まにまにころころ[142]ふんわり中国の古典(論語・その5)心が伴ってこその孝だ
── 川合和史@コロ。 Kawai Kazuhito ──

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コロこと川合です。神社やお寺をお参りするのが好きなので、旅行先などでもよく訪れるのですが、なんとなく雰囲気が好きなだけで、神仏や建築についてまったく詳しくはない私。

もちろん、まったく興味がない人に比べたら多少は知ってるほうなんでしょうけど、好きって言っておいてその程度かってレベルなんです。

そんな私が先日、柴田編集長から「神社ふしぎ探検」という書籍をいただきまして。神社のあれこれや見方、楽しみ方、お寺との違いなどなどが詳しく書かれている本なのですが、これが面白い。

・外山晴彦「神社ふしぎ探検」(さきたま出版界)
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その中で、神社(神道)の特徴として、「教義・教典がない」とあり、それが神社のおおらかさ、懐の深さに繋がっていると。まあ、だから世界宗教として勢いよく広がっていくようなことはないんでしょうけど。

儒教にも似たところがあります。『論語』をはじめとする「四書五経」などは教典として大切にされていますが、教義は道徳を身につけて倫理感を高めようといった感じで、ものすごく現実的というか、日々の生き方に重心があって、懐の深さを感じます。

それはたぶん、儒教が「人間である孔子の教え」で、神様もいなければ超能力も出てこないからだと思います。儒教が宗教かどうかは意見の分かれるところですが、話の都合上、宗教だとすれば、他の身の回りにある宗教、キリスト教、イスラム教、仏教、神道と決定的に違う部分がそこで。神様が出てこない。

天にも昇らないし、町を焼いたり、病気を癒やしたり、空を飛んだりしないし、生まれ変わりもしないし、呪いも祟りもしないし、天罰もくださない。

神様がいないから、神職もいない。聖職者と信者、出家者と在家信者といった違いもない。聖と俗が分かれていない。皮肉なことに、だから偶像崇拝もない。孔子の銅像なんかはありますけどね。

正確には、祖霊を祀ったりはするので、まったくそういうことがないわけではないのですが、それは儀礼を大切にする心、道徳や倫理の範疇で、儒教という宗教による宗教行為ではない感じです。

そんな儒教だから、細かい部分を抜きにすれば、日本には取り入れやすかった。なんせ、仏教と神道をいっしょくたにしちゃえるような土壌ですから。儒教を人の道を正すための道徳的学問として、主君に仕える「忠」を刷り込むためのテキストとして、江戸幕府が公式採用したわけです。

結果、「あれ? 忠の対象って将軍じゃなくて天皇じゃね?」ということで話がややこしくなりましたけど。

『孫子』と同じく、ビジネス書の棚に『論語』の関連本がよく並んでたりするのも、宗教の教典というより現実に即した話がまとめられた本だからでしょう。聖書ではなかなか……作れなくはないですが、あちこちから怒られそうですし。あるにはあるんですけどね。

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・聖書が教える人間関係50の知恵─人生・ビジネスが10倍うまくいく
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・聖書に隠された成功法則(サンマーク文庫)
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読んだことはないので、中身は知りません。(笑)


さて、とりとめもない話で前置きが長くなりましたが、本題に移りましょう。今日は「為政第二」の続きからです。

前回、巻第二「為政第二」としてしまっていましたが、為政は巻第一でした。今回から修正しています。


◎──巻第一「為政第二」五

・書き下し文

孟懿子、孝を問う。子曰わく、違うこと無かれ、と。

樊遅御たり。子これに告げて曰わく、孟孫、孝を我に問う。我こたえて曰わく、違うこと無かれ、と。

樊遲曰わく、何の謂いぞや、と。

子曰わく、生きてはこれにつかうるに礼を以ってし、死してはこれを葬るに礼を以ってし、これを祭るに礼を以ってす、と。

・だいたいの意味

(魯国の有力貴族である)孟懿(もうい)が孔子先生に孝について質問した。

孔子先生は「道理に外れることのないようにすることです」と答えられた。

樊遅(はんち)は御者を務めていた。

孔子先生は樊遅に「孟懿が考について私に聞いてきたので、道理に外れることのないようにすることですと答えたよ」と仰った。

樊遅は孔子先生に「どういうことですか?」と尋ねた。

孔子先生は「親が生きておられる間は礼にもとづいてお仕えし、亡くなられた時は礼にもとづいて手厚く葬り、礼にもとづいて祖霊としておまつりすることだよ」と。


◎──巻第一「為政第二」五について

孟懿は、上でも添えましたが、魯国の有力貴族である孟氏の人です。有力者なので敬称として「子」がついています。

樊遅は孔子の弟子です。

礼がどのようなものかは、度々出てくる話から推し量って感得するとして、まあざっくり言えば「正しいやりかた」といった感じです。

礼には儀礼のルールも含まれるので、時代によっていくらか具体的な部分は変わりますが。

儒教というと、盲目的に親に隷属するイメージも一部でありますが、孔子は、礼にのっとって適切に仕えることが孝だとここで言っています。

孝についてはこの後も続きます。


◎──巻第一「為政第二」六

・書き下し文

孟武伯、孝を問う。子曰わく、父母はただそのやまいをこれ憂う、と。

・だいたいの意味

(孟懿の子)孟武が孔子先生に孝について質問した。

孔子先生は「父母はただ我が子の病を憂うものです(だからせめて病気以外では心配かけることのないように努めつつ、健康にも留意しなさい)」と。


◎──巻第一「為政第二」六について

「父母にはただそのやまいをこれ憂えよ」として、父母の健康をただ気づかえ、とする解釈もあります。ただ、前章にある「これにつかうるに礼を以って」が、親の健康状態を気づかうだけの話とも思えませんし、子の健康説を採りました。

子の健康説にも、「病気以外で心配をかけるな」という解釈と「病気になって心配をかけないように健康に留意せよ」という解釈がありますが、合体させて上記のように書いてみました。

元気でいることが何よりの親孝行というのは、今もきっとそうですよね。


◎──巻第一「為政第二」七

・書き下し文

子游、孝を問う。子曰わく、今の孝は、これよく養うを謂う。犬馬に至るまで、皆よく養うこと有り。敬せずんば、何を以って別たんや、と。

・だいたいの意味

子游が孔子先生に孝について質問した。

孔子先生は「最近は孝というものを、よく面倒をみることだとする風潮がある。よく面倒をみるだけなら、犬や馬に対してもすることだろう。そこに尊敬の心がなければ、何をもって区別するのか」と。


◎──巻第一「為政第二」七について

犬や馬の部分、「犬や馬だって人の面倒をみてくれる」とする解釈もあります。どちらにしても結局、世話をするだけでなくそこに敬意がなければ孝ではない、という点については変わりません。


◎──巻第一「為政第二」八

・書き下し文

子夏、孝を問う。子曰わく、色難し。事あれば、弟子その労に服し、酒食あれば、先生に饌す。すなわちここを以って孝と為さんや、と。

・だいたいの意味

子夏が孔子先生に孝について質問した。

孔子先生は「顔色、表情が難しいね。(心が顔に表れるから。)仕事があれば若者が働き、酒食があれば年長者に勧める。そんな行動だけをもって孝と言うことができるだろうか。(そこに心が伴わないといけない)」と。


◎──巻第一「為政第二」八について

「色難し」を、親の顔色をうかがってその意向に沿うようにするのが難しい、とする解釈もありますが、孝はそんな受動的なものではないと思うのでパス。

他にも、細かいところでは解釈が分かれるところがありますが、大筋に影響はしないので、気にしない方向で。

表現が違うだけで、前章と同じようなことを言ってますね。行動だけでなく、心が伴ってこその孝だ、と。


◎──巻第一「為政第二」九

・書き下し文

子曰わく、われ、回と言うこと終日、違わざること愚なるがごとし。退きてその私を省りみれば、また以って発っするに足る。回や愚ならず。

・だいたいの意味

私が顔回と終日話をしていても、顔回は異論を唱えるでもなく頷くばかりで、まるで愚か者のように見える。しかし話を終えて退いた後、彼のプライベートでの振る舞いをみてみると、教えが十分に発揮されている。顔回は愚か者などではないのだよ。

◎──巻第一「為政第二」九について

顔回(がんかい)は、孔子が超大事にした弟子。孔子の弟子と言えば顔回、というくらいの筆頭格。ここにあるようにただただ孔子の教えを学んで、それを深く理解し、実践する人。

秀才と評される子貢が、自分は一を聞いて二を知る程度だけれど、顔回は一を聞いて十を知る、と語る話がそのうち出てきます。

字(あざな)は子淵(しえん)で、顔淵(がんえん)とも呼ばれます。孔子の母の姓が顔氏と言われていることから、親戚ではないかとする説もあります。

孔子の教えを体得し、孔子を超えるほどの弟子だったとも言われます。孔子の教えを100パーセント以上に理解した唯一の弟子だと。

残念なことに孔子より先に若くして亡くなってしまって、孔子が悲嘆に暮れることに。その話もそのうち出てきます。

顔回の早逝で、孔子の教えを完璧に伝えられる弟子はいなくなり、そこで孔子の道は絶たれてしまったとまで言われる人です。


◎──巻第一「為政第二」十

・書き下し文

子曰わく、そのなす所を視、そのよる所を観、その安んずる所を察すれば、人いずくんぞかくさんや、人いずくんぞかくさんや。

・だいたいの意味

その人の振る舞いを注視し、その人が何をモチベーションとするのかを観察し、その人がどこに落ち着こうとしているのかを察すれば、人柄は隠せない。隠せるものではない。


◎──巻第一「為政第二」十について

これも色々な解釈があります。「なす所を視」は「振る舞い、行動を見る」でだいたい共通していますが、「よる所を観」は「経歴を調べる」とする解釈もあります。「安んずる所」は、「何に安らぎをおぼえるのか」とする解釈も。

「振る舞い」「経歴」「落ち着こうとしているところ」を現在・過去・未来とする解釈も。この現在・過去・未来の解釈は、きれいだし、しっくりきます。

「よる所」は、拠って立つ所、行動原理、動機、だと思うのですが、それは、その人を形作ってきた過去、経緯、経歴からなるものなので、どの解釈でも、大筋に違いはないと思います。

現在の振る舞いを見て、行動原理を観察し、目指すところを察する。その人の現在・過去・未来をつかむことで、その人の人柄、人となりは分かる、と。

……そりゃあ分かるわ(笑)

人柄を見極める際のポイントについて解説した章です。


◎──今回はここまで。

まだまだ先は長いので、この連載を待っていられないという方は、昔ながらの古本屋さんで岩波文庫の『論語』(金谷治著)を探してみてください。たぶん、古いものだと100円から300円くらいで売ってます。表紙カバーのない時代の。

それか、内容を追えればいいという方は、青空文庫で下村湖人の『現代訳論語』を読んでください。

下に青空文庫サイトでのURLを載せておきますが、アプリで検索した方が読みやすいと思います。Kindleでも同じものが無料であります。同じ作者で、物語仕立ての『論語物語』もあります。

・青空文庫『現代語訳論語』(下村湖人)
https://www.aozora.gr.jp/cards/001097/card43785.html


まあいないと思いますが、本格的に学びたいという方は、図書館にでもどうぞ。論語に関する本は、山ほどあります。

まにころでも五冊くらいの『論語』と関連書籍をチラ見しつつ書いていますが、世の中、論語関係の書籍はその百倍は軽く存在すると思います。

論語は短い章の集まりなので、パラパラめくって拾い読みしても面白いので、ぜひ読んでみてください。


【川合和史@コロ。】koro@cap-ut.co.jp
合同会社かぷっと代表
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