映画と夜と音楽と...[544]神様、お願い...
── 十河 進 ──

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〈奇跡/夏の妹/初めての旅/リトル・ロマンス/スタンド・バイ・ミー〉

●第46回スーパーボウル最後の数秒で念じた「神様...お願い」

今年の2月5日に行われた第46回スーパーボウルも見応えがあった。ニューヨーク・ジャイアンツとニューイングランド・ペイトリオッツの闘いだったが、逆転さらに逆転...という展開でどちらが勝っても不思議ではない試合内容だった。クォーターバックはジャイアンツが若きイーライ・マニング、ペイトリオッツはトム・ブレイディである。

試合は、最終までもつれた。第4クォーター、残り数秒、ペイトリオッツが4点差を追う展開になった。3点しか入らないフィールドゴールでは追いつかない。ペイトリオッツは、どうしてもタッチダウンを決めなければならない。タッチダウンさえすれば6点が入る。その瞬間、ペイトリオッツはスーパーボウルを制覇する。だが、時間は無情に過ぎていった。残された時間は、数秒しかない。

最後のプレイが始まった。ボールがトム・ブレイディにスナップされ、ワイドレシーバーたちは、一斉にエンドゾーンに走った。後ろなど誰も見ない。ロングパスしかあり得ないのだ。彼らは全速力で走った。ラインズメンは、トム・ブレイディの最後のパスのための数秒を作ろうと渾身の力を振り絞った。トム・ブレイディは何ヤードも後退する。エンドゾーンまでの距離が延びることなど問題ではない。敵にサックされない位置でロングパスを投げるのだ。

トム・ブレイディは右手を思い切り振りかぶって、ロングパスを投げた。回転するボールがスタジアムの空気を切り裂く。放物線を描き、フィールドポストが屹立するエンドゾーンをめざした。10万人の観客が息を呑む。数秒の静寂。ボールがエンドゾーンに落ちる。両チームの選手たちがボールを取ろうと一斉にジャンプした。エンドゾーンに、すべての選手が集まったかのようだ。誰が捕球するのか。




ペイトリオッツの最後の望みを託したボールは、無情にも味方の選手の手には落ちなかった。その瞬間、スタジアムをどよめかす歓声が湧き起こった。ジャイアンツが第46回スーパーボウルを制した瞬間だった。トム・ブレイディは肩を落とし、試合の行方を固唾を呑んで見ていたイーライ・マニングは、サイドラインの外でチームメイトと抱き合った。

「神様お願いパスだよ!」と、僕は興奮してカミサンに言った。NFLの試合を見るのは、カミサンと僕の数少ない共通の趣味である。アメリカン・フットボール・カンファレンス(AFC)とナショナル・フットボール・カンファレンス(NFC)のチャンピオンチームは、16週のリーグ戦を経て年末年始に行われるプレーオフ・トーナメントで決まる。それぞれのチャンピオンチームがぶつかるのがスーパーボウルである。

そのスーパーボウルで「ヘイル・メリーパス(神様お願いパス)」を見ることができたのだ。僕は興奮していた。そのパスは、ぎりぎりの最後に「神様、お願い。誰か取ってくれ」と念じながら投げるパスである。そのパスが通れば試合に勝てる。そうでなければ投げる意味はない。味方の選手がエンドゾーンの中で捕球してくれと願い、運を天に任せて投げるパスである。

「ヘイル・メリーパス」が成功したシーンを何度か見たことがある。僕は30年以上、NFL(ナショナル・フットボール・リーグ)を見ているので、その長い観戦歴の間には、そんな確率の低いシーンも見ることができたのだ。その瞬間、スタジアムは静まり、やがて耳を聾する歓声が起こる。奇跡だ、と誰もが思う。興奮のあまり、知らないファン同士が抱き合う。

昔、巨人の末次が9回裏に「代打逆転サヨナラ満塁ホームラン」を打ったのを見たことがある。アンチ巨人の僕もそれには唖然とし、奇跡だと思った。興奮がおさまらず、阿佐ヶ谷の「鳥庄」という野球好きが集まる焼き鳥屋へ出かけた。亭主は大洋ホエールズ・ファンで、僕が顔を出すと「広島カープがきやがった」と苦笑いをする。しかし、その夜、どこのチームのファンであろうと、一生に一度見られるかどうかの奇跡を見て興奮していた。野球って素晴らしい、と語り合った。

アメリカン・フットボールの試合でヘイル・メリーパスが成功するのは、3点差で迎えた9回裏に代打の選手が「逆転サヨナラ満塁ホームラン」を打つくらいの確率である。どちらも、気まぐれな神様がたまに起こす奇跡だ。だから、奇跡を起こした翌年、末次は練習中に打球を顔面に当ててコンタクトレンズをしていた眼球を傷め、引退することになった。神様は奇跡を起こしたが、その貸しはきちんと回収したのだ。神はなんと残酷であることよ...と、僕はため息をついた。

●人と人のつながりが一瞬にして生まれたことが奇跡

是枝監督の新作「奇跡」(2011年)という映画を見ながら、「人と人のつながりが一瞬にして生まれた。それこそが奇跡だ」と僕は思った。そう思いながらスクリーンを見ていたら、子供たちを見送る老夫婦の元に戻ってきた少女の「何かお願い事があったら、私が代わりにしてきてあげるけど...」という言葉に妻は首を振り、夫は「わしらは、もうこれで充分だけん」と穏やかに答えた。やっぱり、と僕は思った。

老夫婦の願い事は叶い、奇跡は起こったのだ。今更、「神様お願い...」と願うことは必要ないのである。これから大人になる子供たちと違い、彼らは長い年月を生きてきた老人だ。若い頃には夢もあっただろう。なりたかった何かもあったに違いない。しかし、結婚し日々の生活を優先し、やがて娘が生まれ、成長した娘は親を棄て故郷を離れた。そんな彼らの前に、ある日、突然、7人の子供たちが現れる。そのとき、咄嗟に妻は子供たちの嘘を受け入れる。そのことこそが、奇跡なのだと僕は思う。

老夫婦にとって突然現れた7人の子供たちは奇跡だったし、子供たちにとっても老夫婦は奇跡だったのだ。間違いなく、この映画はそうメッセージを送っている。奇跡は、神様が叶えるものではない。人と人の関係の中で生まれるのだ。この映画の惹句は「あなたもきっと、誰かの奇跡」だが、老夫婦と子供たちの別れのシーンを見ながら僕はそのフレーズに納得した。

大阪で暮らしていた家族が別れ、兄の航一は母親(大塚寧々)と共に鹿児島の実家に戻っている。弟の龍之介はミュージシャンの夢が棄てられない父親(オダギリ・ジョー)と一緒に福岡に移住した。兄弟を演じるのは、子供漫才で人気の「まえだまえだ」である。兄は、再び4人が揃って暮らせる日がくることを願っている。弟は、喧嘩が絶えなかった父母との暮らしには少しうんざりしている。

九州新幹線が鹿児島まで開通する日、鹿児島から出発する上り「さくら」と博多から鹿児島に向かって出る下り「さくら」の一番列車が初めてすれ違うのを見ると、願い事が叶う、奇跡が起きるという噂を兄は耳にする。兄は、再び家族4人が一緒に暮らせることを願うために、その場所にいこうと計画する。そこは熊本県の田舎町である。

兄は友人ふたりと計画を練り、熊本に向かって出発する。ひとりの友人は家族のように思っていた猫が死に、その遺骸をナップサックに入れて大事に抱えてくる。彼は「願い事を変えた」と言う。彼は、猫が生き返ることを願うつもりなのだ。弟もふたりの女の子とひとりの男の子と一緒にやってくる。兄は、はしゃいでやってきた弟も、その友だちも気に入らない。

それでも、7人の子供たちは新幹線が見える場所を探して、田舎町を歩きまわる。しかし、新幹線は高架になっていて、車体が見える場所がない。大きなスーパーマーケットを見付け、その屋上にいこうとする。しかし、少し遅れた弟の友だちのレントという少年が警官に不審がられる。レントは、スーパーマーケットと逆の方に走り出す。

スーパーの屋上でも新幹線は見られず、暗くなった田舎道を子供たちはレントを探して歩いていると、警官に保護されたレントと出会う。警官に「友だちか?」と訊かれて、レントは首を振る。彼は彼なりに、仲間たちが警官に保護され、新幹線がすれ違うのを見られなくなることを心配したのだ。しかし、弟と一緒にきたメグミという少女がひと芝居を打つ。

●ドキュメンタリーのように子供たちは生き生きと喋る

メグミという少女の屈折も、それまでにじっくりと描かれている。いつも元気で明るい龍之介と仲良くなったメグミは友だちを連れて自宅へ帰るが、そこは母親(夏川結衣)がひとりでやっているスナックで、酔客に「男を連れ込むのか」などと下卑た冷やかしの声をかけられる。その言葉が、小学4年生の彼女を傷付けないわけがない。

彼女の部屋で龍之介、レント、カンナたちが自分の願い事を語るシーンは、おそらく脚本なしで彼らの本音を喋らせている。子供たちは生き生きと喋り、撮り方はドキュメンタリーのインタビューのようだ。これは、是枝監督の手法である。「誰も知らない」(2004年)でも子供たちを生き生きと演出し、悲惨な話に希望を持たせていたことを思い出す。

お盆にお菓子を載せて持ってきた母親に「あがってこないでよ」と言うメグミは、男たちに媚を売る母親を、その商売を恥じている。そのくせ、カンナが「昔、メグミのおかあさん、女優だったんでしょ、なぜ辞めたの」と訊くと、「私ができたからじゃないかな」と沈んだ顔をする。母親の夢を奪ったことを、彼女なりに申し訳なく思っているのかもしれない。

しかし、メグミ自身が女優をめざしているのだ。オーディションを受け、CMに出演したりしている。ところが、同じクラスに子役として売れている女の子がいる。その子は同じCMにもっと目立つ役で出ている。控えめなメグミは、その子がいるから女優になるという夢を明言したことはない。だが、新幹線のすれ違うところを見にいこうと思ったのは、女優になる願いを叶えたいからだった。

そんなメグミが、警官に嘘をつく。自分の祖母の家へみんなを連れていくのだと...。もちろん、具体的なシーンは映画にはない。映画はレントの仲間だと警官にばれたシーンの後、子供たちと警官が夜道を歩いているシーンになる。メグミは「あそこです」と一軒の農家を指さす。警官が「何じゃ、××さんの孫じゃったんか。じゃあ、ノリコさんの娘さんじゃな」と言う。

警官が庭に立つ老女に「お孫さんじゃ」と言うと、老女は戸惑ったように子供たちを見る。メグミが頭を下げる。次のシーンは、夫が電話で出前を頼んでいるところである。妻は「そばなんかだとのびるから、カツ丼とか親子丼とか...」と指示をする。メグミがタオルを手に風呂場から出てくる。龍之介がはしゃいでいる。一瞬、本当にメグミの祖父母の家かと思う。

老夫婦は、子供たちが新幹線のすれ違うところを見て、願い事をするためにやってきたことを知り、「明日の朝、新幹線が見えるところまで車で送ってあげるけん」と言う。老女はメグミの髪をブラッシングする。メグミが「ノリコさん...?」と訊くと、「うちのひとり娘、どこにおるんやら、こぎゃんとこいたくないと...」とため息をつく。その夜、老夫婦は思いがけず訪れた奇跡に、深い思いを抱く。

老女は、突然、警官に伴われて訪れた見も知らぬ孫娘とその友だちを、警官には何も言わず、本当の孫として受け入れたのだ。食事をさせ、風呂に入れ、偽の孫娘の髪をブラッシングし、何10年ぶりかに訪れた賑やかな夜に心が晴れやかになる。最初は戸惑い、やがて奇跡に感謝する。どこでどう暮らしているのかわからない娘を、久しぶりにやさしい気持ちで思い浮かべたに違いない。

だから、翌朝、子供たちを新幹線が見えるトンネルまで送ったとき、走り出しかけて戻ってきたカンナに「何かお願いごとがあったら、私が代わりにしてきてあげるけど...」と言われ、妻はゆっくりと首を横に振り、夫は「わしらは、もうこれで充分だけん」と答えるのだ。彼らは7人の子供たちに、幸せなひとときを与えられた。年を重ねれば願いは身の丈にあったものになり、ささいなことで充分な幸せを感じることができる。

●リリィと高橋長英の老夫婦の姿に40年前の映画が甦る

老夫婦を演じたのは、リリィと高橋長英である。ハスキーヴォイスで歌うリリィの「私は泣いています」がヒットしたのは僕が大学生の頃だから、もう40年も前のことになる。その人気を得て、アイドル栗田ひろみを大島渚がヒロインに起用した「夏の妹」(1972年)に出演した。栗田ひろみの家庭教師で父親の愛人という役だったと思う。僕より一歳若いリリィは、当時、まだ20歳だった。

「夏の妹」は大島渚の映画らしく沖縄と日本本国との関係について、突然、ディスカッションが始まるような映画だった。栗田ひろみの兄かもしれない男(石橋正次)は沖縄育ちだが、その兄と妹の関係に日本と沖縄の関係を重ねていた。その頃、沖縄へいくには、まだパスポートが必要だった。オキナワとベトナムが、その頃の左翼青年にとってのキーワードだったのである。

高橋長英は、最近、ブックオフのCMに大川栄子と長年連れ添った夫婦という役で出ており、そのCMを見たとき、僕はずいぶん懐かしい気分になった。1942年生まれだから、もう70歳になる。蛮社の獄で有名な蘭学者の高野長英を連想し、40年ほど前のことだが僕はすぐにその名前を覚えた。僕は彼の主演映画が好きだったのだ。

それは森谷司郎監督の「初めての旅」(1971年)で、ほとんど無名だった小椋桂の歌が挿入歌として使われていた。主人公は、お坊ちゃん育ちの岡田祐介(東映社長だった岡田茂の息子で現在の東映社長)と、工員役の高橋長英である。彼らは街で初めて出会い、派手なスポーツカーを盗んであてのない旅に出る。その頃は、まだそんな言い方はなかったが、青春ロードムービーだった。

彼らふたりが旅の途中に出会う少女が、「赤頭巾ちゃん気をつけて」(1970年)で女優デビューした森和代だった。「装苑」というファッション誌のモデルだった森和代は、ボーイッシュな容姿を買われて芥川賞受賞のベストセラー「赤頭巾ちゃん気をつけて」のヒロインに抜擢され、「初めての旅」に出た後、森本レオと結婚して引退した。

高橋長英は20代後半だったが、その映画で青春の最後の輝きを見せた。貧しい工員。鬱屈した何かを抱えて彼は日々を生きている。それは青春の日々に誰もが抱く鬱屈なのかもしれない。しかし、どんなに働いても報われない下積みの人生が、世の中に対する敵意を育む。だから、金持ちで甘ちゃんの岡田祐介とは次第に心が離れる。所詮は、同じ世界の人間ではなかったのだと彼は思い知らされる...

●子供たちの溌剌とした姿に重なって見えてきた二本の映画

「奇跡」を見て、さらに思い出したのは「リトル・ロマンス」(1979年)だった。パリで出会ったダニエルとローレンは惹かれ合い、ベニスにある「ため息の橋」の下で日没の瞬間にキスをした恋人たちは永遠の愛を得られるという「サンセット・キス」の伝説を聞き、ベニスへ向かう。ただ、ダニエルとローレンが13歳だったため、大人たちが家出だ誘拐だと騒ぎ始める。

警察や親たちの追跡を逃れて、ダニエルとローレン、それにサー・ローレンス・オリビエ演じる老スリ・ジュリアスはベニスへと近付いていく。ダニエルとローレンがゴンドラに乗れるように、ジュリアスは自らが警察に捕まることを覚悟してかばう。夕暮れを告げる鐘が鳴り始める。ゴンドラが運河を進んでいく。ため息の橋が見えてくる。ダニエルとローレンはその橋をくぐる瞬間、キスすることができるだろうか...

「リトル・ロマンス」は、いきなり過去の名画のシーンから始まる。その中に「明日に向かって撃て」(1969年)もある。ブッチ・キュシディとサンダンス・キッドが崖に追い詰められ、撃ち合うか河に飛び降りるかと迫られるシーンだ。サンダンス・キッドは撃ち合うことを選び、ブッチに「なぜだ?」と問われる。次の瞬間、言いたくなかったんだという表情で、サンダンス・キッドことロバート・レッドフォードは「俺は泳げないんだ」と叫ぶ。

それは映画好きのダニエルがパリの映画館で、「明日に向かって撃て」を見ている設定だった。ジョージ・ロイ・ヒル監督は、最もヒットした自作を巻頭に引用したのである。その後、ヴェルサイユ宮殿でダニエルはローレンと出会うのだが、そのとき「ローレンの相手ならボギーだよ」などと口にする。ローレンという名前からローレン・バコールを連想したのだ。ローレンを演じたのは、美少女ダイアン・レインだった。

「奇跡」に通じる先行作品としては、「スタンド・バイ・ミー」(1986年)がある。4人の少年が、森の中で死んでいる少年の死体を探しに一泊の旅に出る話だ。それは、日常の中に生まれた冒険である。旅の途中、まだ10数年しか生きていない彼らの悲しみが描かれる。死んだ兄を溺愛していた両親によって「見えない息子」になった少年の悲哀、問題のある家庭に育ちながらまっとうに生きようとあがく少年の焦燥など、少年時代が決して牧歌的ではないことを「スタンド・バイ・ミー」は思い出させてくれた。

「奇跡」で、男女7人の子供たちが新幹線が見える場所を探して彷徨い始めたとき、僕は「スタンド・バイ・ミー」を思い出した。クライマックス、トンネルを出た新幹線がすれ違い、彼らがそれぞれの願い事を叫んだとき、そして、その後の描写に僕は「スタンド・バイ・ミー」の苦い結末を甦らせた。彼らは伝説を信じて願い事を叫び、冒険の旅を経過することによって成長し、「スタンド・バイ・ミー」の少年たちと同じように、大人への階段を昇ったのである。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951
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一年先輩の定年退職の社内パーティの後、若いモンにつきあって深夜まで飲んだが、ほとんど眠っていた。帰宅は午前3時。さすがに疲れた。翌日の土曜日はベッドで横になったまま分厚い本を読んで過ごした。

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