映画と夜と音楽と...[530]ふりむくな、後ろには夢がない
── 十河 進 ──

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〈あしたのジョー/ボクサー/サード/涙を、獅子のたて髪に/無頼漢〉


●CGで創り出された「あしたのジョー」の世界

先日、WOWOWで実写版「あしたのジョー」(2010年)を見た。最近のCG技術を使って、昭和40年代当時の街並みを再現していた。「あしたのジョー」の連載が始まったのは、昭和43年(1968年)である。原作はそれより以前の時代を背景にしているから、ドヤ街が現実的だった頃でなければ物語としてのリアリティは出ない。あの頃はみんな貧しく、誰もがハングリーな時代だった。

珍しくカミサンとソファに並んで見ていたのだが、「昔、丹下段平をやったのは、重慶ちゃんよね」とカミサンが言う。最初の実写版「あしたのジョー」(1970年)は、新国劇の役者が中心だった。矢吹丈が石橋正次、力石徹が亀石征一郎、丹下段平は辰巳柳太郎である。監督は長谷部安春。同じ年に、名作「野良猫ロック・セックスハンター」「野良猫ロック・マシンアニマル」を作っている。

「藤岡重慶は、アニメで丹下段平の声をやったんだよ。ジョーの声はあおい輝彦...」と僕は訂正した。すぐに少しつっけんどんだったかなと反省し、「藤岡重慶の風貌は、丹下段平みたいだったけど...」と付け加えた。僕らの世代で藤岡重慶と言えば、小学生の頃にNHKで放映されていた「事件記者」の刑事役を思い出す。その後、映画やテレビで悪役(ヤクザか刑事役ばかりだった)を演じた。

一度だけ、ご本人を見かけたことがある。もう30年以上昔のことだ。新宿の靖国通り沿い、伊勢丹会館の前だった。派手なシャツを着て歩いていた。「あっ、藤岡重慶だ」と僕は立ち止まり、ぶしつけな視線を向けジロリと睨まれた。凄みがあり、僕は身を引く感じになった。それだけのことだったが、妙に憶えている。よほど印象が強かったのだろう。

カミサンが一緒だった記憶がある。結婚して4年ほど阿佐ヶ谷に住んでいて、新宿にはよく出かけていたから、たぶんその頃のことだ。あのとき、「あっ、重慶ちゃんだ」と、カミサンが言ったのではなかったか。その頃からカミサンは「重慶ちゃん」と呼んでいた。もしかしたら、ああいうワイルドでタフなタイプが好みなのだろうか。だとしたら、なぜ僕と結婚しているのか謎である。

そんなことを思い出しながら「あしたのジョー」を見ていた。ボクシングシーンもCGでダイナミックに見せているが、作りものめいていてちょっとシラける感じもあった。伊勢谷友介の力石徹は雰囲気を出していてよかったのだが、マンガ通りにジムにたくさんの石油ストーブを置いて汗を流す過酷な減量シーンでは、「おいおい、それじゃあ火傷するだろう」とツッコミを入れたくなった。




僕らの世代にとって、「あしたのジョー」は単なるマンガではない。ひとつの神話である。1968年正月号から連載が始まった「あしたのジョー」は2年後、力石徹との死闘を数週間にわたって描き、当時の夢枕獏に「来週の『あしたのジョー』を読むまでは死ねない」とまで思わせた。1970年4月、よど号ハイジャック犯たちは「我々は、あしたのジョーである」と言い置いて北朝鮮に亡命した。

そう、1970年のことだった。矢吹丈との死闘に勝利した力石徹の死を、日本中の若者たちが悲しんだのだ。そんな若者たちの悲しみを癒すために、マンガの登場人物としては初めて現実の葬儀がおこなわれた。中心になったのは劇団「天井桟敷」であり、「天井桟敷」を主宰し、劇作家、詩人、歌人、小説家、映画監督と多彩な肩書きを持つ寺山修司が葬儀委員長を務めた。3月24日のことだった。

その年の4月からテレビで「あしたのジョー」のアニメが始まった。パセティックな主題歌が話題になった。歌手は尾藤イサオ。リズム・アンド・ブルースのようにソウルフルに歌った。作曲はジャズ・ピアニストの八木正生。歌詞を書いたのは寺山修司だった。「サンドバッグに浮かんで消える」と聴こえてくると、背中がゾクゾクした。「明日はどっちだ」と終わると、己の明日を思った。僕は18歳だった。

●ボクサーを過剰に愛した寺山修司という詩人

寺山修司は、過剰にボクサーを愛した。彼の長編第一作「あゝ、荒野」は、ふたりのボクサー志望の少年の話である。昨年末、蜷川幸夫演出、松本潤・小出恵介主演で舞台化された。「なぜ、今...」と僕は思ったが、蜷川幸夫にとって「天井桟敷」の寺山修司、紅テント「状況劇場」の唐十郎は同時代人であり、先行する気になる演劇人だったのだろう。

寺山修司は菅原文太の要請に応えて、東映で「ボクサー」(1977年)という映画を監督した。元チャンピオンが菅原文太、若いボクサー役は「失恋レストラン」をヒットさせ人気があった清水健太郎である。当時、「へぇー、寺山修司が東映作品ねぇ」と、商業映画とは一線を引いているようだった寺山修司が監督を引き受けたことに驚いた。ボクサー映画だから監督したのだろう。

先日、寺山修司作だと聞いた「ふりむくな ふりむくな 後ろには夢がない」というフレーズを探したくなって、自宅にある寺山修司の本を見てみたら「ポケットに名言を」という文庫本が出てきた。10年前に買ったものだ。寺山修司が亡くなったのは29年も前なのに、10年前でもまだ文庫が入手できたのだ。その中で寺山修司は、こんなことを書いていた。

──少年時代、私はボクサーになりたいと思っていた。しかし、ジャック・ロンドンの小説を読み、減量の苦しみと「食うべきか、勝つべきか」の二者択一を迫られたとき、食うべきだ、と思った。Hungry Youngmen(腹の減った若者たち)はAngry Youngment(怒れる若者たち)になれないと知ったのである。

ちょっと言葉遊びのような感じがしないでもないけれど、元来、寺山修司は言葉を操るのに長けた人だった。あの有名な「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」という短歌は、彼が10代で書いたものだ。早熟な才能だった。その後、20代半ばで戯曲やシナリオを書き、30代半ばで「書を捨てよ、町に出よう」(1971年)を監督し、サンレモ映画祭でグランプリを獲得する。

しかし、僕は寺山修司の監督作よりシナリオを担当した作品の方が肌に合う。主に篠田正浩監督と組んだものだが、初期の「涙を、獅子のたて髪に」(1962年)や「無頼漢」(1970年)は印象深い作品だった。その頃、松竹には寺山の早稲田大学時代の仲のよい友人だった、山田太一が助監督として木下恵介監督の下にいた。昔、映像作家かわなかのぶひろさんの作品を見ていたら、寺山修司の葬儀が記録されていて弔問にきた山田太一が写っていた。

寺山修司がシナリオを書いた、東陽一監督の「サード」(1978年)も僕の好きな作品である。人を殺して少年院に収容されている「サード(三塁手)」と呼ばれる少年(永島敏行)の苛立ちを描いた作品だった。サードはガールフレンドの売春を斡旋し、相手のヤクザとトラブルになって殺してしまい少年院にいる。面会にくる母親(島倉千代子)にも心を開かない。サードがダイヤモンドを何度も何度も全速力で走るシーンが記憶に残っている。

収容されている少年たちの中に、「短歌」と呼ばれる少年がいる。彼は、短歌で少年院の生活を描写する。彼が口にするのは短歌だけだった印象がある。その短歌がよくできていて、いかにも寺山修司らしい味付けになっていた。登場する少年少女は全員が渾名で、少女たちは「新聞部」「テニス部」と呼ばれ、「サード」とつるむ少年は「2B」だった。

●言葉を魔法のように自由に操った寺山修司のセンス

「涙を、獅子のたて髪に」というタイトルを映画雑誌で見たのは、高校生のときだったろうか。「なんて、かっこいいタイトルなんだろう」と10代半ばの僕は興奮した。詩の一節を口ずさむように、ときどき僕は「涙を、獅子のたて髪に」とつぶやいた。このタイトルは寺山修司のセンスに違いない。主演は藤木孝と加賀まりこである。しかし、映画そのものはなかなか見る機会がなかった。

ようやく「涙を、獅子のたて髪に」を見たのは公開から20年以上がたったときだった。公開当時、ロカビリーの人気歌手だった藤木孝の不良性が観客にはストレートに受け取られたのだろうが、そんな時代の雰囲気に寄りかかった要素がはぎ取られた結果、僕には古さばかりが目立った。加えて、物語がエリア・カザンとマーロン・ブランドの「波止場」(1954年)に似ている気がした。

もっとも、古さを感じながら見ていると、逆の面白さが湧き上がってきた。「こんな昔から、こういう感性があったのか」という驚きである。若者の風俗を描いている部分が古くなるのはやむを得ないのだが、いつの時代も同じなんだなあと思わせるものが随所にある。それに、加賀まりこが幼くて可愛いのが発見だった。若き岸田今日子がアンニュイな雰囲気を醸し出し、妖女ぶりが楽しかった。

もしかしたら寺山修司はマーロン・ブランドが好きだったのだろうか、と「涙を、獅子のたて髪に」を見終わったとき、不意に思った。物語は、間違いなく「波止場」にインスパイアされている。それにマーロン・ブランドには、「若き獅子たち/THE YOUNG LIONS」(1958年)という作品がある。「涙を、獅子のたて髪に」の4年前の公開だった。

「無頼漢」は、上京して初めて封切館で見た日本映画だった。安い名画ではなく高い入場料を払ったのだから、よほど見たかったのだ。篠田正浩監督作品で、仲代達也、丹波哲郎、岩下志麻、太地喜和子らが出ていた。原作は河竹黙阿弥だった。いわゆる「天保六花撰」の話である。仲代達也は直侍こと片岡直次郎、丹波哲郎は河内山宗俊、岩下志麻が三千歳、金子市之丞が米倉斉加年、暗闇の丑松が小沢昭一、森田屋が渡辺文雄だった。

僕は、歌舞伎に関しては何の知識もないので、「無頼漢」を見たときも元ネタがわかるまでに時間がかかった。友人のTが「無頼漢」を見た後、僕の下宿にやってきて、「あれ、天保六花撰だぜ」と言ったときも僕はキョトンとしていた。「『とんだところに、北村大膳...』ってセリフがあったろ。『きた』と『きたむら』をかけてて、いかにも歌舞伎だろ。寺山修司はああいうところ、ホントに言葉のセンスいいよな」とTは言った。

歌舞伎の見せ場なのだろうが、河内山宗俊が高僧に化けてある大名屋敷に乗り込み大金をせしめて帰ろうとしたとき、「あいや、待たれい」などと言いながら北村大膳なる者が現れ、お数寄屋坊主の河内山宗俊だと正体がばれるところで「とんだところに、北村大膳」という七五調の長台詞を丹波哲郎が言う。語呂がいいから、一度で耳に残る。元は歌舞伎らしい、と僕も気付いてはいた。しかし、Tに言われるまで、僕は脚本が寺山修司だとは気付かなかった。

●夢は前にしか存在しないことを気付かせてくれた

前述のように、先日から「ふりむくな ふりむくな 後ろには夢がない」というフレーズの出典を探していた。「さらばハイセイコー」という詩だ。しかし、僕が持っている寺山修司の詩集には入っていなかったし、何冊か持っている本を探しても出てこなかった。なぜかネットで検索するという発想が浮かばなかった。寺山修司が29年も前に死んだ人だったからだろうか。

そんなとき、会社で営業部のTくんに呼び止められ、iPadで写真を見せられた。「寺山修司記念館ですよ」と言う。旅行好きのTくんは、最近、寺山修司記念館にいったのだった。妙な暗合に少し驚いたが、その写真を見せてもらった。記念館の入り口に等身大らしい寺山修司の写真が立っていた。青森県三沢市にあるという。

翌日、Tくんは記念館で買ったという分厚い資料集二冊と薄手のフィルモグラフィーを一冊を持ってきてくれた。それを眺めると、寺山修司という天才の幅広い活動歴がわかる。短歌、詩、小説、歌詞、演劇、映画など、あらゆる表現分野で実績を遺している。改めて、凄い人だったなあ、と思う。

僕は大学生の頃から浅川マキのアルバムを愛聴しているが、「かもめ」を始め寺山修司作詞の歌は多い。大ヒットしたのはカルメン・マキが唄った「時には母のない子のように」(元ネタはジャズの名曲だが)である。尾藤イサオが唄った「あしたのジョー」の主題歌は広く知られているけれど、フォーリーブスや郷ひろみの歌まで作詞しているとは知らなかった。

寺山修司は、競馬の世界でも有名だ。彼は、終生、競馬を愛した。競馬好きが昂じて、馬主にまでなった。「たかが競馬、されど競馬」というフレーズも寺山が書いて広まった。僕が探していた「ふりむくな ふりむくな 後ろには夢がない」というフレーズも競馬を描いたものである。

そのフレーズに僕が強く反応したのは、僕自身が「夢」にこだわっているからだろう。僕は人が生きることには、本来、何の意味もないと思っているが、生きる意味を生み出すのが「夢」だと考えている。人は何らかの生きる意味を持って生まれてくるのではなく、自分で生きる意味を創り出すしかない。それが「夢を持つこと」なのだ。

どんな「夢」だっていい。人に話したら笑われるかもしれない「夢」でも、その人にとっては「夢」である。「夢」を抱かずに生きるのは辛い。「夢」を持たず、さらに何の希望もなくなれば、生きている必要はなくなる。そして、「夢」は前にしか存在しない。実現した「夢」は、「夢」でなくなる。過去に「夢」はない。後ろに「夢」はない。だから、振り返っても意味はない。

そんな風に考えていた僕に、「ふりむくな ふりむくな 後ろには夢がない」というフレーズは深く深く落ちた。それは、ハイセイコーという名馬の引退を惜しんで寺山修司が記したものだという。何頭もの馬がゴールをめざして疾走するイメージが頭に浮かんだ。「ゴール=夢」をめざし、ただ前を向いて走っている馬たち。「ふりむくな」か...、何てうまい言葉を使うのだろう。

結局、ネットで検索したら簡単に「さらばハイセイコー」という詩がヒットした。「ふりむくと...」という言葉で始まるパラグラフが17回くり返され、18回目のパラグラフにようやく「ふりむくな ふりむくな 後ろには夢がない」というフレーズが現れる。そして、そのパラグラフの最後は、こう締めくくられていた。

ハイセイコーがいなくなっても
全てのレースが終わるわけじゃない
人生という名の競馬場には
次のレースをまちかまえている
百万頭の名もないハイセイコーの群れが
朝焼けの中で追い切りをしている地響きが聞こえてくる

そう、夢を追ったのはハイセイコーだけじゃない。夢を実現したのもハイセイコーだけではない。百万頭の名もない馬たちが、みんな、夢を追って馬場を駆け抜けているのだ。絶え間なく、次から次へ、永遠に...続いていく。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951
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