まにまにころころ[118]ざっくり日本の歴史(後編その33)高知城と高知城歴史博物館を見てきました
── 川合和史@コロ。 Kawai Kazuhito ──

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コロこと川合です。行ってきました、土佐の国。桂浜の龍馬像を見て、室戸の中岡慎太郎像を見て、駆け足ながら高知城と高知城歴史博物館を見てきました。

坂本龍馬記念館はちょうど来春までリニューアル工事中で行けませんでしたが、できたてほやほやの高知城歴史博物館に行けたラッキーとで相殺ってことで。

土佐、幕末・維新好きにはたまらない土地だと思います。龍馬たち維新志士に関わるあれこれがあって、四賢候・山内容堂に関わるあれこれがあって、維新を経ての自由民権運動に関わるあれこれがあってと盛りだくさん。偉人だらけ。

今回は仕事のついでだったのであまり回れませんでしたが、できればもう三日はかけてあちこち回ってみたいところでした。私は幕末・維新好きってわけではないんですけど、それでも。

ちょうど今、大政奉還150年を記念して「志国高知」の「幕末維新博」と題したイベントを高知県内各地で開催中。年内にまた行きたいなあ……。

幕末・維新だけでなく、土佐には戦国の風雲児・長宗我部元親ゆかりのものもありますしね。文学好きには紀貫之『土佐日記』の舞台でもありますし。

盛りだくさん過ぎて、時間も体力もお金もいくらあっても足りない。(笑)

まあ今回はとりあえず、高知城と高知城歴史博物館を見られたので、山内容堂のお話でも書くことにします。





◎──山内容堂(やまうちようどう・1827年11月27日-1872年7月26日)

山内容堂、四賢候のひとりでこれまでにも何度か名前は出てきましたが、正直、たいして興味ありませんでした。よく知らなかったので。それが、少し知れば、なんとも面白い人で。

酒と女と詩が大好きで、自ら「鯨海酔侯」と称したり。鯨・海・酔うなんて、土佐そのもの。特に酒。常に飲んで酔ってたらしいです。ここでの鯨は、土佐名物の鯨ではなくて、「鯨飲」のほうですね、たぶん。

大事な会議に酒気帯び参加(参預会議・1863年、小御所会議・1868年)したり。もっともそれは、プレッシャーによるところもあったようですけど、酒好きは間違いない。酒好きを通り越して、アル中の域です。

「酔擁美人楼」という扁額も飾っていたそうで、長州の毛利敬親はそれに対し、「大名なんだから酒も女も思いのままで当たり前じゃん。それをわざわざ額にして飾るなんて、悪ぶって、やんちゃな俺かっけー、って言いたいのかな?」

というようなことを、自分の部下に言って笑ったそうです。まあたぶん、書いて飾るほどに酒と女が好きだっただけだと思いますけど。特に酒。まずは酒。

勤王と佐幕の板挟みで大変だったようで「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」なんて揶揄されることもあったみたいですが、その辺は複雑なお家事情によるもので。

元々は分家の生まれでしたが、藩主の相次ぐ急逝によってお鉢が回ってきて、藩主の座に着いたのが21歳。藩主になるにあたって、山内家と縁戚関係だった島津家などが幕府に働きかけてくれてのことでした。

藩主になった容堂(容堂は隠居後の号で、当時は豊信・とよしげ)は、革新派の吉田東洋を抜擢して重用、藩政改革を推し進めました。改革の内容は、島津などの雄藩同様、軍備の西洋化や財政改革、人材育成・登用など。

幕末の四賢侯と呼ばれるのは、藩政改革を推し進め、幕政にも影響力を持ったところによります。

「四賢侯」の残り三人との付き合いも面白く、書状で相手の宛名を好き放題過ぎる呼び方で書いていて、酒を飲まない松平春嶽のことは「下戸先生」「飲水先生」「茶先生」「喫煙先生」とか、面長の伊達宗城には「長面先生」「開国長面公」とか、面長の似顔絵に「公」をつけたものまで。

四賢候・島津斉彬の後に藩政を握った島津久光への書状の宛名は「芋公」と。書状中にイラストが出てくるものなんて、初めて見ました。

酒の話ではグラスの絵を描いて、グラス十杯は飲まないと足りない、と書いていたり。それだけ仲が良かったのか、一方的に言い放題だっただけなのかは分かりませんけど、書状も気持ちよく酔って書いていたんでしょう。(笑)

四賢候は老中・阿部正弘を通じて幕政に意見を出していましたが、阿部が死去して井伊直弼が大老となって対立。四賢候と水戸の斉昭は一橋慶喜派、井伊は紀伊の慶福派で、結果はご存じの通り井伊直弼の勝利。

容堂は隠居を願い出て、また四賢候は揃って謹慎させられ、幕府との間に溝ができます。

溝はできるんですが、容堂は幕府に対して強い恩義を感じていて、最後まで心中は佐幕派。叶いませんでしたが、公武合体をずっと願っていました。

それは、自身が藩主になったのが幕府のおかげであったことと、山内家が土佐藩藩主になったのが、関ヶ原の功で家康から土佐一国を与えられたからという理由で。薩摩など関ヶ原で徳川と対立した根っからの外様とはわけが違うと。

時代の流れが討幕に傾くにつれ、板挟みに苦しんで酒量も増えたようです。

謹慎中に藩内では、武市瑞山(半平太)の土佐勤王党が台頭して、公武合体派の吉田東洋を暗殺。藩政も討幕に傾きます。

薩摩藩が会津藩と組んで長州を追い落とした八月十八日の政変で潮目が変わって、謹慎を解かれた容堂は土佐に帰国、土佐勤王党を粛正にかかり、武市瑞山も投獄・切腹となりますが、時代の流れはもう完全に討幕。

せめて武力討幕ではなく、大政奉還による王政復古を願い、大政奉還は成立しますが、その後の結果はご存じの通りです。

維新後は要職をあれこれ与えられるも辞職、別荘で酒と趣味に生きましたが、長年の酒がたたったのか、1872年、脳溢血に倒れて45歳で亡くなります。

亡くなる前には、武市瑞山を処分に追い込んだことを悔やんでいたそうです。

坂本龍馬に中岡慎太郎にと、土佐の人材は次々にこの世を去っていましたしね。まあその二人は、この世を去る前に藩を去っていますけども。

それでも土佐には、後藤象二郎に板垣退助にと、明治で活躍する人材が残っていましたし、武市瑞山の命で土佐勤王党に暗殺された人材もあったんですから、武市瑞山の処分は、それほど悔やまなくてもいいんじゃないかって気もします。吉田東洋のほか、板垣退助も暗殺されるところだったそうで。

その板垣退助を暗殺しようとした際の刺客は中岡慎太郎で、それがきっかけで板垣と中岡は意気投合して仲良くなったらしいんですけど、一歩間違えれば「板垣死すとも……」に続く言葉は違うものになっていたわけです。名をなす前だから残らないでしょうが。(笑)


◎──今回はここまで

山内容堂の面白さをなかなか上手く伝えられずにもやもやするんですが、もう、この辺で諦めます。高知城歴史博物館に行ってみてください。高知城もぜひ。

で、その後は近くの「ひろめ市場」にもぜひ。70もの店舗が集まった施設で、めっちゃくちゃ混んでいますが、高知の「食」が溢れかえっています。これも言葉では上手く言い表せないんですが……公式サイトをご覧ください。(笑)

・平成浪漫商店街 ひろめ市場
http://hirome.co.jp/


とにかく、土佐はあれもこれも触れるものみな素敵な土地でした。本来の訪問目的である仕事絡みで関わった須崎の方々も、志士も、藩主も、みんな素敵。新婚旅行先で天の逆鉾をふざけて引き抜いた龍馬の蛮行も許そうと思います。

次回も土佐の話を引っ張るかもしれません。全然違う話かもしれません。歴史の話以外を突っ込む可能性もあります。まったく未定ですが、ではまた次回。


【川合和史@コロ。】koro@cap-ut.co.jp
合同会社かぷっと代表
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