映画と夜と音楽と...[543]絵を描く人々
── 十河 進 ──

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〈炎の人ゴッホ/セラフィーヌの庭/ポロック 2人だけのアトリエ/クロエ〉


●写生大会にクラス代表の男女を出さなければならない

あれは......中学生になってすぐの頃だった。我が家は、僕が小学六年生の冬に隣町に引っ越しをした。何とか通学できる距離だったので転校せず、特別な許可をもらって三学期だけは自転車で通った。しかし、四月に入学した中学には知った人間はひとりもいなかった。まったくの転校生状態だったのだ。

入学式が終わり振り分けられたクラスにいくと、担任の教師が「小学校でクラス委員をしたことがある者は手を挙げろ」と言った。僕を含めて何人かが手を挙げた。教師は手を挙げた生徒たちを男女に分け、ジャンケンをさせた。男たち数人とのジャンケンでは僕が勝った。

教師はジャンケンで勝ったふたりを教壇に立たせ、「とりあえず一学期は、きみたちでクラス委員をやってくれ」と言った。その中学に進学してくるのは主にふたつの小学校からで、その他にも僕のような人間もいて選挙をしたところでよくわからないだろうから、とりあえず経験者にやってもらい、選挙で選ぶのは二学期からにすると説明した。

確かに僕は小学校でクラス委員の経験はあったし、中学に入学した頃は「小学校で卒業生総代として答辞を読んだんだぞ」というのが自慢の鼻持ちならないガキだった。だから、教師の言葉に得意そうに手を挙げたのだが、誰も知っている人間がいない状態なのにクラス委員を引き受けなければならなくなり、急に不安になり落ち込むことになった。

一緒にクラス委員になった女子生徒は、小学六年生のときに東京から引っ越してきたことを鼻にかけているイヤな奴で、讃岐弁でしゃべる僕たちを馬鹿にした。「言葉が汚くて驚いた」という作文を書いたと、彼女の小学校の同級生から聞いたことがある。一緒に職員室にいき教師に報告する横で、僕の言葉にいちいち馬鹿にした笑みを浮かべるのが腹立たしかった。




彼女は、僕が話す言葉がわからない振りをした。たとえば「それ、先生、かんまんよったで(それ、先生はかまわないとおっしゃっていましたよ)」と僕が言うと、「何、言ってるの?」と首をかしげた。その頃はまだ「ブリッコ」という言葉はなかったが、まさにブリッコでおまけにチクリ屋だった。何かというと教師に言いつける。しかし、見た目が可愛いので人気はあった。

入学して一カ月もしない頃、写生大会にクラス代表として男女ひとりずつを出さなければならなくなった。他のクラスでは絵のうまい人間が選ばれたらしいのだが、どういうわけか僕のクラスだけ美術の授業が遅れていて、担任教師も絵がうまいのは誰かを把握していなかった。そこで、とりあえずクラス委員のふたりを出そうということになった。

僕は、絵が下手だった。小学生の頃もコンプレックスを持っていたのだけれど、なぜか一度だけ絵のコンテストで入賞したことがあった。今となってはどんな絵だったか忘れてしまったが、いわゆる「上手な絵」ではなかった。気まぐれな審査員が「ちょっと個性があって面白い」と思っただけだろう。

だから、写生大会の代表に指名されたとき、辞退すればよかったのだ。しかし、その一度の入賞があったのと、見栄っ張りのエリート意識が僕に代表を受けさせてしまった。自分は絵が下手だと思っていたが、もしかしたら...という自信が少しはあったのだろう。自惚れの強いガキだったのである。

●最初のひと筆で自分でも呆れるくらいひどい絵だとわかった

写生大会は、学校の近くにある栗林公園で行われた。中学校のすぐそばにコトデン栗林駅があり、そこから歩いて5分ほどのところにある公園である。美術館も併設されており、入賞者の作品はそこのロビーに展示される予定だった。僕は、意味もなく張り切っていた。だから、その後の美術教師の態度にひどく傷ついたのである。

僕は同じクラスの女子代表と一緒に写生するのがイヤで、ひとりで場所を探していた。小高いところから俯瞰ぎみの絵を描こうと思いつき、少し坂を登った場所にいくと、別のクラスのYクンがいた。彼もクラス委員をやっていて、クラス委員会で何度か顔を合わせ、一、二度口を利いたことがあった。

「ソゴーくん、一緒に描こうか」とYクンが言った。自惚れ屋のくせに人見知りで、まだ学校で親しい友人もできていなかったが、人から誘われるとうれしいものである。僕はYクンと並んで腰を降ろし膝を立てた。膝に画板をのせ、画用紙を広げた。絵の具箱を横に置き、こぼさないように持ってきた水入れを並べた。

そのとき「Yクン、ここにおったんな」と言いながら女子生徒が現れた。「一緒に描かせて」と言いながら、その女子生徒も腰を降ろし、絵を描く準備を整えた。Yクンを挟んで、両側に僕と彼女が並ぶ形になった。Yクンが「同じ組のKさんや」と彼女を僕に紹介し、「9組のソゴーくんや」と僕を紹介した。

「Yクン、絵がうまいんで」とKさんが言った。「Kさんやってうまいやないか。先生ほめとったの」とYクンが答えた。そのふたりは、本当に絵がうまいのを認められて代表になったのだ、と僕は思った。それから、しばらく三人とも無言で絵を描き続けた。僕は水彩絵の具をパレットで溶き、大胆に筆を使った。というか、自分でも呆れるくらい、ひどい絵だった。最初のひと筆で失敗したのがわかった。

失敗したのを自覚していても、人から否定されて傷つくのは別である。しばらくして、美術教師が見まわりにきた。参加者の絵を見て、アドバイスをして歩いていたのだ。美術教師はKさんの絵を見て、「ほう」という顔をした。「ここのところ、もう少し描き込んだ方が...」などと口にした。

それからYクンの絵を覗き込み、「いいじゃないか」と言った。それから、僕とYクンの間に入って、熱心にアドバイスを始めた。そのとき、僕も教師に絵を見てほしかったのだ。自分では失敗だと思っていたが、もしかしたら何かを認めてもらえるかもしれないと期待していたのだろう。

しかし、今でも僕は思い出す。あのときの教師の反応を、その無関心さを...。教師はチラリと僕の絵を見ると、明らかに馬鹿にする表情になった。どうしょうもない...というように首を振り、無言でYクンの絵に視線を戻した。それでも、僕は期待した。教師が何かアドバイスしてくれることを...。

あのとき、教師に無視されたことを、50年近くの年月が過ぎ去った今でも僕は思い出す。鮮やかに甦らせることができる。医者が手の施しようのない患者を見る目だった。憐れみさえ浮かんでいた。彼にとって、それは救える対象ではなかった。なぜ、こんなに絵が下手な生徒が代表なんだ、という疑問さえ抱いたのだろう。無視、無関心、無言だった。

あのとき傷付けられたのだ、と甘ったれたことを言いたくはないが、それ以来、僕は絵を描かなくなった。描くのが怖くなった。美術の授業で絵を描かなければならないときは、ひどく雑な絵を意図的に描いた。高校では美術を選択しなかった。編集者になって撮影のための絵コンテを描く必要が出たときは、怪盗セイントのような線画ですませた。

しかし、音痴の僕でも音楽を聴くのが大好きなように、絵が描けないのに絵を見るのは好きなのだ。好きな画家は多いし、ひとりで美術展にいくこともある。20年ほど前、ひとりで見た東武美術館の「モディリアーニ展」は今も思い出す至福のときだし、美術好きのカミサンに連れられて見たブリヂストン美術館のジャクソン・ポロックの原画に圧倒され、今も凄いものを見た感動が甦る。

●「楽園のカンヴァス」はアンリ・ルソーの絵画を巡る小説

原田マハさんの「楽園のカンヴァス」を読もうと思ったのは、僕の好きなアンリ・ルソーの絵画を巡る小説だと書評で読んだからだった。日本ラブストーリー大賞を受賞して作家デビューした原田マハさんについてはまったく興味がなかったが、あるとき原田宗典さんの妹で元キュレーターだと知って少し興味が湧いた。一時期はニューヨーク近代美術館で仕事をしていたこともあるという。

「楽園のカンヴァス」は、美術ミステリとして実によくできた小説だった。序章は、倉敷市の大原美術館で監視員をしている43歳の早川織絵の視点で描かれる。毎日、彼女は展示した作品の前に立ち、作品と最も向かい合う時間が長いのは監視員だと、昔に聞いた言葉を思い出す。ある日、館長に呼ばれて館長室に入ると、新聞社の文化部の人間がいる。

新聞社の人間は、日本で大規模なアンリ・ルソー展を企画しているが、ルソー最後の大作「夢」を保有するMoMA(ニューヨーク近代美術館)に貸し出しを交渉したところ、MoMAのチーフ・キュレーターが「オリエ・ハヤカワ」という女性を交渉の窓口に指名してきたのだという。かつて、彼女はソルボンヌ大学で博士号を取得したルソー研究家として、美術界で名を知られた存在だったのだ。

第一章では時代が10数年遡り、MoMAのアシスタント・キュレーターのティム・ブラウンの視点になる。チーフ・キュレーターのトム・ブラウンと名前が似ている彼は、よく上司と間違えられる。ある日、自分宛に伝説の絵画コレクターから招待状が届く。それも間違いだと思うが、世に出ていないルソーの絵の真贋の判定依頼の内容を読み、上司になりすましてヨーロッパへ向かう。

バーゼルにある城のようなコレクターの屋敷でティム・ブラウンは、ひとりの日本人女性に引き合わされる。彼女の名前は「オリエ・ハヤカワ」、パリに在住する新進気鋭のアンリ・ルソー研究家だった。ティムは、彼女とルソーの絵の真贋判定を競うことになる。そして、彼らの前に現れたのはMoMAにあるルソーの大作「夢」とそっくりな絵だった......

●30数年前に買った中央公論社版「世界の名画」を引っ張り出す

「楽園のカンヴァス」を読むと、ルソーやピカソの絵が無性に見たくなった。小説の中に具体的に登場する作品を改めて確認したくなるのだ。僕は昔買った、中央公論社版「世界の絵画」を書棚の奧から引っ張り出した。ルソーの絵は、「眠るジプシー女」や「カーニヴァルの夜」など、5点ほどを自室に印刷物で飾ってあるけれど、画集を開くのは久しぶりだった。

それは30数年前に買ったものである。当時、画集は大判で函入りの全集が多く、高価で手が出なかった。そんなとき、中央公論社が大判だがソフトカバーの「世界の名画」「日本の名画」を出版した。それは1750円と比較的安価だったので、僕はどうしてもほしかった「ゴッホ」「ルソーとシャガール」「ユトリロとモディリアーニ」「ムンクとルドン」「ピカソ」を買った。

それらの画集をよく見ていたのは、20代のことである。しかし、近代美術史の中に位置づけて見ていたのではなく、単に好きだっただけなので画家たちの関係に関心を抱くことはなかった。子供の頃に見た「炎の人ゴッホ」(1956年)で、ゴッホとゴーギャンが一緒に暮らしていたことを知ったくらいである。

しかし、同時代を生きていたのなら、彼らの間に何らかの関係があっても不思議ではない。「楽園のキャンヴァス」を読んで知ったのは、ルソーの絵を最も評価していたのがピカソだったことだ。ピカソはルソーを讃える夜会を自分のアトリエで開き、ルソーを招く。ピカソが「青の時代」を経て、前衛的な「アヴィニョンの娘たち」を発表したのは1907年。3年後、アンリ・ルソーは「夢」を描いて死ぬ。

ルソーは、「素朴派」と呼ばれることがある。カテゴライズとしては何だかピンとこないけれど、ルソーを始めとした「素朴派」の発見者として名を残しているのが、ドイツ人の画商ヴィルヘルム・ウーデだ。ウーデらしき男も「楽園のカンヴァス」でピカソと一緒に登場するが、最近、オッと思ったのは「セラフィーヌの庭」(2008年)を見たときだった。

「セラフィーヌの庭」には、「善き人のためのソナタ」(2006年)や「アイガー北壁」(2008年)に出ていたウルリッヒ・トゥクールがウーデ役で登場していた。落ち着いた渋いドイツ人俳優で、ルソーやセラフィーヌ・ルイを見出し世に出した画商には合っていた。ウーデは借りた別荘の家政婦だったセラフィーヌの絵を見て驚き、その絵をすべて買うと申し出る。

●「素朴派」の代表的画家として有名なセラフィーヌ・ルイ

日本でも何度かアンリ・ルソーの絵画展が開催されているが、ルソーと同じ「素朴派」にカテゴライズされる画家として、セラフィーヌ・ルイの作品も展示されることが多かった。彼女もルソーと同じく、正式な美術教育は受けていない。「セラフィーヌの庭」では家政婦として働いていた彼女は、神のお告げによって絵を描き始めたように描かれていた。

セラフィーヌは信心深く、ときどき心を癒すために大きな木に登り緑に囲まれて過ごす。絵の具さえ買えない貧しさで、川の水草や泥、動物の血などから絵の具を作り、小さな板に絵を描いていく。それは独特なタッチの絵だ。その作品を見いだしたウーデのアドバイスで絵を描き続け、やがて絵が売れるようになるが、慣れない大金を手にし館を買うなどの浪費をする。

やがて、セラフィーヌは精神に異常をきたして病院に収容され、そのまま死を迎える。絵が売れたことを告げにきたウーデも、医者に「会って刺激を与えない方がいい」と忠告され、彼女の姿を遠くから見るだけで去っていく。天才画家のさみしい晩年である。ピカソは別にして、ルソーもセラフィーヌもゴッホもモディリアーニも不幸な人生を送ったのだ。

いや、当人が不幸だと思っていたかどうかはわからない。案外、幸せだったのかもしれない。セラフィーヌほどの病状ではなかったが、ゴッホもムンクも精神病院に入った時期がある。「叫び」の絵で有名なムンクだが、「生の舞踏」を見ると精神を病んだ人の絵としか見えない。ゴッホが自殺の数か月前に描いた最後の自画像を見ると、筆使いにめまいがする。やはり精神を病んでいたのではないか。

生誕100年で「ジャクソン・ポロック展」が東京国立近代美術館で開かれているが、ポロックも精神を病んだ人である。アルコール依存症が原因だったのかもしれない。エド・ハリスが監督主演した「ポロック 2人だけのアトリエ」(2000年)を見ると、奇矯な行動もあったらしい。だからなのかもしれないが、その作品の力は凄い。僕はポロックの原画を見たとき、巨大なカンヴァスの前から動けなかった。

そんな風に僕も絵は好きなのだが、自分で描こうとはまったく考えない。義父はリタイアして亡くなるまで、趣味として油絵を描き多くの作品を残した。義父の油絵は、我が家の壁にもかかっている。血筋なのか、義妹は美術教師になった。カミサンもファッションデザインの学校でデザイン画を描いていた。娘は美術大学で絵を描き続け、作品が生徒募集のポスターに採用されたと喜んでいる。

絵心のある血筋と結婚したおかげで、子供には絵画コンプレックスは遺伝しなかったようだが、僕は今も12歳で受けたトラウマから自由になれない。義父の絵を飾っていると、訪問客に「絵を描かれるんですか?」とたまに訊かれることもあったが、僕はいつも「いえ、絵なんて一度も描いたことはありません」と強い口調で答える。しかし、あるとき「クロエ」(2001年)を見て考えを変えた。

「クロエ」はボリス・ヴィアンの小説「日々の泡」を日本で映画化した作品で、永瀬正敏とともさかりえが主演した切ない恋物語である。ふたりの出逢いは、永瀬の伯母が出品した絵画展のオープニングパーティだった。ふとしたきっかけで、ともさかりえと口を利くことになった永瀬は、「あなたも絵を描かれるんですか?」と問いかけ、ともさかりえに怪訝な顔をされる。その理由を訊ねると...

──だって一度も絵を描いたことがないひとなんて...いないと思うから...

そう、絵を描いたことがない人など、どこにもいない。最古の人類も壁画を遺しているじゃないか。子供の頃、僕もクレヨンでチラシの裏に落描きばかりしていたし、小学生の夏休みの宿題の定番は絵日記だった。あの頃、僕も自由奔放に絵を描いていたのだ。うまいか、へたか、そんなこと気にもせず、僕は描いていた。そのことを「クロエ」のともさかりえが思い出させてくれたのだった。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951
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