〈恋におちて/ユー・ガット・メール/ノッティングヒルの恋人/新宿泥棒日記〉
●当然のことだが見た映画の数より読んだ本の数の方が多い
僕が育った家には、本というものがなかった。両親が本を読んでいるのを見た記憶はない。それなのに、どうして僕は本好きになったのだろう。このコラムのタイトルを「映画と本と音楽と...」にしたいと柴田編集長に言って、「当たり前過ぎる」と却下されたのだが、映画と本と音楽が僕という人間を作った三要素であるのは間違いない。当然のことだが、見た映画の数より読んだ本の数の方が多い。
まだ字を習っていない頃、僕は田舎の祖母の家に転がっていた漫画本をすらすらと読んだという。周りの大人が「この子は凄い」と驚くのがうれしく誇らしくて、得意になって漫画の吹き出しを読んでいたのは、自分でもかすかに記憶している。やがて小学校に入り、低学年の頃から僕は図書室に入り浸るようになった。
その当時は、何でも読んだ。地理の本でも、理科の本でも、偉人伝でも、子供向けに出されたシャーロック・ホームズものでも、本であれば片っ端から読んだ。七、八歳の頃だと思うが、黒岩涙香が翻案した「鉄仮面」をクリスマスプレゼントでもらい、繰り返し読んだ。その頃から物語の世界に浸り始めたのだろう。友だちの家にあった講談社版少年少女文学全集を一冊ずつ借りて読んだ。
中学生になり、少ない小遣いを工面して本を買い始めた。読み終わると高松ブックセンター(他の古書店はなかった)へ売りにいき、また読みたい本を買った。その頃は、中学生でも古本屋は買ってくれたのだ。高校生になると市内の丸亀町にある宮武書店と宮脇書店を覗き、タマルレコード店と日本楽器でレコードを見て、最後に田町にあった高松ブックセンターに寄って帰るのが日課のようになった。
だから、書店や古書店とは50年付き合っている。あの本はどこの書店で買ったなあ、と今でも思い出すことができる。もちろん、思い出深い本だけだが、それでも買ったときのこと、その時の書店の棚さえ甦ることがある。記憶に残る書店もいろいろある。有名な新宿の紀伊國屋書店に初めて入ったときのことは、今でも鮮明だ。日本橋丸善に最初に入ったときの興奮だって思い出せる。
●当然のことだが見た映画の数より読んだ本の数の方が多い
僕が育った家には、本というものがなかった。両親が本を読んでいるのを見た記憶はない。それなのに、どうして僕は本好きになったのだろう。このコラムのタイトルを「映画と本と音楽と...」にしたいと柴田編集長に言って、「当たり前過ぎる」と却下されたのだが、映画と本と音楽が僕という人間を作った三要素であるのは間違いない。当然のことだが、見た映画の数より読んだ本の数の方が多い。
まだ字を習っていない頃、僕は田舎の祖母の家に転がっていた漫画本をすらすらと読んだという。周りの大人が「この子は凄い」と驚くのがうれしく誇らしくて、得意になって漫画の吹き出しを読んでいたのは、自分でもかすかに記憶している。やがて小学校に入り、低学年の頃から僕は図書室に入り浸るようになった。
その当時は、何でも読んだ。地理の本でも、理科の本でも、偉人伝でも、子供向けに出されたシャーロック・ホームズものでも、本であれば片っ端から読んだ。七、八歳の頃だと思うが、黒岩涙香が翻案した「鉄仮面」をクリスマスプレゼントでもらい、繰り返し読んだ。その頃から物語の世界に浸り始めたのだろう。友だちの家にあった講談社版少年少女文学全集を一冊ずつ借りて読んだ。
中学生になり、少ない小遣いを工面して本を買い始めた。読み終わると高松ブックセンター(他の古書店はなかった)へ売りにいき、また読みたい本を買った。その頃は、中学生でも古本屋は買ってくれたのだ。高校生になると市内の丸亀町にある宮武書店と宮脇書店を覗き、タマルレコード店と日本楽器でレコードを見て、最後に田町にあった高松ブックセンターに寄って帰るのが日課のようになった。
だから、書店や古書店とは50年付き合っている。あの本はどこの書店で買ったなあ、と今でも思い出すことができる。もちろん、思い出深い本だけだが、それでも買ったときのこと、その時の書店の棚さえ甦ることがある。記憶に残る書店もいろいろある。有名な新宿の紀伊國屋書店に初めて入ったときのことは、今でも鮮明だ。日本橋丸善に最初に入ったときの興奮だって思い出せる。
結婚して棲んだ阿佐ヶ谷にはダイヤ街やパール街にも書店があったけれど、南阿佐ヶ谷駅前にある「書源」の棚は、今もビジュアルとして目の前に浮かび上がってくる。狭いスペースに天井までびっしり本が詰まっていた。「なんでこんな本を置いてあるんだよう」と、僕はうれしくてじっと棚を眺めていた。
「書源」は、僕が初めて書店員の人に声を掛けた書店でもあった。僕が作っていた月刊誌「小型映画」にライバル誌の「8ミリマガジン」が創刊された頃のことである。僕は最新号が出るたび、「書源」にいって二誌の配本部数と売れた部数を訊いた。書店の人には「お休みの日に大変ですねえ」とねぎらわれた。
「書源」の店頭で「本の雑誌」という見慣れない小冊子が並んでいるのを見たのは、もう30年以上昔のことだ。それからしばらくして「さらば国分寺書店のオババ」で編集長の椎名誠さんが有名になり、「本の雑誌」もメジャーになるのだが、それ以前に名もないミニコミ誌を店頭に平積みする心の広さが「書源」にはあった。
書店の個性を教えてくれたのが、南阿佐ヶ谷の「書源」だった。その後、僕は書店営業を担当し始めた大学時代からの友人Tによって、様々な書店関係者を知ることになるのだが、彼らがみんな大の本好きであることに感心した。本が好きで好きで...、彼らは書店員になったのだ。僕は今まで多くの出版社の人たちや編集者に会ったけれど、書店員の人たちほどの本好きには会わなかった。悲しいことに、本を読まない編集者にはイヤになるほど会った。
●書店員の本当の心は知らないできたのだと思い知らされた
まさか、その本を読んでいて何度も涙を流すことになろうとは思わなかった。「傷だらけの店長 それでもやらねばならない」(PARCO出版)は、新聞の書評で取り上げられていたので読み始めた本だった。僕も出版業界で35年以上、メシを食ってきた人間だ。書店についてはそれなりに知っているつもりだったけれど、書店員の本当の心は知らないできたのだと思い知らされた。
それは「新文化」という出版業界向けの新聞に連載されたコラムを元にまとめられた本だった。伊達雅彦というのは、間違いなくペンネームだ。業界や会社のことを本音で書いているので、正体を明らかにしては書けないのである。そこには、20年書店員として働いてきた著者の嘆きや悲しみや辛さや怒りが赤裸々に綴られているのだが、同時に書店員であることの誇りや喜びや本への愛に充ち、読み続けているうちに涙ぐんでしまったのだ。
本好きの著者は大学時代に書店でアルバイトを始め、そのままその書店チェーンに就職する。若い頃の著者は書店業界を改革する志を持ち、自分の理想の棚を作ることを夢見、開店する前夜に書店の床に頬をすり寄せるような情熱にあふれている。しかし、20年の経験と現実の壁、売上げ至上主義の本社の方針、万引きや酔っぱらった客など、日々起こるトラブルで神経をすり減らし、まさに「傷だらけ」になっている。
駅前に巨大な書店チェーンが進出する。その開店の日、売上げは通常の半分に落ち、その後も影響は続く。著者は様々な対策を提案し、悪戦苦闘する。しかし、売上げの落ち込みは続き、不採算店として本社は閉店を決める。閉店へ向けての日々が始まる。彼は自分も辞職することを決意している。駅前に進出した大手書店の店長は業界でも有名な人物で、彼は一度会食し、その人柄に惹かれる。その店長から「うちにきませんか」と誘われるも、「お気持ちだけいただいておきます」と答える。
やがて、閉店。彼は、それをきっかけに書店業界から足を洗うことを決心するが、ハローワークに通いながらも、あちこちの書店を見てまわることがやめられない。ある日、彼は少し前に出たある本が欲しくて、在庫を期待をせずに駅前の普通の品揃えしかしていない本屋を覗く。ところが、その本は棚にある。「よくぞまあ、こんな本を在庫していてくれた」と彼は感激する。
★
そう、私はこの喜びや楽しさを、書店員として客に提供していきたかった。
探していた本を見つけたときの喜び。
意外な本にであう楽しさ。
客がそれをかなえる空間を創り上げることのみを夢見て、書店員を続けていた。
給料が安くても、理不尽で辛いことがあっても、それがあるから仕事を続ける
ことができたのだ。 ──「志を捨てられない、すべての書店員へ」
★
どんな世界にも、理想や夢を阻む現実がある。若い頃の志は長い年月ですり減り、現実の前に消えようとする。利益が出なければ、商売は成立しない。それは、すべての仕事で同じだ。だが、大昔に北方謙三さんが書いたように、どんな仕事にも「誇りってやつ」が必要なのだ。そして、最も仕事への誇りを感じるのは、自分がやっていることが「誰かのためになっている」と実感できたときである。そのとき、人はどんなに辛いことも、理不尽なことも忘れることができるのだと思う。
●映画で書店や図書館のシーンが出てくると身を乗り出す
本好きが昂じて、僕は映画で書店や図書館のシーンが出てくると、ちょっと身を乗り出すところがある。たとえば、書店のシーンが有名なのは、「恋におちて」(1984年)である。ロバート・デ・ニーロとメリル・ストリープという演技派のふたりが、既婚者同士の大人の恋を見せてくれる作品だ。その冒頭、ふたりが出逢うのがニューヨーク五番街の書店だった。
その書店の新刊書籍を並べているらしい平台が、映画を見ていて僕は気になった。アメリカではクリスマスに本を送るのは一般的らしくて、ふたりはそれぞれの家族へのプレゼントを買うためにその書店に入るのだが、クリスマス用にデコレーションされた店内の華やかさが何となく日本の書店にはない雰囲気で、印象に残ったのかもしれない。それに、あまり客がいなくて、ゆっくり本が探せそうだった。
ニューヨークの大型書店は、「ユー・ガット・メール」(1998年)でも見られる。巨大書店チェーンの経営者がトム・ハンクスで、その近くに専門書店を開いているのが本好きのメグ・ライアン。このふたりがネットで知り合いメル友になり次第に好意を持つのだが、現実の世界では商売敵であることを知らず...、といったストーリーである。
トム・ハンクスが開店した大型書店は大きなビルのフロアーごとに本のジャンルが分けられているらしく、また子供たちを遊ばせるスペースがあったり、コーヒーを飲みながら本が読めたりできるようにしてあったと思う。後に、ジュンク堂が池袋にそんなスペースのある大型書店を開店したとき、僕は「ユー・ガット・メール」からヒントを得たんじゃないかと思ったが、たぶんニューヨークあたりには現実にそんな書店があるのだろう。
メグ・ライアンは専門書店(文学書や人文書だったかな?)を開いていたが、欧米にはそんな形態の書店が多いのだろうか。「ノッティングヒルの恋人」(1999年)の主人公(ヒュー・グラント)は、ロンドン近くのノッティングヒルという街で旅関係の書籍を置いてある専門書店を営んでいる。ある日、ハリウッドスター(ジュリア・ロバーツ)が店に現れ、いろんないきさつからふたりは恋に落ちる。
僕は、あまり客が入っていなさそうなヒュー・グラントの書店が気に入って、あんな本屋をやりながら穏やかに暮らしたいと思ったものだ。日本だと専門分野を持つ古書店の雰囲気である。たとえば、神田の矢口書店なんかは映画演劇関係の古書を専門に扱っていて、僕の憧れの古書店である。僕が死んだら映画関係の本は、まとめて矢口書店に送るようにカミサンには指示してある。
映画の中の書店を最初に意識したのは、「新宿泥棒日記」(1969年)だった。冒頭、横尾忠則演じる青年が新宿紀伊国屋で万引きをし、書店員(横山リエ)に階段の途中で肩をつかまれる。突然、紅テントの役者たちが新宿西口駅前に走ってきて、「昭和元禄美少年、唐十郎の奥を見せてやろうか」と言いながら逆立ちするシーンが挿入されたりして、ストーリーはとても要約できない大島渚作品なのだけど、高校生の僕は「あれが新宿紀伊国屋かあ」とまだ見ぬ書店に憧れたものだった。
●書店員の覆面座談会に出席するような業界の有名人たちだった
大学時代からの友人Tは「書店営業はおれの天職だ」というくらい、その仕事にはまり、多くの書店の人たちと仲良くなった。彼が結婚したとき、東京の主だった書店の店長さんたち二十数名が発起人になってパーティを開いてくれた。僕もその場に参加し、何人かの店長さんと知り合いになった。彼らは「本の雑誌」で書店員の覆面座談会に出席するような業界の有名人たちだった。
そんなひとりに、四谷文鳥堂の店長さんがいた。四谷文鳥堂はビルの一階にある非常に小さな書店だったが、棚を見ているだけで飽きない独特の品揃えをしていた。その時代を象徴する棚になっていたと思う。あの棚の写真を撮っておいたら、今頃は貴重な文化資料になっていただろう。
その棚について、具体的に説明せよ、と言われたらちょっと困るけど、「書源」についで書店の個性を感じたのは四谷文鳥堂だった。「書源」もそんなに大きな書店ではなかったが、もっと狭いスペースの四谷文鳥堂は店長ひとりの個性で作った棚、という印象だった。人の部屋にいくと必ず書棚を見る人がいるし、僕自身がそうなのだけど、そんな個人の書棚を見ている感じがあり、その頃、定期的に四谷にいく用事があったので、僕はよく顔を出して棚を眺めたものだった。
最もよく話をしたのは、やはり会社の近くにあった飯田橋書店店長のAさんだった。会社の近くに本屋がなくて不便をしていたのだが、入社して数年後に飯田橋書店が開店し、僕は毎日のようにそこを覗いた。しかし、Aさんと話すようになったのは、Tと飯田橋書店で待ち合わせをしたときだった。Tは開店して間もないのに、すでにAさんとは親しくなっていて、軽口をたたき合う間柄だった。
大学時代に某セクトに所属し、いろいろ大変な目に遭ったということもTは聞き出しており、Aさんとは初対面の僕にTはそんな話をした。Tの大学からの友人だということで、Aさんにはずいぶん親しくしてもらったし、高い本を割引で売ってもらったりした。書店の裏を見せてもらったこともある。仕事帰りに覗くと、Aさんはよくスリップの整理をしていた。
Aさんの前には講談社や小学館など大手出版社から書店向けに送られてきたポスターが貼ってあり、報奨金が提示されていたりした。大手出版社は、特定の書籍を売ると報奨金を出すことがあり、書店はそれらの本に力を入れる。「傷だらけの店長」でも報奨金制度の記述があり、「売りたくもない本を売らされ、売れ残った分を自分で買った」体験が綴られていた。
出版社には勤めていたが、流通や書店の現場をまったく知らなかった僕は、Aさんの話はずいぶん勉強になった。僕が酔って「編集者がナンボのもんじゃ」などとくだを巻き始めるのは、その頃のことである。編集者は自分が作った本の見本ができると、そこで終わってしまう。売れると思って作った本だから、売れるかどうかは気にしない。「売れていない」と営業部に言われても、実感が湧かない。だから書店の現場を知れば知るほど、僕は己の編集者としての甘さが許せなくなった。
その後、Aさんはパソコン雑誌の版元だったソフトバンクに転職した。「やっぱり、版元の方がいいですか...」と訊いた僕に、Aさんは沈んだ顔をした。そのとき、僕は自分がした質問を悔やんだ。Aさんの表情から僕は、書店から版元に移る後ろめたさのようなものを感じたのだ。書店より版元の方が勤務条件もいいし、賃金だって段違いだろう。しかし、Aさんは書店が好きだった。できることなら、そこにいたかったに違いない。
あれから20数年の時間が風のように消えてゆき、ソフトバンクは巨大企業になった。その長い時間の間に飯田橋書店は売り場を二階フロアーにも拡大したが、やがてオーナーが閉店を決め(その辺の事情は閉店のときの店長さんに聞いた)、僕の会社の周辺から書店が消滅した。街から小さな書店が消えていく。しかし、書店の思い出は消えない。たとえば店員さんの目を気にして、エッチな本を裏返してレジに出していた少年の姿を僕は懐かしく思い出す。何だか人間的で、ほのぼのとした思い出だ。
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951
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とうとう50代最後の年齢になりました。残り365日。還暦というのは、暦がひとまわりして元に還ることだから、後一年すると何もかもリスタートできるのだろうか。再起動しようと思ったら、起動せずにそのままブラックアウト...ということだってあると思うけど...。
●306回〜446回のコラムをまとめた「映画がなければ生きていけない2007-2009」が新発売になりました。
< http://www.bookdom.net/suiyosha/1400yomim/1447ei2007.html
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●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4880651834/dgcrcom-22/
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