映画と夜と音楽と…[626]プロフェッショナルたちのこだわり
── 十河 進 ──

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〈彼岸花/秋日和/秋刀魚の味〉

●銀座四丁目のギャラリーに僕の写真が飾られた

昨年の暮れに、久しぶりに会社の若いモン数人と酒を呑むことになった。組合執行部の連中である。そのとき、写真好きの人間に「ソゴーさんは写真撮るんですか?」と訊かれ、「この会社に入ったのは、写真やってたからなんだよ。大学時代に下宿で伸ばしやってたし」と、つい自慢げな口調になってしまった。

彼は、写真展を開いたことがあるという。写真好きなのは知っていたが、それは初耳だった。そのとき、すっかり忘れていたことを僕は思い出し、またまた年寄りの昔話をしてしまった。そういう話が自慢げになるのは仕方がないが、話し終わってから「自慢話だったな」と反省した。それをここでまた書いているのだから、結局、自慢したいのである。


30年も前のことだ。僕は「フォトテクニック」というアマチュア向けのカメラ誌編集部にいて、カメラ記者クラブに所属していた。カメラ記者クラブが「カメラグランプリ」を始めた頃のメンバーである。カメラグランプリの数回目のことだった。「グランプリだけだと、どうしても一眼レフばかりが受賞することになってしまう。特別賞を創ろう」となり、その年、京セラの「サムライ」というハーフサイズカメラが特別賞を獲得した。

ハーフサイズカメラとは、35ミリサイズのフィルムを半分で使用するもので、36枚撮りフィルムなら72コマ撮影できる。昔はいくつか出ていたが、サムライは久しぶりに出たハーフサイズカメラだった。京セラは喜び、カメラ記者クラブのメンバーと外部委託した選考委員の人たちに「サムライで作品を一枚撮影してほしい。それで写真展を開きたい」と依頼してきた。

そのとき、僕が撮影したのは徹底的に作り込んだ写真だった。自室の窓には片側がスカイブルー、もう一方が濃紺のブラインドを掛けていた。そのブラインドを降ろし、黒い木枠に白いデコラ張りのテーブルを配置し、その上にカクテルグラスを置いて真っ赤なチンザノを注ぎ、脇に映画のスティル写真(キャビネサイズだ)を額に入れて配置した。濃紺、黒、白、赤、モノクロ写真で構成したスティルライフ(静物写真)だった。

京セラ・コンタックスサロンは銀座四丁目、三越の対角線にある鳩居堂ビルの二階にあった。サムライ写真展はそこで開催された。カメラ記者クラブのメンバーが10数人、外部選考委員が数10人、50人ほどが作品を出し、各一点ずつが展示された。僕もいくつかバリエーションを撮りネガごと渡した。その中の一点を京セラの担当者が選び額装した。額装すると、少し見映えがした。

僕の写真は、50点の中では異質で目立った。ベテランの記者クラブメンバーに「さすが、コマーシャルフォトを出してる会社の人だな」と言われた。写真は基本的に現実にあるものを切り取ると思われている。

広告写真のように徹底的に作り込む写真には、人々はあまり慣れていない。広告写真は写真家の仕事というより、アートディレクター(美術監督)の仕事なのである。口の悪い人は、広告写真家を「カメラオペレーター」と侮って言う。

●自分が撮った写真だけがドイツ・ケルンにいった

サムライというハーフサイズカメラで、静物写真を撮ったのが珍しかったのか、その年、ドイツのケルンで行われる国際的な写真器材展であるフォトキナに僕の写真を持っていきたいと、京セラの広報担当者から連絡があった。フォトキナの京セラブースでサムライで撮った写真として展示したいというのである。僕は「いいですよ」と答えた。

そんな話をして「本人は海外にいったことは一度もないが、僕の作品はドイツのケルンまでいったんだ」と、僕は若いモンに自慢したのである。僕が入社したのは彼が生まれる前のことであり、その当時に僕がバライタ紙(昔の印画紙)でプリントしたり、名機と評判だったニコンFで写真を撮っていたことなど知る由もない。僕は「この会社の入社試験を受けたのは、写真雑誌志望だったからなんだ」と改めて口にした。

大学時代、友人からニコンFを借りて京都へいき、下手な写真を撮り始めたのが最初だった。やがてアルバイトをして自分の一眼レフカメラを買い、広角レンズと望遠レンズを購入した。僕が一眼レフカメラに夢中になったのは、ファインダーを覗いていると、まるで自分だけの映画を撮っているような気がしたからだった。

しかし、写真である。一瞬を写し取るだけだ。それでも、僕は映画のストップモーションのような気分でシャッターを切っていた。当時、ストップモーションが流行していたのである。観念的なアートシアター系の映画では頻繁に使われたし、「明日に向かって撃て」(1969年)のラストシーンが印象的だった。

そんな風に何でもファインダーを覗いて、僕は空想の映画を撮っていたのだけれど、結局、あるものをあるがままにしか撮れないのだと気がついた。風景を撮るにしろ、スナップを撮るにしろ、そこに存在するもの、起こっていることをそのまま撮るしかないのだ。写真的技巧としては、アングル、フレーミング、レンズの選択、露出の決定などしかない。

やがて、今の出版社に入り、希望とは異なって8ミリの専門誌編集部に配属され、仕事で8ミリカメラをまわすようになると、僕は演出がしたくなった。一巻3分20秒しか撮影できないが、僕は簡単な設定を考え、友人たちを集め、ワンカットずつ演出をしてムービーをまわした。今から思うと、たわいのない映画ごっこだったが、当時は夢中になった。

僕が高校生の頃、高校生たちが8ミリカメラで自主映画を撮り始めていた。高校生だった原将人さんの作った8ミリ映画がコンクールでグランプリを獲得したのが追い風になった。だから、僕が月刊「小型映画」編集部に配属になった頃には、高校生や大学生が自主映画を撮るのは普通のことだった。大森一樹、森田芳光といった人たちが自主映画から商業映画にデビューした。当時、立教大学には黒沢清がいて、法政大学には犬童一心がいた。

その頃に「ぴあ・フィルム・フェスティバル(PFF)」が始まり、高校生や大学生たちは自分の作品を応募できる受け皿を得た。その映写会にいくと、彼らの熱意が伝わってきた。彼らの作品を見ながら、なぜ彼らが映画を作りたいのかがわかった。それは、僕自身がそうだったからだ。つまり、映画を作ることは、すべての世界を自分が作り出すことだからだ。

物語だけを作りたいのなら小説を書けばいい。小説ならどんなことでも書ける。しかし、それを映像化し、自分の想像した世界を映画なら作り出せるのだ。しかし、完全に自分の想像した世界にするためには、資金がなければならない。思い通りのセットを作り、完全な照明をし、自分の考えた通りに演出し、映像に写し取る。自主映画の限界は、資金力だった。

●完全に自分の世界を作っているなと思える映画作家

資金さえかければ完全な自分の世界が作れるかというと、そんなこともない。どんな世界を作るかによるのだろう。完全に自分の世界を作っているなと思える映画作家を挙げるなら、僕の好みで言えば小津安二郎監督と成瀬巳喜男監督を思い出す。完全主義と言われる黒澤明監督も自分の世界を作り出す人だったが、そのスタイルが強烈すぎて僕の好みではない。スタイルの完成度なら小津安二郎監督が一番かもしれない。

小津監督については、様々な本が出ている。僕もいろいろ読んだが、誰もがその完成されたスタイルについて書く。俳優たちの証言を読んでも、小津作品は小津安二郎監督のワンマン映画だったのがわかる。撮影現場では、まるで全知全能の神のようだ。美術、照明、撮影、演技、すべてが監督の意志によって決められた。俳優は理由がわからないまま何度も同じ演技をさせられたし、小道具係はちゃぶ台の茶碗の位置を数ミリの単位で指示された。

そんなスタイルが完成されたのは、「東京物語」(1953年)である。世界の映画監督のアンケートで一位に選ばれるほど、年を経るたびに評価があがる名作だ。小津安二郎監督の頂点である。しかし、「東京物語」以降も小津監督は映画を作り続けなければならなかった。小津監督は完成したスタイルを押し通し、公開当時は「何を撮っても同じ」と言われた。小津監督に言わせれば、「豆腐屋は豆腐しか作れない」のである。

しかし、僕は「晩春」(1949年)「麦秋」(1951年)「東京物語」という名作と呼ばれるものより、スタイルが固まった後の「彼岸花」(1958年)「お早よう」(1959年)「秋日和」(1960年)「秋刀魚の味」(1962年)の方が好きなのだ。それも、同時期に作られた「浮草」(1959年)や「小早川家の秋」(1961年)は入ってこない。

これは「浮草」が戦前に作った自作「浮草物語」(1934年)のリメイクであり大映で作られたものであること、「小早川家の秋」が東宝で制作されたものであることで、いつもの小津作品ではなくなっているからだろう。つまり、僕は松竹のいつものスタッフ・キャストによって作られた「娘を嫁に出す話」が好きだということだ。

「彼岸花」と「秋日和」と「秋刀魚の味」を通して見たら見分けがつかなくなるかもしれない。「彼岸花」には山本富士子が出ていて、「秋日和」には司葉子、「秋刀魚の味」には岩下志麻が出ているということで区別するしかないかもしれない。中村伸郎や北竜二のシーンは、本当に三作品がごっちゃになってしまっている。

●プロの現場を取材して小津監督のこだわりに納得した

小津安二郎作品には、「空舞台」と呼ばれる無人のショットがよく登場する。両側にふすまが少し写り、茶の間にはちゃぶ台がある。湯飲みや急須が置かれている。奥に鏡台がある。あるいは、廊下が写る。そんなショットが挿入され、それも小津作品のスタイルを作り上げている。そんなショットを見るたびに、僕は「静物画だな」と思った。英語では「スティルライフ still life」である。

先ほど、小津監督は茶碗の位置を数ミリ単位で指示したと書いたけれど、それは多くの人が証言している。それほどこだわった指示を、僕は後に商品撮影の現場取材で体験することになった。写真雑誌の編集部に異動になり、有名な写真家たちに弟子入りする企画を始め、広告のための商品撮影や婦人雑誌のための料理撮影などを経験した。

広告写真を主な仕事にした写真家は名前はあまり知られていないが、凄いプロフェッショナルたちばかりだった。たとえば、ウィスキーのボトルを撮影する場合、一メートル四方くらいの撮影台にボトルを置き、周囲を大きくトレーシングペーパーで囲み、大型ストロボを何灯もセットする。トレーシングペーパーで光を拡散させ、やわらかな面光源にするのだ。

また、小さな鏡や銀レフなどの反射板をいくつもボトルの周囲に置いて光を設計し、ボトルの裏側には小さな銀ペーパーを貼る。カメラはアオリができるビューカメラである。そのファインダーをルーペでしっかり確認し、写真家は数ミリ単位で照明やボトルの位置を修正していく。

初めてそんな現場を見たとき、僕は小津監督が小道具の位置を細かく指示したことを納得した。プロの仕事とはそういうものだとわかったのだ。僕は商品写真が「スティルライフ」と呼ばれ、欧米では彼らを「スティルライフ・フォトグラファー」ということを知った。以来、街に出ても駅貼りポスターやデパートに置いてあるブランドのカタログなどに気を付けるようになった。

だから、京セラ・サムライによる写真展に作品を出すことになったとき、僕は迷わずスティルライフにしようと思った。もちろん凝ったことはできないので、自室のテーブルの隅で小さな世界を作り上げて撮影した。そのとき、僕は確かにすべてを作り上げる面白さを感じていた。

もっとも、その写真はケルンまでいったものの、結局、写真もネガも返ってはこなかった。担当者が忘れたのだ。何度か催促する機会はあったのだが、「まあ、いいや」と思ったのである。しかし、あの額装した写真とネガは、今でも少し惜しい気がしている。

【そごう・すすむ】sogo1951@gmail.com < http://twitter.com/sogo1951
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マレーシヤ航空の事件後、一週間もしないうちにカミさんが陶芸仲間たちとマレーシヤ航空に乗ってクアラルンプールに旅行にいった。何かあったばかりだから安全なんじゃない、と飛行機は高松便しか乗らない僕は気楽そうに言った。僕は一度も海外旅行はしていないが、あちらは毎年どこか海外へいってるなあ。

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