映画と夜と音楽と…[617]同じ釜の飯を喰う
── 十河 進 ──

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〈一心太助シリーズ/人生劇場 飛車角/太秦ライムライト/ラスト サムライ〉

●年末休暇で「東映京都撮影所血風録 あかんやつら」を読む

僕の印象だと、春日太一さんは映画ジャーナリズムの世界に彗星のように現れた人である。初めて読んだ春日さんの本は、文春新書の「天才 勝新太郎」だった。その後、「仁義なき日本沈没」(新潮新書)と「仲代達也が語る日本映画黄金時代」(PHP新書)を読んだ。春日さんの肩書きは「映画史・時代劇研究家」であり、僕は特に「時代劇研究家」に反応した。


春日さんの卒論のテーマは、「仁義なき戦い」(1973年)だったという。生年が1977年だそうだから、映画を見始めたのは90年代からだろう。つまり、生まれる前の映画をテーマに選んだわけだ。大学生の頃、「仁義なき戦い」を封切りで見て興奮していた僕とは26歳の差があるけれど、その著書を読んでいると共感することが多い。要するに「趣味が合う」のだ。

その春日さんが、昨年秋に堂々たる単行本を出した。それも文藝春秋社からである。「東映京都撮影所血風録 あかんやつら」というタイトルだ。僕にとっては、ストレートど真ん中である。読まずにはいられない。なぜ「血風録」と付けたかもよくわかる。栗塚旭主演のテレビシリーズ「新選組血風録」と言えば、脚本の結束信二、監督の河野寿一の名が浮かぶ。「あかんやつら」の中にも、ふたりは登場してきた。

特に結束信二については、京都太秦撮影所の企画部で「伝説の脚本家」だったことを教えてもらった。時代劇の量産時代、抱えている脚本家だけでは間に合わず、企画部の社員たちも脚本を書いた。そこから鈴木尚之も結束信二も出てきたのだ。結束信二は書くのが早く、「鉄腕アトム」と呼ばれたという。自身も脚本書きを「最高の職人芸」と言っていたとあり、やっぱり凄い人だったのだと改めて思った。
僕がものごころもつかない頃から、最もよく見たのは東映映画である。昭和30年代の東映量産体制を生み出した観客のひとりだった。「新諸国物語 笛吹童子」(1954年)は昭和29年4月の公開だから、僕は3歳になっていないけれど何となく記憶にある。「新諸国物語 七つの誓い」(1957年)になると、自分から父親にねだって映画館に連れていってもらった。僕は5歳だった。
「あかんやつら」は東映の京都太秦撮影所の変遷を、プロデューサーを中心に据えて描いている。満映から引き上げてきたマキノ光雄が撮影所の初期に活躍し、東大出の岡田茂が引き継ぎ、任侠映画で一時代を築いた俊藤浩滋(藤純子の父親)が登場し、「仁義なき戦い」(1973年)をヒットさせる日下部五朗が現れる。彼らが東映のカラーを作り出したのだ。そして、現在の東映社長は岡田茂の息子で、「赤頭巾ちゃん気をつけて」(1970年)に主演した岡田祐介である。

●時代劇を山のように撮った沢島忠という映画監督がいた

沢島忠という映画監督がいた。もう40数年、映画を撮っていない。「忍術御前試合」(1957年)で監督デビューするが、助監督時代から東映太秦の時代劇の量産を支えたひとりである。監督になったのは31のとき。それから14年、ものすごい数の時代劇を監督した。評価が高かったのは、時代劇で青春映画をやったと言われる「一心太助シリーズ」(1958〜1963年)である。

主演は、若く生きのいい中村錦之助だった。20代半ばから30にかけての彼の代表的なシリーズだ。錦之助は沢島監督より6歳ほど若いが、東映を背負う大スターだった。その後、内田吐夢監督の「宮本武蔵シリーズ」(1961〜1965年)という代表作を得て、60年代後半に東映を離れる。任侠映画にスタンスを移した東映は、鶴田浩二、高倉健、藤純子の主演作でプログラムを組み、錦之助の出演作は激減したのだ。

沢島忠は盟友・中村錦之助に殉じたのかもしれないな、と「あかんやつら」を読んでいて思った。時代劇専門監督だった沢島忠は、鶴田浩二主演の「人生劇場 飛車角」(1963年)を撮り、大ヒットさせる。あまりの人気に、東映はすぐに「人生劇場 続・飛車角」(1963年)を沢島監督に作らせた。それもヒットし、東映は時代劇から任侠映画へと大きく舵を取る。

沢島監督は「人生劇場 飛車角」を時代劇として撮ったつもりだったが、結果として時代劇の終焉を招き、錦之助が東映を離れるきっかけを作ったと思ったのではあるまいか。錦之助は俳優組合の委員長を引き受け、会社と対立せざるを得なくなったのが東映をはなれるきっかけだったと、昔、何かで読んだことがあるけれど、「あかんやつら」を読むと違うニュアンスが伝わってくる。

──「東映をやめる」
『股旅 三人やくざ』の撮影中、そう語りかける錦之助に、沢島は次のように返している。
「あんたが辞めるなら、俺も辞める。もう、ここでは時代劇はできんもんなあ」(「あかんやつら」より)

その沢島監督は春日太一さんの取材を受けているとき、「錦よ、早く迎えに来い。あの世で映画を撮るにも、向こうは巨匠ばかりやろ。軽いのを撮る奴もおらんと、つまらんやろ」と涙を流したという。一緒に仕事をした相手に、ここまで思い入れられるのは羨ましい。この絆、この連帯感…、やはり、映画作りは特別な仕事なのだろう。沢島監督は、今年、米寿を迎える。

●斬られ役50年の福本清三が70歳で初主演した映画

年末年始で「あかんやつら」を読んだものだから、太秦という字に敏感になっていた。1月9日、帰宅して新聞の番組欄を見ていたら、NHK-BSで9時から「UZUMASA火花 ハリウッド対京都太秦 流儀異なる映画人戦う/時代劇の復活願って松方弘樹すごみの演技 主人公五万回斬られた福本清三▽ヒロインは太極拳チャンピオン▽映画制作現場に密着」という番組が予定されていた。

最近は夜の9時には布団に入っているのだが、これは見ておかねばと思って珍しく10時半まで居眠りもせずきちんと見終わった。アメリカで映画を学んだ30になる日本人監督と、ハリウッド出身の若手キャメラマンが太秦で映画を撮ることになり、ハリウッドスタイルと東映スタイルがぶつかる場面も確かにあった。しかし、最初はどんな映画を撮っているのかがわからない。

やがて、わかったのは、太極拳のチャンピオンになった高校二年生の新人の女の子をヒロインにし、主人公に「五万回斬られた男」と言われる東映の斬られ役である福本清三を据えたバックステージものだということだ。タイトルは「太秦ライムライト」(2013年)という。チャップリンの名作「ライムライト」(1952年)にオマージュを捧げた作品であるらしい。

それでストーリーが想像できた。福本清三が演じるのは老いて仕事がなくなった斬られ役であり、ヒロインは時代劇のアクションスターをめざす少女なのだろう。やがて少女はヒロインに抜擢され、田舎に引っ込んだ老斬られ役と立ちまわりをしたいと彼のカムバックを画策する。老斬られ役が復活すると、松方弘樹が演じるかつての時代劇スターとの殺陣がある。そこで、老斬られ役は一世一代の斬られ方をするに違いない。

福本清三が注目されたのは、トム・クルーズ主演のハリウッド映画「ラスト サムライ」(2003年)に無言の侍(英語が苦手だった?)としてキャスティングされたからである。そのとき、すでに60歳、斬られ役としてのキャリアは40年になっていた。彼が有名になってから昔の東映映画を見ると、確かによく斬られているし、実録ものでは撃たれて死んでいる。「ラスト サムライ」以後、知名度も上がり顔も認知され、自伝も何冊か出た。

それにしても福本清三、70歳、斬られ役50年での初主演である。そのベテランが、若いヒロイン相手の芝居で何度もNGを出す場面があった。「どこかで誰かが見ていてくれる」というセリフをヒロインが口にし、それに対するリアクションができないのだ。それは……彼自身の自伝のタイトルだった。どこかで誰かが見ていてくれる……しかし、僕ほど映画を見ていても「ラスト サムライ」まで彼に気付くことはなかった。

●映画制作でも雑誌編集でも制作現場と経営陣は対立する

「あかんやつら」を読んでしみじみ感じたのは、結局、映画作りも企業の営利事業だという一面だった。映画という商品を製造し、観客を集め利益を出す。観客が入らず(商品が売れず)利益が出なければ、スターにも仕事はなくなる。しかし、現場の人たちは、映画制作を他の製造業と同じには捉えられない。電気製品や自動車を作るのとわけが違うのだ。そこに現場の矜持があり、企業利益を優先する経営者との対立が生まれる。規模はまったく違うけれど、それは出版社の編集現場と経営陣との対立にも共通する。

昭和26年設立の東映は、昭和30年前後に全盛期を迎える。しかし、やがてテレビの普及によって観客は激減し、テレビ番組制作にも参入せざるを得ない。60年代半ばからは任侠路線が観客を集めるが、藤純子が引退した70年代初期には任侠映画は飽きられる。「仁義なき戦い」で実録路線に活路を見出すが、太秦映画村などで経営の多角化を図る。すでに大映は倒産し、日活もロマンポルノに生き残りをかけていた。結局、映画産業の最盛期は短かったのである。

東映に大卒で入社し、太秦撮影所の所長として多くの映画を製作し、やがて社長になって東京本社に移り、経営者として名を成した岡田茂の晩年の姿が「あかんやつら」で紹介されていた。2週間に一度、会長室に昔話をしに沢島忠が訪れたという。それは、東横映画時代から岡田と共に現場で汗を流した沢島忠に、社長の高岩淡が依頼したことだった。経営者として合理化を推進した岡田だったが、制作現場の思い出が懐かしかったのだろう。

「あかんやつら」の資料として挙げられた、岡田茂の「悔いなきわが映画人生」という本がある。2001年に出版されたとき、僕も資料として購入した。その中で岡田茂は沢島忠と深作欣二の三人で鼎談を行い、懐かしそうに昔話をしている。制作現場にいた若き岡田は、少ない制作費をやりくりし、役者やスタッフの不満をなだめ、様々なトラブルを乗り越え、ときにはロケの宿代を踏み倒し(?)、映画を完成させた。それがヒットしたときの歓びは、何ものにも代え難かった。

しかし、映画産業が衰退し厳しい企業状況を迎えたとき、岡田は東映の経営責任者になり、厳しいコスト管理や合理化をしなければならなくなる。労働組合との争議も起こり、現場は混乱する。そんな中、現場を知る人間であっても、冷徹な経営判断をしなければならなかった。現場の苦労がわかるだけに、心を鬼にすることもあっただろう。やがて一線から身を引き経営者としての責任が外れたとき、彼の中に若き日の現場の思い出が湧き上がり、同じ釜の飯を喰った面々が甦ったに違いない。

今の僕には、岡田の気持ちがよくわかった。僕は、足かけ40年の出版社勤務を送ってきた。いいものを作りたい(金がかかる)編集現場と、いくらいいモノを作っても利益が出なければ意味がないと認識している管理部門(経営陣)との対立は常にあった。30年間、僕は編集現場にいて、10年間は管理部門にいた。経営陣の一員として、コスト管理を担当した。印刷会社や用紙会社を値切り倒してきた。編集現場には、経費削減を訴え続けた。

僕がいた40年間の前半は、出版業界としても企業としても上り調子だった。専門誌だったが、雑誌中心の出版形態で広告もよく入った。企業としても上昇気運だったから、労使交渉も荒れた。団交では、激しい応酬が続いた。怒鳴り合った。しかし、ここ10数年間は出版業界全体が縮小し続けた。ネットや携帯電話やゲームなどが、出版業界の逆風になった。そんなときに経営陣に加わった僕は、より厳しいコスト管理や合理化をしなければならなかった。

かつて労働組合の委員長として、あるいは出版労連の役員として経営陣に厳しい要求をしていた僕は、10年前からは会社側の労務担当者として組合に厳しい対応をしてきた。人減らし合理化こそやらなかったが、かつての組合なら争議になりそうな合理化提案もした。それが僕の役割であり、責任だったからだ。昨年9月、僕は経営陣を退任し顧問になった。週3日の出勤で、今年からは(自ら望んで)ひとり部屋になった。

部屋でひとり思いを巡らすと、昔の仲間や先輩たちの姿が現れる。過ぎ去った日々が甦ってくる。連日連夜、本を作っていた日々が昨日のことのようだ。制作費はなかった。筆者に「原稿料が安すぎる」と言われ続けた。時間管理が厳しかったのに、コピーさえ時間がかかった。バイク便もファックスもなかった。頁作りのすべてを自分でやった。取材し、(フィルムで)写真を撮り、(手書きで)原稿を書き、(割付用紙で)レイアウトをした。熱い日々だった。みんな若かった。あの頃、同じ釜の飯を喰った面々の姿が目の前に浮かんでくる。

【そごう・すすむ】sogo1951@gmail.com < http://twitter.com/sogo1951
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この原稿を書いて寝かしていると、「あかんやつら」が12日の朝日新聞の書評欄で大きく取り上げられました。よく売れているようです。また、劇場未公開だった「太秦ライムライト」は14日にNHK-BSで放送されました。この原稿が出るときには、すでに終わっているのですが…。

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