映画と夜と音楽と...[506]人と比べたって意味はない
── 十河 進 ──

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〈893愚連隊/トト・ザ・ヒーロー/いとこ同志〉

●「鈴姫」と「アイコ」というミニトマトを植えた

ふとした気まぐれだったのだが、四月にカミサンにつきあって園芸店へいったとき、ミニトマトの苗が目に止まり、つい買ってしまった。「鈴姫」と「アイコ」という品種だった。どちらも200円前後の値段だったと思う。

その苗の横に、トマト用の肥料も売っていた。三つの袋に別れていて、最初に植え付けるときに敷く肥料、三週間経って苗の近くに埋め込む肥料、八週間後に与える肥料となっていた。「これでしっかり育ちます」とあったので、それも購入した。

帰宅すると、ベランダ・ガーデニングの先達であるカミサンが、大きな園芸用の土が入った植木鉢を出してくれた。何も植わってはいない。車輪の付いた台に載っているので、大きくて重い植木鉢だがベランダを滑らせるように移動できる。

その植木鉢の二カ所を掘り起こして、トマトの苗を植え付けた。苗同士は20センチほどしか離れていない。少し近いかと思ったが、その植木鉢に苗を二つ植えるには、それが限度だった。

最初の頃、水をやりすぎてカミサンに「根が腐るわよ」と注意されたが、その後、何とか順調に育ち、買ってきたときよりずいぶん大きくなった。鈴姫の方は、一段目の花にトマトの実が付き始め、二段目にも小さな房ができている。

三段目はまだ小さな花だが、いくつか実が付きそうな形で育っていた。高さは50センチを超えた。初めて脇芽を植木バサミでカットしたときは緊張したが、最近は慣れてきた。植木鉢を回転させて、細かく観察して脇芽が大きくならないうちに刈っている。


心配なのは、アイコである。鈴姫より10センチは高く育っているのに、実がなかなか付かない。先日、ようやく高い位置に一段目の花が出てきた。黄色い花が咲いて、少しトマトらしい形のものができたのだが、せいぜい直径5ミリである。

その一段目の花から20センチも上にようやく二段目の花が出てきた。三段目になると、まだまだ花とはわからない状態だ。ふたつの苗をもう少し離して植えた方がよかったのかもしれない。

詳しい人に聞くと、直径30センチ、深さ20センチほどの植木鉢にトマトの苗をふたつ植えるのは、ちょっと無理があったらしい。ひと株につき15リットル以上、できれば20リットルくらいの土で育てるのがよいという。

だとすると、今、僕が植えている鉢にはひとつの苗用くらいの土しかない。今の状態は、ふたつの苗が養分を取り合っている状態らしい。「どちらか強い方が先に実を付けるのね」とカミサンが言う。「収穫の時期がずれていいじゃない」と彼女は続けて言った。

だとすると、明らかに鈴姫が先行している。鈴姫の一段目の花には、もう直径2センチ以上のトマト状のものができている。まだ緑色だが、明らかにトマトである。ミニトマトの苗なので、いくら育っても直径5センチくらいのものだろう。もう50パーセントほどには育っているのだ。

それに比べると、アイコは身長ばかり伸びて、まるで実を結ばない。しかし、それって種別の差もあるし、そもそも同じ種類だったとしても、やはり個体差があるんじゃないだろうか。早熟なタイプもあれば、晩成型もあるのだろう。

●「ナンバーワンになるために懸命にがんばる」美学を支持するが...

僕はスマップの歌を熱心に聴くリスナーではない(Jポップ自体をあまり聴かない)が、彼らが歌う「世界に一つだけの花」は大ヒットしたこともあり、いつの間にか歌詞の内容も憶えてしまった。

最初に耳にしたときは「なんだか説教くさい歌だなあ」と思ったのだけれど、次第に耳になじんできて「それなりに説得力のある歌詞ではあることよ」と納得した。道を歩いているときなど、さびの部分が浮かんできて、口ずさみそうになることもある。

「ナンバーワンではなくてオンリーワン」というのは、ある意味で楽な考え方だと思う。「がんばらない」という言葉が、積極的な意味を付与されて流行る世の中の流れには合うのだろうが、僕はそのどちらの風潮も全面的に認める気にはなれない。少し違う気がする。

古いのかもしれないが、「ナンバーワンになるために懸命にがんばる」美学を僕は支持する人間だ。結果として別にナンバーワンにはならなくてもいいけれど(そういうスタンスは持っているつもりだけど)、人が夢に向かって努力する姿は、この世の中で僕が好意を持つ数少ないものの上位に位置する。

だからといって「ナンバーワンでなくてオンリーワンでいい」と考えて、「がんばらない」でマイペースで生きている人を否定しているわけではない。人それぞれ...、というのが僕の他者認識の基本姿勢である。干渉する気もないし、説教する気もない。自分の価値観と他人の価値観は違うことをわかっているつもりだ。

それに、人の生き方をとやかく言えるほど立派な生き方をしてきた自覚はないし、自惚れてもいない。確かに仕事では甘ったれた人間と組むと苛立つこともあるが、自分の仕事さえきちんとしてくれればいいのだ。甘ったれたことを言えば否定するし、意見をする。ときには叱る。

その人が「がんばらない」ことを信条とし、「僕はオンリーワンでいいんです」と言うのなら、他人に迷惑をかけない範囲でそのように生きていけばいいと思う。もっとも、「ナンバーワンでなくてオンリーワンでいいんだよ」とか、「無理してがんばらなくてもいいんだよ」というのは、人を慰める言葉である。

それらは、精神的に楽にさせようとする言葉だ。この言葉を慰めではなく、生き方のポリシーとしている人がいたら、それはそれでなかなかのものではないか。そういう生き方を選択したうえで、甘えず自立して生きている人がいたら、僕は好意を持つ。立派だと思う。

若い頃の僕は「根性」という言葉が嫌いだった。「ド根性」という言葉には、その響きの下品さに嫌悪さえ感じた。「巨人の星」や「柔道一直線」といったスポ根(スポーツ根性)もの全盛時代に青春を送ったから、余計にそんなことに反発したのだろう。その頃の僕が「世界に一つだけの花」を聴いたら、我が意を得たり、と叫んだかもしれない。

僕は、市川崑監督がテレビシリーズとして撮った「丹下左膳」の中で、小悪党役の尾藤イサオがいつも口にしていた「へらへらへったら...へらへらへ」という言葉が気に入った。権威や権力や強いもの、あるいは世間一般に流布されている規律をバカにするニュアンスがあった。

また、「意気がったらアカン、ネチョネチョ生きるこっちゃ」という「893愚連隊」(1966年)の荒木一郎のセリフにも共感した。肩の力を抜く、力まない、意気がらない...、そういう姿勢がかっこいいと僕には思えた。ガツガツと上昇志向を丸出しにした同級生たちが、どうしようもない俗物に見えた。

だから、高校時代は受験勉強に励む俗物の優等生たちに反発して、まったく勉強をしなかった。レコード屋と本屋を巡って時間を潰し、生徒指導の教師の巡回に怯えながら映画館に潜み、喫茶店で制服の上着を脱いで(この辺が小心者の証ですね)タバコを吸った。

しかし、今にして思えば、それはやりたくないことをやらなかっただけで、「上昇志向を丸出しにした同級生たちへの反発」などというのは、言い訳でしか過ぎなかった。僕は、単なる怠け者だったのだ。好きな本を読み、好きな音楽を聴き、好きな映画を見るだけの...。

授業をさぼり、赤点を取り、模擬試験では一学年780人中で740番の成績だった。何も努力しないでも書けた作文が教師に誉められ、それだけで自尊心を保っていた。劣等感にさいなまれていたのに自惚れが強く、自意識過剰で卑屈な顔をしたイヤな奴だった。

●愚かさの真ん中にいるときはあることが人生で大切なことに思える

高校生の頃、僕に強い影響を与えた男がいた。早熟な男で、僕はその男から様々なことを教えてもらったし、多大な影響を受けた。カリスマ性のある男で、追従者は多かった。高校紛争の時代で、その男は教師と論争し、見事に論破した。弁が立ち、見かけも立派で、ひとつひとつの行動に自信が充ちあふれていた。

受験校の中で同級生たちを斜に構えて見ていた僕だったが、ひどい劣等感に悩まされていたのが実情だった。だから、その男の圧倒的なかっこよさに惹かれたのだろう。もちろん、自分自身に恃むところもあったから、その男に反発する気持ちもときには生まれたが、それは劣等感の裏返しだった。

不幸だったのは、その男と僕の志向および嗜好がよく似ていたことだった。映画や小説に熱中し、書くことが好きだった。結局、僕は一浪してその男と同じ大学の同じフランス文学専攻コースに入り、大学時代は一緒に同人誌を作った。僕は、その男の書くものに感心し、さらに劣等感を募らせた。

その男は女性によくもてたし、実際、女たらしでもあった。20歳前後の男たちが異性に対してどんなことを考えているか、今の僕から振り返れば愚かな時代だと思うが、その愚かさのど真ん中にいるときには、それが人生で最も大切なことのように思えるのだ。

僕は自意識過剰なくせに臆病で、女性とはうまく付き合えなかった。ろくに口もきけなかったのだ。それに、高校時代から付き合っている女性(今のカミサンだけど)がいて、その人以外に目を向けることを裏切りだと思っていた。そのくせ、その男が女性にもてるのを僕は羨望の眼で見ていた。

その男は出版業界でも最大手の会社に入社し、ある月刊誌に配属になった。翌年、僕は社員数で言えば、その男の会社の二十分の一のスケールの専門誌出版社に潜り込み、同じ業界で働くことになった。同じ業界にいて、ときどき顔を合わせていれば、どうしてもスケールの違いを思い知らされることになる。

結局、あることをきっかけにして、僕はその男とまったく会わなくなった。それでも、彼の動向を気にしていたのは間違いない。10数年が過ぎて、ある朝、僕は朝刊の文化欄でにこやかに笑う髭を生やしたその男に出会った。大きな写真で、男は話題の雑誌の編集長としてインタビューを受けていた。

少し前から、その雑誌が評判になっているのは知っていたし、「東京人」という雑誌の書評鼎談で丸谷才一さんがその雑誌を話題に取り上げていたことが印象に残っていたのだ。たぶんあの男が編集しているのだろうと予想していたが、それが事実だと知らされて僕の気持ちは乱れた。

その前日、僕は初めて編集長の辞令をもらったのだ。それまで副編集長の肩書きで「実質的にはきみが編集長だ」と言われていたが、実際に編集長の辞令をもらってみると、感慨深いものがあった。30代最後の年だった。それまでの編集長と比べると、決して早いほうではなかった。

その翌日、僕はその男が注目雑誌の編集長であることを知らされたのである。読みたくはなかったが、僕はその記事を読まずにはいられなかった。僕が担当する雑誌は隔月刊で、スタッフは他に三人しかいなかった。部数は、彼が担当している月刊誌に比べると三十分の一だった。

●「トト・ザ・ヒーロー」の不幸はひとりの男に捉われ続けたこと

編集長になって一年ほど経った冬、僕は「トト・ザ・ヒーロー」(1991年)を見た。そのひと月ほど前に、僕は40歳になった。ああ、40代だなあという気分は濃厚にあったが、何かが変わったわけではない。子供は10歳と7歳で、家のローンは30年残っていた。

「トト・ザ・ヒーロー」の主人公にとって不幸だったのは、生涯、ひとりの男への気持ちに捉われ続けたことだ。自分と同い年(同じ誕生日)の隣の金持ちの家の子を羨み、その男の呪縛から逃れられないまま死期を迎えたことである。彼は幼い頃には、自分が隣家の子で産院で取り違えられたのだと夢想する。

彼にとって隣の息子は敵だ。自分の世界から抹殺したい存在だ。それなのに、愛する姉はその息子と付き合い、主人公が成人して恋に落ちた相手は、その男の妻だった。そして今、施設で死を待つばかりの老人になった主人公は、財界で成功した隣家の男のニュースを見る。老人は、その男に復讐するために施設を抜け出す。

その映画が身に沁みた。僕の躯の隅々まで染み渡るようだった。忘れられない映画になった。映画が終わり、僕はしばらく席を立てなかった。そのとき、僕は自分の気持ちが解放されているのに気付いた。その映画の主人公のように、他の存在に呪縛され人生を棒に振ってはいけないのだと、言葉ではなく実感として強く迫るものがあった。

そのとき、20歳の頃、あの男と一緒に名画座で見た「いとこ同志」(1959年)の映像が浮かんできた。ハンサムで洗練された都会的な遊び人のジャン=クロード・ブリアリと、田舎から出てきた野暮ったく真面目なジェラール・ブラン。彼らはいとこ同士(こちらの字が正しいと思うけど、「同志」の意味を持たせたかったのかも)である。

ジャン=クロード・ブリアリは女にもてるし、マリファナを吸ったりするような悪徳にも手を染めるタイプだ。受験のためにパリにやってきたジェラール・ブランは自分と正反対のいとこに反発しながらも、そんなブリアリに憧れている。羨んでいる。同じように生きられない自分に苛立っている。

そんなふたりの感情が、鮮烈で斬新な映像で描かれていた。自分と同じような年ごろの青年たちの物語が僕の心を動かした。田舎臭く野暮ったいジェラール・ブランを自分になぞらえ、隣の席で映画を見ている男がブリアリに思えた。だが、そう思うことによって、僕はさらに傷ついていたのだ。

それから20年の月日が流れ、40歳の僕は「トト・ザ・ヒーロー」を見て、ようやく自分の劣等感やひがみ根性を直視することができた。「人と比較しても意味はない。そんなことに捉われていたら人生を棒に振る」と、「トト・ザ・ヒーロー」は僕に教えてくれたのである。

40歳を過ぎた頃から、僕はようやく自分の人生を取り戻したような気がする。気持ちに余裕ができた。自信のようなものも身に付いた。生きていれば、何かが残るのだという実感も得た。だからといって目の色を変えて「何かに向かって懸命に努力をしてきた」つもりはない。また「がんばらない」生き方をしてきたわけでもない。流れに流されてきた。

若い頃、他人が気になり劣等感に悩まされ、自分以外の人間の幻影に惑わされたとしても、人は己の人生を生きるしかない。人生に勝ち負けはない。勝ち組だとか、負け組だとか...、死んでしまえば同じことだ。真摯に生きるだけである。投げ出さず、諦めず、嘆かず、辛いときは歯を食いしばって耐え、悲しいときは涙を流し、楽しいときは満面に笑みを浮かべて、ただ生き続けていくしかない。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951
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古書店主にきてもらって、本棚ひとつ分の書籍を処分することにした。映画関係、写真関係、純文学関係である。柄谷行人、蓮見重彦などの評論集も出した。迷ったけど、石川淳センセーの初版の単行本もエイヤッと出してしまった。雑誌もいろいろあり、キネマ旬報が15年間分ほどあったのだが、引き取ってもらえず棄てるに忍びなくて改めて棚に整理した。80年代から90年代半ばにかけての号だ。読み返すと懐かしい映画ばかり載っている。

●306回〜446回のコラムをまとめた「映画がなければ生きていけない2007-2009」が発売になりました。
< http://www.bookdom.net/suiyosha/1400yomim/1447ei2007.html
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●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
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