映画と夜と音楽と...[494]真の勇気とは何だったのか?
── 十河 進 ──

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〈勇気ある追跡/グリーンベレー/トゥルー・グリット〉

●手綱を口にくわえ左手に拳銃を持ち右手でライフルをまわす大男

片目にアイパッチをし、テンガロンハットをかぶり、首にネッカチーフを巻き、ウェスタンシャツに革のベストを着けた大男は馬にまたがり、革の手綱を口にくわえる。左にリボルバーを持ち、右手でライフルをクルリとまわして銃弾を装填する。そして、正面から銃を撃ちながら近付いてくる、4人のアウトローたちに向かって馬を疾走させる。その姿を岩山の上で見ていた少女は、「あれこそ、本当の勇気だわ」と叫ぶ。

そのアクションシーンを見たとき、僕は映画館の椅子から腰を浮かし、思わず拍手をしようかと思うほどの、突然の高揚感に充たされた。長いライフルが、その大男にかかると銃身の長い拳銃のように見えた。大男の長いリーチがあるからできることだった。その大男が何十年も銃を扱ってきたことがわかる。ライフルも拳銃も男の体の一部になっていた。

だが、映画はそれから後も次々と見せ場が続いた。大男は4人のアウトローを撃つが、ボスに自分の馬を撃たれ、その馬の亡骸に片方の足を挟まれて動けなくなる。撃たれて瀕死のボスが馬に乗って大男に近付いてくる。大男は拳銃に手を伸ばすけれど届かない。ボスが拳銃を構える。そのとき、娘を救出したテキサスレンジャーの若者が、岩山の上から長距離用ライフルでボスを撃つ。

しかし、テキサスレンジャーはもうひとりの無法者の待ち伏せに遭い、岩で頭を殴られ倒れる。少女は父の形見の大型拳銃で無法者を撃つのだが、その反動でガラガラヘビのいる穴に落ちてしまう。右腕を折り、ガラガラヘビに噛まれた少女を大男は救い出し、抱き上げて馬を疾駆させる。二人の重さと全力疾走で馬が潰れると、彼女を抱いて荒野を歩く。馬車を見付けると銃を向けて有無を言わせず奪い、再び少女を乗せて突っ走る。少女の命を救うために...。



やがて、墓地でのラストシーンがあり、僕は自分が涙を浮かべているのに気付いた。しみじみとした少女の表情が目に焼き付く。少年のような、そばかすが目立つ少女だった。彼女は大男を愛情といたわりに充ちた目で見つめ、大男は「まだまだやれるさ」というように、馬で四段の墓地の柵を飛び越えてみせる。「ヤー」という大男の馬を駆り立てる声が、エンドマークが出た後も耳に残った。

不意に、一年前、同じ映画館でその大男が監督主演した映画を見たときの不愉快な後味が甦った。ハリウッドで、大男はタカ派として有名だった。その頃、ベトナム戦争はアメリカが北ベトナムを爆撃し、泥沼化の道を辿っていた。1968年、アメリカではベトナム戦争反対の動きが出始めていたが、世界を共産化から防ぐという大義を信じているアメリカ人は多かった。その大男は、そんなアメリカ人の代表として「グリーンベレー」(1968年)という映画を制作したのだった。

グリーンペレーは英雄だった。三角の笠のようなものをかぶり、まるで蟻の大群のようにアメリカ軍を襲うベトコンは、人格を持たされない描かれ方で得体の知れない怪物のようだった。ある隊員は、ベトコンを憎む正しいベトナム人の少年と仲良くなるが、卑怯な罠によってベトコンに殺される。監督主演の大男は少年と共に太陽に向かって立ち、「この国を守っているのは彼らのような男らしいアメリカ人なのだ」というメッセージを露骨に伝えてきた。

大男は、一方的な作品だと言われるのを嫌ったのか、インテリでリベラルな新聞記者を登場させる。戦場レポートを書くためにやってきたエリート記者だ。それを演じたのが「逃亡者」のリチャード・キンブルとして人気が出たデビッド・ジャンセンだった。しかし、彼のリベラルさは戦場の過酷さで打ちのめされ、遠いインドシナでアメリカの大義を背負って戦う兵士たちへの敬意に変化する。

その、あまりに露骨で、嘘くさいラストシーンに、僕は肩をそびやかしたものだった。アメリカ兵に後頭部を撃ち抜かれるベトコンの少年の写真を見た16歳の僕にとって、アメリカは帝国主義の国だったし、ベトナムの民衆を戦火にさらす悪の帝国だった。「ベトナムに平和を...市民連合」が活発に活動し、脱走兵たちに関するニュースが後を絶たない頃だった。

しかし、その一年後、もうすぐ夏休みが始まろうかという1969年の7月初旬、僕は「勇気ある追跡」(1969年)という映画のジョン・ウェインと、初めて見たキム・ダービーという少女がすっかり気に入ってしまったのだった。2ヶ月近く続く鬱屈から一時的に解放されて、僕は映画館を出た。

●安田砦落城から全国の高校での学園闘争が始まった

1969年、その年の1月18日から19日にかけて、東大安田講堂の攻防戦と彼らを支援する学生たちがお茶の水・神田を占拠したニュースが全国に流れた。多くの人がテレビに釘付けになった。機動隊が放水し、銃を構えて催涙弾を撃ち、ヘルメット姿の学生たちが石を投げ、火炎瓶を投げた。催涙ガスが漂い、そこら辺中で炎が立ち昇る。

そのニュース映像は、地方の高校生たちを刺激した。もちろん、その映像だけの影響ではなかったが、それまでは大学生中心だった学園闘争が高校生にまで波及したのである。そこから「高校紛争世代」が生まれた。その頃のことは、村上龍「69」や四方田犬彦の「ハイスクール1968」などを読むと、雰囲気がよく伝わるだろう。そして、僕もそんな世代のひとりだった。

友人の井沢に香川大学生が主催するマルクス研究会に誘われたのが、高校2年の秋だった。その教条主義的なグループになじめなかった僕は、何回か勉強会に顔を出しただけでいかなくなったが、井沢はそのグループのリーダー的な存在になり、学校改革を訴えて生徒会長に立候補した。当選した井沢は勉強会のグループは生徒会スタッフに加えず、僕に広報スタッフとして入ってくれないかと言ってきた。

僕は新聞部とは別に、生徒会の広報スタッフとして定期的に広報紙を出し始めた。そして、半年が過ぎた頃、1969年5月、大きな市営グラウンドを借りて行われる体育祭で、生徒会長として壇上に立った井沢は、突然、受験体制の批判、学校批判、国家批判のアジ演説を始めたのだった。造反演説である。井沢は最後に「国家権力、学校権力の象徴として掲げられている、あの日の丸を引きずり下ろそう」と叫んで国旗掲揚台に向かって走り、勉強会グループの数人がそれに続いた。

もちろん、体育祭は騒然としたが、その後、何事もなかったようにプログラムは進行した。僕は生徒会スタッフとして働いていたが、教師にどこかへ連れられていった井沢の居場所を探ろうとした。しかし、生徒指導担当の教師と共に消えた井沢の居場所はわからなかった。父親の転勤で高松にきていた井沢は、その後、再び父親が転勤になり、ひとりで寮に住んでいた。だから、僕が井沢に再会したのは、一年近く後の東京でだった。

その翌日、僕は副会長だった一学年下の女生徒に緊急の生徒集会を開くように要請した。僕としては任意出席の全体集会にするつもりだったが、優等生(後に東大医学部に現役で入った)で受験体制許容派の副会長は、通常のクラス代表者会議に変えてしまった。出席者は、男女ひと組のクラス委員だけである。一学年16クラスあったから、それでも100人近くの人間が集まっただろうか。

会議は騒然とした。井沢の行動には批判的な空気だったが、彼の処分問題になると圧倒的に「処分撤回」の意見が多かった。その朝、すでに「井沢は無期停学、追随した者たちは自宅謹慎」という沙汰が学校側から通達されていた。僕は、処分撤回という議決を得ようと、積極的に発言した。しかし、1年のときから井沢を自宅に泊めるほど仲のよかった立石が立ち上がって発言した。

──彼としては、信念を持ってやった行動だ。だとすれば、処分も覚悟していたはずだし、甘受するはずだ。処分撤回決議や闘争なんてナンセンスだ。

そのひと言で流れが変わった。立石は元新聞部部長で、生徒たちの中ではオピニオンリーダーだった。教師を論破した伝説があったが、それは事実だった。トイレの壁に「民青の親玉・立石を殺せ」と書かれるほど、新左翼系の生徒グループにとっても目立つ存在だった。教師をしていた兄が香川県では珍しい日教組の組合員で、もしかしたらその落書きは当たっていたのかもしれない。集会が終わり、僕は「なぜ、あんな発言をしたのだ」と立石を問い詰めると、立石は「彼は昔の彼ならずさ」と太宰治のフレーズを引用しただけだった。

●「勇気ある追跡」は「トゥルー・グリット」として甦った

先日、WOWOWのハリウッド最新ニュースを見せる番組を見ていたら、興行成績の5番目ぐらいに「トゥルー・グリット」という作品が紹介された。そばかす顔で三つ編みの少女と西部劇スタイルの若者が会話するシーンが流れた。「彼はテキサスで人を殺した」と若者が言い、「彼は私の父を殺した罪で裁かれるの。そのために人も雇ったわ」と少女が答えた。えっ、これって「勇気ある追跡」のリメイクか?

「グリット/grit」とは、気概、気骨、不屈の精神、勇気、元気、肝っ玉などの意味を持つ単語だ。「a man of true grit」は、「真の勇者」という意味になる。それを辞書で見たとき、僕の脳裏に岩山の上で叫ぶマティ・ロスことキム・ダービーの姿が浮かんできた。「あれこそ、本当の勇気だわ」と叫ぶ、その表情と共に...。

数日後、アカデミー賞のノミネート作品が発表になった。その中に「トゥルー・グリット」が入っていた。10部門でのノミネートらしい。それを知って、僕はいろいろ調べてみた。もちろん「勇気ある追跡」のリメイクだった。しかし、監督はコーエン兄弟である。下手なリメイクにはならないだろう。公式サイトを見ると、3月18日には日本公開が決まっていた。

ジョン・ウェインがやった片目の連邦保安官ルースター・コグバーンは、誰がやるのだろうと予告編を見たら、テンガロンハットにアイパッチ、さらに髭面だからよくわからなかった。ジェフ・ブリッジスみたいだなと思ったら、本人だった。テキサスレンジャーのラ・ブーフも凝ったメイクをしているのでわからなかったのだが、マット・デイモンが演じている。キム・ダービーが演じたマティ・ロスよりずっと幼く見える、ヘイリー・スタンフェルドの演技が評判になっているらしい。

「勇気ある追跡」のキム・ダービーは10代後半の設定だろうが、撮影時には20歳を過ぎていた。ヘイリー・スタンフェルドという少女は、まだ14歳だという。この作品で助演女優賞にノミネートされている。ジェフ・ブリッジスは、昨年、「クレイジー・ハート」(2009年)で60を過ぎて初めてアカデミー主演男優賞を獲得したが、それに続いての主演男優賞ノミネートだ。2年連続で受賞すると、スペンサー・トレイシー、トム・ハンクスに続く記録になる。

そうだ、「勇気ある追跡」でジョン・ウェインは念願のアカデミー主演男優賞を獲得した。62歳だった。全員がスタンディング・オベイションで、彼の受賞を祝った。リスペクトを表明した。当然だ。政治的信条がどうあろうと、そんなことはどうでもよかった。あのジョン・ウェインが主演男優賞を、ようやく獲得した。俳優生活40年の偉大なハリウッド・スターが、ようやく認められたのだ。それでも、ジョン・ウェインはクールだった。彼は短く、こうスピーチした。

──こんなことだったら30年前にアイパッチをつけておくんだった。

●教師の威圧に何も言えず勇気のない自分の情けなさが...

井沢は迎えにきた父親が自主退学の届けを出し、そのまま東京に連れ帰った。自宅謹慎処分になった連中も復学した。しかし、校門でアジビラが配られたり、教室の黒板に学校批判の文句が書かれてあったり、様々なことが続き、学校側はひどく神経質になっていた。僕も要注意人物のひとりと目されていた。教師が自宅に訪ねてきたりした。

勉強会グループのひとりからは、「あの勉強会をやっていたYさんの下宿が公安に見張られていたらしい。俺たちは香川県警公安部のブラックリストに載ってるぜ」と耳打ちされた。その頃の僕は、井沢の処分撤回運動をできなかったことで、自分を責めていた。退学覚悟で行動を起こした井沢に対して、僕はひどく後ろめたい気持ちを抱いていたのだ。自分は生活を賭して、人生を賭して、何もなしていない。行動を起こしていない...。

その頃の僕の鬱屈をシンプルに言うと、そういうことだった。6月になったある日、生徒指導担当の教師に生徒指導室に呼び出された。体育祭事件からひと月が過ぎていた。その尋問室のような部屋の椅子に僕を座らせると、生徒指導の教師は居丈高に言った。「井沢の事件が朝日新聞の全国版で記事になった。あの事件の2日後だ。事件の翌日、朝日新聞の記者にペラペラと話をしたヤツがいる」

体育祭の翌日の生徒集会が終わって、教室に戻った昼休みだった。朝日新聞高松支局の記者が教室に取材にきた。おそらく学校の許可なんか取っていなかっただろう。30過ぎに見えた記者は、僕が新聞記者に憧れていたこともあるのだろうが、ひどくかっこよく見えた。全国紙の記者である。僕は彼に話しかけられて、緊張した。彼はすでに事件の全容は掴んでいるようだった。憤懣をぶちまけるように僕は学校批判をし、処分撤回の議決をしなかった生徒集会への不満を訴えた。

「学校の名誉を傷付ける行為だ」と生徒指導の教師は言った。それがどうした、と思ったが僕は何も反論できなかった。「きみは私立の文学部志望だったな」と教師は言い「どこを受けるんだ」と続けた。僕は、「早稲田、明治、中央...」と答えた。「三つだけか」と教師が訊ね、「受験料が高いですから、三つが限度です」と僕は答えた。何となく威圧されている感じがした。おまえは受験生なのだ、井沢みたいなことをやらずにおとなしく勉強していろ、と言外に言われているような気がした。しかし、何も言い返せない自分が情けなかった。

生徒指導室を出た僕は、その部屋の前で待っていたのだろう、2年生のときの担任の永澤先生に会った。先生は「やられたか」という表情をした。現代国語を担当する永澤先生は、生徒の前で学校批判もするリベラルさを持つ理想家肌だった。僕の作文を高く評価してくれて、「きみは大江とかノーマン・メイラーを読むのか」と訊かれたことから、先生の下宿を訪ね本を借りたりしたこともあった。永澤先生は「気にするな」と僕の肩を叩き、廊下を歩いていった。

その日ではなかったと思うけれど、ある日、僕は立石とあの勉強会グループのひとりが、廊下で日本史の年表の暗記を競い合っている場面にぶつかった。「源頼朝の鎌倉幕府が始まったのは?」と立石が言い、相手が「1192作ろう、源頼朝」などと答えていたのである。それを見た瞬間、僕は受験勉強は一切するまいと決意した。僕は教師の恫喝に何の反論もできず、友だちの処分撤回闘争もできない情けない男なのだと自分を責めた。せめて、受験勉強をしないことで、何かに殉じたかったのかもしれない。

翌年の2月末、僕は本郷三丁目の受験生のための旅館の大部屋(5、6人が一緒だった)で何日かを過ごし、三つの大学を受けた。しかし、発表日まで東京の旅館に滞在する余裕はなかった。僕は、東京の兄の家に滞在している立石に発表を見てくれるように頼み、高松に帰った。3月の上旬が結果発表だった。立石は、発表がある度に電話をくれたと記憶している。遠距離電話は金がかかるので、日常的にはほとんど使わなかった時代である。そのことに、僕は立石の誠意を感じてはいた。しかし、案の定、僕はすべての大学を落ちた。

アカデミー賞が日本でも放映されるようになって、もうずいぶん長い時間が経った。しかし、41年前年の春のことである。その頃は、アカデミー賞のニュースが伝わるのにも時差があった。ジョン・ウェインが「勇気ある追跡」で、ようやく主演男優賞を獲得したことを知ったのは、すべての大学を落ちたことが判明した後のことだった。

僕は、鬱屈を抱えていた夏に見た「勇気ある追跡」のジョン・ウェインの勇姿を甦らせた。手綱を口にくわえ、右手のライフルをクルクルとまわし、左手の拳銃をかかげる、「真の勇気」を持つ片目の保安官の馬上の姿を...。しかし、未だに僕にはわからない。真の勇気とは、一体、何なのか。あのとき、もっと勇気があれば...という人生の悔いの記憶は、無数に存在しているのに...。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951
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大藪春彦賞に平山夢明さんの「ダイナー」と福田和代さんの「ハイ・アラート」が候補に挙がっていて、平山さんが受賞した。おめでとうございます。「ダイナー」は日本冒険小説協会の大賞も獲得し、昨年3月の授賞式で僕はいろいろお話をうかがった。ちなみに、何の意味もありませんが、僕は大藪春彦が通った高校の隣の中学出てます。ところで、今回の文章に出た「僕」と関わる人の名前はすべて仮名です。

●306回〜446回のコラムをまとめた「映画がなければ生きていけない2007-2009」が新発売になりました。
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●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
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