映画と夜と音楽と...[515]1977年の西條八十
── 十河 進 ──

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〈新幹線大爆破/君よ憤怒の河を渉れ/人間の証明/野生の証明/ロッキー〉


●「唄を忘れたカナリヤは棄てましょか」と書いた西條八十の暗さ

先日の朝日新聞のbeで西條八十の「かなりや」が取り上げられていた。「唄を忘れたカナリヤは...」という例の童謡である。1918年(大正7年)に児童雑誌「赤い鳥」に発表された詩に、翌年、曲がつけられたという。唄を忘れたカナリヤ(=役立たず)は裏山に棄ててしまおうか、という発想はあまり子供向きではないと思うのだが、昔は誰でもが知っている童謡だった。

ところで、僕の名前は「十河」と書いて「そごう」と読む。地元を出て以来、きちんと読まれたことはない。ルビ付き名刺を出すと「これで、そごうと読むんですか」と不思議がられる。ときには大仰に驚かれて、しらけることもある。そんなとき、昔は「西條八十は『やそ』と読みますよね」と言っていたが、最近は「西條八十」が通じないことが多いので、「三十路(みそじ)って言い方するでしょう」と答えている。

そんなことで僕は昔から西條八十になじみがあり、今でも本棚には「現代日本名詩集大成4 佐藤春夫・室生犀星・西條八十・萩原朔太郎」が並んでいる。発行元は創元新社。昭和41年12月発行で、すでに6版である。中学3年生のときに買った。その後、僕は鮎川信夫、田村隆一などの荒地派を経て、「現代詩手帖」を知り若手詩人たちの作品を読み始める。

僕が持っている「現代日本名詩集大成4 佐藤春夫・室生犀星・西條八十・萩原朔太郎」には、「あわれ 秋かぜよ 情あらば伝へてよ」と始まる佐藤春夫の「秋刀魚の歌」や「ふるさとは遠きにありて思ふもの」で有名な室生犀星の「小景異情」などが載っているが、西條八十の代表作は? となると、僕が好きな詩はあるのだが、誰もが知っているといったものがない。

西條八十は、抒情派の詩人であり、フランス文学者だった。1892年(明治25年)に生まれ、名を成して後、フランスに留学。ソルボンヌ大学に学び、帰国後は早稲田大学で教鞭を執った。ランボウを愛し、彼の詩を研究した。1970年(昭和45年)に死んだが、僕が「現代日本名詩集大成」を買ったときには、まだ元気だったのだ。




彼は多くの詩を書いたけれど、どちらかと言えば作詞家としての作品の方が圧倒的に有名である。戦前には「愛染かつら」(1938年)の主題歌「旅の夜風」が大ヒットするし、戦争中は「若い血潮の予科練の...」と歌う「若鷲の歌」や「同期の桜」などたくさんの軍歌を作詞し、戦後は「青い山脈」(1949年)を作詞している。舟木一夫の「絶唱」や「夕笛」まで書いているのは知らなかった。

西條八十の詩で有名になったのは、「母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね。えゝ夏、碓氷から霧積へ行くみちで、谷底に落としたあの麦藁帽子ですよ」というフレーズで始まる「帽子」という作品である。僕はずいぶ前に霧積温泉にある霧積館に一度泊まったことがあるが、そこには西條八十の詩碑があり、箸袋にも「帽子」の詩句が印刷されていた。

この詩は「人間の証明」(1977年)で有名になった。映画公開は1977年の秋のことだったが、その一年も前からイメージカットだけのCMが流された記憶がある。そのイメージカットで使われたのが「麦藁帽子」であり、西條八十の詩だった。角川映画第2弾として脚本公募などの話題作りが華やかに展開され、原作の森村誠一の小説と制作中の映画を大々的に宣伝した。

当時の日本映画では珍しかった大がかりなニューヨーク・ロケを敢行し、そのロケレポートが映画雑誌に載ったり、テレビの特番で放映されたりした。当時、主演級ではなかったがハリウッド・スターとして顔が売れていた大男ジョージ・ケネディをニューヨークの刑事役で出演させ、主人公の棟居刑事(松田優作)と共演させたのも話題を呼んだ。

●麦藁帽や西條八十の詩が原作ほどメロディアスな効果を上げていない

「人間の証明」のテレビCMがひっきりなしに流れた1977年は、西條八十の死からすでに7年が経過していた。もし生きていたら、西條八十はそのCMを許可しただろうか。その詩が醸し出すノスタルジックな雰囲気が、「人間の証明」という殺人ドラマをロマンチックなものに感じさせ、多くの人が映画館に足を運んだ。しかし、人々の期待は裏切られた。

「人間の証明」の監督は、前年、「新幹線大爆破」(1975年)でキネマ旬報読者が選ぶベストテンで一位を獲得した佐藤純弥だった。それだけに、僕も期待した。「君よ憤怒の河を渉れ」(1976年)を続けて撮った佐藤監督は、僕にとっては最も気になる存在だった。日本にはあまり存在しない、壮大なアクション映画が撮れる監督だった。

僕の手元にある「キネマ旬報1977年11月下旬号」の「今号の問題作批評」で「人間の証明」が取り上げられている。評者は大黒東洋士と押川義行とある。大黒さんの批評文のタイトルは「致命的な演出ミス」であり、大作「人間の証明」がヒットしたことを業界人として喜びながらも、そのクオリティのひどさを指摘し、提灯持ちをつとめた映画評論家には皮肉な書き方をしている。

押川さんの批評文は「一女性の戦後史」と題したもので、岡田茉莉子が演じたヒロインの戦後史をたどることで別の側面を見ようとする深読み批評だが、映画の出来に関しては「麦藁帽や西條八十の詩が、原作ほどメロディアスな効果を上げていないのは、文章と映像の表現の違いというより、推理上の素材としてしか生かされなかったせいだ」と、あまり誉めてはいない。

これは、プロデューサーの角川春樹が口を出しすぎたせいだとか、話題作りのための脚本募集(賞金500万円)であまりよいものが集まらなかったにもかかわらず、ニューヨーク・シーンを加えたり結末を変えた松山善三の脚本(覆面審査だったので決定後に判明)を採用したせいだとか言われたが、僕もリアリティのない大味なミステリもどきの作品になったと思う。

しかし、映画はヒットし、10月8日からの公開にもかかわらず、キネマ旬報掲載の上映スケジュールによれば、日比谷や新宿のロードショー館では12月9日まで実に2ヶ月も公開されていた。ただ、僕の記憶が確かならば、その頃になると口コミで「大した映画じゃないよ」という評判が流布され始めていた。

主演の松田優作も、まだ自分のキャラクターを確立していない時期だった。「太陽にほえろ」で人気者にはなったが、テレビ向きの優等生的な演技であり、後年、凄みを感じさせるほどの役者になるとは想像もできなかった。松田優作がそのキャラクターを確立するのは、村川透監督と組んだ「最も危険な遊戯」「殺人遊戯」(1978年)「処刑遊戯」(1979年)の鳴海昌平役からである。

彼は殺し屋・鳴海昌平役をどんどん自分のものにしてゆき、松田優作=鳴海昌平のレベルにまで到達する。アドリブを連発し、本気かふざけているのかわからない独特のキャラクターはテレビシリーズ「探偵物語」(1979年)に引き継がれ、松田優作のイメージを作った。後年の凄みを感じる松田優作を見慣れた人が「人間の証明」を見ると、これが松田優作? と思うだろう。

●豊富な資金力を背景に膨大な広告量でベストセラーにする大手の手法

作品的にはイマイチだったが、「人間の証明」的広告展開はその後の映画業界を変えてしまった。もちろん「読んでから見るか、見てから読むか」というキャッチフレーズで、「犬神家の一族」(1976年)の映画も原作もヒットさせた角川春樹的プロデュースの手法は、すでに映画界に刺激を与えてはいたのではあるけれど、「人間の証明」はそれをさらに推し進めたのである。

「犬神家の一族」の広告展開で僕が驚いたのは、ほとんど忘れ去られていた作家だった横溝正史を復活させたことである。現在では、文庫のテレビCMやキャンペーン展開は当たり前のことだが、「ネバー・ギブアップ」というキャッチフレーズで角川文庫というブランドを広告したポスターやテレビCMが登場したとき、多くの人は驚いたものだった。

角川文庫は新潮文庫やアカデミックな岩波文庫に後れをとっていたが、そのキャンペーン展開によって一気に知名度とブランド力を上げた。それは角川春樹さんの戦略でもあったし、当時は角川春樹さんの懐刀であり現在は幻冬舎の社長でもある見城徹さんのやり方でもあった。現在、その広告戦略は幻冬舎に受け継がれている。新聞一面を使う派手な幻冬舎の書籍広告を見るたびにそう思う。

しかし、広告戦略だけでベストセラーは作り出せるのだろうか。映画はヒットさせられるのだろうか。広告によってベストセラーになり、映画もヒットした「人間の証明」に落胆しながら、25歳の僕が問うていたのはそういうことだった。もちろん小説や映画だから受け取り方はいろいろあるし、毀誉褒貶もある。「人間の証明」を読んで感動し、「人間の証明」を見て滂沱の涙を流した人がいるかもしれない。しかし...、あれが正しいやり方なのか。

僕がそんな疑問にこだわったのは、僕自身が40人ほどの出版社に入り、少ない制作費をやりくりしながら、日々、専門誌を作ることに追われていたからだった。まだ新人同様の入社3年目だった。出版社としてあれが正しい姿なのだろうかと、僕は昼食に出るたびに目に入る角川書店本社ビルを睨んで考えた。当時、角川春樹さんは時代の寵児だった。

もちろん横溝正史の小説は面白い。面白いから、広く世に広告したことによって、横溝正史ブームが起こったのだ。それ以前からミステリ好きの僕はけっこう読んでいたが、当時は江戸川乱歩の方がずっと知名度があったし、名探偵と言えば明智小五郎だった。金田一耕助と言っても誰も知らず、国語学者と間違われるのがオチだった。片岡千恵蔵が金田一耕助を演じたのは、昭和20年代のことである。

角川書店は横溝正史ブームの次に、森村誠一ブームを狙ったのだ。ホテルマンから作家になり乱歩賞を受賞した森村さんだったが、その頃は地味な作家という印象だった。僕も乱歩賞受賞作「高層の死角」を読んだくらいだったけれど、「人間の証明」に続いて「野生の証明」(1978年)も角川映画の原作として派手な広告展開をしてベストセラーになった。

「人間の証明」が公開された1977年、洋画最大のヒットは「ロッキー」(1976年)だった。その映画の脚本を書き主演したのは、まったく無名だったシルベスター・スタローンという俳優だった。30まで芽が出ず、下積時代にはポルノ映画に端役で出演したこともあるという話さえ伝わってきた。それは、シンデレラ・ストーリーを強調するための与太話だったのかもしれないけれど...。

無名の俳優しか出ていなかった低予算の「ロッキー」がアメリカでも日本でもヒットしたのは、無名のボクサーがチャンピオンと互角に戦うという内容と、無名の俳優が書いた脚本が注目され主演をしたことが重なったからである。不遇な人間が世間を見返したのだ。鬱屈を抱えて生きていた男が、「ざまーみろ、俺はやったぞ」と雄叫びをあげることができたのだ。もちろん、僕も「ロッキー」を見て心の中に溜まっていた何かを晴らした。

そして、1977年度キネマ旬報の邦画ベストテン一位は山田洋次監督の「幸せの黄色いハンカチ」だった。もう一本、高倉健主演作品「八甲田山」が4位に入り、東宝が制作した金田一耕助シリーズ「悪魔の毛鞠唄」が6位に入っていたが、「人間の証明」のタイトルはどこにもなかった。あれだけ金をかけて宣伝したのに、まったく評価されなかったのだ。

●同じ出版業界にいてスケールが何もかも違うことに対する苛立ち

僕の人生を「何も知らなかった子供時代」と「苦い現実を思い知らされた大人の時代」に分けるとすると、1977年は前者に入る。僕は子供で、甘ちゃんで、世間のことは何もわかっていない、青臭い若造だった。不安と劣等感に苛まれているくせに自意識だけは強く、自分の好みにこだわりを持ち、偏狭だった。評価は他者がするのだと気付かず、人はなぜ自分をそんな風に見るのかと不満に思っていた。

僕は出版社への就職にこだわり、何とか映像関係の専門誌を出す出版社に入ったが、一年前に小学館に入社していた同級生の男と、僕と同じ時期に講談社に入社した同窓生の女に会うたびに、自分の会社の小ささを思い知らされ、悔しい思いをしていた。今から思うとひがんでいただけだが、同じ業界にいてスケールが何もかも違うことに苛立った。

自分の会社のスケールメリットがわかっていなかったこともあるのだが、僕が出す企画については「いくら金がかかると思ってるんだ」と、当時の編集長によく言われたものだ。対談を企画し「場所を××で」と言うと、「そんなところに金は使えない」とはねられ、有名な筆者に頼もうとすると「原稿料が高くてダメ」と拒否された。そうこうするうちに、僕は自主規制を始めた。

入社して半年ほど経ったとき、僕はテレビ番組の取材をすることになった。相手は、アナウンサーの見城美枝子(当時はケンケンの愛称だった)さんとディレクターのふたりだった。僕はTBSのロビーのティールームでインタビューをした。取材が終わって「お忙しいところ、ありがとうございました」と頭を下げたとき、ディレクターがテーブルの上の伝票を取り上げた。「あっ、それは僕が...」と礼儀上は言ったけれど、そのまま僕は相手にごちそうになった。

そのときのことが今も強烈に記憶に残っているのは、自分のせこさとみっともなさが刻み込まれたからだ。根が貧乏性の僕は、それまで取材費を請求したことがなかった。請求しても上司に認められないかもしれないと思ったのだ。そう思わせるほど、制作費や経費に関してはシビアだった。企画を考えると同時に、どれだけ安く仕上げるか考えなければならなかった。企画、取材、撮影、原稿書き、レイアウト、校正など担当するページのすべてを自分ひとりでやるしかなかった。

見城美枝子さんにインタビューした本が仕上がり、「謝礼どうしましょうか?」と訊くと、「ウィスキーでも持っていくか」と編集長は答えた。僕は贈呈本とサントリーのウィスキーを持ってTBSにいきディレクターに礼を言って渡したが、自分の作っている本がどれくらいの原稿料を払っているのかも全く知らなかった。それにしても原稿料代わりにウィスキー一本かよ...と、僕は己の不遇を嘆いた。

小学館の男は何10万部も出している月刊誌の編集部にいて、マンガ家たちとの派手な付き合いや原稿待ちの苦労話をする。講談社に入った女は彼の中学時代からのガールフレンドで、彼女は僕が話す中小出版社の編集者の悲哀あふれるエピソードを聞く度に、「信じられな〜い。うちの会社じゃ......よ」というフレーズを連発した。今も覚えているのは「えー、編集部の人が直接、印刷所の人と会うの? うちじゃそんなの制作部の仕事よ」という言葉である。

無邪気なのか、無神経なのか。数千人の社員がいる会社のシステムと40人しかいない会社のシステムを比較するなよ、と僕は思った。編集部員が印刷会社の営業マンと打ち合わせをし、進行スケジュールを決め、原稿をやりとりし、校正を読んで返す、これは僕にとっては当たり前のことだった。だが、彼女の会社には制作部があり、校閲部がある。彼女の仕事は豊富な制作費と下請けプロダクションのスタッフを使って、コンテンツを作ることだけだったのである。

今から思えば、そんな気分が角川書店の派手な広告展開でベストセラーを作ったり、映画をヒットさせたりすることへの批判に拍車をかけたのだろう。金にあかして...というやり方に反発したのだ。それが、結果的に「人間の証明」に対する、辛辣な評価になったのかもしれない。僕は誰にも言えないルサンチマンを抱え込み、大手出版社の資金力を背景にしたシステムに反感を抱いた。

●西條八十の暗さが鬱屈を抱えた僕には心地よかった

今では僕の会社も、仕事の内容や現場はずいぶん様変わりした。どの編集部も自分でレイアウトすることはない。すべてデザイナーに依頼する。取材で撮影があるときはカメラマンに依頼する。タレントを使うロケは、ロケバスを用意してヘアーメイクにスタイリストを付ける。マネージャーも同行する。原稿はライターが書き、雑用は編集アシスタントのようなアルバイトが処理する。

昔、1,000枚近い読者ハガキのすべての項目の集計を取るために、2日間机に向かってそれだけに集中したことを今の編集部員に話すと、「だって時給の高い正社員がそんなことしたらもったいないじゃないですか」と言われるだろう。愛読者ハガキの分析などは、アルバイトの仕事だと割り切っている。しかし、自分でデータ集計をしたおかげで、僕には読者像がはっきりと把握できたのだ。

同じように、印刷会社とのやりとりで印刷現場のことも学んだし、校正を戻してからの下版、刷版、印刷、製本という工程も実感した。レイアウトをやらなければならなかったので女性誌などのデザインを研究し、写真の使い方を工夫したり、文字を抜いたりノセにしたり、網をかけたりといった様々な手法を試してみた。だから、後にデザイナーに仕事を依頼するようになってもディレクションができた。

取材撮影ではいろいろ失敗したが、次からは気を付けるようになった。元々、写真をやってはいたのだが、ストロボを発光させて撮るようなインタビュー写真はあまり経験がなかったから、ガラス窓を背景にした人物の正面からストロボを光らせたりした。また、プリントが上がるとふすまの桟が人物の頭から出ていた。だが、自分で撮影することで学び、写真を見る眼がシビアになったし、カメラマンに指示が出せるようになった。

昔、僕が羨んだ大手出版社のようなシステムが今では実現されているが(現場の編集者はそうは思っていないだろうけれど)、それによって編集者の知識は狭められたと思う。先日も印刷用紙の話を10年選手になる編集者にしていて、「A判横目」と言ったら「それ、何ですか?」と聞き返された。もっとも、こんなことを書いていると、「年寄りの繰り言」としか思われない。

振り返ってみれば、1977年に入社3年目だった僕は、今の若い人たちより自信がなく、何事にも物怖じしていた小心で神経質な編集者だった。僕は自信にあふれた大手出版社に勤めるふたりの友人の前で、ひがみ根性を丸出しにして妬んでいた。どうせ俺は...と拗ねた。そのくせ、そう思っていると知られることを極端に怖れた。見栄が棄てられず、本当の現実の厳しさをわかっていなかった。

そんな頃、「母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね」という詩句が知れ渡り、10数年ぶりに僕は西條八十の詩を読み返したくなった。中学生のときに買った「現代日本名詩集大成」を本棚から取り出し、西條八十が心象を抽象的な詩句に昇華する詩人であり、心の中に重い鬱屈を抱えていたことを改めて知った。唄を忘れたカナリヤを後ろの山に棄てる発想をする、西條八十の暗黒を抱えた心象を読み取り、その暗さに共感した。西條八十の詩が心地よかった。

青空の
茫の中に、
真昼
悲しき市ありて。

きのふも
今日も
風かげに
黄金の洋燈が
見えがくれ。

甲斐ない夢を
追はうより、
昨日も
けふも
青茫、
市街を眺めて
ただひとり。
(茫の中)

その年、西條八十の詩を読むことで、僕は暗く鬱屈し渦を巻くように己の心の底に蟠るルサンチマンをなだめることができたのだった。僕は何かというと、「甲斐ない夢を追はうより......市街を眺めてただひとり」と口ずさんだ。自己憐憫にひたる己に自己陶酔していたのかもしれない。しかし、甲斐ない夢は、決して叶わぬ夢だった。人は身の丈に合った夢しか見ることはできないのだ、と当時の僕は言い聞かせていた。悔し涙を流しながら...。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951
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会社に40年勤めた4年先輩の人が8月いっぱいで退職した。言い争いもずいぶんしたが、本当に世話になった人である。同僚とふたりで記念品を送ろうと考え、タバコ好きなので銀のジッポーにメッセージを彫り込むことにした。ジッポー専門店で依頼したが、見た目はステンレスとあまり違わない。いっそ「純銀」と彫り込んでもらおうか、などと野暮なことはもちろん考えませんでした。

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