まにまにころころ[112]ざっくり日本の歴史(後編その29)
── 川合和史@コロ。 Kawai Kazuhito ──

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コロこと川合です。結石に続いて、今度は肋骨にヒビが入った模様です。厄年、恐るべし。何をしたかというと、大急ぎで家を出ようとした時に足を滑らせ、転倒を避けるために踏み出した自分の右脚で自分の左胸に膝蹴りをきめまして。なんでそんなことができたのか、再現不能な曲芸。わーい! すごーい!

さて気を取り直して、今回も引き続き、西郷さんの話。前回、薩長同盟あたりまで行きましたので、いよいよ幕末も大詰めです。

第二次長州征伐は、陰で薩摩が支援する長州が奮戦しているうちに、将軍である徳川家茂が急逝して、うやむやのままに終わりましたと前回書きましたが、家茂急逝から半年ほどで、孝明天皇も亡くなっています。

幕末の混乱の渦中、ど真ん中にいた二人が相次いで亡くなったわけです。将軍は第十五代・慶喜に、天皇は明治天皇に。いよいよ本当に幕末ですね。

なお、家茂の病の要因は極度の虫歯にあったという説があります。虫歯怖い。





◎──倒幕へ

西郷隆盛と大久保利通を擁する薩摩藩は、薩長同盟を経て、長州の名誉回復に動くと共に、他の雄藩とも結んで幕府を牽制します。

幕府が進めていた開港の問題を皆で話し合おうという体で、松平慶永(松平春嶽・前越前藩主)、山内豊信(山内容堂・前土佐藩主)、伊達宗城(前宇和島藩主)、そして島津久光(薩摩藩主の父)が揃って京都で会談します。四侯会議と呼ばれるものです。朝廷も慶喜も加わっての、一大ミーティングです。

西郷さんたちには、こういった動きを契機に幕政を雄藩連合の合議制へと移行させていく狙いがありました。しかし、ここで慶喜が見事な立ち回りをみせて、西郷さんたちの目論見は失敗します。慶喜はやり手です。

西郷さんは決意しました。もう、幕府は力ずくで潰してしまおう、と。

一方で土佐藩は、将軍に大政奉還させて平和裏に新政府を興そうと考えました。

その後、様々な綱引きの結果、複雑な話になっていきます。


◎──大政奉還・王政復古・戊辰戦争

土佐藩からの建白を受け、慶喜は1867年11月9日「大政奉還上表」を朝廷に提出しました。政治を朝廷にお返ししますと。急に返されたところで、どうせ朝廷に政治なんてできるわけもないし、実質はそのまま引き続き、徳川が政治を握ることになるだろうという思惑込みで。

その裏で、西郷さんたちは朝廷の岩倉具視に働きかけて、倒幕の勅を得るべく画策していました。そして、偽勅との説も濃厚ですが、倒幕の密勅を得ます。大政奉還の上奏と同日のことです。慶喜の大政奉還によって、密勅は無駄に。

このあたりはもう、狐と狸の化かし合いというかなんというか、色んな人間の思惑が錯綜していて、ぐちゃぐちゃです。

岩倉具視と薩摩・土佐・安芸・尾張・越前ら雄藩の主導で、1868年1月3日に、王政復古の大号令として新政府の要綱が発表されますが、その数日後に慶喜はトップとして外交にあたっていますし、朝廷も慶喜ら旧幕府の力がないと何もできないために容認するしかないですし。

慶喜はそのままの勢いで元の体制に戻させようと目論見ますし、土佐藩の山内容堂は徳川を立てる形での新政府を望んでいましたし、西郷さんら薩長は当然、旧幕府勢なんてぶっ潰す気まんまんでいましたし。

紆余曲折を経て、結局は、薩長が駆け引きで上回ることになります。江戸で、1868年1月19日、薩摩藩の挑発に耐えかねた庄内藩(徳川方)が江戸薩摩藩邸を焼討ちしてしまいました。

これを機に、慶喜も周囲の薩摩への怒りを抑えきれなくなり、討薩へ動かざるを得なくなります。薩長の思惑通りです。

1868年1月27日、事態は戊辰戦争へと進みます。戊辰戦争の戦局は割愛。

西郷さんは司令官として新政府軍を率い江戸へ向かい、勝海舟との会談を経て、江戸城を無血開城させます。それまでに、めっちゃ血は流れてるんですけどね。江戸城下を戦火で焼き尽くさなかったってだけで。

その後はほどほどに立ち回り、西郷さんは薩摩へ帰ります。温泉地でのんびり過ごしていたら、「帰ってきたんなら藩政手伝って」と藩主に言われて藩政改革を行ったり。

そうこうしているうちに戊辰戦争も最終局面へ。箱館戦争の応援に向かった西郷さんでしたが、着いたら終わってました。薩摩から箱館ですし。

帰りに東京に寄った西郷さんは、そのまま東京に残るよう言われますが、断り薩摩に帰ります。もうやりきった感があったんでしょうね。新政府での地位や名誉にも無頓着ですし、連れている兵は薩摩藩の兵ですから、そのまま一緒に帰って行きました。

その後、何度となく打診されるも東京に出てこなかった西郷さんですが、欧州視察に行ってきた弟の西郷従道に説得されて、ようやく重い腰を上げることに。「にーちゃん、この国のためにもうひと頑張りせな、世界はヤバイで」とでも言われたんですかね。

西郷さんは大久保利通らと新政府の形作りにいそしみます。その中でも大きいものが、廃藩置県の断行です。島津久光がブチ切れて夜通し花火をあげたやつ。


◎──明治六年の政変

開国のバタバタの中で日本が諸外国と結んだ条約は、日本にとって不利な条件のものがいくつもありました。

国際社会の中では後進国だったので仕方のない面も多分にあったからですが、1871年(明治4年)、岩倉具視は、木戸孝允や、大久保利通、伊藤博文らを連れて、条約改正に向けて欧米に出発します。西郷さんはお留守番。この「お留守番」が西郷さんの運命を変えてしまいます。

お留守番の間、西郷さんは国内のトップとして手腕を発揮する日々でしたが、その中で、李氏朝鮮との外交だけが頓挫していました。

向こうに送った外交員の話では、何やらあっちは喧嘩腰だし、もう関わらないようにするか、力ずくで条約を結ばせるか、どちらかしかないでしょうとのこと。この力ずくで条約を結ばせてしまおうというのが、征韓論と呼ばれるものです。明治6年のこと。

板垣退助は、やっちまえ、との路線。西郷さんは、いやいや武力行使はあかん、自分が行ってちょっと話し合ってくる、と。

西郷さんの説得で、じゃあまあその方向で、とりあえず岩倉さんたちの帰国を待ちましょうかと落ち着きました。

大久保:ただいまー。

西郷:おかえり。ちょっと朝鮮行ってくるわ。

大久保:なにゆーてるねん、あかんて。外のことは置いとこ、今は内政やで。

西郷:いや、ちょっと行って話つけてくるだけや。

大久保:あかんて、今は内政やて。世界見てきてんて。ヤバイって。

議会:西郷さんが行くってゆーてるし、しゃーないんちゃうかな。

大久保:なにゆーてるねん、そんなん言うんやったら、もう政府辞めるわ。

岩倉:自分も辞めるわ。

西郷:あー、それやったら自分が辞める。

岩倉:どうぞどうぞ。

板垣・副島種臣・後藤象二郎・江藤新平:西郷さん辞めるなら、自分も辞める。

多くの人:自分らも辞める。

……なんだかんだで600人以上が辞めていきました。

政府に不満を持った人間が大量に、野に放たれたわけです。結果、不平士族の反乱という形になっていきました。

◎──西南戦争

鹿児島では、政府に不満を持って帰ってきた連中や、その影響を受けた若者が暴発するのを避けるために、西郷さんに相談して、私学校というものを設立。西郷さんの人徳で血の気の多い連中をコントロールしようとしたんです。

ところが、西郷さんの人徳が裏目に出て、私学校は一大勢力となるほどに膨れ、むしろ県政が私学校党と呼ばれる勢力に染め上げられていきました。

西郷さんはのんびりしたもので、狩猟と温泉を楽しむ日々を送っていましたが、政府はそんな鹿児島を危険視していました。私学校党は政府の指導など無視し、鹿児島は治外法権状態になっていたから無理もありません。

世間では各地で不平士族の反乱が起きていました。西郷さんは、それらの反乱を半ば楽しみつつ、ただそんな情勢の中で自分が少しでも動いたら私学校党の連中を刺激して暴発させてしまいかねないと考えて、温泉三昧の日々でした。単に温泉好きだっただけかもしれませんけど。

しかし私学校党は軍事調練までしていたり、鹿児島はまるで独立国家の様相。政府高官として残っていた大久保利通は、胃に穴があく思いだったかと……

なぜ鹿児島の状況を放っておくのかと周りにも詰められ、大久保は仕方なく、鹿児島の問題に手をつけようとします。まず武器弾薬を押さえにかかります。

その動きに反応して、私学校党に火が付きました。

西郷さんはあわてて駆けつけましたが、既に事態は収まりそうになく、先頭に立って政府と一戦交える決意を固めました。1877年、西南戦争の始まりです。

兵をまとめた西郷さんは熊本へと兵を進め、宮崎、鹿児島へと転戦しますが、最期は鹿児島の城山で「もう、ここらでよか」と自刃します。

西郷さんの死を聞いた大久保利通は、家の中をグルグルと歩き回りながら号泣していたそうです。

賊軍の将とされた西郷さんですが、西郷さんのことを気に入っていた明治天皇たちの働きかけもあって、1889年2月11日、大日本帝国憲法発布に合わせた大赦で赦され、正三位を追贈されました。

◎──なぜ西郷さんは西南戦争を起こしたのか

本人がこれといって何も言い遺してないので、分からないんですけどね。逆に、だから好き勝手に想像してみたいと思います。

私は、西郷さんの反乱とその最期は、新たな日本に捧げる政策の一環のようなものだったんじゃないかと。なんなら大久保とも話ついてたんじゃないかと。大久保は最後まで西郷さんと話をしたがって、止めようとしていたし、納得はしていなかったと思いますけども。

戊辰戦争という形で、武力で一気に政治体制を作り替えた西郷さんたちですが、それが成功すると今度は、その武力が行き場を失うんですよね。事が成った後、差し当たって必要なのは政治で、武力はお払い箱になるので。

もちろん、新政府にも軍の力は必要ですが、戊辰戦争で戦っていたのは、官軍を名乗ってはいたものの、薩摩や長州の藩兵であって、本当の意味での官軍ではなかったわけです。そのそれぞれの藩兵、つまり武士のうち、新しい世の中にいつまでも馴染めない人たちをどうするか。

明治6年の政変の前後、ああこれはなんとかケリをつけないといけないなと考えた西郷さんは、大久保に新政府を託して、自分が引き連れて出ていく形で血の気の多い連中を政府から一掃したのではないかと。その総仕上げが、西南戦争だったんじゃないかと。

そのせいで何人死んだと思ってるんだって話ですが、西郷さんはもし勝ったら、それはそれで責任とって、また新政府を一から作り直すぞってくらいの本気で戦ったと思います。結果は負けでしたけども。

勝った方の「官軍」も、西南戦争を機に露呈した脆さを引き締めることになったようですし、西郷さんの行動は、結果的に官軍を強化することにも繋がりました。

どっちに転んでも日本のため、そう思って命を尽くしたのではないかと。そう思えばちょっとカッコいい。

西郷びいき過ぎる話ですかね。(笑)

まあ、なんにせよ、西郷さんには西郷さんの正義があったんでしょう。それは、この時代の多くの人に言えることで、それぞれにそれぞれの正義が、あった。

ちょっとそれは酷いなーってなズルい手が使われることも、後から見ればバカなことをしたもんだなと思われる行動をとった人も、とんでもないことするなと思われる人も、この時代の有名人はたいてい、根っこには「この国のため」という動機が感じられます。

私欲で国を売るような輩が出てこなかったのは、なかなかにすごいことなんじゃないかなって思います。いたのかな。龍馬とか、武器商人とつるんで一儲けした感も無きにしもあらずですけど。(笑)

そう言えば坂本龍馬、まだ個別には取り上げてなかったですね。またそのうち。

◎──次回は

次回はどうしようか悩ましいところで。西郷さんの話、もう少し続けたい気もしますし、もう「ざっくり」は済んだ気もしますし。

ま、次回のことは、次回までに考えることにします。


【川合和史@コロ。】koro@cap-ut.co.jp
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