コロこと川合です。今回からまた新しい本を何か、と思っていたんですけども、ちょっと今日は別の話を。今回は……明智光秀の話にします!
理由は、そう、再来年のNHK大河ドラマの主役が明智光秀に決まったから。
・長谷川博己さんが明智光秀役! 2020年大河ドラマ「麒麟がくる」
https://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/2000/295435.html
いやー、ビックリしました。本発表の数日前に明智光秀が有力候補と知って、面白そうだけど難しいし、光秀はないんじゃないかなーと思っていました。
決定の報がスマホに届いたのは、なんと仕事で福知山へ行った日の帰路という。光秀ゆかりの地ということで、お客さんと大河の話になって。光秀が有力ってニュース出てましたねー、なんて話をした帰り道での話でした。
京都北部を中心に、ゆかりの地の団体が協力して何年も前から「NHK大河ドラマ誘致推進協議会」を作って活動していたそうです。福知山からの帰りに寄った、「道の駅 丹波おばあちゃんの里」に貼ってあった光秀イベントのパンフレットで知りました。七年も前からイベントや署名活動を行ってたようで。
・NHK大河ドラマ誘致推進協議会
http://www.taiga-dorama.com/
ドメインに本気を感じますね。(笑)
光秀一本ではなく、娘のガラシャ、その嫁ぎ先の細川忠興、細川幽斎の四人にスポットをあてての活動だったみたいです。忠興・ガラシャ夫妻はともかく、細川幽斎は、主役にはちょっと渋すぎ。文武に長けたすごい人だけども。
光秀だって十分に渋いですけどね。確かに超有名人ですけども、信長あっての光秀というか。カレーの福神漬けみたいなものというか。(失礼)
ゆかりの地以外では、光秀のこと、本能寺の変しか知らないと思うんですよね。その一発のインパクトがめちゃめちゃすごいんですけど。史上最大の裏切り者。裏切り者と言えば光秀かデビルマンかってくらい。
そういうわけで、今回はちょっと光秀のことを紹介できればと。
◎──明智光秀(あけち・みつひで 1528年〜1582年7月2日:諸説あり)
井伊直虎よりはましですが、光秀って不明な点が多いんですよね。生年も諸説あって。亡くなった日にしても、生存説があったりするし。
生年は1516年説から1540年説まで幅があります。24年の幅は大きすぎでしょ。とりあえず、『細川家文書』という細川家に伝わる古文書に書かれた、1528年の説を前提に話を進めていきますね。
織田信長が1534年生まれなので、光秀が6歳年上です。ドラマなんかでは信長に虐げられているイメージから年下と思いがちですが、光秀が上。
本能寺の変が1582年なので、およそ54歳の時のこと。そこそこの年齢ですね。今度の大河ドラマでは20代あたりからの話になるそうですが、光秀の前半生は生年以外にも謎だらけ。
後半生にしても、織田家での活躍で記録が残るものの、最期が最期なだけに、光秀や明智家を詳細に記した記録ってないんですよね。
一般的には、土岐氏の流れを汲む家系で、最初は斉藤道三に仕えていたとか。以前は、その後に朝倉家に身を寄せていたという話がありましたが、最近では疑問視されているみたいです。朝倉に身を寄せていたから、朝倉を頼ってきた足利義昭と接点を持ったっていう話なんですけどね。
これまた一説には、光秀は濃姫の従兄弟であったという話もあります。また、細川藤孝(細川幽斎)に仕えていたという説も。室町幕府の役人だった説も。
ともあれ、義昭と接点を持った関係で、義昭と信長の間に入ることになって、その後、義昭にも信長にも仕える状態に。
信長関係の資料に光秀の名前が最初に出てくるのは、1569年の出来事について。三好三人衆が義昭を攻めた時、守護する側にいたそうです。
続いて大きなところでは、1570年の金ヶ崎の戦い。浅井長政の裏切りで織田軍が朝倉・浅井に挟まれ窮地に陥った際、秀吉と共に殿を務めました。
織田が朝倉・浅井、本願寺、延暦寺とバチバチやり合ってた頃ですね。その後、森可成が大津と坂本の間くらいに築城した宇佐山城を中心とした戦いで、朝倉・浅井に可成が討たれた後、宇佐山城は光秀の拠点に。
宇佐山城を拠点に地固めを行った光秀は、1571年の比叡山焼き討ちで功を挙げ、恩賞として坂本界隈の地を与えられ、坂本城を築きます。
なんとなく光秀と言えば、比叡山焼き討ちに反対して信長の不興を買った印象がありますが、活躍して比叡山お膝元の土地を与えられているんですよ。
この辺りの戦い、裏で義昭が糸を引いていたとの話も。光秀もここらで所属がはっきり織田家に。1573年、義昭が信長に対して挙兵した際は、光秀は織田方として追討軍に名を連ねています。
光秀はその後、丹波攻略にあたります。冒頭に書いた、私が道の駅で見た光秀イベントのパンフレットは、その頃にあった黒井城の戦いがテーマでした。
紆余曲折ありながらも丹波を押さえ、丹波は光秀に与えられました。
信長はその働きを絶賛するし、光秀は一族家臣、子孫まで信長に奉公すべしと忠誠を誓っています。床の間に信長の書を飾るほど。
子孫まで奉公を、って光秀が書いたの1581年秋です。本能寺の変の前年ですよ。それが翌年6月(旧暦)に謀反って……そりゃあ、日本史上最大のミステリーでしょ。
本能寺の変については今さらなので詳細は省きますが、動機が話題の焦点です。そりゃそうですよね。理由がなさすぎる。濡れ衣説まであるくらいです。
ずっと野心を持っていたところ、信長に一瞬の隙ができたからやっちゃった、という説が有力視されるくらいに謎。でも、それくらいしか説明できない。
突発的な衝動というわけでなく、隙あらばとずっと虎視眈々と狙ってなければ、あんなことできないですよね。
50歳を過ぎ、老い先短い身を思い、最後に一花咲かせようと踏み切ったとも言われますが、昨日今日の思いつきではないでしょ。
大博打ではあるものの、そこそこ勝算もあったんだと思います。秀吉の大返しで打ち砕かれ、たった13日の天下となったわけですが、その13日のうちの働きは超人級です。
二週間足らずの間に京都から近江を押さえています。同時に、各国の勢力に書状を送りまくり協力を求めています。
一番身近な細川親子が付き合ってくれなかったとか、そこらは誤算だったかと思いますが、まあ他の諸将も当面は様子見であることくらいは予想していたと思います。
でも、秀吉の戻りがもう半月ほど遅ければ、事態はまったく違った展開になっていたんじゃないでしょうかね。
毛利が秀吉を釘付けにしていれば、大坂にいた織田信孝も討てたかもですし、信孝を討っていれば、秀吉がその後戻ってきても「旗印」がなかったわけで。信孝という仇討ちの象徴がなければ、様子見していた諸侯の動きも違ったかと。
なんにせよ、ここで信長は倒れ、秀吉が天下を取り、後に家康が天下をものにするわけです。
今から考えれば、すごい脚本家がいたかのようなストーリーで、完全に今の日本はこの本能寺の変から始まってる感すらありますが、それが、本当に紙一重の問題だったというのは感慨深いところです。
そういう意味では、再来年の大河がどのように描かれるのかはとても楽しみ。
本能寺の変くらいの大博打って感じもしますけど。(笑)
◎──今回はここまで。
閑話休題ってことで、今回は光秀話でした。光秀は家康に通じていて、だからこそ家康は伊賀越えできたんだって説もあります。光秀は山崎の戦いの後も、落ち延びて家康に召し抱えられたとも。天海僧正は光秀だって話も。
日光東照宮の櫓には明智の家紋が散りばめられていたり、そこから見える地に明智平と命名された土地があるなど、天海=光秀説は根強いです。
チンギスハーン=義経よりは可能性高そうですけどね。
ま、再来年の大河をお楽しみに、ということで今回はここまで。次回こそは、新しい話に入っていきたいと思います。
【川合和史@コロ。】koro@cap-ut.co.jp
合同会社かぷっと代表
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