映画と夜と音楽と...[533]友だちの恋人はきれいに見える?
── 十河 進 ──

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〈友だちの恋人/心/それから〉

●迷いがなく一直線に目標に向かって脇目もふらず歩く少女

凄い世の中になったものだ、とうなった。あることをネットで検索しようとしたら、30年以上も音信を断っていた人の消息がわかってしまったのだ。もちろん、どこで何をしているかは知っていたのだが、その人の写真と共に現在の肩書きまで出てきた。「へえー、すごく偉くなったんだ」と反応するしか、僕には方法がなかった。複雑な気持ちが甦る。

それは、3年ほど前の写真だった。ある美術館のトークショーに、彼女は出ていた。相手は美術評論家である。中央で片手にマイクを持ち質問に答えているのだろうか、表情がわかるほどの大きさではなかったが、間違いなく彼女が醸し出す雰囲気がうかがえた。パステル調の薄いブルーのジャケットがよく似合っている。ショートヘアーが大学生の頃の彼女を思い出させた。

肩書きは、大手出版社の総合編纂局総合編集第一出版部の部長となっている。苗字はJだ。そうか、まだJと結婚していたのか、いつから戸籍名を名乗っているのだろう。20数年前、ある写真家の事務所で彼女と同じ会社の月刊誌編集者に会ったときに「......さん、元気ですか」と旧姓で訊ねたら、その人はなぜか苦笑いしながら「ご存知なんですか?」と問い返し、僕は「高校が同じなんです」と答えた。

才色兼備、優等生、お嬢様...、そんな言葉が歩いているようだった。歩き方に迷いがなく、一直線に目標に向かって脇目もふらない。関係ないものには目もくれない、という歩き方だった。だから、早足になる。追いつくのが大変なほどの早さだった。あの頃、僕の教室の前の廊下をあっという間に通り過ぎたものだ。僕は、彼女に「スタスタ」という渾名を付けた。




「好きだったか」と問われれば一瞬、首をひねって途方に暮れる。一時期、淡い憧れを抱いたのは事実だ。学校でその姿を探していたし、見付ければ目で追った。好きだったのだと思う。綺麗な人だったし、抜群に頭がよかった。その頭のよさを自覚している風だったが、うぬぼれていたわけではない。育ちがよく、自分の優秀さは当たり前のことだと思っていた。

金持ちは自分が金を持っていることなど意識しないし、優秀な人間は自分が優秀であることを意識しない。人間が、なぜ空気があり、なぜ息をするのかと意識しないのと同じことだ。だから、彼女に己を自慢する感じはなかった。人によってはそんなところがイヤミになるのだが、異性の僕から見ると魅力的に見えた。女生徒の評判は聞いたことはない。

彼女の存在を知ったのは、高校二年の初夏だった。二年になって僕は中学からの友人の紹介で、彼のクラスの二人の同級生と知り合いになった。IとJである。Jは高校一年ですでに新聞部の部長を経験しており、様々な伝説のオーラに包まれた男だった。Jはいろんな本を読んでいたし、いろんなことを知っていた。僕は圧倒され、Jに複雑な思いを抱きながらも心酔した。

Jは国立大学附属中学の出身だった。附属小学校から、そのまま中学まで出たのだ。それを聞いたとき「エリートじゃないか。よほど家がいいんだな」と、職人の家に生まれた僕はひがみを感じながら思った。「付属」と呼ばれていた小学校に入り、そのまま中学まで進んだとしたら優秀で金持ちの家の子に違いない。付属は月謝が高いと聞いた。我が家では、義務教育にそんな金は出せなかった。

僕の小学校は近くに刑務所があり、環境面では恵まれていなかった。僕が出たのは松島小学校というのだが、刑務所は通称・松島大学と呼ばれていた。その小学校から同学年でひとりだけ、附属中学に進んだ男がいた。中学から付属を受験して進学するのは、ひとランク落ちると思われていた(本当の金持ちの子は小学校から付属にいく)が、その男は成績が優秀だったので付属を受験し合格した。

僕も教師に附属中学の受験を勧められたけれど、そんなことは夢にも考えられなかった。職人の息子が通うような学校ではなかった。あそこは母親が運転する(あるいは運転手付きの)自家用車で迎えがくる連中がいく学校だと思っていたし、事実そうだった。Jの母親も自家用車を乗りまわし、日常的に市内のデパートで買い物をするような人だった。

そのJに中学時代からのガールフレンドがいると聞いたのが、高校二年の初夏の頃だ。「あの子だよ」と、一年後に体育祭でアジ演説をやって退学になるIが、廊下から指さして教えてくれたのが彼女だった。中庭に、友人と立ち話をしているスラリとした少女がいた。長い髪を両脇で束ねていた。背筋をスッと伸ばし、何の屈託も抱え込んでいない明るさがあった。Iが続けて言った。

──Jと同じ学年だったんだけど、病気をして一年休学したから、今年、うちの高校に入ったんだよ。

●友人の恋人を好きになりひとりで泣いたりする映画

「友だちの恋人」(1987年)という映画がある。日常的なことだけを描いた、非ドラマチックな映画である。エリック・ロメール監督作品は好きになるとクセになるが、そのドラマチックでないところがとてもよい。「友だちの恋人」は「喜劇と格言劇集」の第6話である。コメディとして作られているけれど、別に笑えるわけではない。

そこに登場する男女四人は、あなたや僕のような普通の人たちである。彼らは普通の会話をし、普通の生活を送る。ただ、様々ないきさつから大切な友人の恋人を好きになってしまい、それで自己嫌悪に陥ってひとり部屋で泣いたりする。しかし、街で偶然に友だちの恋人に逢うと、心をときめかしてしまうのだ。愛情は友情に勝るのかもしれない。

舞台はパリ郊外のニュータウン。市役所で仕事をしているブランシェは24歳。近くの大学に通う女子大生レアと知り合い友だちになる。レアは積極的な女性で、現在はファビアンという青年と一緒に暮らしているが、男友だちも多い。その男友だちのひとりとブランシェは付き合うようになるのだけれど、ある日、ファビアンと偶然に出逢い意気投合してしまう。

エリック・ロメール作品だから、そこから深刻なドラマが始まるわけではない。僕たちの日常と同じような時間が過ぎてゆき、いつの間にかそれぞれの相手が入れ代わっているという結末になる。よくある話である。ロメール作品は見ていると身につまされることが多いが、「友だちの恋人」も同じだ。身につまされ、若き日の恥ずかしかったことを思い出しみんな同じなんだなと慰められる。

僕が、いつ「スタスタ」と名付けた少女に好意を持ったのかは記憶にない。気が付くと彼女の姿を追っている己がいた。追っていると言っても、わざわざ彼女がいると思われるところに出かけていったわけではない。僕の教室の前の廊下をスタスタと歩いているのを見かけたとき、あるいは中庭や運動場にいるのを見かけたときなど、じっとその姿を見つめた。

その頃、彼女は新聞部に入部し、生徒会の役員をしていた。その頃の生徒会は付属出身のエリートたちが牛耳っていて、優等生ばかりが集まっていた。新聞部もJを中心に校内のオピニオンリーダーとして機能していた。学校に対する批判記事が多かったのは、Jが部長だったからだろう。ときは1968年、高校でも学園闘争の火が広がり始めた時代だった。

Jの彼女なのだ、と僕は言い聞かせた。しかし、Jはどちらかというと「俺には何人もガールフレンドがいるんだ」といった風を装うところがあり、「おまえが好きになったのなら、別にいいんだぜ」と僕に言った。僕としては気になる女の子という程度だったのに、そう言われると心が騒いだ。体育祭で誰かが盗み撮りした彼女の写真をもらい、文芸誌に挟んで持っていたのを思い出す。

●昔の日記を読み返してみると恥の感覚が甦る

ネットで3年前の彼女の写真を見付けてから、僕は昔の日記を読み返してみた。高校時代は、割にきちんと書いていたのだ。案の定、彼女のことがいろいろと出てくる。僕は16歳。その前年の秋に失恋し、「もう、女になんか惚れるものか」と幼い決意をした。失恋の反動で、いろんなことに積極的に参加しようとした。Jと頻繁に付き合ったのも、彼の様々な知識を吸収したかったからだ。小説や映画や音楽...、今も僕の生活を形作るものの原型は、あの時代に醸成された。

1968年9月6日の日記に、こんな記述があった。
「Fさんは一年七組の生徒委員になっていた。生徒委員会の途中、Jが話しかけてきて『全校回覧のノートを作ろう』と言う。命名は『イソップ』。イソップとは『うわさ』という意味であり、圧制下にある民衆が自衛のために考え出したものだという。『イソップでは......なんだそうだ』という風に話を広める。それを高高に作る。Jは、そう言った。そんな発想をするJを見ると、私(16歳の僕は私と記述していた)は自己嫌悪を感じる。なにもできない自分がふがいない」

Fさんというのが彼女のことである。この日記を見ると、Jはもう新聞部の部長を降りていたようだ。彼は学校内の様々なことをノートに記述して回覧する構想を抱き、僕に告げたのだった。学校や顧問の教師による検閲のない文書を出したかったのだが、アジビラを撒くという発想はまだなかった。それでも、僕はJにコンプレックスを感じている。その後、僕は生徒委員会の壇上で文化祭の説明を始めることになった。

「生徒委員会が終わって、私は一年生の前に立った。彼女がいた。私はあがった。顔を真っ赤にしながら説明した。自分でも何を説明しているのか、よくわかっていなかった。自分の説明で彼らが理解できるとは思わなかった。そして、彼女が質問をしたとき、再びあがってしまった。別の一年生が質問してきた。私よりずっと大人びていた。私はその男を憎んだ。そして、私自身も。その質問にはYさんが答えてくれた。私は逃げ出したくなった。誰かがもう一度説明してくれ、と言った。私は前に言ったことをくり返し始めた。途中からYさんの詳しい説明が入ってきた。私は口をつぐんだ」

Yというのは、僕と一緒に文化祭の準備委員をやっていた女生徒だ。彼女とは親しい間柄だったが、こんな風に助け船を出してもらっていたのだと、改めて記憶が甦ってきた。その日、僕は説明が終わって教室の前で、Yさんと話しながらFさんが出てくるのを待っていた、と書いてある。その後の日記には、立て続けにFさんのことが出てきた。

9月12日には「Fさんが私に冷たいのは仕方がない。しかし、何かわびしい。5時限が終わり、教室の戸口に立っていると、Fさんが立ち止まり『今日、きてくださるんでしょう。あなたが?』と言う。それで張り切って出かけたのに、文化祭の仕事はうまくいっていない」という記述があった。おそらく彼女の上品で育ちのよい言葉遣いに感激したのだ。他の女生徒だったら讃岐弁丸出しで、「今日、きてくれるんやろ、あんたが」と言ったに違いない。

そんな淡い恋も、ひと月ほどで終わった。10月1日の日記に書いてあったのは、「昨日、2時限が終わったあと、SからJと彼女が相合い傘で帰っていたと聞いた。アホらしくなった。もうヤーメタ」だった。その後、僕は「こっけいにして残酷な...、奇妙にしてやさしい...、悪魔のようなあなた」という詩のような、あるいは恨み言のようなフレーズを書き連ねている。

●人生は愛と友情と裏切りという三つの要素でできている

「人生は三つの要素でできている。愛と友情と裏切りだ」と言ったのは、フランスの映画監督ジャン=ピエール・メルヴィルだ。現在まで、数え切れない「愛と友情と裏切り」の物語が作られてきた。メルヴィル自身は「影の軍隊」(1969年)のシモーヌ・シニョレや「仁義」(1970年)のフランソワ・ペリエのように、子供への愛情のために仲間を裏切る人間を描いたが、多くの物語は友人の恋人や妻を愛した人間の葛藤を描いてきた。

夏目漱石など作家としての後半生では、そんな物語しか書いていない。「こころ」は友人が好きになった女性を奪った「先生」の物語であり、「それから」は友人の人妻を愛してしまった男の物語であり、「門」は友人の妻を奪って逃げた男の物語である。そのことによって、彼らは苦しみ、罪の意識におののき、ときには自らの命を絶つことさえある。

現在、映画監督の最高年齢を更新しつつある新藤兼人が監督したのが「心」(1973年)であり、なぜか漢字のタイトルになった。劇団四季の人気男優だった松橋登が主演した。この作品では失恋した友人は自殺し、彼が好きになった下宿のお嬢さんを妻にした主人公も何年か後に自殺する。それは「裏切り」という行為に対する罪滅ぼしだったのだろうか。

先日、亡くなった森田芳光監督が映画化したのは「それから」(1985年)である。主人公の代助を松田優作が演じ、友人を小林薫、友人の妻の三千代を藤谷美和子が演じた。森田芳光監督は「家族ゲーム」(1983年)の評判が高いが、僕は「それから」が一番好きだ。松田優作も明治の高等遊民の感じをよく出していたし、市電などの美術も凝っていた。

「それから」は「こころ」と逆である。かつて友人に好きな女を譲った代助は、実家の金でぶらぶらと高等遊民の生活を送っている。そんな彼の前に再び友人夫妻が現れるのだ。「それから」では、実際の不倫が起こるわけではない。代助と三千代の微妙な心のふれあいが繊細に描写されるけれど、露骨な関係にはならない。もっとも、ふたりは惹かれ合う。しかし、それは「友に対する裏切り」なのだろうか。生涯かけて背負う罪なのか。

現実の生活では、「友だちの恋人」のようにそれぞれが心変わりをして、一緒に暮らしていた男が友だちの彼氏になっても気にしないのではないか。「私は友だちを裏切った」と罪の意識にさいなまれるなんて、フィクションの世界だけのことではないのか。もっとも、裏切られた人間はどれほど傷つくのだろうか? 人は、自分が裏切られてみなければわからない。

「門」を映像化した「わが愛」(1973年TBS放映)では、親友(加藤剛)に愛する妻(星由里子)を奪われた男(山崎努)が登場し、血が凍るほどのニヒリスティックな演技を見せた。妻と友に裏切られた男は人を信じられない人間になり果て、寒々しい精神の荒野を永遠に彷徨い続ける。そこには、救いなどない...。山崎努の鬼気迫る演技が、そんなことを感じさせた。

さて、Jより一年遅れて東京の大学に入ったFさんは、Jが姉と暮らすアパートとそう遠くないところに部屋を借りた。Jは、よくその部屋に泊まった。僕も何度かJと一緒に訪ねたことがある。高校時代と違ってよそよそしさはなくなったが、打ち解けた感じもなかった。Jを間においての友だちだったし、多少親しくなってわかったのは、僕とは住む世界がまったく違うことだった。

そんなFさんとJ抜きで会ったのは、Jが一年先に就職し彼女が大手出版社を中心に就職活動を始めた頃だった。一年浪人したためFさんと同じ時期に就職活動をしていた僕の下宿に、ある日、Jがやってきた。Jは彼女と別れることにしたという。しかし、就職がまだ決まらない彼女を傷付けるかもしれないから、見守ってやってくれないかと言うのだ。「はあ?」と僕は返事をした。

「はあ?」と返事はしたが、当時、隣同士の部屋で暮らしていた高校時代からの友人であるNと一緒に、彼女を案じてオールナイト5本立てに連れ出したりした。突然の僕らの誘いには戸惑ったのかもしれないけれど、お嬢様育ちの彼女は怖いものみたさでやってきた。しばらくして彼女は誰もが知っている大手出版社に就職が決まり、そのことがきっかけだったのか、Jとヨリが戻り数年後に結婚した。

あれから30数年が過ぎ、先日、僕は彼女の3年前の写真をネットで発見した。その写真を見て僕に甦ってきたのは、強い恥の感覚だった。一度だけ、僕はFさんにみっともない電話をした。その電話を彼女がどう受け取ったかはわからないし、その後、その内容をJに話したかどうかもわからない。僕が何とか踏みとどまり貫いてきたささやかな生き方の中で、そのことだけは今でも悔やみきれない恥だ。

若い頃は、人生でよく起きる単純な出来事を大げさに考える。自分だけの不幸のように受け取る。その結果、人生そのものをややこしくしてしまうのだ。今の僕なら、そう思う。だから、あれから一万四千回もの昼と夜が過ぎ、もうすんだこと、昔のことだと思っていたのに、「きみの胸の傷口は今でもまだ痛むか」と問われれば、今の僕は「痛む」と答える。やれやれ...である。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951
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「思い出し笑い」ならぬ「思い出し恥ずかし」というのがあり、突然にくる。奇声をあげて走りまわりたくなるが、下唇を噛んで天を仰ぐ...というツイートをしたら、いろいろ反応をいただいた。恥多き人生は、僕だけではないらしい。こんなことを書いているのも、また恥の上塗りか。

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