映画と夜と音楽と...[504]血は水よりも濃い?
── 十河 進 ──

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〈沈まぬ太陽/青春デンデケデケデケ/花嫁の父/可愛い配当/儀式〉

●出発ロビーから見ると飛行機が妙に小さく見えた

義父の四十九日の法要が4月末にあり、四国高松まで飛行機に乗った。到着時間がちょうどいいのでJALを選んだのだが、予約したときと飛行機が変わったらしく指定した席が変更になっていた。

出発ロビーから見ると飛行機が妙に小さく見える。「いつも乗るのより小さいね」とカミサンに言ったら、「満席だって言ってたけど、予約客の数に合わせて飛行機を変えたんじゃない」と言う。

乗り込んでみると、いつも乗る機種は両側に2席、2本の通路に挟まれた真ん中のブロックに3席、合計で横一列に7席ある大きさなのだが、その飛行機は通路が中央にひとつで左側に2席、右側に3席、つまり横一列に5席しかなかった。

それがおそらく50列あり、合計で250人乗りのようだった。「この狭さはYS11を思い出すなあ」と、まだ旧高松空港にプロペラ機しか降りられなかった頃に乗った飛行機を思い出した。



JALは空席を残して飛びたくなかったのかもしれない。そのために予約客の数に合わせて、飛行機を小さいものに変えたのだろう。無駄をなくす。それが現在、会社を再生するための日本航空の努力なのだと思う。

ほとんど国営企業だったJALの経営破綻は、最近の大ニュースだった。しかし、JALが経営危機になり、その影響力が弱まらなかったら、「沈まぬ太陽」(2009年)の映画化は実現できなかっただろう。そんなことを思った。

もう3、4年前になるだろうか、新宿ゴールデン街「深夜+1」のカウンターに入っていた匡太郎くんに「沈まぬ太陽」が映画化される話を聞いたとき、「映画化は無理なんじゃない。何度かそんな話があったけど、その都度、日本航空からクレームが入って実現できなかったって話じゃない」と僕は言った。

実際、それは映画界では有名な話だった。真偽はわからないが、日本航空の関係者たち、その利権に群がった政治家たちの圧力によって、「沈まぬ太陽」の映画化は何度も潰されてきたという。

「白い巨塔」「華麗なる一族」「大地の子」など、出せばベストセラーになる山崎豊子の小説は、ほとんどが実話をベースにしている。新聞記者出身の山崎豊子は取材をしてフィクションの形で仕上げるのであるが、モデルが歴然としているのでときに訴訟にまで発展する。

昔、「沈まぬ太陽」はモデルになった人物がマスコミのインタビューに答えたりしていたが、敵役にされた日本航空(小説では「国民航空」となっている)側は山崎豊子の取材が一方的だと主張していた。

「沈まぬ太陽」の中でも描かれていたが、日本航空には政界の利権がいろいろあるらしく、官僚や政治家の関与も噂されており、フィクションとして描かれても不愉快に思うエスタブリッシュメントの人々は多いのだろう。

映画化に際しての圧力は、相当にあったと想像できる。それも最近では弱まったのか、とうとう映画化が実現してしまった。しかし、制作サイドの話を聞くと、裏ではいろいろと大変なことがあったらしい。

「沈まぬ太陽」には、匡太郎君がフォース助監督として付いた。撮影は一年以上かかったらしく、「深夜+1」では「匡太郎は苦労してるらしいよ」という噂ばかりを聞いた。

主人公は労使交渉の場でストライキを背景に経営陣に要求実現を迫ったために疎まれ、不当配転で十数年も海外勤務につかされる。それもアジア・アフリカばかり。当時としては僻地のような勤務地だ。だから、海外ロケが大変だったらしい。

それでも「沈まぬ太陽」は完成し、高い評価を得た。もう一昨年の暮れになるだろうか、日本冒険小説協会の忘年会で久しぶりに匡太郎くんに会ったとき、「キネ殉ベストテンで、いいところにいきそうじゃない」と言うと、「でも、『劔岳 点の記』がありますからねえ」と答えた。

そのとき、匡太郎くんはすでに次の作品「SP野望篇」の助監督に就いていて、岡田准一の肉体の鍛え方の凄さ(ある格闘技のインストラクターの資格を取得したそうだ)について話してくれたものだった。

●菊池寛の生家がある通りが「菊池寛通り」と名付けられていた

いつもより小さいジェット機だったけれど、天候がよかったせいで、ほとんど大きな揺れもなく、僕は一時間ほどをうとうとしながら過ごし、午前中に高松空港に着いた。晴天だった。

そのままリムジンバスで高松市内に入り、四十九日の法要を行う寺の近くで降りた。中央公園の前である。菊池寛の生家がある通りがいつの間にか「菊池寛通り」と名付けられていた。中央公園には、昔から菊池寛の銅像が建っている。

ブラブラ歩いていると昔の県立図書館の横に出た。向かいが香川県庁より立派な高松市役所である。そのまま母校の高松高校の方へいき、目に付いたうどん屋に入ってかけうどんと天ぷらを食べた。

天ぷらと言っても、こちらでは白身魚の練りもののことだ。関東で言うさつまあげに近い。カミサンと息子の3人でお腹いっぱい食べたのに、お代は1000円。とにかく、さぬきうどんのセルフサービスの店は安い。

高松高校は、僕とカミサンの母校だ。僕らが通っていた頃のままの正門は残っていたが、昔、校舎だったところはグラウンドになっていた。昔のグラウンドの場所に新しい校舎を建て、旧校舎を潰してグラウンドにしたのだろう。学校の地下が公営駐車場になっていた。

旧校舎は戦前、向田邦子も通った時代のものだと聞いた。戦前は県女と呼ばれた女学校で、戦後、高松中学と合併して高松高校になった。向田邦子が通ったのは県女時代の話である。菊池寛が通った頃の高松中学は、確か、現在の工芸高校だったと思う。

ずいぶん様変わりしていたが、40年以上も昔、3年間通った高校は懐かしい。学校の塀沿いに歩いていると、妙に鮮明な記憶がよぎる。隣を歩いているカミサンが何を考えていたのかはわからないが、16歳の頃のカミサンの姿も浮かんできた。別人である(こちらも同じではあるけれど...)。

ここではいろんな出来事があったけれど、結局、あの3年間だけの短い期間のことだったのだ。「記憶の世界は薄暮の中を見渡している感じがする」と誰かが書いていたが、そのときの僕には鮮明でリアルな記憶が甦っていた。

高校時代を回想する青春映画は多いが、僕が好きなのは「青春デンデケデケデケ」(1992年)だ。原作者は団塊世代だから時代性もよくわかったし、舞台が西讃(香川県の西側)で言葉が讃岐弁だったため身近に感じたのかもしれない。もっとも僕の両親は東讃出身で、西讃の讃岐弁が微妙に違っているのが、かえって気になって仕方がなかったのではあるけれど...

その「青春デンデケデケデケ」も懐かしい映画になってしまった。もう20年近く前の作品だ。主人公のバンド仲間で音楽的才能にあふれた白井少年を演じた浅野忠信は、今や日本を代表する映画俳優になった。太宰治(「ヴィヨンの妻桜桃とタンポポ」2009年)や赤塚不二夫(「これでいいのだ!! 映画★赤塚不二夫」2011年)など、最近は実在の人物を演じることが多い。

それにしても四十九日法要のお寺がなかなか見えない。カミサンは「もう少し」と言うが、法要の打ち合わせにきたときは義妹の車での移動だったらしく、徒歩で歩くとかなりあった。やがて立派なお寺が見えてきた。

広い本堂に入ると、畳の部屋だが背の低い椅子が並べられていた。子供の頃、法事と言えば正座させられるのがイヤだったけれど、今は大人たちも椅子に座ってお経をあげるようになっていた。

●義父の四十九日の法要の翌日は姪の結婚式だった

身内だけの四十九日の法要が終わり、会食をして解散になったのが5時だった。カミサンは義妹と義弟と相談があるというので、僕は息子とブラブラと高松駅まで歩くことにした。相談が終われば、義妹がカミサンを車で高松駅へ送ってくれる。翌日、僕の姪の結婚式が大阪であるため、その日のうちに大阪に入らなければならないのだ。

歩き始めると、そこここに昔ながらの町並みが残っている。休日で人通りが少ないので、じっくり観察できた。道は広くなっているが、狭い路地に入ると昔の漁師町の雰囲気がある。おそらく埋め立てで海が遠くなったのだろう。

僕が子供の頃は、その辺は漁業が中心だったし、その日の朝に獲った魚を仕入れた人たちが自転車の横付けに乗せて売りにきた。「横付け」と僕らは呼んでいたが、自転車に付けるサイドカーのような木製の荷台で、そこに魚を入れたモロブタ(これは讃岐独特の言い方かも?)のような箱を重ねていた。

高松駅でカミサンと落ち合い、瀬戸大橋を通って岡山駅に着いた。そこから最速の新幹線に乗ると、新大阪までは一時間もかからない。新大阪から地下鉄の御堂筋線に乗り換えて、心斎橋に着いたのは夜の8時を過ぎた頃だった。

一日のうちに飛行機と新幹線に乗ったのは初めてだったし、それだけの移動距離も初体験だった。心斎橋の地上に出ると、大阪の中心地らしい賑やかさである。大通りの裏に入ると、予約をしたホテルがあった。兄夫婦と母親は、すでにチェックインしていた。

詳しいことをまったく聞いていなかったのだが、結婚式の招待客は両家の身内だけだという。来賓も友人も呼んでいないらしい。義姉にそんなことを確認したカミサンが「それだったら、叔父さんが挨拶するのは仕方がないわね」と言う。ずいぶん以前から結婚式の挨拶を頼まれていたのだが、僕はグズグズと「普通は来賓なんかがやるんじゃないか」と言っていたのだ。

姪の身内で参加するのはふたりの姉と両親と祖母、叔父夫妻と従兄弟(僕の家族)、叔母と従姉妹ふたり(義姉の妹の家族)の11人だけである。姪と彼女のふたりの姉は大阪生まれの大阪育ちで現在も大阪に勤めているが、その両親である僕の兄夫婦はリタイアして四国に引き込んでしまった。

皆、遠方からの参加だから遠い親戚は出席していない。仕方がない。その顔ぶれなら、僕が親戚代表の挨拶をするしかないのである。一応、挨拶は考えていた。最初は「映画ネタ」でいこうかと思ったが、「結婚」にまつわる映画やシーンはやたらに多いけれど、結婚式の挨拶に相応しい作品が浮かばない。

結婚式から花嫁を連れ出す「卒業」(1967年)は論外だし、「晩春」(1949年)「秋刀魚の味」(1962年)など、小津安二郎は娘の嫁入りの話をいくつも作ったが、結婚式で使えるようなネタではない。スペンサー・トレイシーの「花嫁の父」(1950年)とその続編「可愛い配当」(1951年)は結婚式向きなのだけど...。

今回の場合、花嫁の父は僕の兄だから兄についての話を披露し、子煩悩で3人の娘を育て上げ、今回初めて娘を嫁に出す彼の喜びとさみしさについて「いかばかりであろうか」と芝居がかって喋り、最後のオチとして「早く可愛い配当(孫のこと)を...」と言って締める。

そんなことを考えてみたが、その2本の映画で花嫁を演じたのは若きエリザベス・テイラーであり、そのリズが先日亡くなったばかりだったことに思いが至り、ウーム、やっぱりやめておこう、と僕は腕を組んだ。

結局、困ったときの吉野弘さん頼みだった。僕は「吉野弘全詩集」の中から「祝婚歌」という詩を探し出し、挨拶のほとんどを詩の朗読でごまかすことにした。吉野弘さんの詩は冠婚葬祭に適したものが多く、友人として結婚式のスピーチを頼まれたときに吉野弘の「身も心も」を朗読した話を、ある人から聞いたことがある。

●冠婚葬祭でしか会わない一族に血のつながりを感じた

「儀式」(1971年)という映画があった。大島渚監督のATG(アート・シアター・ギルド)作品である。ひどく観念的でむずかしい映画ばかり作っているなあ、というのが、当時、僕が抱いていた大島渚のイメージだったけれど、「儀式」は妙にわかりやすい作品になっていた。

その後、「愛のコリーダ」(1976年)「愛の亡霊」(1978年)の性の世界へと大島渚はシフトしていくのだが、それまでの観念的な大島作品の集大成のようなポジションにあるのが「儀式」である。

「儀式」という映画のコンセプトは「冠婚葬祭を通して、ある一族の歴史を描く」ということだった。映画の制作発表の記事で読んだ記憶がある。その一族の歴史を昭和の歴史に重ねて描くのが、いかにも大島渚らしいなあ、と思ったことを憶えている。

主人公(河原崎健三)は満州で生まれ、満州男と名付けられる。一族の長で旧家の権力者を佐藤慶が演じていた。人間関係は複雑で、妾腹の兄弟などもいて、一度見ただけでは誰と誰がどういう関係かよくわからない。

それでも、一族の歴史を冠婚葬祭だけで描くコンセプトには感心した。この2ヶ月ほど、僕も冠婚葬祭ばかりやっていた気がする。葬については四十九日の法要はすませたが、一年したら一周忌の法要があり、その後もずっと続いていく。

この歳になって初めて身内の葬儀を経験したが、今まで関心を持たなかった事柄が身近なものとして迫ってきた。こんな風にして人は血族を感じながら、ずっと生きてきたのだなあ、と妙に感慨深いものがあった。

親族親戚だと言っても、冠婚葬祭でもないと会う機会はない。僕もカミサンも親族親戚は香川県に集中しているが、大阪、神奈川、東京にも散っている。それぞれの子供たちが小さい頃はまだ交流があったけれど、姪や甥が大人になるとほとんど行き来がなくなった。

今回、結婚式を挙げた姪に会うのは、20年ぶりだった。義姉が3人の姪を連れて、ディズニーランドにきたとき以来だと思う。姪も「ディズニーランドにいったときのことは、よく憶えている」と言っていた。

それだけ長く会っていなかった姪だが、血のつながりというのは不思議なもので、顔を合わせた瞬間、何かが通い合う。同じ血が流れているのだという感覚が、一瞬で実感として湧き起こる。スレンダーで背が高い。

小学生だった姪が成長して、僕より身長が伸びたうえにヒールのある靴を履き、白いウェディングドレスに身を包んでいる。まるで宝塚の男役みたいだ、というのが最初の印象だった。やがて、我が一族にもこういう血が流れていたのか、という思いが浮かんだ。だから、僕はスピーチの頭でついこんなことを口にした。

----私には大阪に3人の姪がいるのが自慢でしたが、叔父らしいことはなにもせずに30年が過ぎてしまい、少し後ろめたく感じておりましたが、本日、20年ぶりに会い、美しく育った...子を見て、誇らしい気持ちでいっぱいです。

その後、僕は吉野弘さんの「祝婚歌」を読み上げた。好評だった。父は高齢で出席はしなかったが、母は初めての孫の婚礼にはしゃいでいた。リタイアした兄は花嫁の父の風格を見せ、成人した姪たちはすっかり大人の女だった。年を重ねて、僕も一族の血を意識するようになったのかもしれない。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951
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早くも梅雨入り。被災地の様子をニュースで見るたびに心が沈む。友人のカメラマンが数日、仕事の休みを使ってボランティアにいった。何もできない己を情けなく思うが、せめてもの東北支援を...と言い訳をしながら、東北の酒や食べ物を消費している。酒呑みの自己弁護である。

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