映画と夜と音楽と...[523]インクで書かれた文字の美しさ
── 十河 進 ──

投稿:  著者:


〈ALWAYS 三丁目の夕日/ヴィヨンの妻 桜桃とタンポポ/カポーティー/ティファニーで朝食を/キリマンジャロの雪/悲愁/スタンド・バイ・ミー/ドクトル・ジバゴ〉

●中学の入学祝いでもらったセーラー・ミニという万年筆

37年使ってきた万年筆の調子が悪い。インクが漏れるし、キャップが割れている。どこかで落としたのだろうか。先日、使ったら指がインクで汚れてしまった。それでも書き味はなめらかで、スラスラと書ける。筆圧をまったく感じない。いくら書いても書痙にはならないだろう。文筆業の人が万年筆を使う理由がよくわかる。もっとも、今はパソコンを使いキーボードを打つ方が一般的である。

初めて万年筆を買ってもらったのは、中学に入学したときだった。高校に入ったときは腕時計である。当時の入学祝いの定番だった。中学の入学祝いでもらった万年筆はセーラーのものだった。流行していたミニタイプ(セーラー・ミニ)だ。通常の万年筆より軸が短くキャップが長い。書くときは通常の長さになるが、キャップをすると普通の万年筆の三分の二くらいの長さになる。

万年筆を制服の胸のポケットに刺すと、大人になった気分だった。もう鉛筆を使う歳ではない(実際には、まだまだ鉛筆が中心だった)。小学生の頃、「見える見えるのビックです」というテレビCMがあった。透明の軸でインクの減り具合が見えるというのである。ビック・ボールペンはあれで有名になったが、ボールペンはまだ一般的ではなかった。

37年使ってきた万年筆はペリカンのやや太めの軸のもので、中字のペン先である。ずっとジャケットの内ポケットに刺してきたが、キャップのひび割れで固定部分が緩くなり、気付かないうちに落としそうになったので、先日、小振りなペンケースを買った。モスグリーンの革製で三本しか入らない。ボールペンと赤ペンと万年筆を入れて持ち歩いている。

37年前に就職したとき、隣の編集部にいたH女史がいつも万年筆で原稿を書いていた。達筆だったし、明るいブルーのインクを使っていて、文字で埋まった原稿用紙が美しく見えた。それがペリカンの4001番ロイヤルブルーだった。僕はずっとモンブランの太軸が欲しかったのだが、それを見てペリカンにしようと思った。もちろんインク壷から吸入するタイプだ。


ある日、会社の帰りに神田神保町まで歩いて金ペン堂に寄った。間口一軒ほどの万年筆専門店である。万年筆を買うのなら金ペン堂だと決めていた。学生時代の4年間を神保町で過ごしたから、金ペン堂はよく知っていたけれど、何万円もする万年筆を買える余裕はなかった。店先のガラスケースに収められた高級万年筆を眺めて、ため息をついていただけである。

そのとき、僕は3万円までなら出してもいいと決めていたが、迷っていたのも事実だ。初任給は8万円、春闘で賃上げがあり9万6千円になった。当時の大卒初任給としてはよい方だったけれど、家賃が1万2千円のときの3万円である。そんなに高い万年筆を買う必要があるのか、と自問する気持ちもあった。

金ペン堂のご主人は親切だった。何かというと「ひさしさんは...」と口にした。見上げると、店の壁に井上ひさし自筆の原稿(色紙だったかも)が飾られていた。井上ひさしさんが「吉里吉里人」を連載していた頃だ。売れっ子作家だった。その他にも有名な作家の原稿(だったか色紙だったか)があったけれど、誰のものかは忘れてしまった。

結局、僕は勧められた手頃なペリカンを買った。1万5千円だった。37年前である。それなりに高価な万年筆だった。インク壺からインクを吸い上げるとき、心が躍った。書いてみると、スラスラと書けた。少し文字が太い気がしたが、原稿用紙だとちょうどよい感じだった。錯覚だとわかっていたが、それで小説を書くと傑作が書ける気がした。

●昭和の貧乏文士は立派な万年筆と原稿用紙で小説を書いた

小説家は、万年筆で原稿を書いている。多くの人は、そうした固定観念を持っているのだろうか。そういうステレオタイプのイメージをことさら強調し、笑いを誘う意図も感じられた「ALWAYS 三丁目の夕日」(2005年)「ALWAYS 続・三丁目の夕日」(2007年)だが、その中に登場する三文文士(吉岡秀隆)も原稿用紙を前にして万年筆を握りしめる。彼の名前は、茶川龍之介。

昭和の典型的な貧乏文士のイメージを体現し、パロディ的な名前を付けられた茶川龍之介氏の言動はどことなくギャグっぽい。彼の描き方が純文学を皮肉っているフシもある。もっとも、目くじら立てることではなく、スズキ・オートの鈴木さん(堤真一)が怒ると超人的になるというマンガ的設定もあり、そういう映画だと思って見ればいいのだ。原作マンガのテイストを狙っているのかもしれない。

劇中に登場する子供たちは僕の世代に重なるから、僕自身はあの時代をよく知っている。そのため、ノスタルジィで観客を酔わせようとする「ALWAYS 三丁目の夕日」シリーズには少し違和感があるのだが、過ぎ去った過去の甘美さを強調したのが受けたのか、あの時代を知らない人たちさえ妙な郷愁を感じているらしい。東京タワー建設で始まり、東京オリンピックまでの希望に満ちた時代...、そんな風に見えるのかもしれない。

「ALWAYS 三丁目の夕日」で最も心に残ったのは、三浦友和が演じた町医者のエピソードだった。彼は酔って野原で眠り、夢を見る。彼が自宅に帰ると、妻とまだ少女と呼ばれる年頃の娘が出迎えてくれる夢だ。目覚めると狐狸に化かされたのかと思うが、その夢をもう一度見たくて油揚げ(違ったかな)を持って再び野原にやってくる。

昭和33年、戦争が終わって13年しか経っていない。昭和20年3月には、下町を焼き尽くす空襲があった。その後、何度も空襲があり、多くの非戦闘員が死んだ。三浦友和の妻と娘も空襲で死んだのだろう。その耐えられない悲しみを抱えて、彼は13年間を生きてきた。孤独を噛みしめながら...。そんな男の深い悲しみをユーモアを込めて描き出した。どんなに郷愁に充ちた世界であっても、辛い現実はあるのだ。

「ALWAYS 三丁目の夕日」には、世代を超えて多くの人を惹きつける魅力があるのだろう。CGとはいえ、懐かしい街並みを創り出しヒット作となった。来年早々には、三作目の「ALWAYS 三丁目の夕日'64」が公開されるという。昭和33年、34年と続けて描き出し、とうとう1964年、つまり昭和39年を舞台することにしたらしい。

1964年は、東京オリンピックが開催された年である。4月からNHKで「ひょっこりひょうたん島」の放送が始まり、10月10日には東京オリンピックが開催され、その直前に東海道新幹線が開通。吉永小百合と浜田光男が共演した「愛と死を見つめて」が大ヒットした。その年、僕は中学生になり、前述のように万年筆を入学祝いとしてもらった。

「ALWAYS 三丁目の夕日」の頃は、万年筆がステータスだった時代である。僕らは太軸のモンブランの万年筆に憧れ、いつかあんな万年筆を持ちたいと願った。十八金のペン先が輝いていた。長い年月が過ぎ、様々な筆記具が登場し、万年筆という時代遅れの筆記具はあまり使われなくなった。といって何かに代わったのかというと、ボールペンなど景品でもらっても喜ばれないものに成り下がっている。

●小説家たちが登場した日本映画やハリウッド映画

小説家が登場する映画はけっこう多いが、小説を書いているシーンは画になりにくいのか、あまり出てこない気がする。最近の日本映画では「ヴィヨンの妻 桜桃とタンポポ」(2009年)の主人公(もちろん太宰治自身だ)が思い浮かぶけれど、原稿用紙に向かっている場面が思い出せない。酒を飲んでいるか、女と心中騒ぎを起こしているかだった。

ハリウッド映画も作家を主人公にするのが好きで、すぐに何本かが思い浮かぶ。シナリオライターを主人公にした作品も含めると、思いつくまま10本は挙げられる。実在の小説家を描いた作品では「カポーティー」(2005年)がある。「ティファニーで朝食を」の原作者として有名なトルーマン・カポーティーだが、「冷血」で描いた一家惨殺事件との関わりが中心だから、執筆シーンはほとんどなかった。

映画化された「ティファニーで朝食を」(1961年)は、原作者のカポーティーを激怒させたという。主人公の作家を目指す青年(ジョージ・ペパード)が若いツバメとなり、有閑マダム(パトリシア・ニール)から金をもらって暮らしている設定だったからだ。原作にはそんなパトロンは登場しないし、小説の語り手はホリー・ゴライトリーとは結ばれない。元来が甘い恋愛小説ではないのだ。

それでも「ティファニーで朝食を」のジョージ・ペパードは、作家を目指している青年らしく、タイプライターを叩く執筆シーンがある。そう、ハリウッド映画の作家たちは万年筆を使わず、多くがタイプライターを叩いた。その方が作家らしく見えるのも事実である。ちなみに有閑マダムを演じたパトリシア・ニールは、その当時、小説家ロアルド・ダールの奥さんだった。

アーネスト・ヘミングウェイとスコット・フィッツジェラルドの両作家を演じたのは、グレゴリー・ペックだった。知的な風貌がインテリに見えるのか(実際にインテリだったけど)、ペックは作家やジャーナリストを演じることが多かった。「紳士協定」(1947年)では気鋭のジャーナリストを演じ、ちょっと違うが「ローマの休日」(1953年)では新聞記者を演じた。

ヘミングウェイを演じたのは「キリマンジャロの雪」(1952年)だった。ヘミングウェイの代表的な短編を膨らませた映画化作品だが、主人公の作家は怪我をしてキリマンジャロの麓で横たわったまま女性遍歴を回想するばかりで、ほとんど執筆しない。行動派のヘミングウェイだから、機関銃のような音を立てて精力的にタイプを打っているイメージが湧くのだが...。

「悲愁」(1959年)は流行作家だった若き日のフィッツジェラルドではなく、忘れ去られた作家になった晩年を描いた。フィッツジェラルドは糊口をしのぐためにハリウッドでシナリオを書き、酒に溺れる。愛人シーラ・グレアム(デボラ・カー)の回想記が原作なので、シーラの視点で語られるフィッツジェラルド像であり、何となく情けない。この映画でも執筆シーンはほとんどなかった。

小説家を主人公にするのは、スティーブン・キングの十八番である。売れない小説を書いている男が妻子を連れ、雪に閉じ込められた無人のホテルの管理人になる「シャイニング」(1980年)、小説のヒロインに異常な執着を示す女性読者に小説家が監禁される「ミザリー」(1990年)、ペンネームで創り出した小説家の分身が人々を殺し始める「ダーク・ハーフ」(1993年)など、自身の体験(妄想?)が生かされている。

キング原作では「スタンド・バイ・ミー」(1986年)の語り手である小説家が印象に残る。小説家を演じたのは、リチャード・ドレイファス。冒頭、道端に駐めている四駆車がある。運転席で男が茫然としている。座席に置かれた新聞記事には、弁護士のクリスが喧嘩を止めようとして刺され死んだと出ている。そこに「初めて死体を見たのは、1959年のことだった」とナレーションがかぶさる。

彼は、少年時代を回想する。森の奥に事故死した少年の死体があると知り、探しに出かける4人の少年たち。途中、主人公は自分が構想した物語を語って聞かせる。その死体探しの冒険は少年たちを成長させる。悲惨な家庭に育った親友クリスは努力し弁護士になった、しかし...。ラストに再び登場するドレイファスは、愛用のワードプロセッサーの画面に次のようなフレーズを打ち出す。

──I never had any friends later on like the ones I had when I was twelve. Jesus, does anyone?

残念ながら彼も手書き派ではなかった。もっとも、今では日本の作家もキーボードを叩いて執筆する。村上春樹さんはデビューした当時は手書きだったが、早くからMacを導入した。僕は村上さんのデビュー以来、小説もエッセイも同時代で読んできたから、その経緯はよくわかる。僕の世代だと30歳を過ぎた頃にワープロが普及し始め、早い人がコンピュータを購入した。1980年代のことである。

●万年筆からパソコンのキーボードへの移行は時代の流れか

僕も金ペン堂で買ったペリカンで小説を書いた。大学時代に下手な小説を同人誌に載せたりしていたが、それが就職して初めて書いた小説だった。何年もかかって書いた。400字で80枚ほどの短編で、何度も推敲し書き直した。ペリカンで書くという行為がモチベーションを高めたのは間違いない。ペリカンを買ったから書けたのである。書き直したり加筆したり、原稿用紙がブルー一色になった。

その短編を文藝春秋社から出ている文芸誌「文学界」の新人賞に応募した。しばらくして一次選考通過作品として、「文学界」にタイトルと名前が掲載された。その時点で二次選考に落ちたことはわかっているのだが、それでも初めて応募した小説が一次選考を通ったことに有頂天になった。高校時代や大学時代の友人たちに電話して報告(自慢)した。

その一年後に別の作品を応募し、また一次選考通過作品としてタイトルと作者名が掲載されたが、今度はひどく落胆した。「前の作品が一次選考を通ったのなら、今度はもっといくだろう」と期待していたし、それなりの自負もあったのだ。しかし、それは己を知らない過信だったと思い知らされた。評価は他人がするもの、自己評価は何の意味もない。そんなことが身に沁みた。

ペリカン万年筆は、その効力を失った。元々、神通力などはなかったが、人の心は何がきっかけで高揚するかわからない。ある時期、僕にとってペリカンは「幸運を呼ぶ筆記具」ではあった。それを握って原稿用紙に向かえば、何かが湧き起こり、文章を連ねることができた。僕は原稿用紙を埋めることに熱中し、少しずつ増えていく紙の束に自分の夢を託した。

だが、夢は叶わない。ときは過ぎ、人は馬齢を重ねる。現実の生活がのしかかる。子供が生まれ、仕事に追われる。そのうち仕事が面白くなる。労働組合の委員長を引き受けることになり、そのまま上部団体である出版労働組合連合会の役員まで引き受けた。仕事と組合で時間を取られ、いつの間にか30代が過ぎた。気が付くと、40が目の前に迫っていた。

その間、ペリカンは何をやっていたのか。いつも僕の胸ポケットに刺されてはいたが、仕事の原稿は水性ペンで書いた。筆圧をかけず、なぞるように書けたからだ。仕事の原稿は時間との勝負だ。どれだけ早く書けるか、どれだけわかりやすく正確に書けるか、それが重要だった。毎朝、上司に提出する業務レポート、経費伝票、たまに出す出張申請書などでしか、ペリカンが活躍することはなかった。

30を過ぎた頃、初期のシャープ「書院」を買った。タイプライタータイプのワープロは、液晶画面に26文字しか表示されない。僕はタイプライター方式に切り替え、文字を打つと同時に感熱紙に印字されるようにして使った。打ち終えて校正し、データを修正して再度プリントする。労働組合の委員長だった頃、そのワープロで初めて組合の情宣ビラを作成したら、「手書き文字の迫力がない」と評判が悪かった。

その後、9インチ液晶の箱形ワープロ、続いてA4ノートタイプの「書院」を購入し、さらにB5の小型ワープロを買った。1994年、デジタル写真誌を手がけることになり、Macのパフォーマを購入した。以来、何台のMacやウィンドウズ・パソコンを購入したことか。投入金額は200万。150万だという金ペン堂にある最高級万年筆を購入してもお釣りがくる。しかし、万年筆にパソコンの仕事はできないし、パソコンに万年筆の役はできない。

そこで、先日、万年筆の修理を依頼しようと思って、ネットで金ペン堂を検索した。37年前、親身になって相談に乗ってくれたご主人は引退し、今は息子さんが店に出ているという。ところが、ネットでいろいろな万年筆を見ているうち、僕は新しいものがほしくなった。今までのものはもちろん使い続けるが、インク漏れは直せてもキャップが割れている。そろそろ新しい万年筆を買っても、バチは当たるまい。そう言い聞かせながら物色中なのだけれど、なかなか決められない(ケチなんですね、きっと)。

さて、僕の脳裏に刻み込まれたインクで書かれた美しい文字は、「ドクトル・ジバゴ」(1965年)に登場する。雪に閉じ込められた田舎の家に着いたジバゴとラーラ。ジバゴは書斎に入り机に向かうと紙とペンを取り出し、「ラーラ」と筆記体でタイトルを書く。愛する人の名を冠した詩集を書き始めるのだ。ただし、万年筆は似合わない。羽根ペンをインク壷に浸して書き始めた...と記憶している。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951
>

還暦祝いを親兄弟からもらった。会社の同僚と退職した先輩が祝宴を開いてくれた。友人も酒席を設けてくれ、兄弟分は「カントとカモノハシ」上下巻を贈ってくれた。特に赤いちゃんちゃんこは着なかったけれど...

●第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」受賞!!
既刊三巻発売中
「映画がなければ生きていけない1999-2002」2,000円+税(水曜社)
「映画がなければ生きていけない2003-2006」2,000円+税(水曜社)
「映画がなければ生きていけない2007-2009」2,000円+税(水曜社)
●朝日新聞書評欄で紹介されました。紹介文が読めます。
< http://book.asahi.com/book/search.html?format=all&in_search_mode=title&Keywords=%E6%98%A0%E7%94%BB%E3%81%8C%E3%81%AA%E3%81%91%E3%82%8C%E3%81%B0%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%91%E3%81%AA%E3%81%84&x=20&y=18
>