映画と夜と音楽と...[604]情けは人のためならず
── 十河 進 ──

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〈ル・アーブルの靴みがき〉

●「横丁」という言葉が生きていた頃

「横丁」という言葉は、もう死語だろうか。上野から御徒町にかけての「アメ横」は「アメ屋横丁」が語源だが、すでに「アメ横」としか呼ばれていない。もっとも渋谷には、「恋文横丁」が地名として残っている。路地みたいな場所だが、昔は「横丁」はどこの町にもあった。40年前のヒット曲「神田川」には、「横丁の風呂屋」というフレーズがあった。あれは、もしかしたら「横町」と表記していたかもしれない。

中学生の頃から、ジョン・スタインベックを愛読している。スタインベックに「缶詰横丁」という作品がある。ジョージ・ガーシュインの黒人しか登場しない「ポーギーとベス」というオペラの舞台になるのは、貧しい南部の黒人たちが住む「ナマズ横丁」である。英語では「キャットフィッシュ・ロウ」だ。ヒゲのあるナマズは「キャットフィッシュ」と呼ばれ、「ロウ」の綴りはROW。直訳すれば「横の列」である。

「ポーギーとベス」で歌われる数々の名曲は、ジャズ・プレイヤーも多く取り上げている。最も有名なのは「サマータイム」だろう。「夏は暮らしやすく、魚は飛びはねコットンは育つ」と歌われるのは、黒人娘が背負った赤ん坊を寝かせるための子守歌である。テレビドラマ「野だめカンタービレ」のおかげで「ラプソディ・イン・ブルー」が有名になったガーシュインだが、世界中で愛されている彼の歌は「サマータイム」だ。




「ナマズ横丁」と訳したのは、そこが貧しい黒人たちの家が軒を連ねる長屋のような場所だからだろう。「横丁」には、そんなイメージがある。貧しい人々が肩を寄せ合って生きている印象がある。高級住宅地に「横丁」は似合わない。田園調布横丁とか、成城学園横丁なんて概念矛盾だ。渋谷の「恋文横丁」は、オンリーさんたちがアメリカ兵に送る英語の手紙を代筆する店があったからだという。そういうエピソードが「横丁」には似合っている。

ブロードウェイで名をあげた舞台演出家エリア・カザンがハリウッドに招かれ、初めて作ったのは「ブルックリン横丁」〈1945年〉という映画である。日本公開は、昭和27年(1947年)のことだった。「横丁」という言葉が生きていた時代である。おそらく、その頃の人々は「ブルックリン横丁」というタイトルで、映画の内容を想像することができたのだ。

それは、ニューヨークの下町に暮らす貧しい一家の物語だった。語り手は一家の長女であり、彼女の子供時代の回想として描かれる物語は、郷愁を誘われる切なさにあふれている。「歌う給仕」と呼ばれる貧しいけれど夢見がちな父親がいて、文学好きの少女がいる。彼女は弟と金属物を拾い集めて売りにいく。母親は貧乏生活に追われてときにヒステリックになるが、家族を愛している。素晴らしく気持ちのよい作品だ。

少女は希望通りに上級学校に進むが、父親が死んでしまい引っ越しをせざるを得ない。母親は生活に追われ、ますます精神的な余裕をなくす。しかし、様々な人の情けが一家を救う。貧しい人々が肩を寄せ合って生きていく姿に感動する。エリア・カザンはこんな映画を作ったために権力に睨まれ、赤狩り時代になって仲間を裏切らざるを得なくなったのかもしれない。「ブルックリン横丁」の頃のエリア・カザンは、間違いなく貧しく虐げられた人々の側に立っている。

●「横丁」という言葉が似合うフランスを舞台にした人情劇

ひさしぶりに「横丁の人々の情け」という言葉が似合う人情劇に出合った。フランスの港町ル・アーブルを舞台にした「ル・アーブルの靴みがき」(2011年)である。アキ・カウリスマキ監督の絶大なファンである僕としては、待ちに待った作品だった。今、どんなことがあっても新作を見たいと思う監督は、アキ・カウリスマキくらいである。昔、鈴木清順作品を見続けた頃に似たはまり方だ。

映画監督にはまるというのは、その監督の独自のスタイルを見たくてたまらなくなることだ。圧倒的な独自スタイルを持っていたのは、鈴木清順監督だった。あるいは加藤泰監督などもいた。黒澤明、小津安二郎、成瀬巳喜男といった巨匠たちも、もちろん確固としたスタイルを作り上げていた。外国の監督だと、フェリーニやアントニオー二、ベルイマン、ゴダールなどの作品は、知らずに見せられても監督名を当てられるに違いない。

現在、何の情報もなく作品を見せられたとして、アキ・カウリスマキ作品なら冒頭の数秒で当てられる。宮崎あおいが出演している訳の分からない言語(たぶんフィンランド語だと思うけど)を喋る独特のトーンを持つCMは、アキ・カウリスマキ調を狙っていてテレビで見るたびに笑ってしまう。あのスタッフはカウリスマキにオマージュを捧げているのだろう。真面目なカウリスマキ・ファンの中には怒っている人もいるが、僕は「アキ・カウリスマキが有名になった」と感慨深い。

今年、出版前から評判になった村上春樹さんの「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」の主人公は昔の友人たちを尋ね歩くことになり、とうとうフィンランドにまで赴く。フィンランドに着いてからの展開が重要な物語だから、おそらくフィンランドには作者の何らかの思い入れがあるのだろうが、小説の中では次のように素っ気なく記述されていた。

──「フィンランドにいったい何があるんだ?」と上司は尋ねた。
「シベリウス、アキ・カウリスマキの映画、マリメッコ、ノキア、ムーミン」とつくるは思いついたことを並べた。

映画好きの村上さんのことだから、きっとアキ・カウリスマキの作品はずっと見ているのだろう。アキ・カウリスマキが一部の映画ファンの間で評判になったのは、「レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ」(1989年)や「マッチ工場の少女」(1990年)が日本でひっそりと公開された頃だ。注目されたのは「過去のない男」(2002年)が、カンヌ映画祭でグランプリと主演女優賞を獲得した後からである。「過去のない男」が日本公開されたのは、10年前のことだった。

以前に「不運は続くよどこまでも」という回(「映画がなければ生きていけない」第三巻365頁参照)で書いたが、「浮き雲」(1996年)「過去のない男」「街のあかり」(2006年)は見ているのが辛くなるほど主人公たちは痛めつけられる。この三作は「敗者三部作」とか「負け犬三部作」などと呼ばれている。それでも、アキ・カウリスマキの映画が素晴らしいのは、どこかにほのかな希望の光があることだ。そのテイストは、「ル・アーブルの靴みがき」でも変わっていない。

●貧しい人たちが暮らすル・アーブルの裏町

映画が始まると、背が高く白髪の白人の老人と、長めの黒髪が目立つ東洋人らしい小柄な男が身じろぎもせず茫然と立っている。足下には靴みがきの道具と小型の椅子がある。背景はどこかの壁だ。ふたりはじっと何かを見ている。動きはない。表情も変わらない。人々の歩く脚が映る。スニーカーが多い。キャスター付きの大型バックを引いていたりする。駅の構内だとわかる。ふたりは靴をみがきそうな客を待っているのだ。

スーツに身を包み高そうなコートを羽織り、アタッシュケースを手にした強面の男がやってくる。足下が映る。立派な黒革の靴だ。男は靴みがきの椅子に腰を降ろす。靴みがきの老人が見ると、男はアタッシュケースと自分の手首を手錠でつないでいる。人相の悪い男たちが現れる。強面の男が「もういい」と言って老人に金を払う。靴みがきの老人と東洋人が見つめていると、銃声と女の悲鳴がする。「かわいそうに」と東洋人が言う。

もちろん、それだけで何が起こったか観客にはわかる。この描き方がアキ・カウリスマキのスタイルなのだ。「浮き雲」でレストランの女性マネージャーが厨房でナイフを持って暴れるコックを取り押さえ、ナイフを奪い取るのを見せずに観客にわからせたのと同じである。直接描かなくても、観客には想像力がある。アキ・カウリスマキはそれを信じて映画を作っている。

関わり合いになるのを嫌った老人は、場所を移して靴みがきを始める。靴店の前で老紳士の靴をみがいていると、店内から出てきた支配人に「ここで仕事をするな」と道具類を蹴られる。「同じ靴屋なのに」と言いながらも、老人は散らかった道具を黙って拾い集めて去っていく。老人と呼ばれる年になっても街角で靴磨きをしている彼の姿は、人生の敗者であり、負け犬という言葉を連想する。また、辛いことばかりが続く映画なのかと僕は覚悟した。

老人が家に帰ると、妻が待っている。妻を演じているのは、「マッチ工場の少女」以来、20年以上アキ・カウリスマキ作品に出演しているカティ・オウティネンである。美人ではない。いや、どちらかというとアグリーだと思う。しかし、「浮き雲」でも「過去のない男」でも、物語が進むに連れて彼女が美しく見えてくるのだ。カンヌで主演女優賞に輝いた「過去のない男」もいいけれど、僕は「浮き雲」の彼女が好きだった。

そのカティ・オウティネンの感情を一切見せない無表情の演技は、「ル・アーブルの靴みがき」でも全開である。ああ、今、僕はアキ・カウリスマキの映画を見ているのだという喜びを感じさせてくれる。彼女は夫が稼いできた一日の売上げからいくらかを差し出し、「食前酒を飲んできたら」と言う。やさしい妻である。夫は近くのバーに出かける。なじみのママと客がいる。靴みがき仲間の東洋人もいる。ママが「あんたには、もったいない奥さんよ」と言い、老人はうなずく。

ある日、老人が帰宅すると妻が倒れている。不治の病で治る見込みがないことを医者から告げられた妻は、「夫には言わないで」と医者に言う。「告知の義務がある」と医者が答えると、「それではしばらく告知しないでほしい。告知の時期までは決まっていないでしょ」と言いくるめる。この老夫婦が愛し合い、互いに相手を思いやっているのがひしひしと伝わってくる。濃い情を感じる。老女に見えるカティ・オウティネンだが、実年齢は僕より10歳若く50になったばかりだ。

●情けのひとつもかけられない人間に生きていく資格はない

ある日、老靴みがきは、港に隠れている黒人の少年と出会う。黒人の少年は、アフリカからコンテナに隠れて密入国してきたのだ。警察に怪しまれてコンテナを開けられ、他の人たちと祖父は収容所に送られ強制送還されるのだが、少年だけは逃げ出したのである。ル・アーブルの警察が少年を追っている。老人は何も聞かず、少年を匿う。ときどき語られる老人の過去が、虐げられた者に対するシンパシーを育てたのだろう。

老人が住む界隈(まさに横丁である)には、パン屋があり、八百屋があり、カフェ・バーがある。パン屋からフランスパンを一本くすねてかえろうとした老人は、女主人のイヴェットに呼び止められ「万引きよ」と、とがめる風でもなく言われる。「つけておいてくれ」と言うと、「もうずいぶんたまってるわよ」とイヴェットが答える。そのイヴェットは老人の妻を病院に送るために夜中に車を出すし、老人が匿った黒人少年の面倒を見る。

八百屋の主人は老人がやってくると店を閉めてしまうような応対をしていたが、貧しい老人が不法移民の黒人少年を匿っていると知ると、「売れ残ったものだから」と食料品を山のように抱えて老人に手渡す。カフェのママは少年を逃がすための資金集めに協力するし、靴みがき仲間の東洋人(彼は不法移民のベトナム人だとわかる)は娘のために貯めた金を差し出す。

「情けは人のためならず」という言葉がある。しかし、彼らはそんなことさえも口にせず少年を匿い、母親がいるというロンドンへ送り出すのを当然のこととして協力する。虐げられた者、貧しい者、社会の底辺で誠実に生きている者......、彼らの連帯は胸が熱くなるほど素晴らしい。見返りなど何も求めない、無償の行為である。彼らは、困難な状況にいる少年を救うのが当然のことだと思っている。

日本語の「情け」という言葉に、僕は反撥したこともあった。若い頃は、ハートボイルド小説の主人公のように、非情であることを信奉したこともあった。スタッフを抱えた40を過ぎた頃、「甘ったれるな。自分のことは自分で始末をつけろ」と、すぐに頼ってくるスタッフを叱りつけたくなることもあった。しかし、甘やかすのと、情けをかけるのは違うのだと悟った。歳を重ねた今では、「情け知らず」にはなりたくないと思っている。

市川雷蔵主演の「斬る」という映画の中で、追われる女は弟を逃した後、追っ手たちに「情けを知れ」と凛々しく叫んで裸身を晒した。そこには、追っ手たちの同情をかおうとする卑屈さはない。情けをかけることさえできない、命令に背けない小心者の武士たちへの侮蔑だけがあった。「情け」とは日本語独特の言葉であり、精神的かつ文化的遺産ではないのかと、今では僕は誇っている。

小鷹信光さんのエッセイで読んだのだが、小泉喜美子さんは「しっかりしていなければ生きていけない。やさしくなれなければ生きていく資格がない」と訳された、有名なフィリップ・マーロウの言葉を以下のように言い換えたという。見事に日本的メンタリティを表現する名訳である。

──情けをかけてちゃ生きていけねぇのよ。でもな、情けのひとつもかけられないようじゃ生きていく資格もねぇんだ

情けのひとつもかけられない、「情けない男」にはなりたくないものだ。

【そごう・すすむ】sogo1951@gmail.com < http://twitter.com/sogo1951
>

週三日出社にも慣れてきたが、まだ、時間の使い方がうまくいかない。抱えている仕事は「いつまでに...」という締め切りがあり、休みの日もいろいろ手配をしてしまう。人間は期限を決められた仕事を抱えていると、どうしてもストレスが溜まるらしい。まあ、ストレスがなくなることはないようだから、仕方ありませんね。

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< http://forkn.jp/book/3701/
> 黄色い玩具の鳥
< http://forkn.jp/book/3702/
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< http://forkn.jp/book/3707/
> 太陽が溶けてゆく海

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