映画と夜と音楽と...[508]日本映画を変えた男
── 十河 進 ──

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〈原田芳雄が出演した百本を超えるすべての映画〉

●Gジャンにサングラスの原田芳雄は信じられないほど若かった

6月末の朝日新聞夕刊に日本映画専門チャンネルの大きなカラー広告が出ていた。「映画に生きた女。」「映画を変えた男。」というキャッチコピーが目立った。映画に生きた女は高峰秀子であり、映画を変えた男は原田芳雄だった。「反逆のメロディー」(1970年)のGジャンにサングラスをした長髪の原田芳雄が載っていた。若い。信じられないほど若かった。

内容を読むと「俳優・原田芳雄自薦傑作選」とある。7月2日から毎週土曜日の夕方に「反逆のメロディー」「新宿アウトロー ぶっ飛ばせ」(1970年)「野良猫ロック 暴走集団'71」(1970年)「無宿人御子神の丈吉 牙は引き裂いた」(1972年)が放映されるらしい。懐かしい映画ばかりである。こんな映画がいつでも見られるよい時代になったのだなあ。

「1968年のデビューから様々な映画に出演し、激動の日本映画界を常にリードしてきた原田芳雄。本特集では、多くの出演作品からベストフィルムを自薦。その映画人生を振り返るオリジナル番組も併せて放送」とあった。昔の僕ならすぐにでも日本映画専門チャンネルと契約しただろう。もっとも、どの作品も何回か見たものばかりだったけれど...。

原田芳雄の50年を語ることは、日本映画の歴史を振り返ることに重なる。これほど日本映画の重要な作品ばかりに出演した俳優はいない。若い頃から主演でも脇役でもできたからだが、その夥しい名作群は輝かしい勲章となって彼の人生を彩っている。松田優作だって、原田芳雄がいなかったら存在してはいなかった。原田芳雄が果たした日本映画への貢献は素晴らしい。

原田芳雄の銀幕デビューは、松竹映画「復讐の歌が聞こえる」(1968年)である。しかし、僕が原田芳雄という俳優を記憶したのは1967年のことだった。渥美清主演のテレビシリーズ「泣いてたまるか」のある回に原田芳雄が登場した。調べてみると1967年10月1日に放映された「兄と妹」という回らしい。



「泣いてたまるか」は、毎回完結のドラマだった。その回は労働者の兄(渥美清)と妹(寺田路恵)の話だった。兄は妹をエリートサラリーマンと結婚させるのが夢だったが、妹が連れてきた恋人は...という話だったと記憶している。その恋人役が若き原田芳雄だった。その回の脚本は家城巳代治が書き、今井正が演出をしている。日本映画の巨匠ふたりだ。僕は、そのドラマを山陽テレビで見た。

ただし、僕が原田芳雄の熱烈な信奉者になったのは、1968年6月から2ヶ月にわたって放映された「十一番目の志士」を見たからだった。主演は加藤剛、ヒロインは栗原小巻の黄金コンビだ。僕は、その頃、「新選組血風録」「燃えよ剣」を読んで司馬遼太郎作品を愛読していたから、西日本放送で遅くに放映されていた、その時代劇を楽しみにしていた。

「十一番目の志士」で加藤剛が演じるのは、抜群の腕を持つ暗殺者である。人斬り以蔵みたいな役だ。その主人公をギラギラした目を輝かせ執念で追うのが、新選組副長の土方歳三である。その頃の僕は土方歳三役は栗塚旭以外には考えられなかったが、「十一番目の志士」で土方を演じたのは原田芳雄だった。しかし、今も記憶に刻み込まれているほど、そのドラマの原田芳雄は存在感があった。

その翌年、原田芳雄主演のテレビドラマが始まった。フジテレビ系で放映された「五番目の刑事」(1969年10月〜1970年3月)である。しかし、四国高松には系列局がなく(瀬戸内放送ができるのはもう少し後だった)、僕はそのドラマを見ることができなかった。今でも思い出すと悔しくなるくらいだが、高校生の身ではいかんともしがたかったのだった。

●舞台の床の穴から狂人役の原田芳雄が首を出して写っている

僕の手元に今でも「テアトロ」という演劇雑誌がある。1969年5月号と7月号である。新劇の専門誌だ。その5月号には「三月の舞台」というページがあり、各劇団の舞台風景が掲載されている。民藝はサミュエル・ベケット作「しあわせな日々」を奈良岡朋子主演で上演し、劇団四季はドストエフスキー「白痴」を松橋登主演で上演した。

そして、俳優座は新進劇作家・清水邦夫の新作「狂人なおもて往生をとぐ」を上演した。その見開きで紹介された舞台写真で、舞台の床の穴から狂人役の原田芳雄が首を出して写っている。その舞台美術も当時は話題になった。朝倉摂さんの仕事だったと記憶している。

改めて、その出演者たちを見ると父親役が永井智雄、母親は村瀬幸子、妹役が清水良英、弟の役が古谷一行だった。その舞台は評判になり、僕は原田芳雄を見たかったのだが、もちろん東京までいくわけにはいかない。仕方なく、赤瀬川原平が表紙の絵を描いていた「狂人なおもと往生をとぐ」の単行本を買って読んだ。

その清水邦夫の脚本集を読んだために、僕は清水邦夫がシナリオを書いた「あらかじめ失われた恋人たちよ」(1971年)を見ることになり、さらに新宿文化劇場を拠点とした清水邦夫脚本、蜷川幸夫演出、石橋蓮司・蟹江敬三出演の一連の芝居を見ることにもなった。「泣かないのか? 泣かないのか1973年のために?」とか、「ぼくらが非情の大河をくだる時」などである。

その頃、新劇という旧体制に批判的な小劇団が林立していた。有名だったのは、唐十郎率いる赤テントこと状況劇場であり、寺山修司の天井桟敷だった。さらに黒テントの自由劇場があり、白石加代子がいた早稲田小劇場があった。僕が大学に入学した年には、「三田の方でがんばっている、つか何とかいう奴がいるらしい」という噂が聞こえてきた。

そんな頃、俳優座で造反劇が起こった。劇団の体質を批判して、若手の俳優たちが一挙に退団したのである。退団した批判派の若手は、中村敦夫、市原悦子、菅貫太郎(「十三人の刺客」の暴君が有名ですね)、それに原田芳雄だった。1971年のことである。

菅貫太郎は好きな役者だったし、少し顔が売れ始めた中村敦夫も好きだったから、原田芳雄の仲間として認めたが、なぜ市原悦子が加わっているのかがわからなった。仲代達也、加藤剛などと共に、市原悦子も俳優座の保守本流的存在という認識だったからである。

民藝には宇野重吉、滝沢修がいて、文学座には女帝・杉村春子がいた。俳優座と言えば千田是也である。僕は役者としての千田是也は、黒木和雄監督作品「とべない沈黙」(1966年)でしか見たことはないが、日本演劇史上、絶対に無視できない名前である。俳優座の創立メンバーであり、おそらく原田芳雄たち若手劇団員が批判した重鎮のひとりだった。

●浅丘ルリ子と恋愛ドラマを演じて若い女性たちの人気を獲得

俳優座に在籍しながら出演した「反逆のメロディー」は、原田芳雄の初主演映画である。その映画を見て、僕は藤竜也、地井武男、梶芽衣子のファンにもなった。その年、僕は東京の予備校に通い始め、初めて家を出てひとり暮らしをしていたのだが、原田芳雄に心酔するあまり、薄茶のタンクトップを痩せた貧相な躯にまとい、Gジャンとブルージーンを身に着けて町を歩いた。

偽レイバンのサングラスをし、タバコを立て続けに吹かし、煙に目を細めてサングラスを片手で外す。そんな気取った仕草をして、自己陶酔していたのである。その年、原田芳雄は日活映画に立て続けに出演した。「新宿アウトロー ぶっ飛ばせ」は渡哲也との共演、「野良猫ロック 暴走集団'71」ではドテラを着て登場する異色のヒーローだった。

さすがにドテラは真似する気にならなかったが、いつもブルージーンズばかり穿いている原田芳雄にならって、当時は僕もジーンズばかりだった。20歳の僕は原田芳雄が出た映画を追っかけ、見続けた。「関東流れ者」「関東幹部会」(共に1971年)は渡哲也主演で、原田芳雄は敵役のインテリヤクザを演じたりしたが、それでも僕にとっては憧れのヒーローだった。僕は大学の友人たちと始めた同人誌に「原田芳雄への恋文 アンチ・クライマックスヒーロー論」という小文を書き、仲間たちの顰蹙を買った。

原田芳雄の盟友・中村敦夫が笹沢佐保原作の「木枯し紋次郎」でブレークしたのは、1972年だった。笹沢佐保は新股旅小説を書き続け、新しいヒーローとして妻を陵辱され殺されたうえ、自分の指を潰した男たちへの復讐を誓い、執念で追い続ける御子神の丈吉という主人公を創り出した。木枯し紋次郎とは違い、怨念に固まった熱い旅人である。

その御子神の丈吉シリーズは、東宝で三本が公開された。「御子神の丈吉 牙は引き裂いた」(1972年)「御子神の丈吉 川風に過去は流れた」(1972年)「御子神の丈吉 黄昏に閃光が飛んだ」(1973年)である。監督は倒産した大映出身の池広一夫だった。市川雷蔵主演の股旅映画、日本映画史に燦然と輝く傑作「ひとり狼」(1968年)の監督だ。

その頃、ようやく原田芳雄は一般的な人気を得始めていた。萬屋錦之助が初めて大河ドラマに主演した「春の坂道」(1971年)で、主人公・柳生宗矩の長男であり、誰もが知っている十兵衛を演じ、「2丁目3番地」(1971年1月〜3月)さらに「3丁目4番地」(1972年1月〜4月)と続く倉本聰ドラマに出演した。

倉本ドラマでトップ女優の浅丘ルリ子と共演した原田芳雄は、大岡昇平原作の「愛について」(1972年9月)で浅丘ルリ子演じる死んだ妻の面影を追うロマンチックな男を演じ、さらに「冬物語」(1972年11月〜1973年4月)で浅丘ルリ子と恋愛劇を演じて、若い女性たちの人気を得た。

僕が原田芳雄を生で見たのは、その頃である。1972年の秋、僕は原田芳雄のミニコンサートと映画の集いにいったのだ。そのときのことは「赤い鳥を飛ばせ!」(「映画がなければ生きていけない」第一巻519頁参照)という回で詳しく書いたが、TBSアナウンサーの林美雄さんが司会を担当していた。映画と原田芳雄が自らギターを弾いたミニコンサートの後、「赤い鳥逃げた?」(1973年)の制作も発表された。

もちろん、僕は寒い冬の最中に封切られた「赤い鳥逃げた?」を見にいき、もう若くはない原田芳雄が演じる何の目的もなく生きている男の心情に共感した。だが、テレビの世界においては、原田芳雄という名前は若い女性たちを惹きつける力を持っていたのだ。その年の春の新番組「真夜中の警視」(1973年4月〜5月)は、テレビ雑誌で大特集されるほどの目玉ドラマだった。

だが、原田芳雄は「真夜中の警視」撮影のために運転していた車で事故を起こし、スタッフが重傷を負った。怪我をしたのは、ボンネットに乗って撮影していたキャメラマンだったと記憶している。「反逆のメロディー」で颯爽とジープをとばしていた原田芳雄が運転免許を持っていなかったことを、僕はその事故の報道によって初めて知った。その事故は大きく報じられ、無免許だったことで非難が集中した。

世論をはばかったテレビ局はドラマの打ち切りを決定し、原田芳雄は行方をくらました。しかし、僕は納得がいかなかった。それは撮影中の事故だったのだ。彼が悪いのではないと思った。それでも、原田芳雄はしばらくテレビから遠ざかった。その頃のことを、俳優座を共に脱退し、当時、「木枯し紋次郎」で原田芳雄以上に人気があり、所属事務所の社長も兼務していた中村敦夫は、「俳優人生」という本で回顧している。

──同業者を管理するほど難しいものはない。原田はあいかわらずわがままで、気に入ったものしか出演してくれない。あげくの果て、レギュラー番組の撮影中に無免許事故を起こし、番組が中止になった。その穴埋めに、私が新企画で働かねばならなくなったりもした。

中村敦夫は、続いて「桃井かおりは、遅刻の常習犯、時々撮影をスッポかす」と愚痴り、事務所を辞めてもらったいきさつを書く。さらに、松田優作が事務所に入りたいと言ってきたときには、「話を聞くと、自分の子分も二、三人連れてくるという。若いくせに兄貴分を気取っているのが気にくわなかった。またトラブルの種が増えると思い、追い返した」とバラしている。

●原田芳雄はよい映画を見分ける本能を持っていたに違いない

原田芳雄がなぜあれほど名作、秀作、傑作、問題作ばかりに出演してきたのか、中村敦夫の「原田はあいかわらずわがままで、気に入ったものしか出演してくれない」という記述でわかった。彼は、よい映画を見分ける本能を持っていたに違いない。だから、人気絶頂だった頃、事故で途中降板したとはいえ、その後「竜馬暗殺」(1974年)というアートシアター・ギルドのマイナー映画を選んで復活するのである。

その年、僕は大学4年だった。就職試験を落ち続けていた頃、真夏の新宿で見た「竜馬暗殺」には、強い衝撃を受けた。日活ロマンポルノでデビューした中川梨絵の裸体がまぶしく、桃井かおり、石橋蓮司、そして若き(というか、まだ新人俳優だった)松田優作などクセのある役者が揃っていた。

松田優作は、そのときの共演で原田芳雄に心酔し、そっくりな演技を始める。さらに、原田芳雄邸の隣の家に引っ越したのは有名な話である。同じ年、「反逆のメロディー」の沢田幸弘監督が作った「あばよダチ公」(1974年)は、物語そのものが原田芳雄主演の「反逆のメロディー」に似ているが、主演の松田優作はそれにも増して原田芳雄そっくりな演技をしている。

「竜馬暗殺」で黒木和雄という、その後、盟友になる映画監督と出会ったことで、原田芳雄は新しい世界を拓く。翌年の秋、「祭りの準備」(1975年)が公開される。あの映画を見終わったときのことは、今も鮮明に甦る。走り出した列車がトンネルに消えるまで、原田芳雄はシャツの胸をはだけながら飛び上がり、夢を実現するために上京する主人公のために「バンザーイ」と叫び続けた。

他のどんなに印象的なシーンを忘れたとしても、あのシーンの原田芳雄を忘れることはできない。泥棒に入った家で目覚めた相手に騒がれ、間違って殺してしまった指名手配犯。逃亡する身でありながら、主人公が家出をして東京へいくのだと聞いて、その門出をたったひとりで「バンザーイ」と送り出す。いつまでも原田芳雄の「バンザーイ」という声が耳に残る。

「祭りの準備」で、彼は初めて受賞する。助演男優賞だった。それ以降、彼が受賞したのは、多くが助演男優賞だった。「どついたるねん」「キスより簡単」「夢見通りの人々」「出張」(すべて1989年)であったり、「ニワトリはハダシだ」(2003年)「美しい夏キリシマ」(2003年)「父と暮らせば」(2004年)などである。

もちろん主演男優賞もある。旅役者の座長で女装して「愛の賛歌」を歌うシーンが忘れられない「寝盗られ宗介」(1992年)、虐げられた夜鷹と浪人たちの意地が炸裂する「浪人街」(1990年)、全共闘世代への共感を込めバーのマスターを演じた「われに撃つ用意あり」(1990年)、ひとり狼のヤクザを演じた「鬼火」(1996年)、年老いたスリの生き様を見せた「スリ」(2000年)などである。

それにしても、何と幅の広い演技の歴史であることよ、と改めて感銘を受ける。「夢見通りの人々」のオカマから、宮沢りえの娘を思いやる「父と暮らせば」の幽霊、「美しい夏キリシマ」の元軍人の祖父まで、これほど多彩な人物を演じてきた役者が他にいただろうか。「亡国のイージス」(2005年)では、とうとう日本の総理大臣になった。

新宿ゴールデン街「深夜+1」の壁には、オーナー内藤陳さんと原田芳雄が仲良く並んで写っている写真が飾られている。その内藤陳さんの誕生パーティが毎年9月に開催されるのだが、数年前のこと、今年は原田芳雄が参加すると聞き、僕はひどく緊張したことがある。40年、憧れ続けた役者である。もしかして口を利く機会があったらどうしよう、と夜も眠れなかった。

しかし、当日、急用ができ、「内藤陳さん江 原田芳雄」と書かれた札が立った大きな花束だけが届いた。僕はガッカリすると同時に、妙にホッとしたしたものだった。そのとき聞いたのだが、原田芳雄は2月29日が誕生日だという。4年に一度しか年を取らない。70を過ぎても若々しさを保っているのは、そのせいかもしれない。

かつて原田芳雄に心酔していた松田優作は、あるとき「俺は原田芳雄を超えた」と宣言し、最後はハリウッド映画に夢を羽ばたかせた。しかし、早世したとはいえ、70を超えて現役である原田芳雄を彼は超えられなかっただろう。僕自身、あの頃、70を超えた原田芳雄など想像することもできなかったが、その長い時間を原田芳雄は役者としてまっとうしたのである。

先日の日本映画専門チャンネルの広告に載った「反逆のメロディー」の若き原田芳雄を見ながら思い出したのは、予備校が夏休みになって帰郷した僕を見て発したガールフレンド(今のカミサンだが)のひと言だった。数ヶ月別れていた僕を彼女は高松駅まで迎えにきてくれたのだけど、Gジャンの胸をはだけサングラスを掛け、原田芳雄になりきっていた僕を見て、彼女は呆れたようにこう言ったのだった。

──どしたん? そのかっこう。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951
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元々、人と分かり合えると思っている人間ではないが、「矜持」という言葉さえ知らない若い世代とのギャップを思い知らされて、少し落ち込んだ。「最近の若いモンは...」という言葉だけは言わないようにしてきたが、先日、あることを聞いて思わず言いそうになった。もっとも、若い世代もいろいろでひとくくりにはできない。僕の生き方と正反対の若いモンがいたというだけだろう。

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