映画と夜と音楽と...[580]罪は憎いが憎まぬ人を...
── 十河 進 ──

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〈宇宙戦艦ヤマト〈劇場版〉/佐武と市捕物控/天国と地獄/休暇/愛と死と〉

●「宇宙戦艦ヤマト」を企画した西崎さん聞いたこと

西崎義展さんに一度だけ取材したことがある。この名前を聞いてすぐにわかる人は「宇宙戦艦ヤマト」ファンだろう。1974年秋から1975年春にかけて放映されたテレビアニメである。西崎さんは、そのプロデューサーだった。「宇宙戦艦ヤマト」は放映後に評判を呼び、映画版が公開されることになった。「宇宙戦艦ヤマト〈劇場版〉」である。1977年の夏休み公開だった。

西崎さんについては、その当時もいろいろな噂があった。僕もメディアに登場し話す内容を読んで、山師っぽい印象を抱いていた。「宇宙戦艦ヤマト」が大ヒットしたため、後には原作者の松本零士さんと著作権を巡っての争いも起こった。「宇宙戦艦ヤマト」は企画原案が西崎義展となっており、当時も「宇宙戦艦ヤマト」ヒットの功績は、すべて西崎さんにあるように報道されていた。

「宇宙戦艦ヤマト〈劇場版〉」は監督が松本零士で、制作総指揮が西崎義展だった。西崎さんはよくマスコミに登場したが、制作者が前面に出ることが少ない日本では実態が理解されていないフシがあった。覚醒剤所持や銃刀法違反で逮捕されたこともあり、そんなイメージが払拭できなかったのか、キムタク主演の実写版「SPACE BATTLESHIPヤマト」(2010年)公開直前、海で事故死したのも西崎さんらしい最期というニュアンスで報道された。

僕が西崎さんに会ったのは、どこかの録音スタジオのロビーだった。赤坂あたりだった記憶がある。西崎さんの指定だった。映画版公開の少し前だったから、1977年7月のことだろう。映画版のパブリシティになるから僕の取材申し込みを受けたのだと思う。僕が予定していたのは、3分の2ページほどの囲み記事だった。10分も取材すればすむ話だ。




当時、西崎さんは40歳前後だった。少し長めの髪をきちんと分けたイケメンだったが、やはり業界人らしいラフさがあった。虫プロ勤務の実績があり、手塚治虫のマネージャーも経験した人だと聞いていた。僕は高校生の頃、虫プロが出していた「月刊COM」を読んでいた。ときどき、松本零士さんが幻想的な漫画を描いており、ふたりはその頃からのつきあいだったのだろう。

インタビューは10分足らずで終わった。その後、虫プロ時代から関係したアニメ作品の話になった。その中で石ノ森章太郎原作のテレビアニメ・シリーズ「佐武と市捕物控」の話が出た。1968年から翌年まで一年間にわたって放映された。僕の高校2年の秋から3年の秋にかけてのことだった。大人に向けた新しいアニメという触れ込みだった。

僕はアニメ版「佐武と市捕物控」に西崎さんが関係していたと聞いた記憶があるのだが、改めて調べてみると「佐武と市捕物控」のスタッフに西崎さんの名前はない。聞き間違いか、記憶違いなのか。西崎さんは新しいアニメの試みとして、大人向け「佐武と市捕物控」を手がけたと言ったはずだ。確かに、ストップモーション風のコマが多用され、色っぽいシーンもある画期的なテレビアニメだった。

僕は「佐武と市捕物控」の冒頭に流れる「罪は憎いが、憎まぬ人を...」と始まるナレーションが好きだった。「斬るも縛るも人のため」と続き、確か「おぼろ月夜の佐武と市」と終わるフレーズだった。斬るのは居合い抜きの名人である按摩の市、縛るのは縄術の名人である下っ引の佐武である。そのナレーションを僕は西崎さんに披露し、彼は「よく憶えてますねぇ」とあきれ顔で言った。

●「罪を憎んで人を憎まず」を「人を肉まん」と言い換えた

罪を憎んで人を憎まず──孔子の言葉だという。孔子については井上靖が小説に書いているのでいつか読もうと思っているけれど、詳しいことはほとんど知らない。中島敦の短編で何か読んだ気もするが、憶えていない。ただし、日本のことわざには「論語」を語源とするものが多いから、日本人の精神性に大きな影響を与えているのかもしれない。

この言葉も子供の頃、母親にずいぶん聞かされたものだ。最近の人はどうか知らないが、僕らの世代では誰でも知っているフレーズである。僕は、あるマンガで憶えたギャグ「罪を憎んで人を肉まん」が気に入り、肉まんを食べるたびにそのフレーズを口にしていたら、あるときカミサンがひと言「しつこい」と冷たく言い放った。以来、肉まんを食べるたびに氷のような視線が甦る。

自転車を盗まれたり、酔って寝ていて鞄を盗まれたり、財布をすられたり、酔客に待ち伏せされて殴られたり、電車の中でからまれたりといった経験は僕にもある。しかし、凶悪犯罪の被害者になったことはない。もちろん、何かを盗まれたり殴られたりすると、精神的にひどく落ち込んだけれど何日かすると復活した。長く残る精神的な傷にはならなかった。

最近は、犯罪被害者の会のようなものもあるし、公的機関が被害者の精神的なフォローをするようにもなった。犯罪に遭った被害者の精神的な傷が癒えないのは、よく理解できる。また、身内を殺された遺族のメンタルケアも注目されている。事故や犯罪で家族を失った遺族の気持ちは簡単に想像できるものではない。たまらない感情が湧き上がるだろうと推察するだけだ。相手を殺したいと思うかもしれない。憎しみに我を忘れることもあるだろう。

しかし、それでも「罪を憎んで人を憎まず」という言葉は、僕の中にずっと落ちている。だから、何度か書いているけれど、黒澤明監督の「天国と地獄」(1963年)に僕は違和感を感じるのだ。間違って住み込み運転手の息子を誘拐したにもかかわらず、「この子の命が惜しかったら身代金を支払え」と脅迫する犯人は確かに卑劣だし、彼は平気で共犯の夫婦を殺す冷血漢だ。

しかし、その犯人を「こんな奴は死刑にしてしまえ」と罵りながら聞き込みをする刑事たちはどうかと思うし、「今、逮捕しても奴を死刑にできない」と犯人を泳がせ、新たな殺人を犯させてしまう戸倉警部も絶対におかしい。挙げ句に、「これでおまえは死刑だ」と勝ち誇ったように逮捕する。これは黒澤明が、本気で「こんな奴は死刑にしてしまえ」と思っているからだろう。警察が人を裁くようになったらオシマイだ。戦前の特高警察みたいじゃないか。

「天国と地獄」の原作は、エド・マクベインの87分署シリーズ「キングの身代金」だ。僕は中学生の頃から愛読している。登場する刑事たちがみんな人間的だからだ。家族を愛するキャレラ、恋人ができるたび犯罪に巻き込まれるクリング、大人の風格のマイヤー・マイヤー...、彼らは犯罪を憎む。しかし、罪を犯す人間を憎んではいない。犯罪に走るのも人間の弱さだとわかっている。まして、裁いたりはしない。彼らは犯人を捕らえるだけだ。人を裁くほど、彼らは傲慢ではない。

●自分の娘を殺した犯人を赦すことができるのか

先日、居眠り運転で事故を起こし子供や妊婦を死なせてしまった未成年者の判決のニュースがあり、遺族の記者会見ばかりが放映された。判決の拘置期間が短すぎる、危険運転として罰すべきだと、遺族たちが憤慨していた。もっと厳罰に...と口を揃えて主張した。多くの視聴者は、彼らと同じ思いを持ったことだろう。同じ頃、数人の死刑囚の死刑が行われたことも二ュースで流れた。ひとりは、茨城の方で衝動的に何人も殺傷した犯人だった。

遺族は厳罰を望む。しかし、娘を殺された父親が犯人との様々なやりとりを経て死刑反対論者になり、廃止運動をしているという話を以前に新聞で読んだことがある。人を赦すのは困難だ。まして、自分の娘を殺した犯人を目の前にして赦すことなどできるものだろうか。僕は、自分の娘が被害者になったら...と想像してみた。故意でなく、事故だったとしても相手を赦すことはできないかもしれない。

だが、娘が殺されたとして、その相手の死刑を僕は望むだろうか。それは、罪を償うことなのか。目には目を...という報復ではないのか。想像するだけだから、僕には切実な問題としては考えられない。だったら口を出すなといわれるかもしれない。死刑について考えると深い霧の中に入る思いがする。何がいいのか判断できない。罪を犯せば罰せられる。しかし、死刑だけは他の罰とは異なる。死をもって死を償えるのだろうか。

犯罪者の更正や償いを単純に信じているわけではない。長い懲役を終えたからといって、再び罪を犯さないとは限らない。しかし、それでも彼あるいは彼女が罪を償うチャンスはある。死刑はその機会を奪うし、冤罪だったとすれば取り返しがつかない過ちを犯すことになる。国家による殺人だ。個人が人を殺せば殺人だが、国家は死刑という形で人を殺せる。

しかし、死刑を実行するのは、現場の刑務官である。僕は毎朝、通勤の電車の中から東京拘置所を見る。あそこで死刑が行われるのかと思う。懲役刑が確定すれば、受刑者は刑務所に送られる。しかし、死刑囚は刑の執行までは未決囚として拘置所で過ごす。最近、テレビで東京拘置所の死刑執行の場が公開された。十三階段かどうかは知らないが、二階に昇り床が開くスペースに死刑囚は立つ。別の部屋に床が開くスイッチがあり、三つ並んでいる。

三つ並んだボタンを三人の刑務官が一斉に押す。誰が押したボタンによって死刑囚の立つ床が開いたのかはわからない。しかし、少なくとも三人のうちの誰かが死刑囚の死の扉を開いたのだ。彼らは「俺の押したボタンではない」と言い聞かせるのだろうか。そんな配慮をしても、刑務官たちの精神的な負担は軽くならないのではないか。自分をごまかすことはできない。彼らは正義を行っていると確信しているのか。執行命令に判を押す法務大臣は、実行者たちの気持ちを想像するのか。

●刑務官の日常を淡々と描写して印象に残る作品

ロープに吊され絞首刑で死んだ(窒息死ではなく首の骨が折れて死ぬと聞いた)死刑囚の躯を受け止める役は別の刑務官が担う。ブランブランと揺れたままにしておくわけではない。落下すると同時に、死刑囚の足を持って揺れを押さえるらしい。それは「休暇」(2007年)という映画で初めて知った。小林薫がベテランの刑務官を演じ、死刑囚を西島秀俊が演じた。若く経験の浅い刑務官は柏原収史だった。

原作は調査魔の小説家だった吉村昭だから、徹底的に刑務官の仕事を調べたに違いない。刑務官と死刑囚の様子が淡々と描かれる。落ち着いているように見える金田死刑囚だが、彼は一家全員を殺した殺人者らしい。無駄口を叩かず、静かに独房で過ごしている。刑務官と死刑囚の関係だから交流があるわけではない。しかし、日々接していると何らかの感情は湧く。特に金田は手を焼かせることもなく、刑務官たちもどことなく好意的だ。

その金田の死刑が決行されることになる。長く独身だった刑務官の平井は子持ちの美香(大塚寧々)と結婚し子連れで新婚旅行にいく予定だが、母親の病気で有給休暇を使ったために休めない。通常は死刑執行の担当を自ら手を挙げることはないのだが、金田は特別休暇がもらえるため補佐役を買って出る。そのことを知った同僚は、「休暇ほしさに死刑を担当するのか」と平井を殴る。

誰だって人を殺したくはない。死刑は、刑務官たちにとってもイヤな仕事なのだ。イヤな仕事だが、やらなければならない。「おまえは、この前に担当したから」と看守長は配慮する。何人かが担当の候補になり、くじを引く。看守長だって指名したくはない。くじ引きで担当を決め、一度担当した人間にはしばらく順番がまわらないようにする。それなのに、休暇ほしさで死体を受け止める役に手を挙げるとは...、と平井は同僚たちの冷たい視線を浴びる。

だが、平井は何の言い訳もしない。補佐役を買って出たのは事実だし、休暇が必要だったのが理由であることに間違いない。その休暇を使って三人で旅行し、連れ子と仲良くなりたいと平井は思っている。突然、息子ができて彼は戸惑っているし、喜んでもいるのだ。平井の家庭生活が淡々と描写される。仕事が刑務官であり、死刑を担当することもあるが、普通の公務員と何も変わるところはない。

僕は死刑制度について明確な意見を持ってはいないけれど、昔、クロード・ルルーシュ監督は「愛と死と」(1969年)でギロチンの刃が落ちてくるシーンをラストに設定し、僕にショックを与えた。否応なく死刑の酷さを訴えるシーンだった。フランスでは、当時、まだギロチンで死刑が執行されていたのだ。ただ、あの映画では死刑囚の男が犯した犯罪は、きちんと描かれてはいなかった。罪を描かず、罰の不当さは描けない。

死刑は苦痛のない確実な方法に変わりつつある。電気椅子が有名なアメリカだが、現在は死刑が残っている州でも薬物注入などによる方法に切り替わっている。見せしめのように殺すのではなく、苦痛のない確実な死を確保するためだ。もっとも、ギロチンなら確実に即死する。大島渚の「絞死刑」(1968年)は絞首刑で死ななかった死刑囚を、もう一度死刑にするためのドタバタから始まる室内劇だった。日本は絞首刑のままだが、今まで死ななかった人はいるのだろうか。

その後、ギロチンは死刑囚に無用の恐怖を与えるという批判が湧き起こったからか、方法の変更ではなくフランスは死刑そのものを廃止した。死刑廃止の国は多い。日本は死刑制度の残る少数派だ。死刑が犯罪の抑止力になっているかどうかはわからない。最近の犯罪は、さらに凶悪化している気がする。高村薫が近刊「冷血」で扱った未解決の世田谷一家四人殺害事件など人間のやることとは思えない。それでも、罪は憎いが憎まぬ人を...というフレーズは僕の中に今も刻み込まれている。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951
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今年の正月から数10年ぶりに床屋にいけるようになり、2月、3月ともう3回もいき、そのたびに髪が短くなった。刈り上げると首筋が寒いけれど、さっぱりして気持ちがいい。ずっとカミサンに刈ってもらっていたので引け目があったが、これで気持ち的にもさっぱりした。

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