まにまにころころ[74]ざっくり日本の歴史(中編その5)
── 川合和史@コロ。 Kawai Kazuhito ──

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こんにちわん、コロこと川合です。さて今回は予告通り織田信長の話を中心に、進めていくつもりですが、このあたりは面白すぎて細かく書いていくとキリがないので、あまり知られていなさそうな話を取り上げつつ、時代を進めます。

「織田がつき、羽柴がこねし天下餅。座りしままに食らう徳川」なんて後世に揶揄もされた徳川家康ですが、楽して手に入れたかどうかはともかく、江戸の幕府が260年も続いたその礎は、信長、秀吉、家康と、三代に渡って築いたというのは確かだと思います。

織田家、豊臣家、徳川家と、家をまたいでタスキを繋いだ「三英傑」を順番に見ていきます。タスキを繋いだというか、強奪ですけども。

小中学校の授業くらいで歴史の知識が止まっていると、織田信長は天下統一を目前に明智光秀に裏切られ、その仇を取った豊臣秀吉が継ぎ、秀吉の死後は、徳川家康がその遺志を継ぎました、ってイメージかも知れませんが、実際は、ドン引きするくらいに強奪です。

大阪城の外堀を埋めてからどうこうっていう、大坂の陣の話があるので、家康は強奪ってイメージもありそうですが、秀吉の方がよっぽどえげつない方法で天下人になっています。ま、それは後ほど。




◎──織田信長

信長と言えば、「尾張の大うつけ」と呼ばれていた悪ガキが、実際は超優秀で、桶狭間の戦いで今川義元の大軍を破り、武田、上杉、本願寺など諸将を退け、天下統一を目前に家臣の明智光秀に本能寺で殺された人、といったところが、多くの方のイメージでしょうか。あと、すっごい恐くて残虐な人だとか。まあだいたいそんな感じであっているんですが、補足的にいくつか。

◎──今川義元はバカ殿ではない

信長が天下に名をとどろかせたのが、今川義元を討った桶狭間の戦い。義元は大軍であったにもかかわらず信長に討たれたために、どうも残念なイメージが付いてしまっていますが、当時「海道一の弓取り」と言われた名将でした。

名軍師として名高い太原雪斎と共に、内政でも外交でも天才的な才覚を発揮し、今川家の最盛期を築き上げました。桶狭間だけなんです、大失敗は。太原雪斎が桶狭間の戦いの五年前に老衰で亡くなっているので、それがなければ歴史は、もしかしたら全然違うものになっていたかも知れませんが、それはそれとして、やっぱり信長が凄かったということで。

◎──信長はかなり寛大

前回、宗教に寛容だったという話を書きました。武装した比叡山を焼き討ちはしても、天台宗を禁じたりはしませんし、本願寺も武装を解いて降伏したら、従来通りに信仰を許しました。宗教だけでなく、争った相手でも、相手が反省したり恭順すれば許すことが多いです。先ほどの桶狭間の戦いですが、当時、今川家に与していた徳川家康(松平元康)は、信長の敵として戦っています。

で、桶狭間の戦いの後ですが、信長は徳川の独立を助けて同盟を結ぶんですね。寛容というのとはちょっと違って、政治的な理由も大きいんですけど。三河の地を自分で取っちゃうと、武田、今川、北条といった勢力と直接的に事を構える形になるので、徳川に渡して押さえさせようと。にしても、家康を見込んでのことでしょう。才能ある人には優しい人です。

織田家随一の家臣だった柴田勝家なんて、信長が家督を継いだ頃、信長の弟を担いで信長を殺そうとしてますからね。それでも恭順したら許して取り立てたという。勝家と組んで打倒信長を企てたその弟の信勝も、勝家と共に許されています。

ただ数年後にまた謀反を起こそうとして、勝家にチクられてさすがに処分されちゃいましたけど。それでも一度は許されているんですよ。殺そうとしたのに。意外と情け深いところもあったのかもしれません。

情け深いといえば、秀吉の浮気をなげく嫁に、慰めの手紙を送ったりもして。気遣いの人だったんですね。秀吉といえば、農民からの立身出世ストーリーが華々しい人ですが、それも信長あってのこと。優しさとは違いますが、完全な能力主義というのも信長の凄いところです。

◎──天下統一

戦国時代といえば、全国の戦国大名が天下を狙って戦いを繰り広げていた印象を持たれていますが、実際、天下統一なんて考えていたのはたぶん信長くらいなものです。他はだいたい領地争いしかしていません。みんながみんな天下を狙っていたと思うのはおそらく、ゲームの「信長の野望」の影響が強いんじゃないでしょうか。自分の好きな大名を選んで、全国制覇を目指すゲームなので。でもあくまでそれは文字通り「信長の野望」だったんですよ。

また、戦国時代は戦国大名が明けても暮れても戦を繰り広げていたイメージがありますが、そんなことはぜんぜんなくて。だって、兵士はみんな農家の人で、農閑期じゃないと戦はできませんから。収穫時期になれば自動的に休戦ですよ。でないと、次の年に飢えておしまいになるので。

信長が強かったのは、農家の次男以下を「雇って」専業の兵士としたからです。兵農分離しつつ、一方で経済政策を推し進め、職業軍人を雇い入れた。だから長期戦も可能だし、軍の移動もスムーズで。また、いわゆる城下町の繁栄にも繋がっていきます。家臣が農業を気にせず城下に集まって住めるので。

また兵農分離は治安維持にも繋がります。原則的に兵士以外は武器を持たないことになるから。秀吉の刀狩りや、江戸時代の身分制度もその流れです。

◎──明智光秀の三日天下は三日じゃない

三日天下といわれますが、短かった、という意味であって、さすがに三日じゃなかったです。実際は十三日でした。二週間足らずで討ち取った秀吉は凄い。本能寺の変の首謀者は秀吉だったんじゃないかと言われるのも仕方ないです。

本能寺の変は日本史最大級のミステリーのひとつで、黒幕説も色々ありますが、事後の状況から考えると、結局は突発的な単独犯行というのが有力です。

光秀はなんの準備も、なんの根回しもしておらず、信長を討ち取ってから全部あれこれ手配しています。たまたま「あ、今なら討てるかも」ってほんと直前に思いついたんじゃないですかね。旧暦6月2日で月もほとんど新月で暗いし、夜討ちにぴったりじゃないか、って。

夜討ちと言っても夜は真っ暗ですから、実際は朝駆けですけども。まあ、そんな言い方をすると光秀はバカみたいですけど、実際は超有能で、秀吉の大返しさえなければ、本当にしっかりと天下を取れていたかもしれません。

◎──豊臣秀吉

さてここから秀吉のターン。農民上がりの天下人という、漫画みたいな人です。最初に書いたとおり、天下は強奪していますけども、それも才能のなせるワザ。その秀吉最大の才能は「人たらしの天才」と言われています。人心掌握の達人。で、上司にも部下にも嫁(正妻)にも恵まれて、出世街道まっしぐらです。

信長の右腕として手腕を発揮し、困難を極めた中国地方の制圧もあと一歩まで迫ったところで、本能寺の変を迎えました。

◎──中国大返し

備中高松城を前代未聞の水攻めにしていた秀吉の元に、本能寺の変の報が届きます。本能寺の変が起こったのが旧暦6月2日。秀吉に知らせが届いたのは翌日、3日の夜から4日の未明とのことです。

昨年の大河ドラマで黒田官兵衛が「好機が訪れましたな」って言った時です。そこから秀吉は、相対していた毛利には信長の死を伏せつつ、予定通りの体で講和を締結し、大返し。全力で京を目指します。

信長が倒れた時点で織田家の有力家臣は、明智、羽柴、柴田、滝川、丹羽と、後は織田家の信孝と信雄といったところ。当主の信忠は光秀に追い込まれ自刃。このうち、柴田勝家は北陸で上杉と交戦中、滝川一益は東国の新領地に移った直後かつ北条ともにらみ合いつつで動けず。

丹羽長秀は信孝と共に四国を平定すべく大阪から出発しようとしていたところで、状況的には光秀討伐には最も有利だったはずなんですが、変の知らせに軍が動揺、それを収められずに兵が離散。

また、領国の伊勢にいた信雄も有利な位置でしたが、兵士を四国攻めに送っていたために手元に少なかったことと、この人そもそも兵士がいたって、たいしたことできない人だったようなので、無力。一応は少ない手勢で進軍はしたのですが、途中で引き返しています。残念な子。

もう完全に天下が秀吉に味方したような状態でした。ちなみにこの時、家康は堺見物に来ていて、変の知らせを聞き、伊賀の山を越えて必死に三河へと逃げ帰りました。よく勘違いされますが、徳川は織田家の家臣ではなく独立した同盟国なので、「仇討ち」には直接関係する立場にありません。天下狙うチャンスではありましたけど。さて、大阪で信孝たちと合流した秀吉は、山崎で光秀を討ちました。

◎──光秀を討った後

仇を取った秀吉が信長の後を継ぎました......なんて、冷静に考えれば、そんな単純な話であるわけがない。仇取っただけでは、せいぜい、でかい顔ができるだけ。だって信長の息子も孫もいるんです。秀吉の天下取りはここからです。

嫡男の信忠は亡くなりましたが、信孝と信雄、どちらが織田家の跡目に付くか。どちらを支持するかという重臣たちの駆け引きが始まります。そして、数年前、三谷幸喜が映画にした清洲会議が開かれます。参加者は、柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興の四名。滝川一益は北条にやられてそれどころじゃなくて。

まあ注目は勝家と秀吉のぶつかり合いです。勝家は信孝を推しました。信雄はイマイチだということもあり。で、秀吉はどうしたかというと信長の孫、信忠の子である三法師を推します。二歳です。無茶に見えますが、筋から言えば、当主の子ですので順当です。丹羽、池田は秀吉を支持したので、結果、三法師が織田家の当主となりました。

人たらしの天才を相手に、多数決なんて勝ち目がないですね。ただ二歳ということもあり、いずれ安土に戻すことを条件に、信孝が三法師を引き取ります。清洲会議は秀吉の勝ち。勝家とは決定的に対立。小競り合いが始まります。関東から逃げ帰ってきた滝川一益は柴田の味方に。

秀吉は賤ヶ岳の戦いで勝家を破りつつ、さらに信雄に近づき「安土に戻すって言ったのに、信孝がいつまでも手元に三法師さまを置いてるぞ、約束違反だ」と難癖つけて、信孝を攻撃します。

戻すも何も安土は天守も焼け落ちてるやんって話ですが、信孝は敗れて降伏。無理矢理に切腹させられます。秀吉すげえ。大恩ある信長様の息子を強引に追い込んで切腹させるって、無茶苦茶。

で、安土に仮住まいを設けて、信雄に三法師の面倒をみさせると思いきや早々に信雄は追い払われます。さすがに不信感を抱いた信雄は家康に接近。家康はこれに乗じて、秀吉を非難し、信雄を担いで挙兵します。小牧・長久手の戦い勃発です。この家康が強い。秀吉は攻めても攻めても裏をかかれてやられます。

困った秀吉はここでまさかの一手、敵対する信雄を口説きます。そしてこれがなんと、信雄、和睦に応じます。バカです。家康に乗っかっていれば悪くても三法師の後見人にでもなって、織田家のトップに立てたのに。ハシゴを外された家康は「仲直りできてよかったね」と帰っていきました。

◎──秀吉の天下

信雄は和睦してどうなったか。秀吉にかなうはずもなく落ち目に。秀吉は朝廷工作をすすめ、関白になったり、豊臣姓を賜ったりして位人臣を極め、その結果、織田家との主従は逆転。信雄も三法師も豊臣の家臣に。挙げ句、信雄は後に、秀吉の命令に背いたとして改易、流罪、出家させられましたとさ。まあでも、長生きして、家康時代に復活しましたけど。家光には茶会に呼ばれたりもしたそうです。生き残ったもの勝ちですね。

さて、天下人となった秀吉は、勢いのままに残った諸将を降伏させて、信長の野望、天下統一を果たしました。晩年、大陸進出を目指し失敗、二度目の朝鮮出兵の最中に老衰で亡くなります。家康に、息子の秀頼を頼むと後事を託して。

◎──徳川家康

苦労人、家康の順番が回ってきました。生き残ったもの勝ちです。秀吉亡き後、豊臣家臣は石田三成派とそうでない派に分裂。睨みをきかせていた前田利家が亡くなると、そうでない派を取り込んだ家康と三成の、関ヶ原の戦いが勃発。

まともにやりあって、家康になんて勝てないよ。戦国最強の武田信玄くらいじゃないと。勝った家康は淡々と後処理を進め、自分は征夷大将軍となって江戸に幕府を開きました。でもその時点ではあくまで主家筋は豊臣。秀吉の遺言にも従い、秀忠の娘を秀頼に輿入れさせたりもします。

でも、もう実力では家康が上なのは明らか。数年間、西と東の二大巨頭が静かに頭の取り合いをすることに。最終的には結局、家康が力でねじ伏せにかかって(大坂の陣)、秀頼は自刃。徳川の天下が確定し、明治維新まで江戸時代が続きます。

◎──年表で見るとこんな感じ

1560年:桶狭間の戦い
 1564年:ガリレオ・ガリレイ、ウィリアム・シェイクスピア、生まれる
1568年:織田信長、足利義昭を奉じて上洛
1571年:比叡山焼き討ち
1573年:足利義昭が京都から追放され、室町幕府が事実上滅びる
1580年:石山本願寺、織田信長に降伏
1582年:本能寺の変。山崎の戦い。清洲会議
1583年:賤ヶ岳の戦い
1583年:羽柴秀吉が石山本願寺跡地に大坂城を築城
1584年:小牧・長久手の戦い
1585年:秀吉、関白に就任
1586年:秀吉、太政大臣となり、豊臣姓を賜る
1587年:九州征伐
 1588年:イギリス艦隊がスペインの無敵艦隊を破る
1590年:小田原征伐、天下統一
1592年:文禄の役(朝鮮出兵)
1598年:慶長の役(朝鮮出兵)
1598年:秀吉死去

1600年:関ヶ原の戦い
1603年:徳川家康、征夷大将軍に就任
1614年:大坂冬の陣
1615年:大坂夏の陣
 1620年:イギリスの清教徒がメイフラワー号で北米大陸へ移住
 1644年:明、滅亡。女真族の国、清の時代に

◎──さて次回は

次回は江戸時代に......と言いたいところですが、もう少しだけ安土桃山の話を続けるかも知れません。まだ決めていません。(笑)安土桃山時代の話は、漫画「センゴク」や「へうげもの」が面白いです。特に、「センゴク」が比較的史実をしっかりなぞっていてオススメ。

【川合和史@コロ。】koro@cap-ut.co.jp
合同会社かぷっと代表
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