〈マイ・ボディガード/マーキュリー・ライジング/誰かに見られてる/コブラ/死にゆく者への祈り/殺しの烙印/シークレット・サービス/SP 野望篇・革命篇/キラー・エリート/ザ・ミッション 非情の掟〉
●主人公が誰かを守る設定の映画は数え切れないほどあった
僕はかなり多くの映画を見てきたが、誰かが誰かを守るという設定の物語はその中でも相当な割合を占めるのではないかと思う。特にアクション映画のジャンルでは、復讐譚と共に王道的な物語である。観客に感情移入させやすいのは、守る対象を幼い少年や少女にすることだ。前々回に紹介した「マイ・ボディガード」(2004年)などは、9歳の少女役ダコタ・ファニングの可憐さで成功した例だ。
同じように子役が評判になったのは、まだキレがよかった頃のブルース・ウィリスが主演した「マーキュリー・ライジング」(1998年)だった。自閉症の少年を演じた子役が注目された。少年は国家が極秘に開発していた暗号を解読してしまったために両親を殺され、自分も命を狙われる。それをFBI捜査官のブルース・ウィリスに助けられるのだ。彼は、必死で少年を守ろうとする。
しかし、主人公が守る相手が大人の女になると、話がまったく変わってしまう。恋愛の要素が入ってくるからだ。典型的なのは、リドリー・スコット監督の「誰かに見られてる」(1987年)である。原題は「サムワン・ツー・ウォッチ・オーヴァー・ミー」、スタンダードナンバーとして有名な曲だ。妻子持ちの貧乏刑事トム・ベレンジャーが殺人犯を目撃した金持ち女ミミ・ロジャースを警護する。
豪華マンションのエレベーターホールで椅子に座って警護していた刑事は、女の誘いにのって部屋に入りその豪華さに圧倒される。次第に打ち解けたふたりは恋に落ち、ベッドを共にする。翌朝、警護の交替でやってきた同僚の刑事は、主人公が女の部屋から出てきたのを見て肩をすくめる。主人公の妻は元警官で、職場の仲間とは顔見知りなのである。ここからは不倫問題も加わってくるという複雑さだ。
●主人公が誰かを守る設定の映画は数え切れないほどあった
僕はかなり多くの映画を見てきたが、誰かが誰かを守るという設定の物語はその中でも相当な割合を占めるのではないかと思う。特にアクション映画のジャンルでは、復讐譚と共に王道的な物語である。観客に感情移入させやすいのは、守る対象を幼い少年や少女にすることだ。前々回に紹介した「マイ・ボディガード」(2004年)などは、9歳の少女役ダコタ・ファニングの可憐さで成功した例だ。
同じように子役が評判になったのは、まだキレがよかった頃のブルース・ウィリスが主演した「マーキュリー・ライジング」(1998年)だった。自閉症の少年を演じた子役が注目された。少年は国家が極秘に開発していた暗号を解読してしまったために両親を殺され、自分も命を狙われる。それをFBI捜査官のブルース・ウィリスに助けられるのだ。彼は、必死で少年を守ろうとする。
しかし、主人公が守る相手が大人の女になると、話がまったく変わってしまう。恋愛の要素が入ってくるからだ。典型的なのは、リドリー・スコット監督の「誰かに見られてる」(1987年)である。原題は「サムワン・ツー・ウォッチ・オーヴァー・ミー」、スタンダードナンバーとして有名な曲だ。妻子持ちの貧乏刑事トム・ベレンジャーが殺人犯を目撃した金持ち女ミミ・ロジャースを警護する。
豪華マンションのエレベーターホールで椅子に座って警護していた刑事は、女の誘いにのって部屋に入りその豪華さに圧倒される。次第に打ち解けたふたりは恋に落ち、ベッドを共にする。翌朝、警護の交替でやってきた同僚の刑事は、主人公が女の部屋から出てきたのを見て肩をすくめる。主人公の妻は元警官で、職場の仲間とは顔見知りなのである。ここからは不倫問題も加わってくるという複雑さだ。
もう30年以上も昔のことになったが、早川ミステリから出たポーラ・ゴズリングという女流作家の「逃げるアヒル」が話題になった。その帯には「英国推理作家協会賞最優秀新人賞受賞作」とあり、「知りすぎた女を殺し屋の銃口が狙う! 女を守る刑事とのプロ対プロの追撃戦」と書かれていた。こういう話が好きな僕はすぐに買って読んだが、期待が大きすぎたのか少し落胆した。
しかし、僕は殺し屋に狙われた女を守る孤独な男という設定を偏愛するので、シルベスター・スタローンが「コブラ」(1986年)として映画化したときには、少し期待して映画館へいった。しかし、これは原作以上の期待はずれだった。ヒロインを演じた恋人(あるいは、すでに妻だった?)ブリジット・ニールセンにスタローンがメロメロなのがわかるだけの映画だった。原作の深さはどこにもなかった。
同じような設定なら、神父とその妹の盲目の美女を殺し屋たちから守るために、自らの命を棄てる元IRA(アイルランド・リパブリック・アーミー)の兵士(テロリスト)を主人公にした「死にゆく者への祈り」(1987年)の方がずっとよかったと思う。色気が漂っていた頃の若きミッキー・ロークが孤独なテロリストを演じて印象に残る。
彼らは、自分が愛する者を命をかけて守ろうとする。そこに自己の存在意義を見出そうとするのだ。大切な人を守ることで、生きる意味を見出していく。だから、多くの場合、彼らはどこかに欠損を抱えた人間として登場する。組織からはみ出したFBI捜査官だったり、ベトナム戦争で受けた精神的な傷を引きずる刑事だったり、自分が仕掛けた爆弾で多くの子供たちを殺してしまったテロリストであったりするのだ。
しかし、世の中には職業として「誰かを守る」人々もいる。彼らは守る対象に愛情や尊敬を抱いているわけではない。自分の仕事として、ある人物を守るのだ。プロフェッショナルである誇りを守るために、ときには卑劣で傲慢な政治家連中さえ守り抜くし、犯罪容疑者として追われる富豪さえ守る。それが彼らの仕事なのだ。彼らはプロフェッショナルなのである。
●誰かを守ることを仕事として続けることのプレッシャー
昔からプロのボディガードものが好きだった。ギャビン・ライアルの「深夜プラスワン」を高校生の頃に読んだので、その影響が強いのかもしれない。元シークレット・サービスで、パリでフリーのボディガード業を営んでいるハーヴェイ・ロヴェルというアル中のガンマンに惚れ込んでしまったのだ。冒険小説ファンの間では、人気ナンバーワンのキャラクターである。
主人公の「私」は、ムッシュ・カントンことルイス・ケインというイギリス人である。ハーヴェイ・ロヴェルはアメリカ人。このふたりがシトロエンDSを駆って、マガンハルトという大富豪(レイプ容疑で指名手配されている)とその秘書をフランスの海岸からリヒテンシュタインまで護送する物語である。もちろん途中、様々な困難があり、何度も襲われて危機を迎える。
ハーヴェイ・ロヴェルは、主人公ルイス・ケインの視線を通じて描写される。ケインはプロを理解する男だから、ケインの一人称による語りで僕らはハーヴェイ・ロヴェルのプロフェッショナルぶりを堪能する。たとえば、ケインが初めてロヴェルに会うカフェの場面では、ロヴェルが左手だけを使っていることがさりげなく書かれている。つまり右手は襲われたとき、拳銃を抜くために空けておくのである。
以前にも書いたが、なぜ「深夜プラスワン」が映画化されないのか(今となってはもう時代遅れだろうが)僕には不思議だが、原作を明示していないものの鈴木清順監督作品「殺しの烙印」(1967年)の前半30分ほどは「深夜プラスワン」をそのまま使っている。ハーヴェイ・ロヴェルと同じようにアル中のガンマンを演じたのは、南廣だった。
ハーヴェイ・ロヴェルが元シークレット・サービスだったように、プロのボディガードとして有名なのはアメリカの大統領護衛官である。ケネディ暗殺を防げなかったが今も現役で大統領を護衛し、パレードの大統領専用車に併走して息切れをする老シークレット・サービスをクリント・イーストウッドが演じたのが「シークレット・サービス」(1993年)だ。
監督はドイツ映画「U・ボート」(1981年)が世界的にヒットし、ハリウッドに進出したヴォルフガング・ペーターゼンである。出来不出来はあるものの、彼が監督すればある水準以上の骨太なアクション映画にはなる。「シークレット・サービス」は出来のよいときの作品だ。
老練なシークレット・サービスと組むのは、若手のシークレット・サービスである。黒澤明「野良犬」(1949年)が確立した不滅の組み合わせだ。冒頭から、若手エージェントに危機が訪れ、危機一髪のところで主人公が救出する。若手エージェントは命を張る仕事の緊張感に耐えきれず、転職を考えている。その若いシークレット・サービスが暗殺者に射殺され、主人公はリベンジを誓う。
この映画の中でも描かれていたが、シークレット・サービスの一番の役割は自らが盾になり、身を挺して大統領を守ることだ。大統領を取り囲んで人間の壁を作り、暗殺を阻止する。つまり、いつでも自分の身を投げ出す覚悟が必要なのだ。いつでも死ねる覚悟がないと、シークレット・サービスはつとまらない。だから、多くシークレット・サービスが緊張感に耐えられずリタイアする。
●警視庁の元セキュリティ・ポリスを主人公にした物語
アメリカのシークレット・サービスを参考にして設立されたのが、警視庁のセキュリティ・ポリスである。もう30数年前になるが、朝日新聞の記事で女性のセキュリティ・ポリスが取り上げられていて、僕は日本にセキュリティ・ポリスが設置されたことを知った。正式には1975年のことだったという。
その記事を読んだ僕は、元セキュリティ・ポリスで現在はフリーランスのボディガードをやっている男を主人公にしたシリーズ小説を考えたことがある。1月から12月までの12話構成で、その月にちなんだタイトルにし必ず色を入れることにした。その色から護衛する対象が連想できるのが狙いだった。それは短編集になるか、一編一編が長編になるかはわからなかった。
1月のタイトルは「ピンクの像を見るボディガード」だった。「ピンク・エレファント」はアル中が見る幻の中に現れるとされていて、アル中を示す英語である。ディズーアニメ「ダンボ」(1941年)では、間違って酒を飲んだダンボが酔っぱらってピンクの像たちとダンスを踊るシーンがある。僕の発想は、どうしてもハーヴェイ・ロヴェルから離れられなかったのだ。
2月は「ブルーな夢を見るボディガード」である。これは、400字詰原稿用紙で80枚ほどの短編に仕上げた。読み物雑誌の新人賞の規定が80枚までだったからである。裏社会の恐喝屋が分の過ぎた恐喝をして権力に狙われたため、主人公に護衛を依頼してくるという物語だった。「オール読物新人賞」に応募して一次選考は通ったが、二次選考では落ちた。考えてみれば、新味のない話である。
5月のタイトルは「グリーンを走るボディガード」。絶大な人気を持つプロ・ゴルファーを護衛する話にした。6月は「シルバーレインに濡れるボディガード」だった。汚職事件に巻き込まれた官僚の娘から、本人が自殺しないように影ながら護衛してほしいという変則的なボディガードの依頼を受ける。これは冒頭、20枚ほどは書いたが中断したままだ。
僕は30前だったが、そんな話を考えているのが楽しかった。結婚し、仕事にもようやく馴れた頃で、物語をいろいろ組み立てているとストレスが消えていくようだった。昔から、僕のストレス発散法は原稿を書くことなのである。この「映画と夜と音楽と...」も「よく続きますね」と言われることが多いが、週末の原稿書きで平日のストレスを解消しているのだ。
さて、フジテレビで金城一紀さんの「SP」が始まったとき、僕は気にはなったが何となく意地を張って見なかった。それが評判になって映画化され、新宿ゴールデン街「深夜プラスワン」でずっとカウンターに入っていた匡太郎が助監督になり、「SP」についたと聞いたので「SP 野望篇」(2010年)「SP 革命篇」(2011年)は見た。
確かに要人警護のプロが主人公だし、要人警護の様々なシーンはあったけれど、この二本の映画は「誰かを守り抜く」ことを主題にした物語ではなかった。警察内部の複雑な権力闘争や、理想主義者の上司のクーデターなどを中心とした、どちらかと言えば今流行の警察小説的なストーリーだった。僕は、プロとして誰かを守り抜く直線的な物語が見たいなあ、と思ったものだった。
●プロフェッショナルたちの闘いをスタイリッシュに描く
サム・ペキンパー監督の熱狂的支持者である僕としては、「キラー・エリート」(1975年)という作品を取り上げることにためらいがある。出来がいいかと問われると、僕は黙って何も答えられない。しかし、この映画が公開される前、僕は大いに期待し、早川ノヴェルズで出ていたロバート・ロスタンドの原作小説も読んだ。
その小説の「あとがき」には、訳者が「『キラー・エリート』を読んでいて、ギャヴィン・ライアルの『深夜プラスワン』をふと思い出し」たとある。隻腕隻脚の元情報部員が夜盲症の老タクシー運転手と異常性格の若いガンマンの三人で、アフリカの某国元首相とその娘をある場所まで護衛する物語だ。襲ってくるのは、主人公を隻腕隻脚にした元同僚であり、腕利きの殺し屋である。
サム・ペキンパーの映画版では、主人公はジェームス・カーン、凄腕の殺し屋はロバート・デュバルという「ゴッドファーザー」(1972年)を連想させる配役だった。若いガンマンはペキンパー映画の常連ボー・ホプキンス、タクシー運転手はバート・ヤング(「ロッキー」のエイドリアンの兄でトレーナーですね)だったと思う。
原作と変えていたのは、守るのがアジアの某国の元指導者だったことだ。マコ岩松が演じた。そして、襲ってくる暗殺団は黒ずくめの忍者姿の一団だった。これがやりたくてペキンパーは映画化したのだろうか。船の墓場のような海に浮かぶ廃船を舞台に、拳銃対忍者軍団の死闘が繰り広げられるのであった。やれやれ...
割に最近見て気に入ったのは、香港映画「ザ・ミッション 非情の掟」(1999年)だ。11年前の劇場公開時には見逃していた。数年前からジョニー・トーの熱狂的支持者になった身としては、旧作をDVDで見るしかないのである。ジョニー・トーには、間違いなくサム・ペキンパーとジャン・ピエール・メルヴィルの遺伝子が入っている。
香港黒社会のボスが、中華飯店で暗殺者たちに襲われる。何とか逃げ延び、ボスの弟は腕利きの五人の男たちをボディガードとして雇う。ジョニー・トー作品おなじみのアンソニー・ウォンやラム・シュなどである。これが初出演だったフランシス・ンも、これ以降は常連になる。彼らはボスを守りきり、誰が暗殺を企てた黒幕か、突き止めることができるのか。
ジョニー・トーの映画である。セリフは少ない。映像は凝りに凝っている。スタイリッシュな映像と形容されるが、とにかくカッコいい。惚れ惚れする。描かれるのは男たちのクールな友情と絆、黒社会の非情な掟、ゾクゾクする撃ち合い、感情移入のない突然の射撃、それぞれ銃口を別の人間に向けて対峙する緊張感、プロ同士の駆け引き......などである。
だが、ジョニー・トーの映像的才能が半端ではないのを示すのは、何でもないシーンなのである。五人の男たちの心が打ち解け合っていくのを、ジョニー・トーは丸めた紙くずで描き出す。ボスの部屋の前で五人の男たちが待っている。ひとりが落ちていた紙くずをサッカーボールのように蹴る。別の男がパスするように別の男の方に蹴る。何度かパスの応酬がある。
廊下の一番奥にいるのが、リーダー格のグァイ(アンソニー・ウォン)だ。彼の前にまで紙くずが転がっていく。どうするんだろうと見ている人間は思う。一瞬の間があって、グァイは紙くずを男たちの方に蹴り返す。これで、銃の専門家フェイ(ラム・シュ)元狙撃手マイク(ロイ・チョン)殺し屋ロイ(フランシス・ン)とその弟分シン(ジャッキー・ロイ)の五人に絆が成立したのである。
「ザ・ミッション 非情の掟」では何度かボスが襲われ、ボディガードたちがプロらしい動きを見せてくれるが、凝っているのは香港ジャスコ内での死闘だ。エスカレータや太い柱など店内の遮蔽物や小道具を駆使して、まさにスタイリッシュなガン・アクションを見せてくれる。まあ、こんなシーンに昂奮するのは男だけでしょうけどね。うちのカミサンなんてハナから見ようとしませんよ。
彼らは、護衛対象を身を挺して守るに値するか? なんて悩むこともないし、心情的なシンパシーがあるから守るわけでもない。もちろん、ボスに心酔しているわけではない。愛してもいない。彼らは、それが「仕事」だから、自らのプロのプライドにかけて使命をまっとうしようとしているだけだ。
そういう人間を見ていると、僕は何だか心の底からすっきりした気分になる。そう、仕事をしよう、完璧な仕事を......。誰からも信頼される、「あいつに任せておけば間違いない」と言われるプロフェッショナルになろう。仕事をするとは、信頼を得ること。いい加減な仕事をすると、すぐに信頼を失う。信頼を維持するためには、常にベストの仕事をしなければならない。けっこう、しんどいけど......それがプロってもんじゃないのか。
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951
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大型台風が東海地方を直撃するという早朝、名古屋へ転勤になる息子を駅まで送った。キャスター付きの大きなトランクを押す背中を見送って帰宅。その後、関東地方は快晴。台風の予兆もない。金曜に飲み過ぎて、土曜を一日つぶしてしまったので、早朝から活動的な日曜になった。
●長編ミステリ三作の配信開始→Appストア「グリフォン書店」
→以下でPC版が出ました。楽天コボ版、キンドル版も予定しています
< http://forkn.jp/book/3701/
> 黄色い玩具の鳥
< http://forkn.jp/book/3702/
> 愚者の夜・賢者の朝
< http://forkn.jp/book/3707/
> 太陽が溶けてゆく海
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