〈にあんちゃん/キューポラのある街/おかあさん/マイ・バック・ページ/州崎パラダイス 赤信号〉
●お菓子を食べて甦る記憶や映像を見て甦る思い出など
仕事で「昭和のお菓子」という本を作った。
< http://www.genkosha.co.jp/gmook/?p=3295
>
2月末に書店に並んだので、もうひと月以上が過ぎたことになる。書店員さんがツイートしてくれたりして、本屋さん受けはいいらしい。管理部門に異動して10年近くになるから、「編集人」として本の奥付に名前が載ったのは久しぶりだ。スタッフが昭和生まればかりなので、スタッフ・クレジットの後に生年を入れているのがご愛敬である。
編集人といっても、制作は昔なじみのNさんがやっている編集プロダクションにお願いした。企画を打合せ、ラフレイアウトを確認し、掲載するお菓子のデータをチェックし、カンプ校正をして、届いたデータを印刷会社に入稿する。本校正もデジタル・プルーフで、間違いが見つかればデザイナーさんにデータで直してもらうことになる。つまり、僕は校正の段階で、初めて全容を確認したのである。
そういうことなので、校正しながら「ほう、このお菓子はまだ売っていたのか」とか、「そんなに昔から発売されていたんだ」と初めて読むような驚きがあった。たとえば「渡辺のジュースの素」と言えば、子どもの頃、エノケンこと榎本健一が歌っていたCMソングを憶えている。その「渡辺のジュースの素」もまだ発売しているらしい。タバコを吹かす真似をした「ココアシガレット」や「パラソルチョコレート」など、懐かしいなあと思いながら校正した。
●お菓子を食べて甦る記憶や映像を見て甦る思い出など
仕事で「昭和のお菓子」という本を作った。
< http://www.genkosha.co.jp/gmook/?p=3295
>
2月末に書店に並んだので、もうひと月以上が過ぎたことになる。書店員さんがツイートしてくれたりして、本屋さん受けはいいらしい。管理部門に異動して10年近くになるから、「編集人」として本の奥付に名前が載ったのは久しぶりだ。スタッフが昭和生まればかりなので、スタッフ・クレジットの後に生年を入れているのがご愛敬である。
編集人といっても、制作は昔なじみのNさんがやっている編集プロダクションにお願いした。企画を打合せ、ラフレイアウトを確認し、掲載するお菓子のデータをチェックし、カンプ校正をして、届いたデータを印刷会社に入稿する。本校正もデジタル・プルーフで、間違いが見つかればデザイナーさんにデータで直してもらうことになる。つまり、僕は校正の段階で、初めて全容を確認したのである。
そういうことなので、校正しながら「ほう、このお菓子はまだ売っていたのか」とか、「そんなに昔から発売されていたんだ」と初めて読むような驚きがあった。たとえば「渡辺のジュースの素」と言えば、子どもの頃、エノケンこと榎本健一が歌っていたCMソングを憶えている。その「渡辺のジュースの素」もまだ発売しているらしい。タバコを吹かす真似をした「ココアシガレット」や「パラソルチョコレート」など、懐かしいなあと思いながら校正した。
紹介した「昭和のお菓子」は、350種類以上になる。明治製菓、森永製菓、ロッテといった大手ばかりではない。カバヤ、フタバ製菓、前田製菓など80社近くの製品を網羅した。「パインアメ」の穴はどうやって開けるのか、といった小ネタのコラムも散りばめられている。「ホームランバーの秘密」という一頁コラムでは、1955年から2010年までのアイスクリームの歴史がまとめられている。もちろん、その時代、その時代のパッケージ写真も載っている。
懐かしいお菓子CM、おまけコレクション、日本全国ご当地お菓子、昭和元年から63年までのお菓子業界年表などを読んでいると、仕事ではあったけれど楽しい時間だった。本場新潟の5大メーカーが出している柿の種を「辛さ、香ばしさ、味わい、おつまみ度」で採点し、一粒の柿の種の重量、長さ、体積などを比較する頁もあり、編集担当のTさんの遊び心が面白かった。元祖「柿の種」は戦前生まれなのだと知った。
「子どもにまつわる昭和の風景」と題した頁では、現在の紙芝居屋さんを取材している。「国立紙芝居」として昔ながらの自転車の荷台に紙芝居を積み、子どもたちを楽しませている佐々木さんという方だ。その佐々木さんが紙芝居の自転車の横で、懐かしい風景を見つめている見開き写真を目次に使った。その写真全体から、郷愁に充ちた昭和の香りが立ち上ってくる。
昭和30年代を描いた映画「三丁目の夕日」シリーズがヒットしているようだけど、確かにノスタルジィはどんな人の心も溶かす。懐かしく、胸の奥がキュンとし、あの頃がよみがえる...。食べ物の記憶は味覚と嗅覚によって刷り込まれるけれど、映画は視覚と聴覚による記憶である。どちらにしろ、人は五感で何かに感応し、郷愁に浸るのだろう。
子どもの頃を思い出したとき、人は心優しくなる。郷愁に浸っている人間は、間違いなく愛にあふれて世界を見ているはずだ。世界が優しく見えている。だから、感情が高ぶったとき、郷愁を誘う映画を見ると心が落ち着くのではないだろうか。遙かなノスタルジィ......である。
●郷愁の世界とは違い昭和30年代は暗く貧しかった
僕にとって郷愁に充ち昭和の香りがする映画と言えば、今村昌平監督の「にあんちゃん」(1959年)が最初に思い浮かぶ。「にあんちゃん」の登場人物は、僕自身のような気がするのだ。昭和34年秋の公開。僕は小学3年生で、8歳になった頃だった。「にあんちゃん」は公開時に見ているはずで、きれぎれだが明確な記憶がある。頭に焼き付いているシーンもある。その後、改めて見て記憶を確認した。
10歳だった安本末子が書いた日記が出版されてベストセラーになり、日活が映画化した作品だ。九州の炭住に暮らす炭坑夫と4人の兄弟姉妹。父親が死に、子どもたちだけが遺される。長男(長門裕之)も失職し、長女(松尾嘉代)と共に長崎に働きに出る。小学生の末子は二番目のあんちゃん(にあんちゃん)と一緒に炭坑夫仲間の家に預けられる。悲しい話だ。画面から貧しさがストレートに伝わってくる映画だった。当時は、誰も彼もが貧乏だったのだ。
同じように懐かしい気分になるのが、「にあんちゃん」で助監督を務めた浦山桐郎の監督デビュー作「キューポラのある街」(1962年)である。昭和37年春に公開された。僕は小学5年生になったばかり。10歳だった。「にあんちゃん」を見た頃よりはずっと大きくなっていたから、こちらの映画は鮮明に憶えている。吉永小百合が中学生を演じ、小学6年生の弟を市川好朗が演じた。
貧しい一家がいる。父親は鋳物工場で働いていたが失業する。母親は安酒を飲ませる酒場に働きに出る。主人公ジュンは高校進学を希望しているが、とても叶いそうにない。弟のタカユキは悪ガキとつるんでくず鉄を盗んだり、ハトの売買をして小遣いを稼ぐ。毎朝、牛乳を盗み、ある日、配達の少年に追われる。少年は病気の母親を手助けするために牛乳配達をしていたのに、責任を取らされ盗まれた牛乳代を給料から引かれる。それを聞いたタカユキはしょげる。
市川好朗はこの映画で注目され、天才子役と呼ばれた。テレビにもよく出るようになったし、60年代の日活映画にも数多く出演している。ただ、子役の頃は少しひねたご面相が愛敬だったが、成長すると二枚目の役はこないから自然と脇に回ることになる。その後、東映映画によく出ていたけれど、いつの間にか見かけなくなった。平成5年(1993年)に亡くなったという。まだ40代だった。
「にあんちゃん」も「キューポラのある街」も、共通するのは「貧乏」である。吉永小百合は浦山監督に「貧しさについて考えろ」と言われ、「貧乏ならよく知っています」と答えたところ、「きみのは山の手の貧乏だ」と突き放された。昭和40年代になっても岡林信康は「みんな貧乏が悪いんや」と歌ったが、昭和45年(1970年)頃まではみんな貧しかったと思う。大阪で開かれた万国博覧会のニュースを見て、日本も豊かになったものだと18歳の僕は実感した。
●川本三郎さんは昭和の映画をもとに様々なエッセイを書いている
「昭和」にこだわる映画評論家は、川本三郎さんである。アマゾンで川本さんの名前で検索すると、タイトルに「昭和」と付く本がたくさんヒットする。僕も川本さんの「向田邦子と昭和の東京」や「銀幕の東京─映画でよみがえる昭和」などを持っている。改めてそんな著作をパラパラと繰っていたら、成瀬巳喜男監督の「おかあさん」(1952年)について、川本さんが誉めているのが目に付いた。
「おかあさん」(1952年)は成瀬巳喜男監督作品で、主演は田中絹代である。僕はこの映画の田中絹代が一番好きだ。田中絹代は小柄で全然美人じゃないという人もいるが、たぶんその人は「おかあさん」を見ていない。もう中年で、香川京子(18歳の役)の母親役をやるくらいだから若くはない。でも、この映画の田中絹代は美しい。日本のお母さんだ。映画の中では「かあちゃん」としか呼ばれないが、これほど立ち居振る舞いが美しい日本の母は他にいない。
昭和27年の映画である。僕はまだ赤ん坊だった。しかし、この映画を見ていると懐かしい気分に充たされる。子供の頃、僕を取り巻く世の中はこんな風だった。それは感覚として刷り込まれている。人の気持ち、人情もわかる。今の人から見ればうざったい人間関係かもしれないが、情の深さが伝わってくる。助け合わなければ生きていけない時代だった。戦後10年も経っていない。みんなが戦争の暗い影を引きずっている。
父親(三島雅夫)は今は工場の門衛をしているが、戦争前は腕のいいクリーニング職人だった。重いアイロンを扱っていたから筋肉隆々だ。それが語り手である長女(香川京子)の自慢である。彼らは空襲で店を失ったのに違いない。戦後すでに5年以上経っている。いつまでも門衛をしていられない。父親はクリーニング店を再開するために無理をして働き、過労で倒れてしまう。
自分は過労で倒れても病院にはいかないが、胸の病に冒されている長男(片山明彦)は入院させる。その長男は母親(田中絹代)が恋しいのか、病院を抜け出してきて死んでしまう。クリーニングの仕事を一緒に覚えた兄弟弟子(加東大介)が手伝いにきて店は開けるが、金がかかると入院を拒んでいた父親も死んでしまう。その直前、加東大介に言う三島雅夫のセリフが印象的だった。
──ガキの頃からやってるものなあ。アイロンで死にゃ本望だ。
職人の言葉である。小学校を出たばかりで奉公に出て仕事を覚え、一生懸命に働いて自分の店を持ち、嫁を迎えて子供たちもできる。ああ、俺もがんばったものだと思え始めた頃、空襲が激しくなって家を焼かれた。何とか戦後まで生き延びて、ようやく店を再開できたと思ったら、長男に死なれ自分の具合も悪くなる。それでも、彼は自分の一生を後悔していない。誰も恨まない。昭和の父親だ。
一家では、母親の妹(中北千枝子)の小学生の息子を預かっている。満州から苦労して引き上げてきた妹は、住み込みで美容院に勤めている。美容師の免許を取って独立するまで息子を預けているのだ。おそらく夫は戦死したのだろう。苦労しているのだが、それでも明るく生きている。その妹が、香川京子の長女を花嫁衣装の着付けと文金高島田のセットの練習台にするエピソードがある。そのとき、中北千枝子がこんなことを言う。
──お嫁さんは目八分と言って、なるべく下を見てないとお転婆に見えるのよ。
こんな言葉はもう死語だ。文金高島田に角隠し、打ち掛けを着た花嫁など、今はほとんど見かけることはない。昔、兄嫁がそんな姿で我が家にきて両親に挨拶し、それから車で式場に向かった。昭和48年、「おかあさん」の頃から20年後のことである。あの頃はまだ、そんな花嫁が多かった。今では「お転婆」という言葉さえ通じないかもしれない。確かに...昭和は遠くなってしまった。
●昭和を描いても昭和の香りは漂ってはこなかった辛い映画
東大の安田講堂を占拠した学生たちと機動隊との攻防戦があったのは、昭和44年(1969年)のことだった。戦後24年、昭和が終わる20年前である。昭和を区切ると戦前の20年、戦後の43年(昭和64年は一週間だけだから)に大別される。個人的に僕がもうひとつの節目と考えているのが、学生たちの反乱が世界的規模で起こった60年代後半(昭和43年がピークだった)を過ぎた昭和47年(1972年)だ。
その年、2月に連合赤軍の5人が「あさま山荘」に人質をとって籠城し、その攻防戦をすべての日本人がテレビ中継で目撃した。3月、連合赤軍の総括によるリンチ殺人のニュースが流れた。12人の遺体が凍った地中から掘り出された。中には妊婦も混じっていた。僕を含めた多くの若者は、そのことに口もきけなくなるほどの衝撃を受けた。何を信じていいのか、わからなくなったのだ。
「あさま山荘」事件の一カ月前、朝日新聞に自社の川本三郎という記者が、朝霞駐屯地自衛官殺害事件の犯人隠匿と証拠隠滅の罪で逮捕されたという記事が掲載された。前年8月、埼玉県朝霞の自衛隊駐屯地で赤衛軍を名乗る犯人によって自衛官が殺害され、その事件に関連したとして京大の活動家で有名だった滝田修が指名手配されていた。
川本三郎さんが逮捕されたという朝日新聞の記事に僕は目にとめ、その名前を記憶した。川本さんは27歳で、週刊「朝日ジャーナル」の記者だった。その2年後、昭和49年(1974年)に僕は小林信彦さんの「合い言葉はオヨヨ」を買った。「週刊朝日」に連載した「合い言葉はオヨヨ」の角川文庫版「あとがき」に、小林さんはこんなことを書いていた。
──そのころ、「朝日ジャーナル」の記者として私にエッセイを書かせていた川本三郎氏(のちに、ある事件に関連して社をやめた)が、「平池さんはいいですよ。彼は、アサヒグラフで、東映の悪役列伝を企画した人ですからね」と、平池氏の異色ぶりを賞賛した......
数年後、僕は映画評論や文芸評論やマンガ評論を書く若手評論家の川本三郎という名前に気付いた。注目するきっかけになったのは、僕のお気に入りの新人作家・村上春樹を本気で評論していることだった。デビュー当時、村上春樹さんは文壇では異端扱いだったし認められてはいなかった。その新人作家の斬新さを、独自の視点で川本さんは評価していた。
そのまま僕は川本さんの愛読者になったが、10数年後、雑誌「スイッチ」で「マイ・バック・ページ」の連載が始まり僕は愕然とした。「ついに、あの事件を川本さんが語り始めたのだ」とその連載を読み続け、僕の心は次第に沈んだ。川本さんは殺人を誇る犯人とのやりとりを包み隠さずに書いていた。血にまみれた証拠品の写真を、彼は週刊誌のために夢中で撮るのである。
妻夫木聡が若き日の川本さんを演じた「マイ・バック・ページ」(2011年)は、見たいような見たくないような映画だったから、結局、迷っているうちに公開が終わってしまった。昨年、WOWOWの放映を録画しておいたのだけれど、すぐに見る気が起きず気になりながらもしばらく放っておいた。
WOWOWの放映では、放映前と放映後にイラストレーターの安西水丸さんと小山薫堂さんの対談というか、勝手なことを言い合うコーナーがある。水丸さんは僕よりずっと年上であり、小山薫堂さんは年下だ。彼らは「マイ・バック・ページ」の時代を若者として体験していない世代であり、ふたりとも映画の中に描かれたことに共感はしていなかった。いや、理解できていなかった。
そのふたりの的外れなコメントに苛立ちながら、僕は映画を見ている間、何かが違うという気がしていた。何かが違うのだ。決定的な何かが...。それは、一体何なのだろう、と僕は考え続けていた。それは、あの時代の空気だったのかもしれない。これは違う、あの頃は、こうじゃなかったのだと僕は映画の描き方に異議申し立てをしたかった。
妻夫木聡がなぜ殺人を犯した松山ケンイチをあれほどかばうのか、あの時代を知らないと理解できない。「犯罪者」ではない。確信犯とであり、思想犯なのだと川本さんは信じた。だから、殺人犯を匿ったのではない。シンパシーを感じた革命戦士に協力したのだ。もちろん、官憲の捜査に協力するなんてあり得ない。「すべての犯罪は革命的である」と平岡正明が言ったように、熱に浮かされた「革命の季節」だった。
あの混沌の「革命の季節」も昭和だったけれど、その言葉から香り立つ郷愁はない。イヤな時代だったと断言はしないが、そう言いたい気持もある。妻夫木くんが「朝日ジャーナル」編集部を去るとき、やってきた忽那汐里が言う「この事件は、とてもイヤな感じがする」という言葉に、その後を生きた川本さんの思いが込められている気がした。その言葉は、僕の中にもストンと落ちた。
朝日新聞社を辞めた妻夫木くんは、映画館で「州崎パラダイス 赤信号」(1956年)を見る。川島雄三監督の昭和の香りがする作品だ。昭和31年当時の秋葉原も映る。映画館を出た妻夫木くんは居酒屋に入り、主人が昔の知り合いだと気付く。半端な男だったが、妻子を持ち立派に生きている。妻夫木くんは泣く。その泣く姿がいい。「革命の季節」へのレクイエムのようだ。妻夫木くんの泣くシーンで「マイ・バック・ページ」は救われる。
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951
>
実家へ返り、義父の三回忌と実父の米寿の祝いをやってきた。知らせていなかったのに兄が僕の本の三巻目と最新刊を購入し、父母に贈っていた。カミサンも一緒になり、内容についていろいろ文句を言われたが、黙って聞いていた。仕方がないじゃないですか。
●長編ミステリ三作が「キンドルストア」「楽天電子書籍」Appストアの「グリフォン書店」で出ています/以下はPC版
< http://forkn.jp/book/3701/
> 黄色い玩具の鳥
< http://forkn.jp/book/3702/
> 愚者の夜・賢者の朝
< http://forkn.jp/book/3707/
> 太陽が溶けてゆく海
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