まにまにころころ[98]ざっくり日本の歴史(後編その16)
── 川合和史@コロ。 Kawai Kazuhito ──

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コロこと川合です。動画配信サービスで『八重の桜』見つつテレビで『真田丸』見つつと、頭の中で時代が行ったり来たりしていますが、まにころは幕末の話。『八重の桜』や『花燃ゆ』の時代です。

今回は、だーっと主な出来事をご紹介。それぞれ詳しくは次回以降に。

◎──黒船がくるあたりまで

1792年に根室へ来たラクスマンを皮切りに、この頃からなんだかんだで外国が日本にアプローチを繰り返しては袖にされるということが続きます。

そんな中、今後は諸外国とどう付き合っていくのかという話が自然とでてくるのですが、1840年に起こったアヘン戦争が日本を決定的に揺さぶります。

清に対して麻薬であるアヘンを売りまくるイギリス。国民が端から麻薬中毒でラリっていくのを見かねて、厳しく取り締まりを行なう清。

そのごたごたが結局、戦争にまで発展して、結果はイギリスの完勝。すごい不平等条約を押しつけ、香港まで奪い取ったという事件です。

平成生まれにはピンと来ないかもしれませんが、1997年(平成9年)まで香港はイギリスだったんですよ。




とまあ、そんな話はさておき清は当時、眠れる獅子と呼ばれた大国で、アジアナンバーワンの実力を持っているとされてたんです。その獅子が永眠させられたわけですよ、欧米列強であるイギリスに。そりゃあ、明日は我が身と大騒ぎになりますよね。

まあ自然と、打ち払え、ぶち倒せ、という強硬派が出てきますが、そんな中で、強いものは強いんだから国交結んで、技術力を盗んで対抗しようぜ派も登場し、意見が分かれます。元々前者だった人が、あれこれ調べるうちに無理と悟って、後者に転向するということもしばしば。吉田松陰もそんな感じです。

なおこの時期に即位した孝明天皇は、思いっきり前者だったと言われています。

そんなこんなの混乱の中、1853年、黒船に乗ってペリーがやってきます。来ることは幕府もオランダから聞いて知ってました。でも何も準備はできないまま。

ペリー:開国シテクダサイヨー
幕府:いやー、それはちょっと……
ペリー:開国シテクダサイヨー
幕府:とりあえず長崎に回ってもらえます?
ペリー:シバクゾ
幕府:え?
ペリー:来年マタ来ルカラ、ヨーカンガエトケヤー

心労がたたったのか、同月、十二代将軍の家慶は亡くなります。そして年明け早々に、ペリーは再来航。最初に来たのが7月、次が2月なので、半年後です。

将軍は替わって十三代家定。幕府は強硬なペリーをどうすることもできずに、日米和親条約を結びます。1854年のことです。その後、各国と続々、和親条約を締結。開国の第一歩を踏み出しました。

◎──井伊直弼豪腕を振るい、目を付けられ、暗殺される

ここからは駆け足で時代を追っていきます。年月日は基本的に西暦で。

1855年11月11日、安政の大地震。水戸藩主の徳川斉昭の腹心で、水戸の両田と言われた戸田忠太夫、藤田東湖らが亡くなり、水戸藩も大いに揺れます。

1858年1月、アメリカの総領事ハリスと日米修好通商条約交渉開始。 老中堀田正睦が勅許を得るため京都へ伺うも、岩倉具視ら公家は猛反発、孝明天皇は勅許を拒否。

1858年6月、井伊直弼が大老に就任。将軍並みの強い権限で豪腕を振るい始める。将軍継嗣は徳川慶福(家茂)と宣言。

将軍継嗣問題についてですが、十三代将軍の家定は、病弱だし頭悪いしと酷い評価で、しかも幸いと言うべきかどうやら跡取りができることもなさそうだということで、この時、次の将軍に一橋家の慶喜を推す一橋派と、紀州徳川家の慶福を推す南紀派とが対立していました。井伊直弼は南紀派でした。

1858年7月、日米修好通商条約を、勅許を得ることなく調印。

ちょっと待てよ、朝廷があれだけ反対してるのに無視するのかよと、江戸城に詰めかけた徳川斉昭(水戸前藩主)、徳川慶篤(水戸藩主)、徳川慶勝(尾張藩主)、松平春嶽(越前藩主)でしたが、逆に、隠居謹慎などの処分に。

1858年11月、徳川家茂、十四代将軍に就任。

この時期、井伊直弼最強です。大政治家だと思います。まあ嫌われ者ですが。

1860年3月24日、桜田門外の変。

ということで井伊直弼、水戸藩の脱藩浪士たちに殺されました。

◎──各地で攘夷派が大暴れ

1862年8月、一橋慶喜が将軍後見職に、松平春嶽が政事総裁職に任命される。

1862年9月、松平容保(会津藩主)、京都守護職に任命される。

この頃、日本各地で外国人が襲撃されたりする事件が多発します。政治の舞台である京都も治安がやばいということで、会津藩主の松平容保に京都に行って治安を守れとの依頼が。

会津初代藩主である保科正之の教えで、会津は幕府に尽くすべしと代々たたき込まれているため、断れずに受諾。会津にとってはこれが悲劇の始まりでした。

1863年3月、徳川家茂、上洛のため江戸出立。4月到着。家光以来の将軍上洛に。

この上洛警護のために結成されたのが浪士組。二転三転の後に新撰組になる隊です。到着後は会津藩が預かることになります。

1863年6月25日、長州藩、下関で外国商船を砲撃するも、当然その後ぼっこぼこに報復されて、列強の強さを思い知る。(下関戦争)

1863年8月15日、前年に起こった薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件(生麦事件)の解決を巡っての交渉が、薩英戦争に発展。

この薩英戦争、殴り合った結果お互いの力を認め合い、友情が芽生えるという少年漫画のような展開になります。薩摩は最新式の軍備を整えていきます。

◎──主導権の奪い合いから、まさかの薩長同盟へ

1863年9月30日、攘夷の急進派である三条実美らと長州勢を、中川宮朝彦親王を擁する薩摩・会津の公武合体派が京都から一掃します。(八月十八日の政変)

1864年8月20日、禁門の変(蛤御門の変)。八月十八日の政変を受けて、長州が軍を率いて上京したところ、薩摩・会津藩に駆逐されることに。御所に向けての発砲で、長州藩は朝敵とされ、12月、第一次長州征伐が開始されます。

ここで薩摩の西郷隆盛は長州を諭し、長州は戦わずして恭順を示します。長州は今後の方針で揺れ動きますが、翌年1月、高杉晋作が下関で挙兵して長州藩の藩論を倒幕にまとめます。藩内クーデターですね。

1866年3月7日、京都で西郷隆盛と桂小五郎会談。薩長同盟成立。間に坂本龍馬が入って活躍したとかそうでもないとか諸説ありますが、雄藩同士でライバル関係にあり、禁門の変もあって対立していた薩長がタッグ結成です。

1866年7月、第二次長州征伐開始。薩摩藩は出兵を拒否。そうこうしてるうちに、将軍家茂がなくなり、なんとなく解散。講和成立。

辿り辿れば関ヶ原の戦い、敗戦で煮え湯を飲まされた外様雄藩が手を結んだのですから、倒幕するぞーって勢いはもう止められません。

◎──徳川幕府の最期

1867年1月、もったいぶって就任を渋っていた徳川慶喜が十五代将軍に。

1867年1月30日、孝明天皇崩御。翌月、明治天皇即位。

1867年11月9日、討幕の密勅が薩摩藩と長州藩に下るも、同日、徳川慶喜は政権返上を明治天皇に上奏(大政奉還)。なお討幕の密勅は天皇によるものでなく偽造であったとの説があり、その「偽勅説」が有力とされています。

もっと言えば、孝明天皇の崩御にも暗殺説があり、ことを一気に推し進めたい討幕派のなりふり構わずっぷりが目に付きます。大政奉還なんかでまるく収めてなるものかと、なんとかして幕府を倒したい薩摩藩は、尊攘派浪士を用いて、江戸で放火・掠奪といった暴挙を繰り返させます。かかってこいよと挑発です。

1868年1月3日、王政復古の大号令。江戸幕府はここで正式に廃止となります。

1868年1月、薩摩の差し金で江戸で暴れる輩にキレて、庄内藩が薩摩藩江戸藩邸を攻撃してしまいます。待ってましたとばかりに、京都で倒幕軍が行動を開始、鳥羽・伏見の戦いが勃発。戊辰戦争の開始です。鳥羽は京都の鳥羽です。伊勢志摩サミットの開催地あたりではありません。

会津藩が勇戦するも、慶喜が松平容保を連れて江戸に逃走。主導者を失って、旧幕府軍は潰走。倒幕軍は江戸へと攻め上ります。

さあいよいよ江戸が火の海にというところで、旧幕臣の勝海舟が西郷隆盛を説得。ギリギリのタイミングで江戸攻撃中止が決定、江戸城無血開城です。

無血開城と呼ばれてなんだか賞賛されますが、その前後にどれだけ血が流れたことか。江戸の町が戦火に焼けなかっただけです。

旧幕府を叩き潰したい。なのに将軍は白旗を揚げた。倒幕軍は次なる旧幕府の象徴として、北上し、会津を叩き潰すことにします。会津戦争の開始です。

官軍である倒幕軍は、会津を逆賊呼ばわりして徹底的に攻撃しました。会津は天皇への忠義も篤く、京都守護職として孝明天皇からも信任されていたのに。

1868年11月、会津藩、庄内藩の降伏が受け入れられ本州での戦いは終了します。

1868年12月、榎本武揚は箱館府軍と戦闘、翌月に蝦夷共和国の樹立を唱えます。しかし、翌年6月には鎮圧されて降伏。戊辰戦争は終結します。

戊辰戦争、学校の授業ではかなり簡単に習った気がします。鳥羽伏見で戦端が開かれるも、幕府軍は江戸に敗走、江戸城無血開城を経て、北へ逃れた旧幕府軍の残党を新政府軍が掃討、函館にて終結、くらいに。中立に見えて官軍寄りの説明で。

勝てば官軍。結果が違っていれば、この時の官軍は偽官軍として書きたてられていたと思います。怖い怖い。

◎──新しい日本

日本は旧薩長士族を中心に、西洋の知識を取り入れつつ、新たな国のかたちを作り上げて行きます。その過程で不平士族の反乱も起こりますが、西郷隆盛による西南戦争を最後にそれも終結。憲法発布、国会成立など、近代国家らしく整備されていきました。

◎──まとめ

ペリー:開国シテクダサイヨー!
幕府:ぐぬぬ! し、しかたない!
ハリス:修好通商条約ムスビマショウヨー!
幕府:帝、いいですか!
帝 :ダメ!
幕府:ダメって言われても、無理! 結ぶ!
志士:幕府許さねえ!
井伊:許さねえって言った奴ら許さねえ!
志士:そんなお前を許さねえ!
長州:攘夷じゃ!
薩摩:危ない奴らめ、京都から去るがよか!
長州:ギャフン!
龍馬:仲良うせんといかんぜよ!
薩長:手を組んで幕府倒すか!
幕府:つ、強い……倒される前に白旗! 幕府解散!
薩長:ちっ、しゃーない、代わりに会津をやるか!
会津:なじょして……
榎本:旧幕府チーム函館に新政府を作って対抗する!
薩長:させるかよ!
榎本:ギャフン!
薩長:よーし、新しい日本の始まりだ!

◎──次回は

今回、超駆け足で幕末を一覧してみました。有名な事件もだいぶすっとばして、全体をざっくり眺めるだけでしたので、次回以降しばらくは毎回、個々の人物や団体を取り上げ、それぞれの立場からもう少し幕末を見てみたいと思います。


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