映画と夜と音楽と...[499]世界は善意に充ちている
── 十河 進 ──

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〈エロス+虐殺/幻夜/容疑者Xの献身/手紙/さまよう刃〉

●大地震の翌日に経験したささやかだが心温まる善意

大地震の後、ひと晩会社で泊まり、そろそろ空いている頃かと思いながら正午近くに駅へいくと、総武線はそんなに混んでいなかったが、秋葉原ではホームに人があふれそうになっていた。山手線は外回りが動いていなくて、どんどん人が増えていく。つくばエクスプレス(TX)の方へいってみたら、割に空いていたのでそちらに乗り込んだ。

それでも徐々に混んできて、発車する頃にはほぼ満員だった。北千住を越すと、TXの駅の周辺はまだまだ開発されていなくて、普段はそんなに乗降客はいないのだが、やはりけっこうな人の乗り降りがある。その日は「流山おおたかの森」という駅までしか電車はいかず、その駅で多数の人が降りた。階段を降り改札を抜けるまで、10分近くかかるほどだった。

「流山おおたかの森」の駅に隣接する大型ショッピングセンターには、広い売り場面積を誇る紀伊國屋書店も入っているし、シネコンが10スクリーン以上あるのだけれど、その日はショッピングセンターそのものが臨時休業になっていた。そこのレストラン街で昼食を摂ろうと我慢してきたのに、当てが外れた。

胆石の手術で入院していたカミサンが退院する予定だったので、とりあえず病院へ向かおうと思ったが、タクシーがまったくいない。仕方なく満員の東武線に二駅乗って柏に出た。今では千葉県一の乗降客数を誇るターミナル駅だが、駅周辺には人が少ない。臨時休業の店が多いのだ。ブランドショップがいろいろ入ったステーションモールも閉まっていた。



病院に着くと、すでに入院費の精算も済ませたカミサンが待っていた。病院玄関に戻ると、いつもなら数台は客待ちしているタクシーが一台もいない。カミサンが近くのタクシー会社に電話して迎車を頼んだが、「今日は無理」と断られた。下腹部に四つの手術穴が開いている女を歩かせるわけにいかず、病院バスでターミナル駅に戻ることも考えたが、戻ったところでタクシーが掴まるかどうかはわからない。

一度帰宅して、車で迎えにくるんだったなあと後悔していると、カミサンの携帯が鳴った。さっき電話したタクシー会社からだった。「何とか手配できたので、そちらへ向かう」という連絡だった。病院前からの迎車依頼だったので、配車担当の人が優先してくれたらしい。ありがたいねえ、とカミサンと顔を見合わせた。

しばらくすると、年配の女性が運転するタクシーがやってきた。大きな荷物を抱えて乗り込む。走り出してから「今日は大変ですか?」と訊いたら、「食事もろくにできません」という返事。そこから、タクシードライバーの持つ様々な情報を話してくれた。「さっき乗せたお客さんは、茨城県まで帰る人だったんですが、JRの運転状況をいろいろ教えてくれました」と言う。

こういう口コミが災害時には役に立つんだなあ、と僕は思った。地域的であり、実際的な情報なのだ。その場所でしか役に立たないけど、そこから自宅に帰ろうとしている人には、ひどくありがたい情報である。しかし、口コミ情報にはデマが混じることがあるし、ときにはひどい流言飛語が飛び交うことがある。

金曜日の地震以来、携帯電話も固定電話も通じず、僕はツイッターで様々な情報を知った。ダイレクトメールで連絡がきたり、社員の安否が報告されたり、本当に役に立った。そこには、公的な情報と、正しい知識と、善意に充ちた人々の呼びかけがあった。しかし、中には善意を装いながら人々の不安を煽る情報も書き込まれていた。

●流言飛語が流れ朝鮮人虐殺が起こった歴史的事実

関東大震災のとき、朝鮮人が暴動を起こすという流言飛語が流れて、朝鮮人虐殺が起こったのは歴史的事実だ。その混乱に乗じて、大杉栄と伊藤野枝、それに大杉の甥の三人が憲兵隊の甘粕大尉によって虐殺された。僕は吉田喜重監督の「エロス+虐殺」(1970年)を見てその事実を知り、後に少し調べてみた。

最近では有名なノンフィクション・ライターによる甘粕大尉の評伝も出て、甘粕大尉に関しては違う評価もあるようだが、僕はやはり彼には好感は持てない。甘粕大尉は後に満州映画協会の理事長になり、その頃の姿は「ラストエンペラー」(1987年)で坂本龍一が演じたけれど、何となく得体の知れない満州の怪物という描かれ方だった。

最近の甘粕大尉擁護論の根拠として、虐殺は甘粕の単独犯とされてきたが実際に手を下したのは部下だということがある。満州映画協会にいた内田吐夢監督によると、甘粕理事長のそばには常に眼光鋭い大柄の部下が陰のように付き添っていたという。その男が大杉たちを...と内田吐夢も思った。しかし、そうだとしたら僕はさらに甘粕に好意は持てない。己の手を汚さず、部下に7歳の少年まで扼殺させる男なのか。

憲兵隊にとって大杉栄が以前から目障りだったアナーキストだったとしても、その愛人も甥も共に殺し死体を古井戸に投げ込んだのは、人間のやることだとは思えない。それは関東大震災の数日後のことだった。そのことも卑怯である。「混乱のどさくさ紛れ」に何かを行うのは、僕の美意識からすると卑劣な行為である。

先日のツイッターのタイムラインを見ていて、そんなことを思い出すツイートがいくつかあった。善意を装い、人々の不安と猜疑心を煽るツイートだ。文面は女性に注意を促しているような内容だったが、混乱に乗じてレイプ犯が跋扈するだの、神戸の震災のときにも多くの被害者が出ただのという、リツイートした人は善意であったとしても僕に言わせれば「流言飛語」である。

そんなツイートを見ていたら、僕は東野圭吾の「幻夜」を思い出した。「幻夜」は、神戸の大震災から物語が始まる。行き詰まった町工場の主人(主人公の父親)が首を吊り、その通夜の翌朝、大地震が起き父親が多額の借金をしていた叔父が瓦礫に埋まる。助けを求める叔父を、主人公は混乱に乗じて殺す。

その現場を見ていた女がいる。その女を避難場所で見付けた主人公は、夜、ひとりで出かける女の跡を尾け、女が数人の男たちに拉致されレイプされようとしたのを救う。そこから、主人公と謎の女の関係が生まれ、主人公は女の奴隷のようになっていく。女の野望の道具にされ、多くの人を殺し続ける。

「幻夜」は、昨年の暮れから今年の初めにかけてWOWOWで映像化され、何回か連続で放映された。文字通り「悪魔のような女」であるヒロインを演じたのは、深田恭子だった。僕は分厚い原作を読み出したら止まらなくなったので最後まで読み通したが、後味の悪さに辟易した。だから、映像作品は見ていない。

東野圭吾はベストセラー作家だけど、僕はあまり読んでいない。彼の小説を読んでいると(犯罪を描くのだから仕方がないのかもしれないが)、世の中には悪意が充ちているとしか思えなくなってくるからだ。しかし、見事などんでん返しを発想する才能には、「秘密」(1999年)、「手紙」(2006年)、「容疑者Xの献身」(2008年)を見て素直に感心している。

●「世の中は悪意に充ちている」と書いてあった若い頃のメモ

若い頃のメモを見返していたとき、「世の中は悪意に充ちている」と書いてあるのを見付け、そのフレーズを書いたときの気持ちがありありと甦ってきた。当時、僕は18で上京したばかり。東京になじめず、都会人のとげとげした態度に傷ついていた。それは電車に乗るときであったり、改札を抜けるときであったり、買い物をするときであったりした。

東京の交通機関の仕組みに不慣れで、切符を買うのにモタモタした。改札を出るとまた改札がある(乗り換え改札に迷い込んだのだ)という状況にパニックなった。あるレストランでチケットの自動販売機(そんなものは四国にはなかった)に気付かず、席に着こうとしたら「うちは食券制です」と冷たい目で睨まれた。要するに田舎者の僕には、「世の中のささいな悪意」ばかりが見えたのだ。

もちろん、世の中には悪意が存在する。犯罪は日常的に起こっている。しかも意識しない悪意もあり、本人たちは悪意を自覚しないまま他人に対して残酷な行為をする。子供たちは遊び半分でクラスメイトをいじめ、ときに自殺に追いやる。大人の職場でもハラスメントは起こっている。隣人間のトラブルは日常的にあり、(言われた本人にとっては)悪意に充ちた噂が広がる。

もしかしたら、東野圭吾という作家は、そうした人間のダークサイドに注目し、そこから人間を理解しようとしているのだろうか。「容疑者Xの献身」は直木賞を受賞した作品で、いつものように血なまぐさく悲劇的な結末を持つ物語である。しかし、一方、殺人に絡んで徹底的な自己犠牲を貫く人間の姿をも描いている。

ある母子がいる。暴力的な父親から逃げて暮らしている。その父親がアパートを見付けて乗り込んでくるが、母子ははずみで父親を殺してしまう。その物音に気付いた隣人の数学教師がやってくる。そこで、(どんでん返しのために重要な情報が遮断されるのだけど)なぜか数学教師は母子に献身的に尽くすのだ。

映画で数学教師を演じた堤真一は、原作の冴えない数学教師のイメージよりかっこよかったが、探偵役のガリレオ(福山雅治)に対抗しなければならないから、そういうキャスティングにしたのだろう。福山と堤は大学時代の友人で、共に相手に一目置く存在だったという設定なのである。このふたりの知恵比べの要素があり、最後のどんでん返しはさすがだと唸った。

「幻夜」のような徹底した悪女を描く作品もあるが、「容疑者Xの献身」のような自己犠牲、「さまよう刃」(2009年)の父親が娘に寄せる究極の愛情、「手紙」に登場する少女の献身的な想いなど、悪意に充ちた世界の中でキラリと輝く希望も存在する。特に「手紙」は殺人者の弟が世間の悪意に挫けそうになる話だが、最後のどんでん返しによって希望が生まれる。

仲のよい兄弟がいる。出来のよい弟のために金を作ろうとして、兄は民家に泥棒に入り、居合わせた婦人を殺してしまう。強盗殺人。重い刑が待っている。進学を断念した弟は工場で働きながら親友と組んでお笑い芸人をめざす。その稽古を見て、工場勤めの少女(沢尻エリカ)がファン第一号になる。

弟は兄が殺人者だとバレ、せっかく人気が出始めたコンビを解散しなければならなくなる。エリートの家に育った令嬢(吹石一恵)と婚約していたが、その父親に経歴を調べられ、結婚を反対される。婚約者も殺人者の弟と知って彼の元を去る。自暴自棄になった弟は、兄と決別する。だが、刑務所の兄からは愛情といたわりに充ちた手紙が届き続ける...。

●ツイッターのタイムラインには人々の善意があふれていた

今回の大震災で僕が感激したのは、人々の善意だった。ツイッターのタイムラインには善意があふれていたし、泣きそうになるほどよい話があった。僕の会社の人間が歩いて帰宅している途中、車に乗せてくれたおじさんに「何かお礼を...」と言ったところ、「何もいらねぇよ。もしいつかオレが困っていることがあったら助けてくれい」と言って去ったという。

海外のマスコミは、パニックになっても当たり前の状況で、日本人の冷静で整然とした行動を賞賛しているという。棚に何もなくなった被災地のスーパーマーケットでも、人々はレジに静かに並んで精算していたし、パートのおばさんたちは家族が心配だろうにきちんと仕事をこなしていた。

東京で帰宅難民になった人たちは、改札規制に従って電車が動くまで何時間も並んだし、道を歩く人たちは女性や老人たちを気遣った。被災地では警察官や消防隊員や自衛隊員たちが、献身的に働いている。ボランティアの人たちも多数、駆けつけているという。地震を免れた地域では、献血のために人々の行列ができた。

外国で地震やハリケーンなどの天災の後、無秩序になり略奪や犯罪が横行するニュースに日本人たちは唖然としたと思う(毎回、僕もそう思う)が、今回、僕は改めて日本人であることを誇りに感じた。日本人の美学には「火事場泥棒は恥」という想いがある。それは日本人の血に共通に流れるものだ。

災害に乗じて儲けようとする輩がいる。先進国だと誇るアメリカでもハリケーン後の無秩序状態の中で、水の値段が跳ね上がったという。需要と供給の関係ではそうだろう。どんな場合もビジネスチャンスにしなければ、アメリカンドリームは実現できない。だが、今回、多くの日本企業は損得を度外視して、被災地の人々に協力しようとした。

人の弱みにつけ込むのは、みっともないことである。火事場泥棒は最も卑劣な行為である。こまったときはお互い様。そんな美学が日本人という民族には、ずっと流れているのではないか。何時間経っても帰れない疲れ果てた状況の中でも、人々は互いに声を掛けて励まし合い、弱者を気遣い、いたわり、かばう。

日本には、「敵に塩を送る」という言葉もある。正々堂々と闘うために、相手が自分と同等になるまで待ち、相手のダメージが回復するように塩を送る美意識が、東洋の果ての海に囲まれた小さな国にはあるのだ。困難な状況の中では、敵さえ気遣う言葉を持つ日本人である。同じように困っている人々なら、もっといたわり合う。

世の中には、間違いなく善意が充ちている。今回の地震で多くの方が亡くなり、すべてを失った人も数え切れない。しかし、そんな被災者を気遣う多くの声や、善意の人々の自然な行為に、「希望」だけは存在しているのだと励まされる想いだった。悲惨な事態だが、人々は「希望」まで失ったわけではない。「希望」は人間の最後の砦だ。「希望」さえ失わなければ、悲しみの中からでも未来に向かう何かが立ち上がる。世界が美しく見えてくる。

......ここまでは震災の翌々日に書いた原稿だった。その後、日が経つにつれて様々なことが報道されるようになった。火事場泥棒的な犯罪もあったという。原発事故による放射能不安が広がり、次第に人々の心がすさみ始めたのかもしれない。すし詰めの電車の中では、些細なことで諍いが起こることもある。

しかし、僕は言いたい。希望を失うな、夢を棄てるな、どんなに過酷で悲惨な状況に陥ったとしても、世界は生きるに値する...と。それは僕自身へ向ける言葉でもある。世の中には、無数の善意の人々が生きている。それを、今回の震災で改めて知った。そして、そのことが僕にとっての「希望」である。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951
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震災で自宅は食器類の破片と大量の本で床が埋まり、モニタは落ち、パソコンも落ちていました。誰もいなかったからよかったのですが、自宅にいたら誰かが怪我をしていたところです。グラスや食器の破片を片付けて掃除機をかけ、その後、本を片付けていたら「何で、こんなに本があるのか」とうんざり。

●306回〜446回のコラムをまとめた「映画がなければ生きていけない2007-2009」が新発売になりました。
< http://www.bookdom.net/suiyosha/1400yomim/1447ei2007.html
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●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
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