映画と夜と音楽と...[547]おじさんとは悲しい存在である
── 十河 進 ──

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〈あぜ道のダンディ/博多っ子純情/嗚呼!!花の応援団/不連続殺人事件/女高生 天使のはらわた〉

●「おじさん」には「あきらめ」がよく似合う

男の人生で長く続くのは、「おじさんの時代」である。少年期はあっと言う間に過ぎ、青年と呼ばれる期間も短い。あるとき、誰かに「おじさん」と呼ばれ、自分もそんな風に見えるようになったのかと愕然とする。そして、あきらめる。いや、少しはあらがうかもしれない。だが、「おじさん」と呼ばれるようになったら、そこからは長い長い「おじさん」の時代が始まるのだ。

僕は映画館の窓口で「シニアです」と申請すると千円で映画が見られる歳になったけれど、未だに「おじさん」と呼ばれることが多い。昔なら「初老」、もっと昔なら「老人」なのだが、僕の周りを見ても同年代の人は老人には見えない。小津安二郎監督の名作「東京物語」(1953年)で笠智衆と東山千栄子が演じた老夫婦は、60を少し過ぎた設定だった。昭和28年の映画である。その頃は60を過ぎれば、立派な老人だった。

もっとも、人をどう呼ぶかと言うのは、相手との関係にもよる。僕も年上の人から「おじさん」と呼ばれたことはあまりない。「ソゴーくんも...おじさんになったなあ」と、会社の先輩に言われたことはあったが、それは見た目の姿についてというより行動や生態に関してであったように思う。「おじさん」も「おばさん」の生態に似て、厚かましくなったり恥知らずになるところがある。

そう言えば、20数年前のこと。もう40近くになっていたのに、映像作家のかわなかのぶひろさんには、「青年、青年」と呼ばれた。僕が「ビバ・ビデオ」というビデオ誌の編集長をやっていた頃のことだ。朝日新聞主宰のビデオコンテスト審査員などをつとめていたかわなかのぶひろさんをインタビューすることになり、写真家の丹野清志さんと一緒に四谷にあった「イメージフォーラム」を訪ねた。




今は青山学院大学から少し宮益坂へ向かったところに、常設の映画館も備え立派になった「イメージフォーラム」があるけれど、四谷の頃はこぢんまりした感じだった。そのホールでかわなかさんに僕がインタビューし、丹野さんが撮影した。その後、新宿へ出て昭和館の前でも撮影をした。すでに日が暮れていた。元々、丹野さんとかわなかさんはゴールデン街の呑み仲間である。当然、僕もふたりに付き合うことになった。

その夜、僕は明け方近くまで何軒もハシゴするかわなかさんに連れられてゴールデン街をさまよった。その間、かわなかさんは僕のことを「青年」と呼び続けた。それから数年、かわなかさんにはよくゴールデン街のお供をしたが、名前を呼ばれた記憶はない。いつも「青年」だった。かわなかさんは、僕より10歳ちょっと年上である。僕が青年に見えるのかもしれない。そう言えば、10歳ほど若い会社の後輩は外見や服装が若いこと(若作り)もあるのだが、僕には青年に見える。

僕が30になったばかりの頃に知り合った後輩は、当時から僕のことを「おじさん」とか「おやじ」と呼ぶ。もっとも、彼にとっては自分より年上の男はすべて「おじさん」か「おやじ」であり、年上の女はみんな「おばさん」だった。彼は30半ばの会社の女性を「おばさん」と呼んでムッとされ、「誰がおばさんなのよ」と反論された。「おばさん」と呼ばれた女性はほとんどがムッとして言い返すけれど、「おじさん」と呼ばれた男はあきらめ顔で素直にうなずく傾向がある。

そう、「おじさん」には「あきらめ」がよく似合うのだ。男は「おじさん」と呼ばれた瞬間にあきらめ、自分がおじさんなのだと自覚する。反論したところで、そう呼んだ相手には自分がおじさんに見えているのだろうと納得するしかない。それからは「おじさん」と呼ばれることに慣れ、さらに「おじさん」化が進行する。おじさんは己を客観視できるから、あきらめざるを得ないのだ。自分は、ごくごく平凡なおじさんなのだと......

●30数年ぶりに主役を張る光石研の映画はシリアスにはならない

──地位も金もねぇから、せめてダンディでいたいんだよ。真田...、平凡であることを恥じたら終わりだぞ。それは、つまりさ、生きるってことを恥じるなってことなんだ。真田...、わかってくれよな!

宮田淳一は、50歳である。田舎町でずっと生きてきた。中卒で働き始め、今は運送会社に勤務している。毎朝、田舎道を自転車を漕いで仕事場へ通う。妻を10年以上前に亡くし、ふたりの子供を育てている。長男が一浪し、長女が高校三年生である。ふたりが揃って大学受験を迎えているが、中卒の彼には大学のランクなどまったくわからない。それに二人分の入学金と仕送りをどうするかが大きな悩みだ。

宮田淳一は、毎朝、競馬中継に模した独り言をつぶやきながら自転車を漕ぐ。「第四コーナーをまわって宮田淳一、依然として後方。宮田淳一、ムチが入りました。宮田淳一、追い上げます」などと言いながらペダルを漕ぐ。あぜ道が彼の競技コースなのだ。追い込みが始まるとサドルから腰を浮かし、勢いよくペダルを回転させる。会社の事務所の外に、「宮田淳一、今、一着でゴールインしました」と言いながら自転車を停める。

宮田淳一には、中学時代からの親友の真田がいる。ふたりで不良たちのカツアゲに遭い、「泣くな。男は泣くな」と恥を晒し合った仲である。「かっこいい大人になりたいな」と神社の境内で誓い合った仲である。40年の付き合いだ。宮田が高飛車に出ても、真田は気弱そうな笑顔で受け流してくれる。真田は父親の介護で仕事を辞め、妻は男を作って逃げた。父親が死に、今は遺産で生活している。真田は宮田の愚痴を聞いてくれる唯一の友だ。

しかし、宮田は気の弱い真田を前にすると、ついつい強い口調になる。真田に甘えているのだが、「たったひとりの親友に愚痴っちゃいけないのかよ、バカ」と、どうしても怒っているような言い方になる。苛立ちをぶつける。宮田が長く介護をした自分への褒美だと言ってかぶっているソフト帽を、「何だ、そんな似合わないもの...」と毒づいてしまう。そんな宮田の心情を、真田は理解している。怒りもせず、宮田を受け入れる。

ある日、居酒屋で真田と会った宮田は、自分が胃ガンではないかと疑っていることを、いつものように怒った口調で告白する。かつて妻を胃ガンで喪った宮田は、「症状があいつとそっくりなんだよ」と完全に思い込んでいる。「診てもらったら、いいじゃないか」と真田に言われ、病院へ検査にいくが医者の深刻そうな顔を見て、思わず「どれくらい生きられますか?」と訊きそうになる。

宮田は遺影を撮影してもらい、大きく伸ばして子供たちそれぞれの部屋に何も言わず入れておく。長男が大学に受かったと聞くと、「金のことは心配するな。お父さん、金はあるんだ」と口にする。彼は自分の生命保険が下りることを想定しているのだ。妻の仏壇の前でビールを飲み続け、「いくらさみしいからって、俺を呼ぶのが少し早すぎねぇか」などとぼやく。

このあたりになると、どんな鈍感な観客でもうすうす感じ始める。「これは胃ガンじゃないな」と...。そう、これで本当に胃ガンだったらコメディにはならないし、観客を笑わせることもできない。この映画はどう考えたって喜劇なのだ、だから絶対に宮田の思い込みに違いないと確信する。だって、宮田淳一を演じているのは、デビュー作以来、30数年ぶりに主役を張る光石研なのだから、シリアスな物語になるはずがない。

●光石研は「名前は知らないけどよく出ている人」になった

光石研がデビューした映画は、よく憶えている。その頃、僕は週刊「漫画アクション」を欠かさず読んでいた。「ルパン三世」の連載は終わっていたが、「子連れ狼」「昭和柔侠伝」「じゃりン子チエ」などと一緒に長谷川法世の「博多っ子純情」が連載されていた。「博多っ子純情」が気に入っていた僕は、連載で読んでいたにもかかわらずコミックにまとまると必ず買っていたのだ。

その「博多っ子純情」が曾根中生監督によって映画化されると知ったのは、勤め始めて3年目のことだった。曾根中生は日活ロマンポルノで監督デビューした人である。「色情姉妹」(1972年)「ホステス情報 潮ふき三姉妹」(1975年)なんて、気の弱い僕などとても口にできないタイトルの映画ばかり撮っていた人である。僕が初めて見た曾根作品は、「嗚呼!! 花の応援団」(1976年)だった。

「嗚呼!! 花の応援団」も週刊「漫画アクション」で人気が出たマンガだった。青田赤道という怪人が登場するバカバカしいギャグマンガである。青田赤道がヘビのように先が割れた長い舌を出し、脚を回転させながら叫ぶ「ちゃんわ・ちょんわ」という訳のわからない言葉が流行っていた。僕はこのマンガも大好きでコミック本を揃え、同じ作者の「花田秀次郎くん」シリーズも揃えた。

当時は、カミサンも僕が読み終わった「漫画アクション」を読んでいたので、「『嗚呼!! 花の応援団』を見にいこう」と誘うと快く付き合ってくれたものだった。だから、曾根監督がアート・シアター・ギルド(ATG)で撮った坂口安吾原作の「不連続殺人事件」(1977年)もカミサンとふたりで見にいった。多くの人物が登場し人間関係が錯綜する物語だが、わが愛しの夏純子がヒロインを演じた。

翌年、曾根監督が作ったのが「女高生 天使のはらわた」(1978年)だった。ロック・ミュージカル劇団「ミスタースリム・カンパニー」の深水三章、中西良太、それに河西健司が出演した。僕は大学時代の先輩である河西さんが出演しているというので、封切り初日に見にいった。日活ロマンポルノなので、さすがにカミサンは誘わなかったが、河西さんの演技が「狂気をはらんで印象に残る」とキネマ旬報の映画評に出たのは今でも憶えている。

同じ年の暮れ、曾根監督の「博多っ子純情」(1978年)が封切られた。「漫画アクション」は映画をヒットさせようと、公開のずいぶん前からいろんな記事を載せていた。だから、主人公の郷六平を演じる光石研という少年について、事前に記事で読んだ記憶がある。当時、光石研は17歳の高校生である。相手役の小柳類子を演じたのは、人気アイドルの松本ちえこだった。

郷六平、その悪友の黒木と阿佐を含めた主役の三人は公募だったと思う。そして、黒木役と阿佐役の少年たちが「博多っ子純情」一本だけで終わったのとは対照的に、光石研は「男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花」(1980年)を皮切りに脇役人生をスタートさせる。その頃の光石研は名前のない役も多かったし、どこに出ていたのかわからない役も多かった。

ところが、光石研はいつの間にか出演本数の多い「名前は知らないけど、よく出ている人」として名脇役になった。「『パッチギ』(2004年)の教師だよ」とか、「『悪人』(2010年)の解体屋の親方だよ」と言えば、「ああ、あの人...」とわかる人は多いはずだ。その光石研を主役に抜擢した石井裕也監督は、なかなかよいセンスではないかと僕は思った。さすが「川の底からこんにちは」(2009年)で満島ひかりを輝かせ、奥さんにしてしまった人である。

●おじさんは孤独で「誰も理解してくれない」とひがんでいる

「あぜ道のダンディ」(2010年)は上映館が少なく、東京では新宿テアトルでの一館ロードショーだったが、新聞の映画評などでも取り上げられ評判にはなっていた。僕は光石研と田口トモロヲ(真田役)という、おじさんコンビに惹かれて見にいった。石井監督はまだ30にもならないはずで、若いせいかおじさんの捉え方がステレオタイプになる部分もあったが、喜劇のセンスがいい監督だと思う。

誰もが抱く「おじさん」のイメージがある。風采が上がらない中年男、居酒屋でくだを巻き、ダサい日曜日のお父さんスタイルをし、意味もなくゴルフのスイングをしたり、女高生に説教をする...などなど。「あぜ道のダンディ」でも、そんなステレオタイプのイメージが駆使される。だが、観客のイメージを裏切らない描き方の中に、ハッとするシーンが挟まれる。

たとえば冒頭、あぜ道を競馬中継しながら自転車に乗る宮田淳一にグッときた。第四コーナーをまわった後、後方から宮田淳一が追い上げるのを中継する。それは、何10年も平凡に暮らしてきた男の見果てぬ夢だ。人々の注目を集め、後方から駆け上がり一気にゴールをめざし一着でゴールインする宮田淳一。そんな瞬間は永遠にこないと知りながら、夢を棄てきれない。あきらめてはいるが、あきらめきれない。そんな「おじさん」の心情が強く強く伝わってくる。

彼は妻を亡くした後、ひとりで子育てをしてきた。しかし、息子も娘も彼をうざったく思っている。ほとんど会話はない。大学も勝手に決めてしまい、「その大学は東京か」と訊くと、「決まってるっしょ」と答えるだけだ。「父さんが中卒で、大学のこと何も知らんと思って馬鹿にするな」と怒鳴っても、息子は強く反応するでもなく、「なぜ怒鳴ってるの」という顔をする。喧嘩にもならない。苦労して育てたのに...、と彼はやるせない。

宮田は妻の位牌と写真のある仏壇の前で愚痴り、グズグズと缶ビールを飲む。妻が子供たちに遺したテープをかけながら、懐かしい妻の声に涙する。妻は息子と娘の名前を呼び何かを言い遺そうとするが、突然、口調を変えて「やっぱり歌います」と涙声で言う。「歌うのか?」と涙ぐんでいた宮田が意外そうな反応をする。ずっとかけることができず、彼は初めてテープを聞いたのかもしれない。

妻は「あなたたちに、子供の頃から歌ってあげた歌です」と言って、「タラッタラッタラッタ...うさぎのダンス」と歌い始める。死の床で幼い子供たちに遺す言葉を録音しているテープで、いきなり歌い出すギャップが可笑しく宮田のツッコミも絶妙で笑ってしまう。しかし、この「うさぎのダンス」は伏線になっていて、ラスト近く子供たちが上京する前夜、「おまえたちに言っておきたいことがあります」と言った宮田は、怪訝な顔をする子供たちに「やっぱり、お父さん歌います」と、いきなり「うさぎのダンス」を踊り出すのである。

おじさんはシャイなのである。年令を重ねて厚かましくなったり、恥を恥と思わなくなっても、明日から初めて別々に暮らすことになる子供たちに向かって「おまえたちに言っておきたいことがある」と言い出したものの、やはり照れくさくなって歌ってしまうのだ。親子なんだ、言葉にしなくても伝わるんじゃないか、とおじさんは思う。面と向かって、改まって、真剣な言葉を口にするなんて、ドラマじゃあるまいし...とおじさんは照れる。何も言えない。

しかし、僕の経験では、親の気持ちは自分に子供ができるまで実感できなかった。子供が生まれたとき、親とはこういう気持ちになるのだと、今さらながら「子を持って初めてわかる親の恩」だったのである。だから、「親の心子知らず」も真実なのだと思う。「あぜ道のダンディ」の長男は真田に「宮田の気持ちもわかってやれよ」と言われ、「わかってるんですよ」と反論するけれど、現実の親子関係の中では余計な感情が親子の理解を邪魔する。

だから、おじさんは孤独なのである。誰も理解してくれない、俺は家族を養うだけの装置なのか、と己の存在理由を問う。おじさんとは悲しい存在なのである。もっとも、家族とも積極的にコミュニケーションをとろうとせず、どうせ話してもわからないとあきらめて何も口にせず、自らそんな状態に追い込んでいるフシもないではないけれど...

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951
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