映画と夜と音楽と...[557]やられたらやり返せ!
── 十河 進 ──

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〈未来を生きる君たちへ/真昼の決闘/リオ・ブラボー/大いなる西部/ダーティーハリー/グラン・トリノ〉

●手を出したら何倍にもしてやり返すアメリカという国家

アフリカの難民キャンプ。スウェーデン人の医師が献身的かつ精力的に働いている。腹を割かれた妊婦が運び込まれてくる。腹の子が男か女かを賭けの対象にし、その証明をするために妊婦の腹を割いたのだ。そんな残虐なことを行ったのは、ビッグマンと呼ばれる民兵のボスである。黒人医師の説明に、彼は愕然とする。悲惨な世界の中で、救いはサッカーに興じる子供たちの姿だけだ。

一方、母親をガンで喪い、父親とポーランドの祖母の元で暮らすことになった少年クリスチャンがいる。父親の仕事の関係で各国を転々とし、ロンドンからポーランドに戻ってきたのだ。彼が父親と転校先の学校へいくと、ひとりの少年が大勢の生徒たちにいじめられている。その少年エリアスは「スゥエーデンに帰れ」と罵声を投げつけられている。

エリアスの母親は息子がいじめられていること、その首謀者が体の大きなソフスだと知っており、アフリカから一時帰国した夫(冒頭の医師がエリアスの父親)と共に教師と面談するが、教師はどちらが悪いと判断せず、曖昧なままエリアスの転校を勧める。激高する母親に、「両親に問題があるのでは?」と家庭の問題をほのめかす。いじめられるのは、本人にも原因があるという例の論理である。

エリアスと同じクラスになり席が隣になったクリスチャンは、一緒に自転車置き場にいきエリアスの自転車のタイヤの空気が抜かれているのを見付ける。いじめっ子ソフスの自転車からバルブを抜いたクリスチャンは、いきなりソフスにバスケットボールを顔面に投げつけられ鼻血を流す。このままではエリアスと同じように、いじめられる日々が待っているだけだ。

翌朝、いつものようにエリアスを追うソフスを尾けたクリスチャンは、トイレでエリアスをいじめているソフスを自転車の携帯用空気入れ(棍棒くらいの大きさのもの)で何度も殴りつける。床を転がるソフス。そのソフスの背にまたがり、クリスチャンは首にナイフを突きつけて「僕たちに手を出すな」と脅す。転校するたびにクリスチャンはそんな反撃をし、「あいつはヤバイ」と思わせてきたのだ。




しかし、ナイフを出したことを重視した学校は警察を介入させる。クリスチャンもエリアスも「ナイフはなかった」と言い張り、迎えにきた父親や母親と一緒に帰宅する。クリスチャンの父は帰宅の車の中で「殴られて、やり返していたらきりがない。戦争はそうやって始まる」と諭す。そのとき、僕は9・11のニューヨークの瓦礫に立ち、「奴らに思い知らせてやる」と国民を煽った愚かなブッシュの姿を思い出した。

「やられたらやり返せ」という論理は、世界を支配している。やり返せない奴は、腰抜けだ、チキンだと罵られる。「なめられたな」と軽蔑される。だからブッシュは、やられた以上にやり返した。アフガニスタン、イラク...、そしてオバマもパキスタンに特殊部隊を送り、10年をかけてオサマ・ビンラディンを血祭りに上げる。そのニュースが流れた夜、報復を祝うアメリカ人たちの姿がCNNに流れた。

アメリカに手を出したら、何倍にもしてやり返す。徹底的に捜索し、見つけ出し、そこがどこの国であろうと兵士を送り、武装ヘリで爆撃し、アメリカの敵を殺しまくる。それは、通学自転車のタイヤの空気を抜いたり、ボールをぶつけてきた相手を入院するほど殴りつけ、のどにナイフを押し当てて脅すクリスチャンと同じ発想である。

●二人の男に殴られっぱなしだった30数年前の夜

「未来を生きる君たちへ」(2010年)のクリスチャンは徹底的にいじめっ子ソフスを痛めつけ、自分とエリアスを守る。ある日、エリアスの父親とエリアスの幼い弟と一緒に遊びに出かけ、エリアスの弟が同じくらいの子供とブランコを取り合い喧嘩になる。ふたりを分けたエリアスの父親に、喧嘩相手の子供の父親が「俺の子にさわるな」と怒鳴り散らす。

「子供の喧嘩だ」と言うエリアスの父親を、相手の男はいきなり殴る。聞く耳を持たない。彼にはすべてが怒りの対象なのかもしれない。粗暴な言動をまき散らし、人を不快にさせるタイプだ。自分の子にも乱暴な口を利く。見るからに粗野な男である。クリスチャンは「警察に届けないの? 殴られたんだよ」と言うが、エリアスの父親は「失礼な奴だ」と相手にせず、子供たちを車に乗せる。

だが、クリスチャンもエリアスも反撃しない父親に納得がいかない。暴力的だった男を子供たちは怖がっている。帰宅し「なぜ、反撃しないの」とエリアスに問われ、父親は「奴はバカだ。殴り返せば私もバカだ。やたら殴り返していたら、世界はおかしくなる」と答えるが、殴られたことで彼の自尊心も傷ついている。父親はひとり湖で泳ぐ。火照った体と高ぶる精神を冷やすように......

クリスチャンとエリアスは相手の男の車を見かけ、その車から男の仕事場を探し出す。それを父親に知らせるのだが、それは「仕返しをしろ」という子供たちのメッセージだ。子供たちは父親を「腰抜け」だと思っているし、殴られた後で「痛くなんかない。奴はバカだ」と言ったことも、負け惜しみにしか聞こえていない。やられたらやり返さなければ、子供たちの尊敬は得られない。

30年以上昔のことだが、僕も殴られっぱなしだったことがある。相手は、酒場の隣席にいた二人連れだった。まだ、酒場での振る舞いに馴れていなかった20代のことである。何かと隣の客と目があった。後で同席していたカミサンに言われたのだが、「最初から荒れた感じで飲んでいたわ」ということだった。いわゆる、ガンを付けていたのだろう。

そのふたりが店を出るとき、言わなくてもよかったのに僕は「よく目があいましたね」と口を滑らせた。その頃の僕は、世の中の悪意を経験していなかったのである。意味のない悪意が存在することなど、夢にも思わなかった。30分ほどして店を出ると、物陰から二人が姿を現し「お兄ちゃん、待ってたよ〜」とからんできた。僕は路地に連れ込まれ、殴られっぱなしになった。

今でもよく憶えているが、カミサンは二人組が待ち伏せしていたとわかった瞬間、ピューという音がするほどの速さで姿をくらませていた。もうひとり一緒だったのは会社の先輩で(僕より小柄で非暴力のひとだった)、彼は二人組に「話せばわかる」と説得してくれたが、彼らはわからなかった。彼らの狙いは「こむずかしい話を得意そうにしていた」僕だったのだ。何かが気にくわなかったのだろう。

殴られた痛みより、ちぎれたネクタイより、破れたズボン(伊勢丹の紳士服売り場で買ったばかりだった)より、僕には精神的ショックが大きかった。意味もなく人を殴る人間がいること、そんな悪意が世の中に存在することが僕を落ち込ませ、殴られたことで自尊心がひどく傷ついたのだ。今に至るも、僕は一度も人を殴ったことはない。少なくとも暴力的な人間ではない。

そのとき「やられたんだから、奴らを見つけ出してやり返そう」とは思わなかった。日が経つにつれ、あの二人組に愚かさを感じるようになった。それは、暴力に対して暴力でやり返せない己、復讐(リベンジ)しない自分を肯定するための心理的な作用だったのかもしれないが、もし彼らを見かけても僕は何もする気はなかったし、トラブルを避けるためにこちらが身を隠したことだろう。

●すべての物語は何らかの形で何かを報復する復讐譚である

多くの物語は、「やられたらやり返せ」の論理をベースにしている。すべての物語は復讐譚であると言えるだろう。貧しく不遇な主人公が社会的に成功していくのも復讐だし、テロで愛する人を殺された主人公がテロリスト狩りを始めるのも復讐だし、会社の権力者に左遷させられた主人公が仕事で成果をあげて本社に戻るといったサラリーマン物語も復讐譚である。

赦す、やりすごす、相手にしない、相手と同じ愚かなレベルには立たない...という論理では、観客にカタルシスを与える映画は作れないのかもしれない。特に、ハリウッド映画は...。ハワード・ホークスは「真昼の決闘」(1952年)の保安官が町の人々に助けを求めたり、バッヂを棄てて町を出ていくラストシーンを批判して「リオ・ブラボー」(1959年)を撮った(それにしては制作年が離れているが)。

現在では「真昼の決闘」は、ハリウッドに吹き荒れていた赤狩りに対する批判映画だと評価されているし、バッヂを棄てるのは非暴力の宣言だ。西部劇にしては、確かにリベラルである。そういうところがマッチョ監督ハワード・ホークスには気に入らなかったのだろう。「リオ・ブラボー」は正統的西部劇であり、ジョン・ウエインを始めヒーローたちは超人的に強く、やられたらやり返すので観客は喝采する。

同じ頃に「大いなる西部」(1958年)という西部劇があった。「ローマの休日」(1953年)の知性派監督ウィリアム・ワイラーが、リベラルな俳優グレゴリー・ペックと再び組んだ大作だ。制作はワイラーとペックである。ふたりとも、この非暴力を訴える西部劇を作りたかったに違いない。ペックに対抗するのは、今は全米ライフル協会会長としてしか名が出ないマッチョのチャールトン・ヘストンだった。

西部の大牧場主の娘(キャロル・ベイカー)が東部に留学し、インテリの優男(グレゴリー・ペック)と知り合い婚約する。きちんとしたスーツにネクタイ、シルクハットをかぶるような紳士だ。男は結婚するために西部にやってくるが、馬車で牧場に向かう途中、乱暴な三人のカウボーイに取り囲まれる。大牧場主の娘婿と知った三人は、男を投げ縄で引きずり降ろして侮辱する。

彼らは、大牧場主と水源をめぐり長年対立している、岩山を根城としている地主の一族である。長男(「ライフルマン」のチャック・コナーズ)は大男で乱暴者。すべてを暴力で解決しようとする、腕力自慢の男だ。彼は東部の優男をいたぶり、彼が何も言わず屈辱を受け流したため「腰抜けだ」と言いふらす。ペックは「バカは相手にしない」という風に泰然としていただけなのだが......。

だが、婿になる男が「腰抜け」の烙印を押されたのでは、西部では生きていけないと牧場主は思う。婚約者の娘も結局は、同じような西部の論理にとらわれている。娘の幼なじみで密かに想いを寄せる牧童頭(チャールトン・ヘストン)も東部の優男を男らしくない、腰抜けだと思う。侮辱されたら撃ち殺すことも厭わないのが、荒くれ西部のルールなのである。なめられたら、生きてはいけないのだ。

だが、ペックは誰も乗れなかった荒馬に何度も振り落とされながら乗りこなし、真の勇気を見せる。チャック・コナーズと一発しか撃てない決闘用の銃で決闘する羽目になり、コナーズが卑怯にも先に引き金を引いて外した後、ペックが撃つ番になる。そのとき、コナーズは荷車の下に逃げ込むがペックは赦し、空に向けて弾を放つ。しかし、コナーズは仲間の銃を取ってペックを撃とうとし、実の父親に「卑怯者め」と撃ち殺される。

「大いなる西部」では、暴力や殺し合いの虚しさが徹底的に描かれる。暴力に頼る人間の卑怯さや愚劣さが印象に残る。真の勇気とは何かと問いかけ、非暴力を貫くことの辛さ、潔さ、むずかしさがアピールされ、それでも「闘いではなく赦しを...」「争いではなく平和を...」と訴える。グレゴリー・ペックが出た映画に愚作なし、と言うほど僕は彼の映画が大好きで「大いなる西部」もオススメしたい一本だ。

●ハリー・キャラハンは「グラン・トリノ」の老人になったが...

報復の論理で無数の観客を動員したのは「ダーティーハリー・シリーズ」(1971〜88年)だ。人を殺したり、レイプしたり、麻薬で人々を堕落させたり、犯罪で大金を稼いだりする奴らは報いを受けねばならない。だから、ハリー・キャラハンは何のためらいもなく人を殺す。「悪いことをやったのだから、やり返されるのは当然」とばかり、様々な方法で悪党たちを退治する。

しかし、それから数10年、老人になったクリント・イーストウッドは「グラン・トリノ」(2008年)を撮る。それは、ハリー・キャラハンのやり方「やられたらやり返せ」を否定する映画だった。最初、「グラン・トリノ」の主人公は年老いてはいても、ハリー・キャラハンと同じ論理で生きている。誰にも頼らず、自分の身は自分で守る。すぐに銃を持ち出し、脅す。威嚇する。

隣家のアジア人の姉弟と知り合い、弟が悪い仲間に脅されているのを知り、彼らのアジトにいきボス格の若者をダーティーハリーのように脅す。「今度、彼に手を出したらタダじゃおかないぞ」である。しかし、その報復として不良グループは姉を拉致し、暴行する。彼女の無惨に腫れあがった顔を見た瞬間、主人公は己の行動の愚かさを自覚する。報復は報復を呼ぶ。報復の連鎖を断ち切るために、主人公はある決意をする。

「報復は報復しか生まない。今こそ冷静な対応をすべきよ」と、9.11直後に開いたコンサートでマドンナは観客たちに訴えた。人気取りのために国民を煽った、西部劇の保安官を気取るブッシュより、よほど勇気のいる言動だし賢明な宣言だ。ニューヨークの瓦礫の上で、人々が「USA、USA」と合唱し復讐を誓うナショナリズムが最高潮のときに、そんなことを発言すれば銃弾が飛んでくる危険さえあった。

同じような雰囲気が、最近の日本にもある。領土問題に端を発したナショナリズムが高まりつつある。バカな週刊誌が煽る。煽れば雑誌が売れるからだ。日韓の応酬を外務省の関係者が「チキン・レースの様相を呈してきた」と発言したと新聞に出ていた。やられたらやり返せ、である。国民から「腰抜け(チキン)」と思われたくなかったら、どちらかが音をあげるまで降りることはできない。

●暴力しか振るえないバカであることを彼は自覚していない

「未来を生きる君たちへ」では、子供たちに腰抜けと思われたくはないが、「やられたらやり返せ」だけでは世界はまわらないと子供たちに教えるために、医師である父親は自分を殴った男が営んでいる自動車整備工場へ出向く。父親は、男の愚かしさを子供たちに教えようとしたのだ。「子供たちが君を怖れている。なぜ、私を殴ったのか理由を知りたい」と父親は問う。

父親と男の会話はかみ合わない。接点はないし、理解しあえるはずもない。男が車の下から顔を出す。相変わらず凄み、暴力を振るう。子供たちにも男の愚かさは伝わる。しかし、「自分が暴力しか振るえないバカであることを、彼は自覚していない」とクリスチャンは父親に突っ込む。そうであるとすれば、男は「文句を言ってきたインテリ男を撃退した」と勝ち誇っているに違いない。

クリスチャンは、男に仕返しをしない限り納得できない。報復しないのは、負けだ。負けたままでいたくない。自分が腰抜けではないことを、自分に納得させなければならない。ある日、彼は祖父の使っていた納屋であるものを見付け、危険なリベンジを思いつく。エリアスを誘い、その計画に向かって突き進む。そして、とうとう悲劇が起きる。

同じ頃、アフリカの難民キャンプに戻った父親の元には、武装した民兵たちがジープでやってくる。ビッグマンと呼ばれるボスの脚の傷を、切断せずに直せと強要される。黒人医師に「奴の傷を治すのか」と問い詰められ、父親は「医師としての仕事をするだけだ」と答える。彼は残虐非道な男も、治療を必要とする同じ患者として扱う。

だが、脚が回復したビッグマンが部下を引き連れて手術用テントを覗き、死んだばかりの若い黒人女性の遺体を「部下にくれ。奴は死体とやるのが好きなんだ」とニヤニヤと笑った瞬間、ビッグマンをたたき出す。下劣な人間は、どこまでも下劣なのだ。相手の愚劣なレベルまで下がりたくないから、赦し、やり過ごしてきたのに、それにつけ込んで相手はどこまでも下劣になる。

「やられたらやり返せ」という論理に同調せず、相手にしない、あるいは赦すといった反応をしたとき、「放っておけばつけあがって、もっとひどいことをやってくる」という言葉には説得力がある。黙って相手の横暴に耐えるのは、相当な覚悟がないとむずかしい。下劣で残虐で、死んだ方が世の中のためになる人間を、赦すことができるのかという命題は死刑廃止問題にも通じる。

「目には目を、歯には歯を」と「右の頬を打たれたら左の頬を...」は、聖書の言葉として有名だ。本来の意味は聖書の文脈の中で捉えられるべきだろうが、前者は「やられたらやり返せ」的に理解されているし、後者は非暴力主義的な意味合いで使われることが多い。聖書の中でさえ矛盾する箴言があるのなら、常人が考えて解決のつく話ではないが、穏やかな解決策はないものかと思う今日この頃です。

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最近、夏ばてか少し体調が悪い。体調が悪いと頭の働きもにぶる。ぼーっとしていることが増えた。老人力がついたというべきかもしれない。リタイアしたがっているので、体の方が先にダメになったのかもしれない。気力を...、もっと気力を。

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