映画と夜と音楽と...[582]逃げる男たち
── 十河 進 ──

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〈逃亡者/ハリソン・フォード 逃亡者/逃亡者/北北西に進路を取れ/第3逃亡者/逃走迷路〉

●逃げて逃げて逃げまくる方法が示唆したものは...

40数年前のベストセラーで芥川賞受賞作の「赤頭巾ちゃん気をつけて」の中に、主人公の薫くんのお兄さんの友人が「逃げて逃げて逃げまくる方法」という説を唱えているという記述があった。手元に本がなくて確認できないのだが、確かにあったと思う。その記述に、17歳の僕はひどく影響を受けたのだから......

1969年1月19日、東大全共闘が籠城していた安田砦は機動隊によって落城した。別の側からの言い方をすると、東大安田講堂に椅子や机でバリケードを築き不法占拠していた学生たちを強制排除するために、機動隊を導入して学生たちに冷水を浴びせ催涙弾を撃ち込んだ。もちろん、学生たちが無抵抗だったわけではない。彼らは火炎瓶を投げ、投石で応酬した。

その攻防戦の有様はテレビ中継によって全国に流れ、四国の高校二年生だった少年の血を騒がせた。しかし、その後も大学内は荒れに荒れ、その年の東大入試は中止になった。僕の高校も進学校だったので、一年先輩の優秀な連中は浪人するか、別の大学にするかを迫られた。しかし、まだ一年の余裕があった僕は、大学にいく意味を自らに深く問い直すことになった。その頃は、自己批判をすることが若者たちのトレンドだったのだ。




「赤頭巾ちゃん気をつけて」は、東大入試がなくなってどうするかと周囲から問われる日比谷高校三年生の薫くんが主人公だった。悩める彼の一日を饒舌な一人称で綴る。自宅で足の爪を剥がした薫くんは包帯を巻いた足に長靴を履いて出かけ、女医さんの白衣の下に見えた乳房にドキドキしたり、ガールフレンドと喧嘩したり、本屋の前で幼い女の子と出会ったりする。

そんな薫くんの饒舌な話の中で、兄の友人が唱える「逃げて逃げて逃げまくる方法」が語られる。それは、どんな問題に対しても逃げて逃げて逃げまくり、逃げ切れたらその問題は重要ではなかったのだと結論づける理論だった。当時の若者は様々な命題に直面し、悩み、揺れ動いていたから、それはとても楽な考え方だった。

若者たちが真剣に何かを迫られることばかりだった時代、僕も「逃げて逃げて逃げまくる方法」という考え方、生き方に魅力を感じた。その結果、大学に入り、セクトの人間に「きみはノンポリでいいと思っているのか、なぜ我々と共に権力と闘わないのか」と迫られても、僕は「逃げて逃げて逃げまくる」人間になった。要するに、僕は「AかBか」と迫られると、どちらの行動を取ることにも懐疑的な人間になったのだった。

その結果、若い頃の僕は優柔不断になった。何かを決めなければならないとき、僕は逃げて逃げて逃げまくった。そうすると、たいていのことはその間に曖昧になり、いつの間にか決断を迫られなくなった。たとえば、僕を責めていた活動家が、いつの間にか日和っていたりする。日和るとは、蔑称だった日和見主義者から派生した言葉で、活動家が挫折してセクトを抜けるとそう言われた。

しかし、ときには逃げ切れない問題もある。「逃げ切れなくなったとき、それこそがきみにとって重要なことなのだ」と薫くんは喋っていた気がするけれど、そのときにはすでに手遅れだったりした。逃げている間に、その重要事項はさらに深刻な事態になっていることが多かったのだ。

●「逃亡者」のタイトルを持ついくつかの映画

「逃げる男」というフレーズをつぶやくと、どうしても最初にリチャード・キンブルを思い出す。「リチャード・キンブル、職業・医師。正しかるべき正義もときとしてメシイることがある。彼は身に憶えのない妻殺しの罪で死刑を宣告され、護送の途中、列車事故に遭いカラクも脱走した...」というオープニング・ナレーションは今でも言える。当時は「めしいる」という言葉の意味もわからないまま、かっこいいなあと思っていた。

「逃亡者/THE FUGITIVE」の第一回めの放映を僕はよく憶えている。小学六年生だったから、もうたいていのことは理解していた。その後、断続的にシリーズが放映され、キンブルが片腕の男を捕らえたのは4年後のこと。僕は高校生になっていた。「『逃亡者』がとうとう終わるらしいぞ」と友だちに教えてもらった。後年、漫画誌で浦沢直樹の「モンスター」の連載が始まったとき、これは「逃亡者」が下敷きなのかと思った。逃亡するヒューマニストの医師、追う敏腕警視という構図だ。

「逃亡者」は30年後、ハリソン・フォードによってリメイクされた。「ハリソン・フォード 逃亡者/THE FUGITIVE」(1993年)である。ジェラード警部が保安官(マーシャル)の設定になっており、トミー・リー・ジョーンズが演じた。ハリソン・フォードのリチャード・キンブルは片腕の男を追って逃亡するのだが、2時間ほどで事件が解決してしまうので、なんとなく張り合いがなかった。

トミー・リー・ジョーンズが目立つ映画だなあと思っていたら、彼はジェラード役でアカデミー助演男優賞を受賞し、5年後、ジェラード捜査官を主人公にした「追跡者」(1998年)が作られた。1970年頃から映画に出ていたトミー・リー・ジョーンズは歳を重ねてから主演作が多くなったが、ジェラード役がきっかけだった。

ジョン・フォード監督作品にも「逃亡者/THE FUGITIVE」(1947年)という小品がある。共産主義革命によってカトリックが禁止された1930年頃のメキシコを背景にして、追われる神父役をヘンリー・フォンダが演じた。神父を追うのが、メキシコ人の警部である。その頃のフォード作品によく出ていたペドロ・アルメンダスが演じた。逃げる神父と追う警部のシーンが交錯し、サスペンスを醸成する。

原題は「THE FUGITIVE」だが、原作はカトリック作家グレアム・グリーンの代表作「権力と栄光」である。ただし、この小説はアメリカでは「迷路」というタイトルで出版されたので、タイトル・クレジットでは「迷路」と出てくる。後年に付けられたグリーンの序文によれば、「ヒトラーがオランダやベルギーに侵入する一か月ほど前」に出版され、「アメリカでは2000部くらい売れた」という。

ということは、同時代のメキシコの状況を背景にして書いた現代小説だったのだ。グリーンは1937年から翌年にかけてメキシコ旅行をし、「権力と栄光」が生まれた。本が出版されて7年後、ジョン・フォードによってハリウッドが映画化した。原作のテーマを変えてしまった映画化作品はグリーンには気に入らなかったらしく、「それまで見たこともないほど信心深い映画がジョン・フォードによって制作された」と同じ序文で皮肉混じりに書いている。

●逃げる男を描いたらヒッチコックの右に出る者はいない

現在までに古今東西の映画で、「逃げる男」の物語は数え切れないほど作られた。逃げる人間と追う人間の対比は、娯楽映画の基本パターンである。ホラー映画では、殺人鬼がキャーキャーと叫んで逃げまわる人たちを追う。ホラー映画に限らず「捕まれば死」という設定が、観客をハラハラドキドキさせる。「逃げる・追う」という対立構図は、サスペンスを盛り上げる。

その対立構図をよく使ったのが、アルフレッド・ヒッチコック監督だった。その代表作が「北北西に進路を取れ」(1959年)である。原題は「NORTH BY NORTHWEST」で、直訳だと「ノースウエスト機で北へ」ということらしいが、昔読んだ小林信彦さんの文章によると、混乱した主人公の状態を表現したタイトルだという。だいたい、主人公は北へなどいっていない。

広告マンの主人公(ケイリー・グラント)がある事件に巻き込まれる。美女(エヴァ・マリー・セイント)に鼻の下を伸ばしているからである。こういう少しにやけた役をやらせると、ケイリー・グラントはうまい。「泥棒成金」(1955年)ではグレース・ケリーの相手をし、「シャレード」(1963年)ではオードリー・ヘップバーンの相手役を務めた。彼のキャラクターだから、どちらもシャレたロマンチック・ミステリーになった。

「北北西に進路を取れ」では、殺人犯の濡れ衣を着せられて逃亡する主人公は、真相を探るために謎の美女を追い、犯人の一味を探り当てる。美女を連れて逃げ出すが歴代大統領の顔が岩山に彫り込まれているラシュモア山に追い詰められ、高所恐怖症の人間には正視できないシーンが続く。ロングやアップを活用し、カット割りだけでスリルを盛り上げるヒッチコックの名人芸である。

この映画は全編、逃げる男と追う人間たちによって緊迫感を持続させる。主人公は犯人たちに命を狙われ、殺人犯の濡れ衣を晴らせないから警官にも追われる。当然、善良な市民たちは、殺人犯だと警察に通報する。四面楚歌の中で何度も窮地に陥り、からくも脱出する場面が連続する。ハラハラドキドキ、手に汗握り、主人公が窮地を脱すると観客はホッとする。しかし、再び主人公に危機が訪れる。

このパターンをヒッチコックは気に入っていて、イギリス時代には「第3逃亡者」(1937年)を作っている。殺人犯として逮捕された青年は、署長の娘を連れて逃亡する。逃げる途中、青年の無実を信じた娘とふたりで真犯人を突き止めようとする。途中、何度も危機が訪れ、ふたりは窮地に陥る。一難去ってまた一難...という展開だ。普遍的なストーリー・パターンだが、映像的にはヒッチコックが完成させたと言ってもいいのではないか。

ヒッチコックは「逃走迷路」(1942年)も作っている。無実の罪で警察に追われる男が、真犯人を突き止めるために逃走する。軍需工場の破壊工作の犯人という設定が第二次大戦中の映画らしい。この映画でよく語られるのは、自由の女神像での追跡劇だ。悪人に追われて、主人公とヒロインは自由の女神像を登る。手のひらに乗ったり、女神が掲げる炎の部分によじ登ったり、実にうまく見せている。このシーンが後に「北北西に進路を取れ」のラシュモア山につながる。

しかし、ヒッチコック作品の主人公たちは、ただ逃げているのではない。みんな、逃げながら追う男たちなのである。彼らは身の潔白を証明するために、危険を顧みず悪人たちを追う。警察の助けは借りられず、唯一、彼らを信じてくれる美しいヒロインの協力を得て追い続ける。逃げるヒーローは、当然、追跡する存在でもある。ということは、彼らは精神的には決して逃げてはいない。むしろ攻めている。

●逃げ口上ばかり口にする同僚たちを見た夜に...

僕が逃げなくなったのは、社会人になってからだ。あるいは、結婚する相手が決まっていたため、大学四年であちこちの出版社の入社試験を受け始めたときだったかもしれない。僕は覚悟を決め、自分の人生を引き受けることにした。それでも、本当に覚悟が定まったのは、子どもができたときである。僕は「この子がひとりで生きていけるようになるまでは死ねないな」と思い、何があっても逃げない男になることを決意した。

長男が生まれたのは、1982年が明けてすぐだった。その年の夏、僕が編集していた8ミリ専門誌「小型映画」の休刊が決まった。2カ月後に出る10月号をもって、20数年続いた月刊誌がなくなることになった。部署が消滅し、僕は余剰人員と呼ばれた。そんなこととは何の関係もなく、僕は会社の労働組合の執行委員選挙で5年ぶりに最下位で当選した。

7月になると、労働組合の執行委員選挙が学級委員の選挙のように行われた。事前の根まわしもなく、組合員全員が被選挙権と選挙権を持ち無記名投票する。誰も自分に投票することはないし、誰も立候補しない。執行委員枠は8名だった。獲得した票の多い順に8名が決まり、その8名で執行委員長、書記長、副委員長、書記次長という役割を決める。最下位当選だったから、僕に投票した人は組合員の半分ほどだ。大して期待はされていなかった。

翌週、前期の執行委員と新しく選ばれた執行委員が集まり、役割を決める会議が開かれた。僕は新メンバーの中でも若い方だったし、5年間も執行委員をやっていなかったし、最下位当選だからヒラ執行委員だろうと思っていた。委員長や書記長という重要な役はそれなりに根まわしされており、通常なら引き受ける人間は決まっているはずだった。そう目されている人間もいた。

しかし、驚いたことに、その会議で誰も委員長を引き受けなかったのである。通常なら、前期の書記長が残っているのだから、彼が引き受けると思われていた。だが、前期書記長を務めたHクンが「委員長だけは勘弁してくれ」と固辞した。理由は、別の出版社役員だった父親の紹介で入社し、社長には仲人までやってもらったからだという。Hクンは僕の唯一の同期だった。唖然とはしたが、彼の性格では団交でときには怒鳴りあいながら交渉するのは無理だろうと納得した。

次に、組合のホープと目されていた20代のYクンにお鉢がまわった。エーッと彼はのけぞり、「来年から百年委員長やってもいいので、今年だけは外してほしい」と辞退した。2年後、「百年委員長」と渾名が付いたYクンは委員長を引き受けだが、春闘時は足の骨折で休んだため副委員長だった僕が代行した。春闘が終わって松葉杖を突きながら出社したYクンは、「フリーになるから」と宣言しサッサと会社を辞めてしまった。

さて、会議も煮詰まり、自分に矢が飛んでくるとは夢にも思っていなかったK女史が最後に候補に挙がった。僕は事情がわからず黙って推移を見ていたのだが、結局、誰も委員長を引き受けたくないために誰彼かまわず振り始めたのだとわかった。「初めての女性委員長でもいいんじゃないですか」とYクンが言った。K女史は30代半ば、うるさ型の組合員だったが、自分が委員長になる可能性が出て、さすがに顔色が変わった。しかし、その夜は時間切れで、結論は次週に持ち越しになった。

その帰途、オブザーバーとして黙って会議を見守っていた長老格のHさんと一緒だった。Hさんは組合を結成したときの委員長がボス交疑惑で辞任した後、委員長を引き受けた人だった。その後、初めて上部組織の役員も引き受けた。結成当時に委員長を引き受けるのは、相当な勇気がいることである。なりふり構わぬ組合潰しで、解雇されることだってある。後年、他社でそんな例をいくつも見たし、実際に解雇撤回闘争の支援にいったこともある。

──みんな、逃げてますね。
──委員長は全責任とらなきゃならないし、時間はとられるし、まあ、いいこ
  とはひとつもないからな。
──それにしても......、何だか見苦しいですよね。
──きみはどうなんだ?

そのとき、僕が決心したかどうかは憶えていない。翌週の会議までずっと迷っていた気がする。ただ、自分の言動ではっきり憶えているのは、翌週の朝、息子の寝顔を見て玄関にいき、その頃はまだ見送りに出てきたカミサンに「今日、組合の委員長、引き受けるかもしれないから」と明言したことだ。カミサンはエーッという顔をしたが、そのときの僕は執行委員長に手を挙げることを決めていた。

あれから30年以上が過ぎた。あのとき、「僕がやってもいいですよ」とおずおずと言ったばかりに、30代の10年間は組合活動に多くの時間を費やすことになった。共闘組織の幹部になり、最後は日本出版労働組合連合会の会計監査までやった。中央執行委員と違って大した仕事ではなかったけれど、僕の会社から初めて出た労連本部役員である。しかし、おかげで僕は男を磨くことができた。勉強になった。人脈も広がった。

自分が逃げないことに美しさを感じる人間だったことを、長い人生を振り返って実感している。生きてきた様々な節目を子細に観察してみると、やせ我慢を張りながらよく踏みとどまってきたなと感慨深い。神経性胃腸炎に襲われながら、前途に横たわる不安に怯えながら、逃げたい自分を何とか抑えてきた。逃げられれば楽だったかもしれない。しかし、逃げた自分を許せない。人からは逃げたと見えなくても、逃げたことを自分だけは知っているのだから......

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951
>

義父の三回忌と実父の米寿の祝いで、金曜日から月曜まで帰高します。バタバタと時間がないので、もしかしたら次週は原稿が書けないかもしれません。休載はしたくないのですが、一年ぶりの実家なのでいろいろとやっておかねばならないこともあります。そういう年齢なのでしょう。

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