まにまにころころ[59]宗教の話
── 川合和史@コロ。 Kawai Kazuhito ──

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こんにちわん、コロこと川合です。つい先日、どうにも体がだるくて眠くて、全身が疲れ切った感じで、でも運動した覚えもなくて、もしかしてどこか体が悪いんじゃないかと心配になりつつ、数日間の自分の行動を思い返していたのですが、結論は「サッカー観戦疲れ」でした。細切れに睡眠とって日々は乗り越えていたんですが、知らず知らず何かが蓄積していた模様。睡眠って大事。

さて、そんな話はさておいて、今回は宗教の話をしてみたいと思います。なぜ唐突に宗教の話なのかというと、濱村デスクが先日「デジクリは、基本的にはどんな話題でも構いませんが、宗教の話はナシで」と言われていたから。(笑)

最近ちょうど宗教についてあれこれ考えていたタイミングだったので、これは神の思し召しに違いない、デジクリで書いてみよとの啓示だろうと。(適当)

啓示ならしかたないですよね、濱村さんも許してくれますよね。

そう言うわけで、まにころ宗教編です。専門家じゃないので、深いことは何も知らないし、素人があれこれ書いたところで本気で怒るような器量の狭い人もいないだろうとたかをくくってのスタートです。




◎──宗教についてあれこれ考えていた理由

もともと宗教については興味のあるほうでした。というのも、根っからの文系人間なので、本を読もうが絵画を見ようが、宗教ネタというものが少なからず刷り込まれていくわけで。信仰だなんだではなく、一般論としての教養として。

記憶力の弱い私は、本にしても絵画にしても刷り込まれた宗教ネタにしても、見聞きした端から忘れていくのですが、ふんわりふんわり積もっていくんです。結果、あまり特定の宗教にこだわらない無頓着な人間になりました。

ただ、そのような理由なので、興味あるのも伝統的な宗教だけですけどね。

そんな私が最近、冲方丁の『天地明察』、続いて『光圀伝』を読み、これらに大いに感動しまして。前者は映画化もされて有名かもしれませんが、江戸時代初期、囲碁棋士で天文暦学者の渋川春海が新たな暦を作る話。後者はそのまま、水戸黄門こと徳川光圀の生涯を描いた小説です。同時代の話で登場する人物もクロスします。

・天地明察(角川文庫) < http://goo.gl/gXvmCv
>
・光圀伝(角川書店) < http://goo.gl/OyPYuc
>

共にKindle版もあります。私はKindle版を買い、お風呂で読みました。

どちらも非常に面白く、また作者が比較的ライトな小説を書いてきた人なので、語り口も読みやすく、是非オススメしたい本なのですが、その中で儒教と神道が出てきまして。それをきっかけに、日本人の宗教観について、改めて興味をもったというわけです。

◎──日本人の宗教観

日本人の宗教観についてあれこれ考えるのはこれが初めてではなくて、中高生くらいの頃からそれとなくは考えていました。日本人のベースにある宗教は、仏教でも神道でも儒教でもなくて「日本教」って感じの混成物だなー、って。なんせ、クリスマスケーキパーティから十日もしないうちにお寺に除夜の鐘を撞きに行って、その足で神社に初詣に行くような私たちですから。

最近読んだ本に、そんな日本人の宗教観を端的に表した言葉として挙げられていたのが、「神様、仏様、稲尾様」でした。上手い!(笑)

神様も仏様もすごい人も同列に崇め奉るのが私たち日本人なんです。稲尾様はまあ冗談交じりですが、天神様は菅原道真、東照大権現は徳川家康ですもんね。徳川のせいで江戸時代には憂き目を見ていましたが、豊臣秀吉も豊国神社で、豊国大明神として祀られています。徳川めっ!

この懐の深さが、日本教の素晴らしいところだと私は思っています。大学生の時、ちょっとした縁で訪れた教会の牧師さんが、先に挙げたクリスマスや初詣を引き合いにして、日本人の宗教観を馬鹿にしたような発言をした時、思わず心の中で蔑んでしまいました。狭量にもほどがあるなと。

◎──「日本教」のベースは神道

日本人のベースは「日本教」と書きましたが、その日本教のベースは神道です。それが日本教の懐の深さを生んだ要因でしょう。原始宗教的なアニミズムから、「八百万の神」を崇拝してきたところから始まり、記紀に記されているような神話も生まれ、その神話の流れをくんだ皇室が今なお続くのが日本です。

皇室を辿っていくと天照大御神にいきつくわけで、天皇の血脈は、いわば神道の根本と言っても過言ではないですよね。ああ、真偽だなんだの細かい議論は置いといてください、ややこしくなるので。天皇は神の子孫というのは大前提として聞いてください。神道が祀る神の血を引いているわけですよ。

飛鳥時代に入るか入らないかくらいの昔、天皇の治める神国日本に仏教が伝来。諸説ありますが、私は538年って習いました。ご参拝、と。日本の神々を大事にすべきだという物部氏と、新しい物好きの蘇我氏が対立したとかなんとか習いました。で、蘇我氏が勝ちまして、仏教もいいよね、奉ろうねと受け入れた。

崇仏派の蘇我氏に与していた厩戸皇子は、排仏派の物部氏との争いに当たって、「この戦に勝たせてくれたら、四天王を祀る寺を建てるぜ!」と誓いまして、結果、勝ちましてできたのが大阪の四天王寺。奈良の法隆寺も厩戸皇子の建立。

すごい話だと思いませんか? 四天王寺を建てるぜって誓った厩戸皇子が当時、まだ子供だったって話(14歳だったそうで)のことじゃないですよ。何がって、厩戸皇子、いわゆる聖徳太子って、その名の通り、皇子なんですよ。用明天皇の息子で、推古天皇の摂政だったあの厩戸皇子。まぎれもなく、皇室の方です。つまり、神の子孫です。神道の神様の子孫が、篤く仏教に帰依しているんです。受け入れるぞって戦までして、お寺建てちゃうんです。すごくないですか?

天照大御神もびっくりするほど、聖徳太子が特別エキセントリックだったわけじゃないんです。たぶん、周りの皇族からしても神道関係者からしても「まあそう言われればそうかもしれないけど、一緒に祀ればいいんじゃねえ?」ってな話だったんですよ。

だって、天皇は天照大御神の子孫ですよって話も、厩戸皇子が神頼みならぬ仏頼みで物部氏を打ち破って四天王寺を建てたんだよって話も、同じ『日本書紀』に書いてあるんです。天武天皇が編纂させた『日本書紀』に。

その天武天皇は、国教としての神道、国家神道を確立したとされる天皇です。もっと言えば神道そのものを確立させた方です。天照大御神から続く皇室、という流れを明確にしたのも天武天皇。先に挙げた厩戸皇子は、もしかしたら、自分が天照大御神の末裔だとは知らなかったかもしれません。

でも、知らなかったのならしかたない、という話で終わらない。天武天皇は、神道を確立し、天皇は天照大御神の末裔とする一方で、仏教も厚く保護。嫁が病気になった時は、平癒を祈願して薬師寺を建立しています。嫁、というか、皇后さまは、後の持統天皇です。持統天皇もまた、厚く仏教を保護しました。

天照大御神もびっくりするほど、この夫婦が特別エキセントリックだったわけじゃないんです。もう後は学校で習った日本史を思い出していただくだけでいいのですが、多くの天皇が、理由はさておき、仏教を保護しています。

奈良の大仏は、聖武天皇の発願で作られました。桓武天皇の保護の下で大陸に渡った最澄に、没後に伝教大師の諡号を贈ったのは清和天皇です。東寺を空海に下賜したのは嵯峨天皇です。以降も挙げればキリがないほど、歴代天皇は仏教と密接な関係にあり、寺院に祀られている天皇も数多くいらっしゃいます。

神仏習合だとか本地垂迹だとかなんとか、難しい説明をするまでもなく、神道が懐が深く、仏教と解け合ってきたことを分かっていただけたと思います。

実際にはその過程で様々な解釈の元に受け入れられているので、大本の仏教とかなり内容は違っていると思いますが、仏教の側も割と柔軟な変遷をしつつ、日本まで辿り着いていたりするので、相性自体もよかったんでしょうね。仏教もまた懐の深いものとなって日本に伝わってきているので、自然と融合したと。

天皇がどうのではなくて、もっと身近なところで溶け込んでいる例をひとつ。仏式の葬儀や通夜から帰って、お清めの塩を振りかける人いますよね。最近はそうでもないようですが、少し前までは一般的な姿でした。

この、死を穢れとして、塩で清めるというのは、神道的な考え方ですね。神社に行くと手水舎で手や口を清めますよね。またお祓いを受けたりしますよね。清めるとか、祓うとか、「穢れ」という考え方は神道のものです。

◎──儒教とも解け合う日本教

神道に溶け込んだのは仏教だけではありません。仏教と同時期か、ほんの少し早いくらいに儒教も日本に伝わっています。日本史の授業で、五経博士と呼ばれる役職の人が百済から日本へ渡ってきたと習ったことを覚えている人も多いと思いますが、五経というのは儒教の教典とされる書です。後に「四書五経」なんて言葉も習ったかもしれませんが、あの「五経」です。

百済から「論語」を伝えたとされる王仁も有名ですよね。

......有名、ですよね? 大阪の枚方に王仁由来の王仁公園という公園があって、プールもあって、私も子供の頃によく遊びに行って馴染みがあって......世間的にどの程度有名なのか、ちょっと分からなくなっていますが、少なくともここ大阪ではとても有名な学者です。功績は知らずとも名前は知れ渡っています。

儒教の場合、いわゆる「神さま」のような分かりやすい崇拝対象があるわけではないので、溶け込み方も分かりにくいかもしれません。どちらかと言えば、宗教というよりも、学問というか、道徳の教えといった側面が強いですしね。

そもそも「道徳」なんて言葉自体、儒教そのものに近いです。そんなわけで、儒教も最初から他のものに溶け込みやすいものではありました。

先に挙げた厩戸皇子の功績として有名な「十七条の憲法」には、儒教の教えが色濃く反映されています。第一条にある有名な「和をもって貴しとなす」からして、論語の一節に原型があるのですから。「篤く三宝(仏法僧)を敬え」と言ってる十七条の冒頭がもう儒教からきているという。

しかもそれ言ってるの、神の末裔というね。もう、渾然一体。聖徳太子は実在しないとか、十七条憲法は後世の創作だとか、諸説ありますけども、それらが記されている日本書紀は天武天皇が編纂させたものなので、渾然一体っぷりの事例としては影響なし。

なお「和をもって貴しとなす」という考え自体は、儒教ではなく日本的なものです。言い回しの原型が論語にあるだけで。

先に仏教も儒教も溶け込みやすいって書きましたが、仏教は日本に伝来の時点で、既に少し儒教と混ざっています。祖先の崇拝は儒教的な考えです。仏陀の教えではありません。

おうちに仏壇を置き、祖先を祀る。自然な光景のようですが、祖先を祀るのは儒教の考え方です。仏壇は仏を祀るものです。浄土真宗のおうちでは、仏壇の中心に描かれているのは阿弥陀如来で、手を合わせて拝む際に口にするのは、「南無阿弥陀仏」と阿弥陀如来に帰依するとの言葉です。

まあ、仏教的に考えるなら、祖先を祀っているのではなくて、祖先から脈々と繋がる「縁」を大切にしている行為だということですかね。ただ、うちにはない(浄土真宗では、一般的にないものなのか?)ですが、位牌というのは、儒教アイテムです。

そんなこんなで儒教も溶け込んで、古くから日本人の生活に関わってきたわけですが、改めて「儒教」という形でクローズアップされたのは、江戸時代で。体系だった「朱子学」として明から伝わり、幕府が取り入れたのがきっかけ。その結果として幕府は滅んだという話は、長くなるのでまた今度。

◎──次回に続く

日本人の宗教観は色々なもの、主に神道、仏教、儒教が解け合ってできている日本教ですよーって話を軽くさらっと書いてみようと始めた今回なのですが、思いのほか長くなりました。まだ書き足りませんけども、今回はこの辺で。

【川合和史@コロ。】koro@cap-ut.co.jp
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