〈ガール/サウスバウンド/イン・ザ・プール/麒麟の翼/リリイ・シュシュのすべて/毎日が夏休み〉
●奥田英朗さんの「沈黙の町で」が気になって読んでみた
朝日新聞に連載しているときは読んでいなかったが、単行本にまとまった奥田英朗さんの「沈黙の町で」が気になって読んでみた。奥田さんの直木賞受賞作はムチャクチャな精神科医・伊良部を主人公にしたシリーズだが、本領は「オリンピックの身代金」のような社会派的テーマのシリアスなものにあるのではないか。全体小説のように多視点で描かれる作品の方が僕には面白い。
「オリンピックの身代金」については、「映画がなければ生きていけない」第三巻の「田沼雄一が青山通りを駆けた頃」という回で絶賛したけれど、やはり評価が高く、その後、吉川英治文学賞を受賞した。僕としては、誰か「オリンピックの身代金」を映画化してくれないかと思っているのだけれど、今のところそういう話は聞かない。奥田英朗さんの小説は、けっこう映画化されているのになあ......
最近では、香里奈、麻生久美子、板谷由夏、吉瀬美智子を主演にした「ガール」(2011年)がある。30代の四人の女性の恋愛と仕事を描いた作品だ。時代遅れの全共闘オヤジ(豊川悦司)を主人公にしたのは「サウスバウンド」(2007年)だったが、僕の世代から見ると単なるおフザケ映画にしか思えない。映画に細かくツッコムのも大人げないので笑って見ていたけれど、笑ってばかりもいられなかった。
「サウスバウンド」もそうだが、奥田さんは極端なキャラクターを出して笑わせる物語が得意なのかもしれない。精神科医・伊良部シリーズがまさにそれだ。これは映画化もされたし、テレビでは阿部寛や徳重聡が伊良部を演じた。徳重版は、何と連続ドラマである。映画版「イン・ザ・プール」(2005年)で伊良部を演じたのは、怪優であり作家であり劇団「大人計画」主宰者の松尾スズキだった。
●奥田英朗さんの「沈黙の町で」が気になって読んでみた
朝日新聞に連載しているときは読んでいなかったが、単行本にまとまった奥田英朗さんの「沈黙の町で」が気になって読んでみた。奥田さんの直木賞受賞作はムチャクチャな精神科医・伊良部を主人公にしたシリーズだが、本領は「オリンピックの身代金」のような社会派的テーマのシリアスなものにあるのではないか。全体小説のように多視点で描かれる作品の方が僕には面白い。
「オリンピックの身代金」については、「映画がなければ生きていけない」第三巻の「田沼雄一が青山通りを駆けた頃」という回で絶賛したけれど、やはり評価が高く、その後、吉川英治文学賞を受賞した。僕としては、誰か「オリンピックの身代金」を映画化してくれないかと思っているのだけれど、今のところそういう話は聞かない。奥田英朗さんの小説は、けっこう映画化されているのになあ......
最近では、香里奈、麻生久美子、板谷由夏、吉瀬美智子を主演にした「ガール」(2011年)がある。30代の四人の女性の恋愛と仕事を描いた作品だ。時代遅れの全共闘オヤジ(豊川悦司)を主人公にしたのは「サウスバウンド」(2007年)だったが、僕の世代から見ると単なるおフザケ映画にしか思えない。映画に細かくツッコムのも大人げないので笑って見ていたけれど、笑ってばかりもいられなかった。
「サウスバウンド」もそうだが、奥田さんは極端なキャラクターを出して笑わせる物語が得意なのかもしれない。精神科医・伊良部シリーズがまさにそれだ。これは映画化もされたし、テレビでは阿部寛や徳重聡が伊良部を演じた。徳重版は、何と連続ドラマである。映画版「イン・ザ・プール」(2005年)で伊良部を演じたのは、怪優であり作家であり劇団「大人計画」主宰者の松尾スズキだった。
原作のイメージとは違うが、松尾スズキの伊良部一郎は怖くて不気味で僕は好きだ。阿部寛や徳重聡のような二枚目では、あのアクの強さは表現できない。松尾スズキが演じると狂気じみた不条理性がにじみ出す。この世には訳のわからないこと、きちんと説明できないことが存在するのだ、と肌で感じられる。さすが、宮藤官九郎、阿部サダヲ、荒川良々など、妙な役者を抱える劇団「大人計画」主宰者だ。
「イン・ザ・プール」で伊良部総合病院の精神科診療室を訪れるのは、プール依存症のエリートビジネスマン(田辺誠一)、同僚と浮気した妻に棄てられた気の弱いサラリーマン(オダギリジョー)、家を出た途端にガスの元栓や電気器具のことが気になるフリーライター(市川実和子)などである。とりわけ、印象に残るのが勃起したまま治まらない症状に悩むオダギリジョーのエピソードだ。
どこの診療科でも原因がわからず、精神科にまわされてきたオダギリジョーの分析を行った伊良部は「あんたの病気は、浮気をして出ていった女房が原因だ」と断言し、「今から、その女のところにいって罵倒してやろう」と立ち上がる。オダギリジョーは仕方なく元妻の勤め先にいき面会を求める。伊良部が現れ、元妻に向かって「クサレ売女、クサレ売女、クサレ売女......」と罵る。
まあ、とんでもない精神科医である。よく医師免許が取得できたものだと思う。松尾スズキがゲームのキャラクターのように、無表情で横歩きしながら汚い言葉を投げつけると苦笑するしかない。患者であるオダギリジョーも同じ思いなのかもしれない。いつの間にか、彼の病気も治ってしまう。世の中、クヨクヨ悩んでも仕方ないなと思わせてくれるので、それはそれで名医なのかもしれない。
●地縁や血縁がまだ色濃く残る地域社会で起こったいじめ事件
「沈黙の町で」は、中学生のいじめ事件の物語だ。関東の地方都市、地縁や血縁がまだ色濃く残る地域社会で起こった事件を、教師、刑事、検事、新聞記者、死んだ中学生の母親、いじめをしたと言われる級友の両親など、様々な登場人物の視点で語られる。中学二年生の少年が、二階建て校舎のそばの大きな銀杏の木の下で死んでいるのが発見される場面から小説は始まる。
二階建て校舎は運動部の部室が入っていて、その屋根に昇り少し離れた大きな銀杏の木に飛び移るのが中学生たちの度胸試しになっていた。少年は度胸試しをしようとして飛び移り損ね、側溝の角で頭を割って死んだのかもしれない。しかし、屋根に五人の足跡があり、飛び移ることを強要されたのではないかと警察は疑う。二階の屋根から飛び降りて自殺する人間はいないだろうと、自殺説は否定される。
少年の背中にはつねられた内出血の跡が20以上もあり、日常的ないじめがあったことが確認される。全校生徒の聞き取りを行った警察は、死んだ少年といつも一緒にいた同じテニス部の2年生四人を傷害罪で逮捕する。ただし、14歳になっていた二人を逮捕し、13歳だったふたりは補導という形で身柄を拘束する。少年法は14歳以上が対象なのだ。つまり、13歳までは何をしても逮捕はされない。
何年か前、少年犯罪について様々な議論があり、少年法の対象年齢が問題になっていたのは知っていたが、それが14歳以上だとはこの小説を読んで知った。たった一週間前に14歳になっていたために逮捕された少年の母親は、そのことを理不尽に思う。いじめで死んだ子がいたとしても、その子をいじめていたのが我が子だとしても、親は自分の子だけが大切なのだ。その心理が詳細に書き込まれる。
警察が四人の少年を逮捕および補導した理由として、過去のいじめ事件で少年たちの逮捕を躊躇したために口裏を合わせられ、さらに人権派の弁護士たちの介入によって明らかな殺人事件を無罪にされてしまったことが挙げられていた。その事件は「数年前の夏、北陸地方の中学校で起きた『中学生プール溺死事件』」として説明されており、僕は現実の事件なのかと思った。
僕がそう思ったのは、昨年見た人気作家・東野圭吾原作の「麒麟の翼」(2011年)で似たような事件が取り上げられていたからである。もしかしたら現実の事件から東野圭吾が触発されたのではないか。そう思ってネットで検索してみたが、そんな事件はヒットしなかった。ただし、「いじめによる事件」については夥しい数がヒットした。いじめが原因の事故死あるいは自殺である。
いじめによる死が悲惨なのは、いじめた人間たちが直接手を下していないけれど、事故死にしろ自殺にしろ、それが殺人と等しいことである。手足の自由を奪ってプールに投げ込む、あるいは体育館のマットの下に入れて大勢でのしかかる。その結果、溺死したり窒息死するのは、本当に事故死なのか。いじめられ地獄の日々を逃れるために自殺するのは、本当に自殺なのか。
「沈黙の町で」の警察は、少年が仲間に強要されて部室のある校舎の屋根から大きな銀杏の木の枝に飛び移ろうとして落下し、側溝の角で頭を割って死んだとすれば、それは殺人に匹敵する未必の故意だったと立証しようとする。殺意はなかったにしろ、死ぬことが予想できたいじめだったというわけだ。だが、いじめたとされる少年たちの親は、子どもの将来のために必死で戦おうとする。加害者と被害者、様々な思惑が交錯する。
●大人としての分別もない中途半端な時期にあるのか
「沈黙の町で」の中で繰り返し記述されるのが、中学生という時期の残酷さだ。彼らは無邪気な子ども時代を過ぎたにもかかわらず、大人としての分別もない中途半端な時期にあり、それ故にいじめの限度を知らないのではないか、あるいは過剰ないじめになってしまうのではないか、と奥田さんは書いている。もちろん小学生にも高校生にもいじめはある。だが、中学生によるいじめ事件が陰惨なものになりがちだと言われれば、僕も何となくわかる。
「リリイ・シュシュのすべて」(2001年)という映画がある。中学生たちの凄まじい「いじめ」が描かれる岩井俊二監督作品だ。蒼井優がデビューした記念すべき映画だが、あまりに重すぎて僕は一度見ただけである。今でも見終わった後の、何ともやりきれない気分が甦る。叙情派だと思っていた岩井監督のダークサイドを見てしまった気がした。
だが、この映画を見たことで僕は想像できなかった中学生のいじめの凄惨さを実感した。地獄である。まるで僕自身が劇中でいじめられているような感覚に陥り、自殺したくなってくる。中学生たちが、なぜ外に救いを求めず自分の中にこもり自殺するのか、身に染みてわかった。感覚的に伝わってきた。同時に、いじめる側の心の叫びのようなものも描くのだから、大した作品だ。一度見ただけで永遠に記憶に焼き付けられる。だけど、やっぱり重すぎる。
「リリイ・シュシュのすべて」から目を背けようとする気持ちは、いじめによる自殺などの事件を知らなかったことにしたいという逃げに通じる。いじめが発覚すると、教師たちは一様に「知らなかった」とか「気付かなかった」と言うが、それも同じ心理なのかもしれない。大人たちは、子どもたちの残酷さから目を背けたいのだ。あるいは、気付かない振りをしていたい。
いじめられる対象になる少年は、今や人気俳優になった市原隼人である。仲の良かった友人(忍成修吾)が豹変し、凄惨ないじめのリーダーになる。彼には誰もが逆らえず、級友たちは命じられるまま残酷な行為を行う。彼は女子生徒には援助交際を強要し、客から得た金銭を巻き上げる。彼は14歳の少年だが、成人だとすればやくざと同じことをやっている。非情な犯罪者である。
市原隼人が演じた少年は、残酷ないじめに耐えながら地獄の日々を送っている。彼は、そんな日々から逃れるようにカリスマ的な女性アーティスト「リリイ・シュシュ」のファンサイトを立ち上げ、そこに心情を綴り救いを見出そうとする。だが、そんな救いも奪われ、彼は追いつめられていく。まったく、そこまで追いつめなくても...と僕は思ったけれど、現実にはいじめで自殺にまで追いつめられているのだ。映画は現実を描く。
「リリイ・シュシュのすべて」はすぐれた作品だが、人に勧めたことはない。誰が見ても重い荷物を受け取ることになるからだ。「どうして、あんな映画を勧めたのだ」と、怒る人がいるかもしれない。僕自身、見ておいてよかったとは思うけれど、再見は逃げている。それでいながら、もう一度きちんと対峙しなければいけないという思いは消えない。借りを負ったまま生きている気分だ。いつかは、もう一度見なければならないが、その覚悟がなかなかできない。
●自分を必要とする人間とだけ付き合えればいいのだが...
もうずいぶん前の事件だが、体育館のマットの中に逆さまに押し込まれ、少年が圧死した事件があった。窒息死だった。このとき、14歳の少年三人が逮捕され、13歳の少年四人が補導され、少年をマットに逆さに押し込んだことを自供した。しかし、少年たちは公判では自供を翻し裁判はもつれた。「沈黙の町で」に出てきた北陸地方での「プール溺死事件」とされているのは、この事件のことだったのではないか。
この事件を聞いたとき、僕は窒息死した少年の苦しさを想像し息苦しくなった。記憶が甦ったのだ。僕は12歳。小学校の修学旅行のことだった。誰もが経験しているのかもしれない。いわゆる布団蒸しをやられたのだ。いきなり布団がかぶせられ、級友たちが上に重なった。あのときの苦しさは、今も忘れていない。僕はあまりの苦しさと恐怖で、狂ったように暴れた。じっとしていたら、窒息していたかもしれない。
僕はいじめられっ子ではなかったが、狙われやすい存在だった思う。級友たちにとって、布団蒸しは遊びである。ちょっとした悪戯心から、彼らは僕を布団蒸しにした。その結果、僕が窒息死すれば、それは事故だ。彼らは蒼くなり、後悔し、心の傷を残すかもしれない。しかし、おそらく罪悪感はない。いや、最初は感じるかもしれないが、やがて消えるだろう。しかし、僕の方はそのときの苦しさを50年も引きずっている。
現実を反映してか、いじめが登場する映画は多い。「リリイ・シュシュのすべて」のように「いじめ」を正面からシリアスに描いた作品もあるけれど、もう少し心温まる作品を紹介しておきたい。「毎日が夏休み」(1994年)という大島弓子のマンガを原作にしたコメディである。見終わって、ほのぼのした気分になれる。こういう後味を得るために人は映画を見る。この映画なら何度見てもいい。
主人公は13歳の海林寺スギナ。瞳が特徴的な杉浦日菜子が演じた。この映画のためにデビューしたと思えるほどの適役だった。スギナは学校でいじめに遭い、登校拒否を続けている。母親(風吹ジュン)が再婚した義父(佐野史郎)は大企業に勤めるエリートだったが、出社拒否に陥り娘と一緒に「毎日が夏休み」の状態にある。父の同僚たちが出世欲・権力欲の俗物に描かれるのはコメディのお約束通りだが、それだから効果的である。どんな映画も悪役、憎まれ役は必要だ。
当然、スギナをいじめるクラスメイトの女子たちもステレオタイプだ。しかし、現実もそんなものだろうという説得力はある。久しぶりに登校したスギナの下駄箱にゴミを入れたり、スギナを囲んで「臭い、臭い」と言ってみたり、子どもだから実に子どもっぽい。そんないじめに耐えるスギナに義父から電話が入る。何でも屋を始めた義父は、「きみが必要だ。手伝ってほしい」と言う。
その電話を聞いて、スギナはステップを踏みながら廊下を走る。「きみが必要、きみが必要、何てスイートな言葉...、こんなスイートな言葉があったわけだ」と、スギナのナレーションが重なる。この映画のハイライトシーンである。スギナは「何でも屋・海林寺社」の副社長として、生き生きと働き始める。そう、人は必要とされるから歓びを感じる。
いじめは拒否であり、おまえは不要だというメッセージだ。だったら、自分を必要としない人間を相手にしなければいい。そう思っても、学校や職場でいじめられると逃げ場がない。だけど、登校拒否、出社拒否になればいいじゃないかと「毎日が夏休み」は教えてくれる。必要と思ってくれる人間と付き合えばいいのだ。そして、人には「あなたが必要だ」というスイートな言葉だけを伝えよう。「毎日が夏休み」を見ると、そんなやさしい気持ちになる。
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951
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久しぶりに兄貴分カルロスのスペイン料理の店へ顔を出した。5月に出た婦人公論のよしもとばななさんのエッセイで店が紹介されていた。もっとも、僕は頻繁にいっているわけではないので、一度もばななさんには会ったことはない。昔、隣のテーブルで山本モナさんが食事していたことはあったけれど......
●長編ミステリ三作が「キンドルストア(キンドル版)」「楽天電子書籍(コボ版)」などで出ています/以下はPC版
< http://forkn.jp/book/3701/
> 黄色い玩具の鳥
< http://forkn.jp/book/3702/
> 愚者の夜・賢者の朝
< http://forkn.jp/book/3707/
> 太陽が溶けてゆく海
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