ながら、僕は母の苦労話を思い出していたのかもしれない。
「二十四の瞳」の子供たちは、父母の世代である。昭和初期に成長し、青春時代は戦争だった。貧しい小作農の家に生まれた母も、小学校を出ると働きに出された。無口な父親と違って多弁な母親は、聞きもしないのによく昔話をした。3里(12キロ)近くも離れた小学校に通った話、母親の身体が弱かったので妹たちの面倒を見た話、それに女工哀史のような仕事の苦労話だった。
子供心に、そんな話が沁みていたのかもしれない。「二十四の瞳」の貧しくて働きに出される少女の姿が身に迫ってきた。久しぶりに会った大石先生には強がったものの、まだ子供である。彼女は、大石先生と同級生たちが乗る小豆島への連絡船を見送りながら手を振り続ける。その姿が悲しかった。
今の僕は、そのシーンに監督のあざとさを見るかもしれない。そう思っていたのだが、数年前、NHK-BSで放映されたときに「二十四の瞳」を見て、そのシーンでやはり僕は涙ぐんだ。50年近く前の自分の気持ちが手に取るようにわかった。ああ、あのとき、こんなやるせない気持ちを抱き、それをどうしていいいかわからずもてあまし、ただ走りまわりたくなったものだ、と遠い記憶を甦らせた。
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951
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35回目の結婚記念日を迎え、家族で少し贅沢な食事をしてきました。35周年は珊瑚婚式というらしいのですが、「それって語呂合わせ?」とカミサンに訊かれて、初めて35=珊瑚に気付きました。ホントは珊瑚でできた装飾品などを贈るらしいのですが、大きな声では言えないけれど、そんな恥ずかしいことは間違ってもできません。
●306回〜446回のコラムをまとめた「映画がなければ生きていけない2007-2009」が新発売になりました。
< http://www.bookdom.net/suiyosha/1400yomim/1447ei2007.html
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●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4880651834/dgcrcom-22/
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