まにまにころころ[111]ざっくり日本の歴史(後編その28)
── 川合和史@コロ。 Kawai Kazuhito ──

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コロこと川合です。前回、結石の話を書いてからずいぶんと心配のコメントをいただいたのですが、ほんと痛いだけのものでして、痛み以外はいたって正常。それに、もうすっかり痛みも引きました。みなさん、お騒がせしました……

さて、幕末話に戻りまして、今回は西郷さんの人生をざっくり紹介。あれこれ細かい話は出来るだけ避けて大きな出来事を追ってみます。






◎──西郷隆盛(さいごう・たかもり 1828年1月23日-1877年9月24日)

西郷さんも例にもれずというか、名前がコロコロ変わるので、もう西郷隆盛で基本的には通しますね。号は南洲(なんしゅう)です。なにかと出てくるので、号は心の片隅にでも留め置いてください。

薩摩の下級藩士のおうちに生まれた西郷さん。11歳くらいの時、けんかを仲裁した際に巻き込まれて右腕の神経を切ってしまい、剣の道はあきらめて学問で身を立てることにしました。

13歳で元服して以来、役人生活を送る西郷さん。22歳くらいの時、最初の転機が訪れます。ちょうどこの頃、島津斉興の後継者を誰にするかで藩を二分する騒動が起こっていました。前々回の話を思い出して欲しいのですが、島津斉興の嫡子・島津斉彬にするか、側室の子・島津久光にするかという話です。

前も書きましたが、どう考えても嫡男だろうという話ですが、久光派が強い。なんせ父親の斉興自体が久光派、というか、斉彬を嫌ってた感がありまして。そうでなければ、とっくに斉彬が家督を継いでいたはずで。

久光のお母さん、側室・お由羅の方の名前をとってお由羅騒動と言いますが、お父さんの斉興からして、七男の久光プッシュ。

斉興は父親の重豪が破たんさせた薩摩藩の財政を、調所広郷と一緒に頑張って再建したのに、息子の斉彬は重豪路線で。斉彬派は斉興と調所を退けようと、密貿易を幕府にチクって、結果、調所は罪をかぶって切腹。そりゃあ親子仲もこじれますよね。

で、「お由羅騒動」です。斉彬派が久光派の暗殺を計画したことがばれて粛清。この時に切腹させられた斉彬派の一人に赤山靭負(あかやま・ゆきえ)という薩摩藩の重臣がいまして。西郷さんのお父さんはこの赤山に仕えていたんです。そして切腹の介錯を頼まれます。1850年のことです。

世話になっていた人が切腹させられ、しかも、その最期を見届けたのは介錯を務めた自分。西郷さんのお父さんは相当なショックを受けるとともに、赤山の遺志を果たしたいと願いました。赤山の形見として血染めの肌着をもらい受け、それを西郷さんに見せながら、赤山靭負の志とその最期を語りました。

当然、西郷さんもどっぷり斉彬派になります。

なお、お由羅騒動では、大久保利通のお父さんが遠島となり、利通自身も失職。大久保利通のほうが直接的に大打撃を被っています。

ほどなく幕府が間に入って斉彬が家督を継ぐわけですが、それまで大久保家は困窮し、それを西郷さんが援助したという話も。

援助したかどうかはさておき、西郷さん、大久保ほか、「次世代の斉彬派」といえる西郷世代が、この騒動の流れで結束を強めます。


◎──斉彬にかわいがられる西郷さん

1851年、斉彬が薩摩藩主になります。

翌1852年、西郷さんは結婚しますが、その年に祖母、父、母が、相次いで亡くなってしまいます。いきなり一家の大黒柱となるわけですが、下級役人なので家計は苦しいもので。

そんなバタバタしている時に、1853年、遠く浦賀ではペリーが来航。

人材登用に熱心な斉彬は、広く藩政への意見を募っていました。西郷さんは、ばんばん意見を上申していました。それが目に留まり、斉彬の江戸参勤に同行させてもらえることになります。

西郷さんは大喜びで江戸へ。家は弟に押し付けて。(笑)

斉彬の側に仕えられるようになった西郷さんは、あれこれ指導を受けたようで。また水戸を支える碩学として名が轟いていた藤田東湖にも引き合わせてもらい、ここでも多くのことを教わります。西郷さん、大喜び。

その頃、薩摩では嫁が実家に引き上げられてしまいました。(笑)

西郷さんが何を教わったかと言えば、「この国、やっべーよ!」って話です。「どげんかせんといかん!」と。どげんするかというと、尊王ですよ。

尊皇思想については、ここで刷り込まれたわけでなく、元からの考えを、より深めたって感じです。西郷さんは斉彬の導きもあっていわゆる尊王の志士との関わりをどんどん深めていき、各地に尊王ネットワークを広げていきました。1854年〜1858年のことです。青年西郷さんがキラキラ輝いていた時代。

1858年と言えば、井伊直弼が大老の座に就き、日米修好通商条約を結んだ年。将軍継嗣問題も井伊直弼ら南紀派が一橋派を抑え、徳川慶福(家茂)で決着。「安政の大獄」もじわじわと始まります。

そして、西郷さんに悲劇が。

西郷さん:井伊が強権を振るってやりたい放題しちょりもす!

島津斉彬:薩摩軍を鍛えて、帝の警護にあたらせっぞ!

西郷さん:さすが斉彬様! よし、おいも頑張りもうす!

急死の急使:西郷さん! 西郷さん! 斉彬様が! 軍事教練中に倒れ、急死!!!

西郷さん:……え?

いい加減な方言はさておいて、そう、ここで斉彬がなんと急逝してしまいます。コレラによるものとも毒殺されたとも言われています。タイミングがあまりに良すぎるので、暗殺説、根強いです。

暗殺説で黒幕とされているのは、斉彬の父・斉興。金遣いだけでも許しがたいのに、大規模な軍事教練の挙句に京に出兵を考えてるとか、下手すれば改易されても文句言えないじゃないかこの馬鹿息子め、と。

なんにせよ、斉彬は亡くなり、斉彬の弟・島津久光の子・忠義が家督を相続。実権は、斉興が握りつつ。忠義の家督相続は、斉彬の遺言によるものですが、斉彬の子は男子はことごとく夭逝していて、亡くなった時に残っていた六男も、ほどなく世を去っています。陰謀のにおいがすごいですよね。

西郷さんの人生は一転します。

殉死を考えますが、志士仲間の僧・月照の説得でとりあえず思いとどまります。ただ殉死は思いとどまったものの、後ろ盾を失った西郷さんは今度は幕府から命を狙われます。

なんとか逃れ逃れて月照と共に薩摩に辿り着きますが、藩は幕府を恐れ月照を始末しようとします。西郷さんは心折れ、月照と共に入水自殺を図りました。しかし、亡くなったのは月照のみ、西郷さんは救助され蘇生。

藩は二人とも亡くなったことにして、墓を建てて幕府の追っ手に見せることで幕府の追及をなんとかごまかします。ただ、西郷さんは懲戒免職とされたうえ、ほとぼりが冷めるまで大人しくしてろと奄美大島に流されました。

罪人同然の扱いですが、仲間の援助もあり、また藩も西郷さんの能力は買っていたので、それなりの手当をし、西郷さんは島暮らしにも馴染んでいきます。島の女性と家庭を築くほどに。1859年〜1861年の頃です。

1861年、京都界隈でのネットワークを必要とした島津久光が、嫌々ながらも、西郷さんを呼び戻します。

久光:西郷、私と京都との繋ぎ役になれ。

西郷:斉彬様と違って人望のない薩摩の田舎者には無理でごわす。

久光:そ、そういわずに、なんとか繋げ(こ、こいつ殺す……)

西郷:まあ、仲間が行ってやれっていうから、しゃーなしで行くでごわす。

久光:……ひとまず下関まで行って待機してろ、追いかけるから。

で、下関に行った西郷さんですが、なにやら京で志士たちが挙兵だ焼き討ちだと騒いでいると聞いて、待機命令を無視して京都に駆けつけます。

それを聞いた久光は、当然激怒します。西郷一派を捕縛させると共に、説得に応じない尊王志士らを粛正します。寺田屋騒動と呼ばれる事件です。しばらく後に、坂本龍馬が襲われ、拳銃で応戦しながらも重傷を負ったあの寺田屋です。志士のたまり場だったんですね。

さて、過激派を押さえ込んだことで、結果的に久光は朝廷の信任を得ました。

西郷さんは、今度は本格的に罪人扱いで徳之島、さらに沖永良部島へ島流し。でも2年後の1864年に、やっぱりまた西郷さんのネットワークを求めて、久光は西郷さんをしぶしぶ呼び戻します。遠島生活でボロボロになっていた西郷さんですが、嫌々でもその西郷さんを呼び戻さざるを得ないほどに、苦しい立場になっていた薩摩藩のためにまた頑張ります。

幕府からは相変わらず睨まれていた薩摩藩ですが、さらに攘夷派からも睨まれて苦境に陥っていました。薩摩藩が昔から密貿易を行っていることは周知で、それが攘夷派には許せなかったんです。幕府正規の貿易による物価の高騰も、薩摩藩の密貿易せいだと噂される始末で。

西郷さんは、悪評の払拭に苦心しつつ、朝廷とのパイプも強化しつつ、京都であれこれ奔走します。そんな中で、前年に、八月十八日の政変で京都から追放されていた長州勢が挙兵し、西郷さんたち薩摩藩は会津藩と共にそれを撃退。禁門の変です。

八月十八日の政変と禁門の変で、薩摩と長州の間にはもう払拭できないほどの溝ができました。溝なんてものじゃないですね。長州では草履の裏に薩奸会賊と書いて踏んで歩くことで、その憎しみを刻み込んでいったと言われるほど。薩奸会賊とは、「卑劣な薩摩め! 卑劣な会津め!」といった感じです。

でも、西郷さんは長州を憎んでいたわけではありません。あくまでも、朝廷を守るために動いただけです。長州の一方的な逆恨みですよね。

同1864年、第一次長州征伐が決まり、薩摩藩は立場を強めるため、いの一番に名乗りを上げますが、西郷さんはじっくりと色んな人の意見を聞いて、長州を攻め滅ぼすのではなく、説得し融和を図る方針で臨みます。長州は西郷さんの提案を呑み、重役の処分や藩主の謹慎などと引き替えにひとまず許されました。

その翌1865年、幕府は長州再征伐の準備にかかりますが、その裏で西郷さんは坂本龍馬らの仲介もあって、長州藩との距離を縮めていきます。そして1866年、薩長は手を組む密約を交わします。薩長同盟の成立です。

なお第二次長州征伐は、陰で薩摩が支援する長州が奮戦しているうちに、将軍である徳川家茂が急逝し、うやむやのままに終わりました。

この頃には西郷さん、家老に次ぐくらいの重役まで出世しています。38歳です。


◎──今回はここまで

一回で終わらせるつもりが、終わりませんでした。まあ波瀾万丈の大半は済み、後は大政奉還、王政復古、戊辰戦争、明治維新、そして最後に、西南戦争です。次回、西南戦争の終わりまでいけるか、西南戦争を持ち越すか……未定ですっ。

【川合和史@コロ。】koro@cap-ut.co.jp
合同会社かぷっと代表

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【イベントのお知らせ(2/21(火)・大阪)】

「グローバルトレンドをキャッチアップ! CES2017レポート」
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コンシューマ・エレクトロニクス分野において、世界最大の見本市「CES」が、今年も1月にラスベガスで開催されました。

IoTは? 次世代スマートデバイスは? ホンダが発表した自立するバイクって何? ラスベガスでは勝てた? などなど、今年も多くの話題が飛び交ったCES2017。

CES2017にPRESSの立場で参加されたお二人に注目ポイントを語っていただき、第2部ではさらにゲストを加え、トークセッションという形で、ざっくばらんに話していただきます。

・日時:平成29年2月21日(火)19:00〜21:00
・会場:ソフト産業プラザ イメディオ講義室
(大阪市住之江区南港北2-1-10 ATCビルITM棟 6階)
・参加費:一般/2,000円、ODCC会員/1,000円 ※領収書発行
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・主催:ODCC(大阪デジタルコンテンツビジネス創出協議会)
    特定非営利法人日本ウェアラブルデバイスユーザー会
・共催:ソフト産業プラザ イメディオ