映画と夜と音楽と...[570]徳大寺伸に似てる僕の伯父さん
── 十河 進 ──

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〈山のあなた 徳市の恋/按摩と女/新選組血風録〉

●伯父と従姉妹と並んでいる53年前の写真

その日、兄からのメールを読んだ後、僕は納戸にしまっておいた古いアルバムを探した。10歳の誕生日に、母親からプレゼントでもらったアルバムだ。そこには僕が子供の頃の写真がきちんと整理されている。モノクロの写真ばかりだ。中には、セピア色になっているものもある。3歳くらいから10歳までの写真だ。坊ちゃん刈りの、まるで「三丁目の夕日」に出てくる子供達のような姿である。

目的の写真は、アルバムの真ん中あたりにあった。右端は兄だ。その横に僕がいる。胸に太いラインが入ったセーターを着ている。当時はそんなセーターが流行っていた。確か紺色の地に胸の部分だけ横に白いラインが入っていたと記憶している。その隣にベレー帽をかぶり、シャレたショートコートを着た少女がいる。キツネの襟巻きをし、白い靴下には丸い房が飾りで付いている。背は、僕より高い。

少女の隣にいる四人目の大人は伯父である。今見ると、まだ30代に見える若さだ。少女は伯父の長女で、ユキコと言った。幼い頃に患った病(小児麻痺だろうと思う)のせいで、右足を引きずるようにして歩いた。彼女は僕より一歳年上で、兄より一歳下だった。僕の母が兄を生んだ翌年、伯父は初めての子を授かり、その翌年に母は僕を生んだ。その写真には、昭和34年2月と書かれている。僕は7歳、兄は9歳、従姉妹は8歳だった。




従姉妹の記憶は、あまりない。伯父が彼女を我が家に連れてきたのは、ほんの二、三度だった。僕は太っ腹で陽気な性格の伯母(血は繋がっていないけれど)が大好きで、よく伯父の家に泊まりにいっていたから、従姉妹とは遊んでいたはずなのだが、その記憶が甦らない。伯父の家を思い出そうとすると、伯母の元気な声ばかりが耳に甦る。「ススムちゃん」と言う伯母の姿が目に浮かぶ。肝っ玉母さんのように、伯母はよく肥えていた。

陽気な伯母に比べると、伯父は酒を飲んでは愚痴った。仕事はうまくいっていたが、子供の病気で苦労したからだ。長女は足を引きずるだけですんだのに、次女は重度の脳障害と身体障害が残り、まともに口をきけず這うしかできなかった。ずっと、おしめがとれなかった。彼女はひどい斜視で、子供だった僕は彼女に見つめられるのが怖かった。彼女の言葉は理解不能だったけれど、伯母は理解していた。それを、僕は不思議に思っていた。

次女は脳性麻痺だったのだろうか、僕は詳しく聞いたことはなかった。母親は教育がなく古い人間だから、「あれは兄さんと嫂さんの血が合わなかったからや」と非科学的なことを口にした。「ユッコは足だけですんだのに、下の子は口もきけんし、歩けもできん。おしめもとれん」と母親は実兄の悲運を嘆いているのか、恥じているのかわからない言い方をした。母親のそんな言葉に反撥し、僕はよけいに伯父の家に遊びにいくようになった。

僕の親戚の中では伯父は唯一のインテリだったし、教育もあった。母親に言わせると「家は貧しかったが伯父さんは頭がよくて、先生に勧められて実業学校へいった」そうだ。どういう学校かはよくわからなかったが、学校にいきながら給料がもらえる制度だったらしい。逓信省が運営していた学校なのか、伯父は郵政関係の仕事をしていたという。戦後は、郵便局の仕事に就いていた。

僕の母親は長女で妹がふたり、上は兄だけだった。そのためか、頭のよい伯父を自慢にしていた。その伯父の娘たちがふたりとも障害者になり、それを嘆いていたのかもしれない。いや、母は田舎育ちで昔の人間だから、「情けない」と思っていたのだろう。それでも、伯父の話をするときは誇らしそうだったし、何かと言えば「伯父さんは徳大寺伸に似てる、と言われてハンサムだったんよ」とよく口にした。

●スナップのクサナギくんがリメイクした「按摩と女」

スマップのクサナギくんが「山のあなた 徳市の恋」(2008年)に主演したとき、オリジナル作品の「按摩と女」(1938年)で主演したのは徳大寺伸だったな、と僕は思い出した。子供の頃から母に「伯父さんによく似た徳大寺伸」と聞かされ続けた僕は、東映映画でよく見かける脇役俳優を気にかけていたのだ。そして、徳大寺伸が戦前には主演作もあった人だと知った。

「日本映画俳優全史」(教養文庫)によれば、明治44年(1911年)生まれの徳大寺伸は慶應大学を出て昭和8年(1933年)に松竹に入社する。最初は本社勤務の社員として入ったのだが、すぐに蒲田撮影所に移って俳優になったという。その後、清水宏監督の「大学の若旦那」で準主役としてデビューした。清水宏監督には気に入られていたのだろう。「按摩と女」も清水宏監督作品だ。

清水宏監督は田中絹代の最初の夫としても知られているが、戦前から多くの作品を残した巨匠である。戦後も「蜂の巣の子供達」(1945年)など、子供を主人公にした作品に名作が多い。僕が子供の頃、小学校の映画教室で見た「次郎物語」(1955年)も清水宏監督作品だった。ロケ好きで知られ、「按摩と女」も山の温泉地を舞台にし、ロケの多い作品だった。今と違い、撮影機材を屋外に持ち出すのは大変だったことだろう。

「山のあなた 徳市の恋」は、清水宏監督作品の脚本をそのまま使用しているから、「按摩と女」の物語は最近の人にも多少知られただろうか。僕はどちらも見たが、やはりオリジナル作品の方が余韻は深かった。クサナギくんはよくがんばっていたけれど、ずっと目を閉じての演技にはやはりどこか不自然な感じが残った。しかし、徳大寺伸の按摩役は見事なもので、恋した女性を一度でいいから自分の目で見たいという彼の切なる願いが、その演技から伝わってきた。目の見えないもどかしさが、映画全体に情感を与えていた。

徳市は目が見えず按摩として生計を立てているが、仲間たちからも勘の鋭さを感心されるほど神経を研ぎ澄ましている。負けん気が強く、目の見える常人たちに負けたくないと、まるで目が見えているような速さで山道を歩く。杖をついた按摩に追い越された学生たちがムキになって追い返したくなるほど、彼の常人に対する敵愾心は露骨だ。徳市は自分のハンデを克服しようとしている。同情されるなんて、まっぴらなのだ。

そんな徳市が謎めいた、ひとり旅の女に恋をする。その美女を演じているのが、美しさの絶頂にあった高峰三枝子である。昔の女優だから和服姿がよく似合い、どこかハイカラな感じもある。ある日、宿で泥棒騒ぎが起きる。泊まり客の財布がなくなったというのだ。徳市は、自分が恋した女を疑い、やがて彼女が盗んだのだと確信する。彼女が捕まるのを防がなければならないと、徳市は思い詰める。

徳市が、純な想いを募らせていく姿がせつない。目が見えないことの悔しさ、それでも常人には負けまいとするけなげさ、目の見えない人間らしくない自尊心の高さが常人たちから反撥され「小憎らしい」と思われるつらさ、そんな感情がうずまく中で、謎の美女への純粋な想いが徳市を素直な男にする。70年以上も前、身体的ハンデのある人間を主人公にして、その内面を自然に描いた作品としても貴重だ。清水宏監督の自然な演出に応えて、徳大寺伸は存在感を漂わせる。

●原田佐之助の役は徳大寺伸の他には考えられない

美空ひばりや中村錦之助が主演した、今から見ればノーテンキな東映明朗時代劇の脇役として僕は徳大寺伸を知った。母親が言っていたのはこの人なのだと、スクリーンを見ながら「大した役者じゃないな」と思っていた。子供にとっては主演俳優以外は、みんな大したことのない役者なのである。映画は名脇役たちがいなければ成立しないと悟るのは、ずっと後のことだ。

僕が徳大寺伸を好きになったのは、1965年から66年にかけて放映されたテレビシリーズ「新選組血風録」からである。主演は栗塚旭が演じた土方歳三だったが、原作が新選組の隊士列伝になっていたから、毎回、中心になる人物が代わり、島田順司の沖田総司や左右田一平の斉藤一などが主人公になる回もあり、それぞれのキャラクターに人気が出た。その中のひとりである原田佐之助を演じたのが、徳大寺伸だった。

明治末年生まれの徳大寺伸は、その頃は60半ばである。とてもそんな年には見えなかった。豪快だが女好きの好人物という原田佐之助のイメージを確立したのは、徳大寺伸である。その原田佐之助が中心的なエピソードが第20話「その前夜」だった。王政復古の大号令が発布され薩長軍が上洛し、伏見奉行所に逃れた新選組が「明日は薩長軍との戦いが始まる」前夜の話だ。戊辰戦争の鳥羽伏見の戦いである。

その前夜、原田佐之助は土方の居室にやってくる。「京都から使いがきた」と原田は話し始める。だが、なかなか話を切り出さない。本題を言いにくそうな原田は「ダメだろうなあ」と何度も繰り返すばかりで、何が言いたいのかわからない。土方が「原田くん、話がまったく進んでいない。私には何のことだかわからない」と切り返され、ようやく口を開く。

原田は「京都に女房だと思っている女がいて、その女に子供が生まれるんだ」と言うが、「非常事態の夜だから、私用で外出なんて幹部として許されないとわかっている」と煮え切らない。原田は、自分が父親を知らない子供だったことを話し始める。原田は京都へ飛んでいきたいのに、自分が幹部でありワガママが言えないことも知っている。話を聞いている土方の顔が強ばってくる。

「原田くん、お話の途中だが、今は新選組全員が臨戦態勢だ。一切の自由行動は許可されない」と、土方は苦虫を噛みつぶしたような顔で言う。原田は「仮にも新選組の幹部なのに、つまらねぇことを言ったよ」と立ち上がる。肩を落として出ていこうとする原田を土方は呼び止め、「只今から、きみに京都探索を命じる。ただし、特に報告はいらない」と命令を出す。その瞬間、子供のように嬉しそうな顔をする原田佐之助が印象に残る。

●自分の子ができるときに僕はふたりの従姉妹を思い出した

12月2日、兄から届いたメールには「伯父さんの長女が亡くなった。弔電をお願いします」とあった。僕はすぐに電話をしたが、兄は詳しいことを知らなかった。父と母は、通夜にいっているという。通夜から戻ったら電話がほしいと伝言して、僕は電話を切った。そう言えば、兄は僕ほど母方の伯父一家との接点はなかったかもしれない。

僕も10代半ばから伯父とは、まったく会っていなかった。18で上京してからは、親戚とは祖父や祖母の告別式で会うくらいだった。最後に伯父に会ったのは、母方の祖父が亡くなったときだから、もう20数年前になる。そのとき、新築して間のない伯父の家を訪ね、久しぶりに「ススムちゃんな、ホンマに立派になって...」と相変わらず肥えた伯母に言われた。

そのとき、もう伯父の次女は亡くなっていた。結局、10代半ばまで自宅で世話をしていたが、伯父と伯母も年をとり施設に預けることになった。僕のところに訃報が届いたのは、30年近く前になるだろう。彼女は、30を少し過ぎた年齢だった。その知らせを受けて、僕は子供の頃の従姉妹の姿を甦らせた。僕が知っているのは、10歳くらいまでの従姉妹だ。

子供の頃にはわからなかったが、伯母があれほど陽気で明るかったのは、もしかしたら努力して振るまっていたのではなかったろうか。長女は足が悪く、それが不憫でワガママ放題に育ててしまった。次女は、生まれたときから重度の障害を抱えている。そんな娘ふたりを抱えて伯母は、なぜあんなに陽気でいられたのだろう。次女の死を知った夜、僕はそんなことを思っていた。

それから長い長い時間が過ぎ、今度は長女が亡くなった。伯父と伯母は、どんな気持ちなのだろう。親にとって最も悲しいのは、自分より先に子供を亡くすことだ。それは、いくつであっても変わらない。92歳の伯父にとっても同じだろう。62歳で亡くなったとはいえ、彼女は伯父たちに残された、たったひとりの娘だった。伯父と伯母はふたりの子供を得、彼女たちを先に失ってしまったのだ。

夜遅く、母から電話がかかってきた。「まあ、62まで生きられたからねぇ」と、母は納得したように言う。「伯父さんも伯母さんも『ススムちゃん、ときどきは帰ってくる?』と、あんたのことばっかり訊かれたよ」と母が続けた。「子供の頃、ずいぶん可愛がってもらったからね」と僕は答えた。自分の声が妙にかすれているのに気付いた。鼻の奥がツンとした。50年前、伯父の家で食事をしたときの情景がありありと甦った。次女にスプーンで食事させる伯母の姿も......

●原田佐之助の喜びの表情に「伯父さん」と声をかけたくなった

子供の頃、一度だけ伯父を怖いと思ったことがある。アルバムに貼られた写真を撮った日の夜かもしれない。僕の父はまったくの下戸で酒は一杯も呑まない。だから、その頃まで僕は泥酔した大人を見たことがなかった。もちろん、冠婚葬祭で親戚の大人たちが酒を酌み交わすのを見たことはあったが、そんなにひどく酔った人間を見たのは、その夜の伯父が初めてだった。

元々、酒を呑む人間ではあったが、その夜の伯父は我が家で酔って大声を出し、立ち上がろうとしてよろけた。結局、立ち上がれず、壁にもたれて再び大声を出した。何を言っていたのかは憶えていない。その姿が、その声が、僕には怖かったのだ。もしかしたら、あのとき、伯父は自分の人生に対する不満を訴えていたのではないか、ふたりの娘を襲った不幸を呪っていたのではあるまいか。ずっと後、自分がときに泥酔するようになって、そんなことを僕は想像した。

20代半ば、初めてカミサンの妊娠がわかったとき、僕が真っ先に思い浮かべたのは従姉妹たちのことだった。正直に言うと、僕には傷害のある子供が生まれてきたら...という怖れがあったのだ。僕には、何の覚悟もできていなかった。結局、4か月になる前に流産してしまったが、そのときカミサンを心配しながらホッとした自分がいたのを僕は忘れない。絶対に忘れるべきではない、と言い聞かせてきた。

僕に長男が生まれたのは、30のときだった。病院の新生児室のガラス越しに目を閉じた赤ん坊を見て、僕には「この子がひとりで生きていけるようになるまでは......死ねないな」という思いが湧き上がってきた。親になるとはこんな気持ちになることか、と僕は悟った。そのとき、自分の父母の気持ちを知った。重い障害を持つ娘たちを育てた伯父と伯母の気持ちも理解できる気がした。

どんな障害があろうとも、自分の子供は育てる。どんな子であっても、親とは無条件で子供を愛せるものなのだ。もし、一生自分の力で生きていけないような子供であったとしたら、どんなことをしても生き続けてその子を守ろうとするだろう。子供のためなら、自分の人生のすべてをかけられる。親とはそういう存在なのだ、と僕にはわかった。身に沁みた。

従姉妹の告別式が行われている同じ時刻、僕は「新選組血風録」のDVDをプレイヤーにかけた。原田佐之助が鳥羽伏見の戦いの前夜、子供が生まれるのに立ち会うために京都へいく。土方が「きみに京都探索を命じる」と言った瞬間に見せた原田佐之助の喜びの表情に、「伯父さん」と声をかけたくなった。娘たちが生まれたとき、伯父もそんな顔をしたはずだ。徳大寺伸は、本当に伯父によく似ている。

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この歳なら当たり前なのだろうけれど、いろいろと身体的に不調が出ている。長く使っているので、あちこち古くなっているのだろうなあ、と思いつつ、一気に修理する気にもなれない。それでも、週に何度かは遅くなってしまう。だから、週末は自宅からほとんど出ない。そんな具合で今年も暮れそうです。


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