映画と夜と音楽と…[614]映画音楽が甦らせる遠い記憶
── 十河 進 ──

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〈津島利章が音楽を担当したすべての東映映画〉

●「仁義なき戦い」のテーマ曲を作った津島利章さんが亡くなった

先日の新聞に、11月25日に77歳で亡くなった津島利章さんの訃報が載っていた。津島さんの名前は知らなくても、東映映画「仁義なき戦い」(1973年)のテーマ曲は誰もが一度は聴いたことがあるはずだ。「仁義なき戦い」の音楽はひどく印象的で、一度聴いたら忘れられない。タイトルの真っ赤な文字の出演者の名前と共に、あの曲が甦ってくる。


海外の映画音楽家の名前は映画を見始めた中学生くらいから憶えたが、日本の映画音楽家についてはあまり気にしたことがなかった。たぶん、昔は「ヨーロッパ映画音楽全集」といったレコードが発売になったり、洋画のテーマ曲がよくヒットしたからだろう。イタリアのニーノ・ロータは「ゴッドファーザー」(1972年)のテーマで一般に有名になったが、僕にとっては「太陽がいっぱい」(1960年)の作曲家である。

1960年代、ハリウッドならヘンリー・マンシーニ、ヴィクター・ヤングなどの作曲家の名前があがってくる。当時はイタリア映画が人気があり、前述のニーノ・ロータと共にカルロ・ルスティケリが作曲した音楽が好きだった。「死ぬほど愛して」の冒頭「アモーレ、アモーレ、アモーレ、ミーオ」が流れる「刑事」(1959年)のラストシーンが浮かんでくる。クラウディア・カルディナーレが裸足で走る姿を思い出す。

フランスのミッシェル・ルグランは「シェルブールの雨傘」(1964年)や「風のささやき」(1968年)などスタンダードになった名曲をたくさん作っているし、イギリスのジョン・バリーは「007」シリーズを手がけ、あの有名なテーマ曲は世界中で知られている。ただし、僕が最も美しいと思う映画音楽は、モーリス・ジャールが作曲した「ドクトル・ジバゴ」(1965年)の「ラーラのテーマ」である。バラライカの調べを聞くと、僕は幸せになる。

ざっと記憶している名前を挙げただけでも、海外の映画音楽家なら何10人も出てくる。国や新旧の世代を問わずに並べると、ラロ・シフリン、ヴァンゲリス、エンニオ・モリコーネ、フランシス・レイ、フランソワ・ド・ルーベ、エリック・セラなどがいる。それぞれ誰もが知っている曲を作った。しかし、日本の映画音楽家を何人挙げられるだろう。

「七人の侍」(1954年)の早坂文雄、その後継者で「用心棒」(1961年)が印象的だった佐藤勝、「ゴジラ」(1954年)のテーマを作曲し、その後、主に大映映画で数え切れないほどの曲を書き日本クラシック界の重鎮だった伊福部昭、「風の谷のナウシカ」(1984年)以来、スタジオ・ジブリ作品の音楽で有名になった久石譲などしか出てこない。映像と音楽は切り離せないものだから、もっと作曲家の名前を注意して見なければ……。

●60年代から内容を問わず東映映画の音楽を担当していた

津島利章さんは「仁義なき戦い」の音楽が有名になりすぎた気がする。1960年代から主に東映映画で活躍していた。先日、NHKの衛星放送で見た「集団奉行所破り」(1964年)では、ギターを使ったシンプルな曲をずっと抑えめに流していた。気がつくと叙情的なメロディーが耳に残っている。うまい使い方だなあ、と感心した。当時、時代劇であんな曲を使ったのは斬新だったのではあるまいか。

そう思って津島さんの作品歴を調べてみたら、「仁義なき戦い」以前の作品も僕はかなり見ていたのがわかった。「三匹の侍」「忍者狩り」(1964年)、「関東果し状」(1965年)、「十七人の忍者」「丹下左膳 飛燕居合斬り」「牙狼之介」(1966年)、「博奕打ち」「博奕打ち 一匹竜」(1967年)、「博奕打ち 総長賭博」(1968年)、「五人の賞金稼ぎ」(1969年)などがあり、70年代からは作品数が急増する。

その当時、映画は斜陽産業と言われ、大きく観客数を減らしていた。日本映画の全盛期は、昭和30年代だ。東京オリンピックが昭和39年(1964年)にあり、このとき「オリンピックをカラーで見よう」と電機メーカーは宣伝した。その結果、カラーテレビの普及が急速に進んだ。その年には「愛と死を見つめて」がヒットしたが、すでに映画の観客の減少には歯止めがかからなくなっていた。

それは昭和40年代に顕著な傾向だった。テレビの普及が大きな原因である。昭和45年(1970年)、日本映画界で観客を集めていたのは、鶴田浩二、高倉健の二枚看板に「緋牡丹のお竜」こと藤純子を抱えていた東映の任侠映画であり、それをパロディにしてスタートした松竹の「男はつらいよ」シリーズだった。テレビドラマの最終回でハブに噛まれて死んだフーテンの寅が、松竹映画で復活したのは1969年のことだった。

70年代に入って、どの映画会社も経営危機に陥った。大映は倒産し、日活は成人映画専門の映画会社になり「ロマンポルノ」をスタートさせた。東映としても、そんな流れから無縁ではなかった。ポルノまがいのタイトルを持つ作品が増え、津島さんのフィルモグラフィにも「(秘)セックス恐怖症」(1970年)、「セックス喜劇 鼻血ブー」(1971年)、「喜劇 セックス攻防戦」「ポルノギャンブル喜劇 大穴中穴へその穴」(1972年)といったタイトルが並び始める。

津島さんは「仁義なき戦い」と同じ年に、「セックスドキュメント モーテルの女王」という、タイトルからしてキワモノ作品の音楽を担当している。僕は大学2年だった。ビニ本が話題になるのは僕が就職した後のことだし、ビデオが普及しアダルトビデオが出てくるのはまだ先のことだった。だから、当時、映画館(特に日本映画)にいくと言うと、女の子には「やらしー」と言われる雰囲気があったのだ。

フランスのポルノ女優サンドラ・ジュリアンに人気が出て来日し、テレビ出演したり東映映画に出たりしたのも同じ頃だった。「エマニュエル夫人」が日本用にボカシやカットを施して「ソフトポルノ」と銘打たれ一般映画として公開され、女性客が押し寄せたのは1974年のことだった。主演のシルビア・クリステルも人気者になって来日し、テレビ局が取材に殺到した。洋画は洗練された「ポルノ」であり、日本映画は「エロ」扱いだった。

その頃の映画館、特に二番館、三番館になると、場末の雰囲気が漂った。蝶番が壊れたような防音のスイングドア、椅子も破れて中の綿が出ていたりする。そんな映画館にまばらな客がだらしなく座り、中にはタバコを吸っている人もいた。禁煙がうるさくなかったのだ。スクリーンには男女の睦み合う姿が映り、女優のあえぐ声が響き渡った。映画が終わって照明が点くと、男たちは顔を隠すようにしてそそくさと出ていった。

●鬱屈した日々を場末の映画館で東映映画を見て過ごした

1973年秋のオイルショックの余波で、僕らはひどい就職難にぶつかった。一年上の先輩の中には、内定を取り消された人もいた。大卒者の内定取り消しが出たのは、初めてだったかもしれない。1964年の東京オリンピック、1970年の大阪万国博覧会といった目標を掲げ、日本はずっと高度成長で伸びてきたのだ。オイルショックは、初めての挫折だった。

1974年、その頃は大学四年の夏休みからが就職活動のヤマ場だった。僕は、その夏に大手の出版社を5、6社受けてすべて失敗した。秋になって募集があった中小の出版社に履歴書を送ったが、やはり数社落ち、晩秋の頃には投げやりになって、正体のよくわからない業界紙の会社に履歴書を送った。結局、その年の暮れに一社の面接を受け、年明けに二次面接を受けた。

その会社に2月中旬から勤めることになり、僕は卒業前から勤め人になった。しかし、仲間たちの多くは就職が決まらないまま、卒業を迎えようとしていた。Kもそのひとりだった。Kは就職活動に熱心だったわけではない。どこかに潜り込めればいいや、という感じで生きていた。しかし、そんなことが許される余裕のない時代だった。卒業後の展望が何もなくなり、Kは鬱屈した表情で日々を過ごしていた。

Kは、映画好きだった。日本映画ばかりを見ていた。東映の任侠映画が中心だった。「仁義なき戦い」が公開された1973年から74年にかけては、夢中になって映画館に通った。そのまま「新仁義なき戦い」や「県警対組織暴力」など、深作欣二監督の新作を追っかけていた。しかし、東映の併映作品はエロチックなものばかりだった。たとえば「仁義なき戦い 広島死闘篇」と併映されたのは、「狂走セックス族」という映画である。

さすがに「仁義なき戦い」の観客とセックスシーンを目当てにくる客は違うと悟ったのか、その後の併映作品はもう少しおとなしめの「女番長(スケバン)」シリーズなどになったけれど、それを見にいくと次週上映の予告編がかかる。たとえば「仁義なき戦い 完結篇」(1974年)の翌週は、「処女若妻未亡人 貞操強盗」「女子大生失踪事件 熟れた匂い」という映画(一体どういう映画なんだ?)だった。

Kがそんな映画ばかりを場末の映画館で見るようになったのは、就職が決まらず4月からの自分の生活が見えないことによる鬱屈が積もっていたからだった。閉塞感、あるいはルサンチマンと呼ばれる何かに対する憤激を抱いていた。自分が世の中に受け入れられないことの苛立ち、あるいは将来の不安、そんなものが卒業間近のKの心の底にあったのだろう。「映画館の暗闇だけが救いだよ。女のあえぎに癒される」とKはうそぶいた。

それは、世をすねたKのスタイルだった。斜に構えた若者の衒気だった。そんなKが嫌いではなかったが、4月になり他の仲間たちも別の生活を始めると、僕たちはほとんど顔を合わさなくなった。フランス文学科という実生活の役には立ちそうもない学部を出た連中でも、何とか世の中に出て糊口をしのがねばならなかったのだ。僕たちはバラバラになり、やがて級友たちとは連絡が途絶えてしまった。

●東映映画からウッディ・アレン作品に移行した10年の歳月

Kから久しぶりに連絡が入ったのは、10年もたった頃だった。僕は30をいくつか過ぎ、カメラ雑誌の編集部にいた。入社して8年ほどは8ミリ映画の専門誌編集部にいたのだが、ビデオカメラが登場して8ミリが廃れ、「小型映画」という月刊誌が休刊になり、カメラ雑誌に移った。会社には「コマーシャル・フォト」という業界では名の通った広告写真の専門誌があったが、僕はアマチュア向けに創刊したばかりのカメラ誌の編集部に異動になったのだ。

その編集部にKから電話があった。僕の連絡先は大学時代の仲間だったTから聞いたと言った。それから、「頼みがあるんだ」と言われ、一瞬なんだろうと構えたが、「何だい」と気軽に答えた。「おまえの会社で『コマーシャル・フォト』出してるだろ」と彼は言い、「俺が作った広告ポスターがあるんだ」と続けた。ルミネやパルコのようなファッションビルの広告ポスターを手がけたのだという。

月刊「コマーシャル・フォト」には「マンスリー・ベスト・アド」という、ずっと続いている看板ページがある。毎月、グラフィックポスター、新聞広告、雑誌広告などを集め、フォトグラファー、コピーライター、アートディレクターの3人が何点かを選び紹介するのである。そこで選ばれると業界内での評価を高めるし、クライアントにも「コマフォトで選ばれ、紹介されました」と報告できる。

ポスターを持ってやってきたKと会社の近くの喫茶店で会った。10年の月日が流れていたが、Kはあまり変わっていなかった。コピーライターをやっているというKは、洒落たスポーツジャケットにポロシャツ、ジーンズにスニーカーというこざっぱりしたスタイルで、業界人のように見えた。ルサンチマンを抱え鬱屈した表情のKの記憶が修正された。僕はポスターを預かり、「マンスリーに入らなくても、別のページで紹介してくれるように担当者に頼んでおくよ」と言った。

──俺たちも、そんな年になったんだな。

Kが、そんな風につぶやいた。その言葉がストンと僕の中に落ちた。Kが言いたかったことが、ストレートに伝わってきた。そう、僕たちも、いつの間にかそんな年になってしまったのだ。ひとりは出版社の編集者、ひとりはコピーライター、大学時代のコネクションを使って特別扱いを頼み込み、それを当然のように受ける。大学時代には想像もできなかった、大人の世界だった。

──俺、昔、東映映画ばかり見てただろ。池玲子や杉本美樹とかが出てる。
──ああ。東映のエロチック担当の女優たちだった。
──しかし、池玲子は「仁義なき戦い 代理戦争」が一番よかったよ。川谷拓三の情婦だが、弟分の渡瀬恒彦に惚れる役。杉本美樹は「祭りの準備」もいいけど、「0課の女 赤い手錠(ワッパ)」がよかったな。映画、まだ見てるのか?
──本数は減ったね。
──俺は、商売の参考で見てる。ウッディ・アレンの映画とか……
──おまえが…、ウッディ・アレンか……

ウッディ・アレンが糸井重里の「おいしい生活」というキャッチ・コピーと共に、西武デパートの広告にモデルとして登場したのは、少し前のことだった。コピーライターという仕事では、流行のものを人より早く知っていなければならないのだろう。思えば、僕は、場末の映画館でタバコを吹かしながら、不機嫌な表情で「処女若妻未亡人 貞操強盗」(ホントにどんな映画なんだろう)を見ているKが好きだったのだ。そんなことを、改めて感じていた。

【そごう・すすむ】sogo1951@gmail.com < http://twitter.com/sogo1951
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今年も残り一か月を切ってしまいました。いつものことながら、振り返ると「光陰矢のごとし」です。もう少し有意義に時間を使えたはずなのに…と、今年も悔やんでいます。それでも、9月から多少は時間ができて、少しずつ前に進んでいる気はします。

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