映画と夜と音楽と...[530]人は歳を重ねて寛容になれるか?
── 十河 進 ──

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〈シリアスマン/再会の食卓〉

●きちんと仕事をしようとすれば人に厭がられることもある

足かけ29年、専門誌の編集をして管理部門に異動し、もう丸8年が過ぎた。編集者時代は、一緒に仕事をしていない人には穏やかな人間に見えたらしく、「やさしそうなソゴーさん」と思われていたようだ。初めて編集長になり、スタッフを抱えたのは38歳のときだった。別の編集部からの異動で僕のスタッフになったひとりは、数ヶ月後、僕にきつく注意され「仏のソゴーさんだと思っていたのに...」とつぶやいた。

その後、何誌か編集長を務めたが、気楽だったのはひとりで不定期のムックを作っていたときだった。スタッフができると、どうしてもその人の仕事に不満が出て、つい口調が尖ったものになった。Aくんとふたりで季刊のデジタルデザイン誌を編集しているときは、周囲からはうまくいっているように見えたらしく、「あそこの上司と部下は相思相愛だから」と言われたことがある。

確かに、いろいろ組んだ中でAくんには安心して仕事がまかせられたし、仕事ぶりも誌面の仕上がりにも不満はなかった。何より仕事に対して真摯だった。しかし、Aくんから言わせれば、僕はいつも怒っていたし、自分がやった仕事以外はどれも不満に思っていると見えたらしい。当たっていないことはないと思うが、それほど狭量だったつもりはない。もっとも、上司と部下の関係の中で、部下がどう思っているかは想像の外だ。

管理部門に異動になったのは、だらしない編集者が多い中で、僕が「きちんとしていた」かららしい。確かに、いろんな意味で編集者は社会人として不適格な人が多いし、本を作ること以外に頭がまわらない。そんな中で僕はいつも締め切り前に入稿し、残業も少なく期日通りに(ときには発売日前に)雑誌を仕上げた。制作経費も事前に予算を組み、その枠内で納めた。まるで期日通りに予算内で映画を撮り終える職人監督みたいだ。

そんなところが見込まれたのだろう。50を過ぎたときに、総務経理部に異動になった。総務経理部と言っても、編集と営業・広告以外のすべての仕事をやらなければならない。労務、法務、庶務、財務、人事、経理...といった内容だ。会社の年間計画の立案も担当した。原価管理も仕事のうちだった。最近では、印刷会社や用紙会社への発注も受け持っている。大きい出版社だと、それだけの仕事で制作管理部や資材部がある。




管理部門に異動してしばらく経った頃、「ソゴーさん、人が変わった」と言われていると聞こえてきた。「あんな人だとは思わなかった」と、憤慨している人もいるという。「ソゴーさん、評判悪いですよ」と忠告してくれた後輩もいた。思い当たることは、いろいろあった。

労務担当として組合に対して強硬な態度に出たこともあるし、ビルの窓を開け放したまま帰るような、だらしない編集部員たちに毎日のように小言を言った。僕は、新しい仕事で張り切っていたわけではない。自分の仕事はきちんとやらなければ...と思っていただけだったが、「規律」や「綱紀粛正」という字が歩いているようだったのかもしれない。それでも、何度言っても直らないことに苛立っていた。

たとえば、会議室を誰かが使い終わって見にいくと、椅子があちこちの方向に出しっ放しになっている。テーブルにコーヒーのシミができていたりする。テーブルの下にメモ書きが落ちている。僕はテーブルを拭き、椅子をテーブルに並べて入れ、排煙窓を開けて換気する。67歳でリタイアした僕の前任者は、ずっとひとりでそんなことをやっていた。「取締役がそんなことやらなくても...」と、総務の仕事を引き継ぐときに僕は言った。

しかし、人のよい前任者は「何度注意しても直らないんだよ」と鷹揚に、しかし、あきらめ顔で笑った。だから、僕は管理部門に移った当初、そうしたことを社内の全員メールで流して注意したし、経費請求や休暇の届けなどについても不備があると厳しく対処した。今から思うと、杓子定規だったかもしれない。寛容ではなかった。それは、おそらく管理部門の仕事に慣れていなかったからだと思う。

あれから8年が過ぎ、会議室の跡片付けには何の改善も見られない。その他のことも、8年前と同じだ。いや、もっとだらしなくなっているかもしれない。しかし、いちいち目くじらを立てていたら、毎日、苦虫を噛みつぶした顔になる。諦めたのか、寛容になったのか、仕事に慣れ見切りができるようになったこともあるのか、最近の僕は、たまにきちんとした対応に出会うと、それだけでうれしくなる。

できて当たり前なのだが、「人間て、そうキチンとはできないよなあ」と思えるようになった。人に期待することが少なくなったのだ。いつの間にか、前任者のようなあきらめ顔になっているのかもしれない。鷹揚さも引き継ぎたいと思うけれど、まだどこか尖っている部分があるのは自覚している。それでも、歳と経験を重ねて寛容になったのだろうか。

●「身に降りかかる出来事をあるがままに受け入れよ」という教え?

映画や小説の主人公が理不尽な目に遭っているのに、まったく怒らなかったり、あるいは相手がカサにかかって無茶な要求をしているのに、主人公がいつの間にか受け入れたりする。そんな場面を見ると「どうして怒らない、拒否しない」と苛立つくせに、「現実に自分がそんな目に遭うと、同じような対応をするかもしれないな」と思うことがある。

相手から理不尽なことをされているのに、さらにつけ込まれたり、もっとエスカレートした要求をされたりしたとき、もしかしたら僕も受け入れてしまうのではないかと思ったのは、バーナード・マラマッドの短編「最後のモヒカン」を読んだ高校生のときだった。中央公論社が出していた文芸誌「海」の海外作家特集で紹介された一編だった。その短編は、世の中は不条理に充ちていることを僕に刷り込んだ。

不思議な小説だった。そんな物語を読んだのは初めてだった。「最後のモヒカン」の主人公フィデルマンは画家になる夢に挫折し、イタリアの画家論を書いて世に出ようとローマにやってくるが、到着した途端にペテン師に鞄を盗まれる。その中には大事な草稿が入っているので、彼は必死でペテン師を探す。しかし、探し当てたペテン師に翻弄され、さらに金や洋服を渡すはめになる。

現在の言葉だと、フィデルマンは完全な「M男」である。自虐的だし、優柔不断で、何かが起これば「自分が悪いのかもしれない...」と自省するタイプだ。主人公としては歯がゆいのだが、そのキャラクターが深く僕の中に落ちた。もしかしたら、自分はそっくりなのじゃないか、と10代の僕は思った。当時、その短編に触発されて書いた小説がある。主人公は被害者なのに、どんどん自分を追い詰めていく物語になった。

マラマッドは最もユダヤ人的な作家と言われ、ユダヤ人であることにこだわった物語を書いた。その後、僕もいろいろな知識を吸収し、マラマッドが創り出したフィデルマンというキャラクターは、迫害され続けてきたユダヤ人を象徴する存在ではないかと考えた。迫害され、差別されてきたユダヤ人。その歴史があるから、フィデルマンのようなキャラクターが現出したのではないか。

コーエン兄弟の「シリアスマン」(2009年)を見たときに僕が思い出したのは、マラマッドの「フィデルマンの絵」(フィデルマンの連作短編集)だった。「シリアスマン」の主人公マイケルはユダヤ人の大学教授。1960年代、彼の一家はアメリカ中西部のユダヤ人コミューンに住んでいる。息子はユダヤ人学校でヘブライ語を学び、マイケルが相談にいく相手はユダヤ教の司祭(ラビ)である。

シリアスマン(真面目な男)であるマイケルなのだが、ある日、突然、「あなたは大人なんだから、冷静な対応をしてね。こんなことで感情的になったらダメよ」と妻に前置きされたうえで、知人の男と愛し合っていると告げられる。その男と妻と三人で会うと、「子供たちを巻き込んではいけないから、きみが家を出るのが一番だ」と妻の不倫相手に言われる。

妻に「きみが彼の家にいけばいい」と言うと、妻と相手の男に何てバカな提案をするんだと言わんばかりに唖然とされ、「きみが近くのモーテルで暮らすのが最良の選択だ」と説得される。経費もすべて自分で払うことになる。不倫をしたのは妻であるのに...、彼は納得のいかないまま相手の提案を受けてしまう。歯がゆい態度だが、実際にはそんなものかもしれないと僕は思った

大学では韓国の留学生から「単位をくれるか。再試験をしてほしい」と頼まれる。どちらも拒否すると留学生は帰るが、机の上を見ると札束の入った封筒がある。露骨な賄賂だ。マイケルは金を返そうとするが、父親が出てきて「息子は賄賂など渡していない。名誉毀損で訴える」と言う。「訴訟がイヤなら単位をよこせ」と居丈高だ。学生が金を置いていったことを証明できないマイケルは、反論できない。

自宅に帰ると、隣のマッチョな主人がマイケルの家の芝刈りをしている。「そこはうちの庭だ」と抗議すると、「境界はあの木までだ」と隣の主人が主張する。相手に強く出られると、マイケルは承伏していないにもかかわらず、反論を控えてしまう。すべてが、そんな風に過ぎていく。彼は争いがイヤなのか、諦めが早いのか、あるいは...寛容なのだろうか。

──身に降りかかる出来事を あるがままに受け入れよ

ユダヤ教の教えの中にあるのかもしれないが、「シリアスマン」の冒頭には、そんなフレーズが象徴的に掲載される。二千年にわたって疎まれ、差別され、迫害され、虐殺されてきたユダヤ人の諦念なのだろうか。すべては神がなさることだから、あるがままに受け入れよという教えなのか。このフレーズを読んで、諦念と寛容はセットなのだと僕は気付いた。

●どんなに諦めきった人も完全に寛容になることはできない

諦めることができるのは、どんなときだろうか。最近、「人間はいつか死ぬ。どっちにしても大差はない」などと僕は悟ったようなことを口にするが、それは自分が60歳を越えたことが影響している。充分生きたと思うし、それなりの経験をしてきた。結局、人間はわかりあえないし、自分のことさえ完全には理解できない。そんな諦念があるから、たいていのことは受け入れられる。人は年令を重ね、経験を積み、死に近付くことで寛容になれる。

それでも、40年も連れ添った妻の元に40年前に生き別れた最初の夫が現れ、妻を連れ去りたいと言い出したとき、「それはいいことだ」と祝福することは僕にはできないだろう。妻もその男と暮らした一年を「そこには愛があった」と言い、「あなたとの間には感謝がある」と続ける。そんなことを言われたら、自分と妻の長い年月は何だったのだと、足下から何かが崩れていく崩壊感に襲われる。妻や相手の男を罵ることはないだろうが、寛容な態度がとれるはずはない。

しかし、「再会の食卓」(2010年)のルーは、男と共に台湾へいくという妻を祝福し、相手の男が渡すという大金を、「もうすぐ死ぬ。金などいらん」と辞退する。子供たちにも話をしなければならないと言い出し、自らが子供たちを説得する。強く反対する長女に「おまえは出ていけ」と言い放つ。ルーは、寛容なのだろうか。底抜けのお人好しなのだろうか。妻の幸せだけを願っているのだろうか。

日本の敗戦後、中国本土では蒋介石が率いる国民党軍と毛沢東の中国共産党軍による内線が続き、1949年、国民党は敗れて台湾へ逃げる。中国本土には中華人民共和国が設立され、現在に至る。リウは、そのとき、国民党兵士として台湾へ渡るのだが、港で待ち合わせた妻子とは会えない。リウとはぐれた妻のユィアーは生まれたばかりの長男を抱え、国民党兵士の妻と指弾されながら共産党政府の下で生きていかなければならない。

その子持ちのユィアーを愛し、周囲の反対を退け、共産党軍の幹部だった地位を投げ出してホーは結婚した。以来、造船所の溶接工として貧しいながらも二人の娘を得て、ホーとユィアーは共に生きてきた。リウとの間に生まれた男の子も、我が子として育ててきた。ところが、40年後、ユィアーに台湾で生きてきたリウから手紙が届く。長く対立していた共産党政府と台湾政府の間で合意ができ、リウが故郷である上海に戻れることになったのだ。

やってきたリウをホーは歓迎し、狭い我が家に泊め、毎日、ごちそうで歓待する。だが、リウとユィアーは愛を確かめ合い、「一緒に台湾にきてほしい」と言うリウにユィアーは頷く。ホーも快諾し、家族会議になる。リウの息子である長男は「あんたを父親とは思えない」と拒否するし、長女は強硬に反対し、次女の夫は金を要求する。そんな家族の反応を見て、ホーは「かあさんと離婚する」と言い出す。

ここからの展開は、喜劇的だ。ホーとユィアーは正装して役所に出かけ、「離婚したい」と言うと、「結婚証明書を持ってこい」と言われる。「混乱していた時代だから、そんなものはない」と答えると、「結婚していなければ、離婚はできない」とあくまで役人は杓子定規である。「困った。今日中に離婚しなければならないんだ」と、ホーはリウが台湾に帰る日程を数えて焦る。

結局、40年連れ添った夫婦は結婚証明書を作って結婚し、すぐに離婚をすることにする。それを思いついたホーは、ホッとしたように朗らかだ。結婚証明書のために結婚写真を撮りにいき、「老いらくの恋を実らせたのですね。いい写真に仕上げますよ」と写真館の技師に言われ、ホーはニコニコと機嫌がいい。そのホーの態度が理解できなかった。妻を最初の夫の元に戻すため、懸命に動きまわるホーが僕の妙な感情を掻きたてる。

ホーは何かというと「もう死が近い」と言う。だから、何かにこだわっても仕方がない...と続くのだろう。彼は何でも受け入れる。寛容である。寛容とは、悟りや人格に関わるものではなく、諦めによって生まれるものではないのか、諦念に裏付けされたものなのだと僕は思った。もっとも、「人はいずれ死ぬ」と静かに死を受け入れるのも悟りなのかもしれないが...

にこやかに妻との離婚手続きを進めるホーを見ていると、不意に昔読んだウィリアム・サローヤンの「我が名はアラム」(三浦朱門訳)に出てきた人物を思い出した。その連作短編集はアルメニアからアメリカに移住した一族のことを、主人公のアラム少年の視点から描いているのだが、何かというと「大したことはない、ほっとけ」と言う変人の伯父が登場する。

その伯父は床屋まで走ってきた息子が「家が火事だ」と言っても、「大したことない、ほっとけ」と無関心だし、「馬がいなくなった」と訴える農夫に「大したことはない、馬がなくなったのが何だ。おれ達は皆、故国を失ったじゃないか」と答える。何か大切なものを失ったら、それ以上のものを失うことを考えれば、何事も「大したことない」と思えるのかもしれない。10代だった僕は、その人物の言葉でそんなことを学んだ。

しかし、人間はそう簡単にすべてを諦め、寛容になれるはずはない。「再会の食卓」も後半、意外な(あるいは予想通りの)展開を見せる。中国共産党支配下の中国で生きてきた夫婦だ。国民党と共産党の対立があり、文化大革命があった。天安門事件もあったし、その後の経済発展もあった。ホーは、その渦中を妻や子を守って生き延びてきたのだ。いくら死が近いのを自覚し、何かにこだわることの愚かさを悟ったとしても、自己の存在の根幹に関わることに寛容であることはできない。それは、誇りと自尊心の問題である。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com http://twitter.com/sogo1951
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金曜日に休暇を取り三連休の予定だったのに、金曜日の早朝にひどい腹痛と嘔吐に襲われて七転八倒。ノロウィルスにでも感染したかと思ったが、金曜日の夕方には何とか回復。それでも土日はずっと部屋に籠もってゆっくりしていた。「あしたのジョー」実写版をWOWOWで見ながら...。

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