映画と夜と音楽と...[500]死にゆく人への祈り
── 十河 進 ──

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〈赤ひげ/お葬式/おくりびと〉

●震災から二週間目の夕方にかかってきた電話

震災から二週間目の金曜日の夕方だった。自宅から電話があり、義父危篤の知らせが入った。数ヶ月前から入院し、点滴だけで命をつないでいたから覚悟はしていたのだろうが、カミサンの声が少し狼狽していた。悪いなと思ったが、そのとき僕の脳裏をよぎったのは「これで冒険小説協会の全国大会に参加できなくなったな」ということだった。

翌日の土曜日が第29回日本冒険小説協会全国大会だった。僕は参加ということで返事を出していた。四年連続で出席していたし、今年の日本軍大賞は北方謙三さんではないかと予想していたのだ。それに売り出し中の冒険小説作家である福田和代さんも参加するはずだった。この一年間で、福田さんは何冊もの新作を出している。

しかし、参加を断るしかない。僕は前日から熱海の会場入りをしているはずの「深夜+1」の祐介くんに電話し、突然のキャンセルを告げた。それから、冒険小説協会の重鎮であり、僕の兄貴分であるカルロスに電話し、「義父が危篤で大会に参加できなくなった」と話した。「そりゃ大変だな」とカルロスが言った。

冒険小説協会の全国大会に参加できないことを残念がった自分が少し後ろめたかったのだろう。僕は、それから四国へ帰る手段をネットで検索した。最終の新幹線が8時半にあった。家族四人が東京駅で落ち合い、それで四国へ帰ることにした。東京駅にカミサンと一緒に現れた娘は、キャスターの付いた巨大なスーツケースをガラガラと引いていた。

家族四人で揃って帰郷したことはあっただろうか。子供たちが幼い頃にあったかもしれないが、まったく記憶がない。三人並んだ席にカミサンと息子と娘が座り、廊下を挟んで僕はひとりで座った。混んでいて、そんな指定席しか取れなかったのだ。僕の隣は金曜の最終便で関西に帰る若いサラリーマンだった。



岡山駅に着いたのは午前零時頃である。10数分の待ち合わせで瀬戸大橋を渡るマリンライナーに乗った。二両の電車が満員である。最終便なので、ほとんど各駅停車のようにいろんな駅に停まった。瀬戸大橋を深夜に渡ったのは初めてかもしれない。高松駅に着いたのは一時半。すぐにタクシーに乗って病院に向かった。

2時過ぎ、病院に到着し、病室に入ると義妹と義母がベッド脇のベンチで座っていた。シュウシュウと義父が酸素を吸う息の音だけが規則的だった。酸素マスクをして気道を確保するために、首筋を伸ばし顎をことさら突き出すような形で義父は横たわっていた。ベッド脇からカテーテルの管がビニールの袋につながり、ベッド横のスタンドに点滴の袋がぶら下がっている。

カミサンは義妹と何か話していた。息子も娘も義父とは何年も会っていないが、よく遊んでもらった記憶が甦ったのか、ふたりとも心配そうに義父の顔を覗き込み、涙を浮かべている。僕はフッと、結婚の許しをもらいにカミサンの実家を訪ねたことを甦らせた。あのとき、僕はひどく緊張していたのだ。

昭和元年生まれという世代にしては、義父は大きな人だった。178センチメートルの身長を持ち専売公社の工場勤めだった義父は、髪も職人風の角刈りで言葉もぶっきらぼうだった。高校生の頃から娘と付き合っている若造に対して、義父はあまりいい感情を持っていないのではないかと僕は怖れていた。

僕は23歳だった。今の息子や娘よりずっと若い。ふたりとも、どうみても子供だ。それなのに、23歳の僕は大学を出て就職したばかりの身で、結婚の許しをもらうためにゴールデンウィークに帰郷したのだった。しかし、その夜、うまく話を切り出せなかった僕に、義父は助け船を出してくれたのだった。

──それで...、いつ結婚するんだ?

●「赤ひげ」の藤原鎌足の臨終シーンで感じる厳粛さ

義父の息は、まだ力強かった。時々、息が止まるような感じで間合いが長くなり、義母がベッドに身を乗り出す。身内の臨終の場に立ち会うのは初めてだな、と妙に冷静な感慨が浮かんだ。義父のベッドを囲んで妻と長女と次女、孫ふたりと義理の息子が息を詰めて見守っていた。

「食堂で横になれるわよ」とカミサンが言い、息子が食堂の長椅子に身を横たえた。夕方まで勤めだったので疲れているようだった。僕も椅子を三つ並べて横になり、コートをかぶって目を閉じた。娘は母親と一緒に病室に留まっていた。躯は丈夫な方ではないので心配だったが、娘なりに何かを感じているのだろう。

少しまどろみ、明け方、病室に戻ると、「まだ大丈夫」とカミサンが言う。夜が明け、病室の窓からすぐ近くにある小さな溜め池が見えた。鴨が泳いでいた。妙に穏やかな風景だった。義母を少し休ませるためにカミサンの実家に義母を送り、僕と息子は一度、僕の実家に帰ることにした。

カミサンの実家と僕の実家は車で10分ほどの距離だ。タクシーで義母を送り、そのまま息子と僕の実家に戻ったが、時間が早すぎて両親が起きてこない。ふたりとも耳が遠く、いくらチャイムを鳴らしても反応がない。仕方なく裏に住んでいる兄に携帯電話をかけると、「オヤジは決まった時間でないと起きないし、お袋はゲートボールやめてから起きるのは遅くなった」と言う。

結局、兄の家で朝食をごちそうになり、両親が起きだした頃に実家に戻ると、父親が驚いた。母親には義父が危篤だと昨夜に知らせておいたのだが、よく伝わっていない風だった。孫の顔を数年ぶりに見て母親は喜んでいたし、ほとんど耳が聞こえない父親はニコニコしているだけだった。

実家でシャワーを浴び少し寝て息子と病院に戻ると、神奈川に住んでいる義弟が家族全員で戻っていた。中学と高校を卒業したばかりのふたりの息子がいる。大阪で勤めている義妹の娘たちも戻っていた。その他に義父の弟夫妻やカミサンの従姉妹もきていて、病室がいっぱいだった。教師をしている義妹の夫と僕は、病室の外で待つことにした。

義父のベッドを囲んでいるのは血のつながった娘ふたりと息子、それに六人の孫たちだった。「子供たちと孫たちが全員揃ったね」と僕が口にすると、カミサンがうなずくように首を動かした。全員で、義父の臨終を見守っている。不意に、僕は黒澤明監督の「赤ひげ」(1965年)のワンシーンを思い浮かべた。

主人公の保本登(加山雄三)が赤ひげ(三船敏郎)に命じられ、初めて患者(藤原鎌足)の臨終に立ち会うシーンである。義父の姿を見ていて、その藤原鎌足の姿が甦ってきたのだ。僕は今まで映画やドラマの臨終シーンをたくさん見たが、実際に立ち会ってみると黒澤映画のリアルさがよくわかった。僕は改めて黒澤明監督の観察力と演出力に感心した。

患者の死後、娘(根岸明美)が子供を連れて赤ひげを訪ねてくる。父親の不幸だった生涯を語り「おとっつぁんは...苦しまなかったんですよね」と問うと、「安らかな最期だった」と赤ひげは告げる。その瞬間、保本登はハッとしたように赤ひげを見るが、娘は「そうじゃなきゃ、おとっつぁんが可哀想過ぎます」とむせび泣く。

保本登には、患者が苦しい息をしながら死んでいったと見えたのだ。そして、赤ひげが娘の気持ちを思いやり嘘をついたと思ったのだろう。しかし、昔から僕はあのシーンの藤原鎌足には荘厳なイメージしか持っていない。僕には、苦しんでいるようには見えなかった。人の臨終の厳粛さだけが伝わってきた。だから「立派な奴が...また死んだ」という赤ひげのセリフが印象に残った。

●実家を閉め出され病院に帰るしかなったのは...

深夜になり、二晩続いての付き添いで義母が疲れただろうと、義弟一家と一緒にカミサンの実家に帰ることになった。娘は、おばあちゃんが心配だから一緒にいくという。息子は病院に残ると言い、僕は一度帰って寝てくることにした。ひとりでタクシーを呼び、20分ほどの実家に戻った。早朝に帰ることになるかもしれないので、実家の門扉の鍵と玄関の鍵は借りておいた。

ところが、コンビニの前でタクシーを降り、寝酒用にウィスキーのポケット瓶と水を買って、実家の門扉を開け玄関の鍵をまわしたまではよかったが、玄関ドアを引くと15センチくらいのところでガチャという音がして止まってしまった。チェーンではない。ホテルのドアに付いているような二本レールになったストッパーがかかっていて、それがロックされたのだ。

父親は習慣になっていて、内側の二本レールのストッパーをかけたのだろう。そのため開くことも閉めることもできなくなった。狭い隙間に手を入れてもロックは外せない。両親が寝ている部屋の窓をどんどんと叩いたが起きる気配はない。ふたりとも耳が遠いのでこれ以上やっても無駄だと思い、兄を起こすのも気が引けて病院に帰ることにした。

携帯電話に残っていた電話番号に掛けてタクシーを呼び、病院に戻るとカミサンが「どうしたの?」と訊く。「オヤジがいつも通り、ドアチェーンをかけていて入れない。どんどん叩いてたら隣の家が起きそうだったから」と言い訳をして、食堂に入りポケット瓶を呷って水を飲み、またパイプ椅子を並べて横になった。

看護師さんが呼びにきたのは、6時半を過ぎた頃だったろうか。その少し前に義弟夫婦はみんなの朝食を買いに出ていたので、病室にいたのは義妹とカミサンと息子と僕だった。院長がやってきて脈を取り、まぶたをめくって確認する。やがて「6時48分です」と宣告した。「皆さん、揃って会えたから、ご本人も喜んでいるでしょう」と続けた。息子が義父の頬を撫でていた。

突然、カミサンが泣きだした。涙が止まらなくなった。父親の思い出があふれるように湧き起こってきたのだろう。同じように泣いている義妹の背中を撫でながら「ありがとね、ありがとね」と言い続けていた。三人の子供たちの中で義妹だけが郷里で教師になり、ずっと年老いた両親を見てきたのだ。

その姿を見ていたら、瞬間、ふたりの40年前の面影が重なった。義妹は中学生で、カミサンは高校生だった。そんな面影を甦らせながら、オヤジが間違ってドアチェーンをかけておいたおかげで義父の臨終に立ち会えたんだな、と僕は思った。後に、カミサンには「おとうちゃんが呼んだのよ」と言われたが、確かにそうだったのかもしれない。

●義父の葬儀を経験した伊丹十三が制作した初監督作品

伊丹十三監督が「お葬式」(1984年)という映画を発想したきっかけは、義父に当たる宮本信子の父親が亡くなり身内の葬儀を経験したからだという。その個人的体験を元に仕上げた映画はヒットし、伊丹十三は俳優より監督として名を残した。僕の世代では、伊丹一三(後に十三と改名)は個性的な俳優であると同時に、才能あふれるエッセイストという印象が強い。

「お葬式」は、まさに私映画のような展開を見せる。実際に鎌倉の伊丹邸を舞台にしているし、主人公を演じた山崎努は伊丹十三本人を連想させる設定だった。妻は宮本信子が演じている。あまりに伊丹さん本人を連想させるものだから心配になったのは、主人公の若い愛人が弔問にきてセックスをねだるくだりである。そのシーンのモンタージュも伊丹流のイタズラが印象に残った。

初めて身内の葬式を出すときには、誰もが戸惑う。「お葬式」を見て、僕はお葬式の裏の大変さを実感した。葬儀にはいろいろなしきたりがあり、みんなで教則ビデオを見て挨拶を練習するシーンは妙なおかしさがあった。今回、それが人ごとではなくなった。喪主は義弟だったが、僕は長女の夫である。何かにつけて故人の子供たちで相談することになるが、僕も当然、そこに立ち会う。

お通夜があり、告別式があり、火葬があり、初七日がある。それを二日間で行うのだ。葬儀社の人の説明を聞くと、香川県だけの風習やしきたりがあるという。僕は自分の名で生花を出すことにしたが、僕の実家の両親は「盛り籠にしたい」と言う。「盛り籠って何?」と訊いたら、お菓子や乾物など実用的な供物で、葬儀の後に参列者たちに分けるのだという。

告別式では呼び出し焼香になるという。焼香する人の名前を読み上げるのだ。僕もずいぶん通夜や告別式に列席したが、そんなことをやっているのを見たことはない。「県外の人は驚きますが...」と葬儀社の人が言う。「来賓焼香」「止め焼香」など、初めて聞く言葉が飛び交った。それに僕は初めて黄色と白の水引の香典袋を見た。

●「おくりびと」の納棺の儀式は2時間近くかかった

遺体が斎場に運ばれた後、お通夜までには納棺の儀式があった。「おくりびと」(2008年)で有名になった、あの儀式である。何年か前に「納棺夫日記」という本が話題になったことがあるけれど、それが「おくりびと」の発想の元になっているらしい。「納棺夫」という職業は、あれで有名になったのだ。

お通夜の前、午後2時にその人たちはやってきた。20代らしい若い女性と30過ぎに見える男性である。白いシャツに黒いエプロンをしていた。ふたりとも厳粛さを失わず、言葉遣いははっきりしている。これから行うことを事前に説明し、動きはメリハリが利いてきびきびしていた。確かに「おくりびと」で描かれた雰囲気だ。

やがて湯灌のために、大きな介護用のバスタブを畳の部屋に持ち込んできた。お湯をどうするのだろうと思っていたら、広間の隅の壁の一部を開くと給湯用のバルブがあり、そこにシャワーホースをつないだ。義父は大きな人だったから重いだろうに、ふたりで義父の躯を隠したままバスタブに寝かせた。

大きなバスタオルを義父にかけ、その上からシャワーを注ぐ。女性が足から丁寧に洗ってゆく。男性が髪を洗い、顔を洗い、髭を剃り、アフターシェーブローションを付ける。その間、義父の躯は隠している。慣れているとはいえ、見事な手際だ。給湯用の横に排水用のバルブもあり、バスタブから湯を吸引した。

着替えが終わり、化粧が終わった。納棺は身内が行うのだという。義父が横たわる下に取っ手がついたマット状のものが敷かれていた。頭の部分の取っ手を義弟が持ち、胸の部分の取っ手を僕が持った。腰の部分をカミサンが持ち、足の部分を義妹が持ち上げ、四人で義父を棺に納めた。

すべてが終わって、納棺を担当したふたりが深々と頭を下げて去った後、全員が「やっぱり映画の通りなのね」と感慨深げにつぶやいた。「おくりびと」は、それほど多くの人に知られていたのだと改めて僕は思った。あの映画は気取りのない、とてもいい映画である。「死」というものを、深刻ぶらずに見る人に考えさせるのだ。

そのとき、僕は「おくりびと」は「お葬式」にインスパイアされた作品ではないのか、と気付いた。どちらにも山崎努が出ている。「お葬式」の教則ビデオを真剣に見るシーンに笑ったが、「おくりびと」にも納棺の仕事を解説する教則ビデオが登場する。主人公(本木雅弘)が遺体の役をやっていた。厳粛ではあるが、笑ってしまう設定である。

さて、義父は大きな人だったと改めて感じたのは、棺を霊柩車に乗せるときだった。棺は一番大きなもので、重かった。お見送り用のホールがあり、見送りの人々の前を棺がゆっくり通っていく。最後の数メートルだけ、数人の男たちが棺を持ち上げて霊柩車に滑り込ませる。僕と息子は棺を持ち上げた。

そのとき、会場内にアナウンスが流れた。カミサンに言われて僕が書いた義父の人柄やエピソードを、葬儀社の女性がアレンジして読み上げたのだ。その最後のエピソードが流れたとき、一瞬、横にいた息子がはにかんだような顔をした。僕も胸が詰まる思いで、息子が生まれたときの義父の顔を思い浮かべた。

──長女の......様に初めて男の子が生まれたとき、お父様は夫の進様に深々と頭を下げられ、「本当に...ありがとう」と初孫を得た喜びを伝えられたそうでございます。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951
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今回でこのコラムも500回を迎えました。ちなみに4月30日から東映系全国大公開中の「これでいいのだ!! 映画★赤塚不二夫」は、呑み仲間である佐藤英明監督の初監督作です。僕も少年サンデー編集者の堀北真希とマガジン編集者のバトルの背景で、黒縁メガネをかけたキャバレーの客の役で出ています。数カット、数秒ですが、見付けてください。

●306回〜446回のコラムをまとめた「映画がなければ生きていけない2007-2009」が新発売になりました。
< http://www.bookdom.net/suiyosha/1400yomim/1447ei2007.html
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●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
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