映画と夜と音楽と...[635]最終回 虐げられた者たちの決意
── 十河 進 ──

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〈暁の脱走/肉体の門/春婦伝〉

●デジクリでの掲載を最後にさせてもらう理由

僕はそれほど政治的な人間ではないと思っているが、それなりに政治的な意見も信条も持っている。それを正面きって言ったことや書いたことはあまりないけれど、基本は一方に偏らないニュートラルなポジションに身を置き、リベラルでありたいと願っている。リベラルを左翼だとか、革新ととらえているわけではなく、何事に対しても排他的ではなく、偏見を持たず柔軟に考えることだと思っている。だから、このところの安倍首相の言動や、やろうとしていることには危惧を感じる。

特に彼の国会答弁の傲慢さと、その卑怯なレトリックは気になる。テレビ中継を見るたびに苛立たしい思いをしている。彼はよく「××しなくていいのか」という言い方をする。たとえば「アメリカの戦艦が攻撃を受けているとき、日本人が乗っていないからといって援護しなくていいのか」というレトリックだ。相手の質問に正対しない、その答え方や言い換えは卑怯だと僕は思う。

そんなこともあって、ここのところ安倍首相に関する本を十数冊読んでみた。多くは、安倍首相を持ち上げる本である。中には、前文に本人自身がメッセージを書いているものもあった。安倍首相は藤原正彦さんの「国家の品格」を持ち出して、「美しい日本を取り戻そう」と主張している。僕は、「国家の品格」や「美しい日本」といった自画自賛があまり好きではない。結局は、うぬぼれ鏡だ。それに何を美しいと考えるかは、人それぞれである。安倍首相や藤原さんが言う「美しい日本」を醜悪だと思う人がいるかもしれない。




十数冊読んだ本の中で、渡部昇一さんと某評論家が対談で仕上げた本があった。彼らは安倍首相へエールを送り、「日本を救うのは彼だ」とか、「美しい日本を取り戻してくれるのは、安倍さんしかいない」と言っている。安倍首相や石破幹事長を支持する人たちは、彼らが言いたくても言えないことを代弁する。たとえば「南京大虐殺はなかった」し、広島に原爆が落とされても人々はずっと住み続けて問題なかったのだから「福島原発事故なんて関係ない」のである。

当然、彼らは中国や韓国に対しては「アンチ」の立場をとっていて、「韓国が主張している従軍慰安婦問題なんてない」と断言し、「だいたい恥ずかしくて自分から慰安婦だったなんて、日本人なら言わないでしょう」と感情的なことを言っている。慰安婦は金を稼ぐためになったのだし、いい金になったし、軍が強制的に連行したなんて事実無根だ、と意気軒昂である。殴った方はすぐに忘れるが、殴られた方はずっと憶えているという真理さえ、彼らは想像だにしない。

こういう本を読むと、僕は「やれやれ」としか言えなくなる。いろんな意見があるし、いろんな人がいて、いろんな考え方をするのはわかっているが、ここまで自分たちの一方的な考え方を示されると、脱力感しか感じない。自分の考えに凝り固まって、意見や考え方の違う相手を居丈高に攻撃するのが、僕にはやりきれない。正面からぶつかって論争するのならわかるが、同じ意見の人間同士が好き放題言っている。ヘイトスピーチと同じ精神構造ではないだろうか。

だから、最近のデジクリ編集長・柴田さんの編集後記に非常に違和感を感じている。昔からナショナリズムの人であり、自分でも「右翼だ」と公言していたが、最近の編集後記はシャレにならない。韓国や朝日新聞に対しての文章は、僕にはとうてい受け入れがたいものだ。デジクリはあまりそういう(イデオロギーっぽい)ところがなかったので居心地がよかったのだが、最近は柴田さんの激烈な編集後記で大変に落ち着かない気分になる。

ここ数か月、僕はそういう文章が載っている同じ媒体に、自分自身の文章が載ることについてずいぶん悩んでいた。掲載を辞退しようかと、ずっと迷っていたのだ。僕も新聞記事や本の内容を鵜呑みにするほどウブではないが、18歳以来、半世紀以上読んでいる朝日新聞を罵倒した先日の柴田さんの文章を読んで決心した。あれは、朝日新聞の読者にも嫌な思いをさせる。こんな形で連載をやめるのは残念だが、今回で最後にさせていただくことにした。振り返れば、15年近く(14年10か月)連載させてもらったことになる。

デジクリに書かせてもらったものが、「映画がなければ生きていけない」という本にまとまった。今後も書き続けるつもりだし、時間もできるので今まで以上に書きたいと思う。だから、ブログを始めた。
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そちらで、「映画と夜と音楽と...」は引き続き掲載するつもりだ。デジクリの配信数は多いときで三万を超えていたようだ。僕のコラムを読んでもらっているかどうかはわからないけれど、それだけの読者を意識してきた。読者は減るだろうが、同じスタンスで書いていきたい。

●中国戦線に従軍した作家が書いた慰安婦たちの物語

李香蘭こと山口淑子さんの本の中に、国会議員になってから訪問した韓国で、ひとりの女性に声をかけられるエピソードが出てくる。その女性は女学生時代、学校からの帰り道で日本軍に連行され、そのまま従軍慰安婦にされた過去を持っている。その当時、たまたま街で見かけた李香蘭のロケが忘れられず、韓国にきた山口淑子さんに声をかけたのである。

山口淑子さんは彼女の話を詳しく聞き、従軍慰安婦問題に取り組むことを国会議員としての自分の使命だと考える。以来、補償問題に積極的に関わるが、複雑な状況が彼女を苛立たせる。韓国側にも、個人的に補償をうけてはならない、国家間の問題として解決するべきだと主張する人もいる。どんな問題にも、過激な考え方から穏健な意見までのグラデーションが存在する。人々の考え方をひとつにすることは不可能だ。

山口淑子さんが従軍慰安婦問題に強く思い入れたのは、自分がその時代を中国大陸で過ごしたこと、戦後、従軍慰安婦の役を演じたことがあるからかもしれない。中国人女優の李香蘭として人気が出た彼女は、戦後に日本人であることが証明され、処刑をまぬがれて日本に帰ってくる。戦後、山口淑子として数多くの映画に出演する。その一本が「暁の脱走」(1950年)だった。

「暁の脱走」は、戦後のパンパンたちを描いた「肉体の門」で有名な田村泰次郎の小説「春婦伝」を原作にしている。田村泰次郎は五年以上にわたって中国大陸の戦争に従軍した経験を持ち、「春婦伝」はその経験が反映されている。中国大陸の奥地を舞台にした、兵士と従軍慰安婦の悲しい物語だ。「暁の脱走」の脚本は黒澤明と谷口千吉が書き、谷口千吉が監督した。余談だが、その後、谷口監督は年の離れた八千草薫と結婚し、そのせいで仕事を干されたのかどうかわからないが、監督作はなくなった。

「暁の脱走」は戦後五年しかたっていないためか、まだ生々しい戦争映画だ。ヒロインの春美を演じたのが山口淑子だった。しかし、慰安婦ではなく兵士の慰問にきた歌手に変更された。最初のシナリオでは原作通りの従軍慰安婦にしていたが、GHQの検閲で歌手に変えたという。昭和25年、占領が終わるのはまだ二年先のことである。ちなみに、東宝の文芸部員として入社し俳優になった池部良が、春美が愛する三上上等兵を演じている。彼も中尉として南方戦線に従軍し、復員してまだ数年しか経っていない。

田村泰次郎の「肉体の門」は何度も映像化されるほど人気のある小説だが、「春婦伝」も鈴木清順監督によってリメイクされている。当時、セクシー女優として人気があった野川由美子を主演にして「肉体の門」(1964年)を映画化し、その翌年に「春婦伝」(1965年)を映画化した。「肉体の門」はカラー作品で、パンパンたちを着る服(下着)によって色分けしたのが印象的だったが、「春婦伝」はモノクロで描く荒野が記憶に残っている。

清順さんの映像美は目を見張るものがあるけれど、当時はまだ「ヘンな映画を作る監督」としてしか認識されていなかった。カットのつなぎも独特で、ハッとさせられるシーンが散りばめられている。映画青年だった僕は、見入ったものだった。野川由美子の相手役は、石原裕次郎の湘南時代の遊び仲間だった川地民夫である。石原家の隣に住んでいた川地民夫は、慎太郎が書いた「太陽の季節」の主人公のモデルだという説がある。

「暁の脱走」の15年後の鈴木清順監督版では、ヒロインは従軍慰安婦として登場する。ヒロインの春美にまつわるプロローグ的なシークェンスがあり、やがて中国の広大な荒野を日本軍のトラックが走っているシーンになる。トラックには、慰安所の主人が天津から連れてきた新しい慰安婦三人が乗っている。ひとりは春美だ。他には数人の兵士。もう一台の軍のトラックが追い抜き、卑猥な言葉を兵士たちがかけていく。「奥地の兵隊はいやね。がつがつしている」と、ひとりの慰安婦が言う。

その三人が慰安所にいくと、慰安婦は十三人になる。「十三人で一個大隊の千人を相手にするのか。たいしたものだ」と同乗の兵士が笑う。慰安所の時間にもヒエラルキーがある。一時から四時が兵隊、夕方から夜の八時までが下士官、八時以降は将校という決まりだ。春美は副官に気に入られ、強引に犯される。悔しいことに彼女は悶える。彼は権力欲の塊のような男で、すべてを力で押し切るように生きている。彼の世話をする当番兵が、三上上等兵(川地民夫)である。

副官へのあてつけで春美は三上を誘惑するが、三上に強く拒絶される。ムキになって三上を追う春美は、やがて澄んだ瞳を持つ三上に強く惹かれていく。ある夜、三上と結ばれた春美は女としての幸せを感じ、三上なしでは生きられない己を自覚する。八路軍との戦闘が始まり、最前線で機関銃手をつとめる三上が隊に置き去りにされたことを知った春美は、銃弾が飛び交う戦場の中に飛び込んでいく。そのときの春美は美しい。一日に百人の兵士の欲望処理を引き受ける慰安婦だが、死を顧みず戦場を走る彼女は聖女のように美しい。

●初井言榮が演じた朝鮮人慰安婦の最後の言葉が印象に残る

春美の慰安婦仲間に、ほとんど口を利かず、いつも無表情でいる初井言榮が演じた女がいる。彼女は日本名で呼ばれるものの着ているものや言葉遣いから、明らかに朝鮮人慰安婦であることがわかる。彼女は過去を語らず、ただ無表情で男に抱かれ、あきらめたように生きている。兵士たちがやってきても、彼女のところにはほとんど列ができないし、日本人の慰安婦とは露骨に差別されている。

そんな彼女の部屋にきて何もせず、本ばかり読んでいる宇野上等兵がいる。彼は少尉にまでなったのだが、反軍思想の持ち主だということで降格されたのだ。アカではないが、教養のあるリベラルな思想の持ち主である。「生きて俘虜の辱めを受けず」といった戦陣訓を身に染み込まされた三上とは対照的に、冷静に客観的に物事を把握し、軍隊の愚劣さを指摘する。ヒロイズムやナショナリズムとは、無縁の存在だ。彼は、朝鮮人に対しても差別はしない。

----いつも日本ピーと同じお金くれるの、宇野さんたけよ。

初井言榮は、日本語の濁音を苦手にする朝鮮人特有のイントネーションで言う。中国大陸の奥地まで慰安婦としてやってくる女たちが、どんな境遇で育ち、どういういきさつでそんなところまでくることになったかはわからない。しかし、彼女たちは社会の底辺で生きる人間たちであり、虐げられ、見棄てられた存在だ。そんな慰安婦たちの中でも、朝鮮人慰安婦は最下層に属している。それでも、彼女は生きる意志を明確にする。

やがて、宇野上等兵は上官が中国人を惨殺するのを目撃して軍隊に絶望し脱走する。負傷した三上と春美は最前線に取り残され、八路軍の捕虜になる。そこに現れたのは八路軍に投降し、協力者となった宇野である。宇野は三上に「帰っても、捕虜になったことを理由に死刑になるだけだ。一緒にいこう」と誘うが、戦陣訓を叩き込まれた三上は、「おまえは日本軍人じゃない」と拒否する。八路軍が去り、三上と春美は日本軍に発見される。

三上は営巣に入れられ、軍法会議にかけられることになる。軍法会議にかけられると、死刑判決は間違いない。副官は「三上を護送の途中で殺し、戦死扱いにすれば隊に傷がつかない」と軍曹に命じる。この軍曹役を悪党面の藤岡重慶(アニメ「あしたのジョー」の丹下段平の声ですね。立て、立つんだ、ジョー)がやっていて、ほんとに憎々しい。つまり、とても演技が上手なのである。

隊の名誉を守るという美名の下での組織による不祥事の隠蔽は、組織のいやらしさが描かれていて実に日本的だなあと思う。現在も変わっていない、日本的な精神性だ。こういうのも、安倍首相が取り戻したがっている「美しい日本」なのだろうか。彼は戦後の価値観を占領軍から押し付けられたものとして否定し、戦前から継続する日本人の精神性を讃えているのだから、個人が犠牲になって組織の名誉を守るという美意識も、武士道以来続く日本の「精神の美しさ」だと思っているのかもしれない。

結局、三上は自分が臆病ではないことを証明しようと手榴弾で自爆をはかり、最初は止めようとした春美も「一緒に死ぬ」と抱き付き、ともに凄絶な爆死をする。彼らは心中したことになり、三上は「捕虜になったのにおめおめと帰ってきたうえ、慰安婦と心中した日本軍人の面汚し」と罵られる。しかし、彼らの死を知った慰安婦たちは、風の吹く荒野でふたりを弔うように呆然とたたずむ。そのとき初めて、朝鮮人慰安婦の初井言栄が長い言葉を口にするのだ。

----三上さんも春美ちゃんも逃げようと思えば逃げられた。日本人、すぐ死にたがる。踏まれても蹴られても...生きなければいけない。死ぬなんて卑怯だ。

彼女はそう言うと、すっくと立ち上がり、毅然と立ち去る。民族衣装を身に着けた彼女の後ろ姿で映画は終わる。その姿を、僕は美しいと思う。底辺で這いずりまわるように生きる人間、虐げられた者たち、彼らが懸命に生きる姿は美しい。踏まれても蹴られても、人間として扱われなくても、彼らが生き抜く姿は美しい。そんな彼らに、共感できないような人間にはなりたくない。弱いもの、虐げられた者たちに惻隠の情を抱けない傲慢な人間でありたくはない。

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柴田さんに頼まれて(日本初?)ネットマガジンに藤川五郎の名前で原稿を書き、その後、日刊デジクリがスタートしたので、担当していた雑誌の宣伝だと思って書き始めました。トータルでは20年近くになるかもしれません。柴田さんはネットマガジン時代も過激な後記を書き、業界内で物議を醸してばかりいましたね。残念ですが、「さらばデジクリ」ということになりました。なお、「春婦伝」はユーチューブで全編見られます。たぶん、まだ削除されていないと思います。

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