まにまにころころ[147]ふんわり中国の古典(論語・その10)礼を尽くす、ということ
── 川合和史@コロ。 Kawai Kazuhito ──

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コロこと川合です。11月、さすがに冷房つけることも、ほぼなくなりました。

秋ですねえ。読書の秋、味覚の秋、スポーツの秋。第一は味覚の秋ですよね。春夏秋冬を問わず食べてばかりの私ですが、柿が大好きな私は秋も大好きです。

野菜ほか色んなものが年中出回りますが、果物は比較的、季節感ありますね。そろそろ柿も富有柿に変わりつつあって終盤戦。次はリンゴの季節かな。

そんな私ですが、最近、スポーツを始めました。eスポーツ、というスポーツを……。

eスポーツというのは、競技性のあるコンピューターゲームのことです。別に、スポーツゲームじゃなくても、競技性があればeスポーツです。RPGでも。

人気なのは、チーム戦でオンラインの仲間と会話しながら協力して、銃を撃ちあったり、剣を振り回したり、魔法を放ったり、というようなゲームですが、そういうのって、ハマると時間がいくらあっても足りないので、私は空き時間に独りで遊べるサッカーゲームをコンピューター相手にやってます。(笑)

いや、eスポーツブームだし、仕事がらみでも少し関係してきてたりするし、eスポーツを五輪競技にしよう、なんて寝g……もとい、夢のある発言も聞いたりするし、ちょっとは触れておかなきゃなと。

eスポーツの良いところは、ジャンルの豊富さと参加できる人の幅広さ、あと、あまり場所を選ばないところですね。

スポーツゲームあり、戦争ゲームあり、ファンタジーあり、ボードゲームあり。そして子供から老人まで同じ舞台で戦えて、オンライン対戦は自室にいながら世界中のプレイヤーと一緒に遊べるというのが魅力です。身体障碍を抱えた人にとっては、パラスポーツ以上に門戸が開かれていますしね。

そんなゲーム昔からあったじゃないかって話ですが、ここへ来てブームなのは、大きな理由の一つとしては、世界で高額賞金のかかった大会が多く開催され、プロゲーマーが増えたことでしょうか。

競技の様子などがネット配信され人気となり、人気となればスポンサーが付き、どんどん大きなお金が動くようになって、ますますブームが盛り上がって。

子供たちが将来の夢として、プロゲーマーだのユーチューバーだのって言ってるのを聞くと、私のようなおっさんは天を仰ぐ気持ちになったりもするのですが、実際よくよく考えてみると、プロ野球選手になりたい、芸能人になりたいって言ってるのとなんら変わらないんですよね。

家庭用コンピューターゲーム、というかテレビゲームが世に出てきたのは私がちょうど小学生になるかならないかくらいの時代でしたが、まさかこんな時代が来ようとは、夢にも思いませんでした。家庭用ゲーム機の歴史と共に育ってきた世代としては感慨深いです。

1981年にエポック社からカセットビジョンが出て、いとこの家で遊んだ覚えが。1983年には任天堂からファミリーコンピューターが発売されたんですが、うちには導入されず……代わりにやってきたMSXでゲームをしていました。

1986年にシャープからツインファミコンという、ファミコンとディスクシステムが一緒になったものが出て、それが我が家の初ファミコン。

1987年のPCエンジン(NEC)は華麗にスルー。1988年のメガドライブ(セガ)もスルー。

1989年にはゲームボーイが、1990年にはスーパーファミコンが出て、それには乗っかりました。同年にはSNKから、「100メガショック!」のキャッチが印象深いネオジオも登場していますが、あれは貴族のゲーム機でした。(笑)

100メガショックが、100メガビット、だと知った時のショックもいい思い出。

そして我々を悩ませたのが1994年。セガサターンとソニーのPlayStationが、いわゆる「次世代機」として登場。マルチメディアという言葉が席巻した時代です。ゲームソフトもCD-ROMになって、キャラクターがよくしゃべるゲームも続々と登場しました。若い人には何がビックリなのかさっぱりでしょうけども。

悩んだ末、我が家はセガサターンを選択。アニメからのゲームが多かったのが選択の理由としては大きかったかなと思います。

1996年のNINTENDO64は、まったく惹かれずスルー。

そして1998年、サターンからの流れでドリームキャスト(セガ)ですよ。湯川専務のCM、シーマン、シェンムー、ファンタシースターオンライン……。

2001年にはニンテンドーゲームキューブが登場しましたが、任天堂はもうダメなんじゃないかと思うほど、当時の私には魅力が感じられなかった。

2002年にPlayStation 2が登場して、ドリキャス勢はどんどん下降線。同年はマイクロソフトからXboxも登場しましたが、そっちは当時、あまりインパクトなかったです。プレステ2ですよ、やっぱ。数年後、悔しさを感じつつ、結局私もプレステへ。

私の家庭用ゲーム機の歴史はこんな感じでした。2002年にはもう25歳でしたし、その後はまあ、たしなむ程度に。

2006年に任天堂がWiiを出した時は、ちょっと興奮しましたけどね。ああ任天堂がついに復活した、と。あれは衝撃的でした。一瞬のきらめきでしたが。

……すみません、ついゲームの歴史を長々と。

さて、数十年前の話はここまでにして、二千数百年前に戻りましょう。







◎──巻第二「八いつ第三」十七

・だいたいの意味

子貢が、告朔の礼の習慣で生贄の羊が捧げられるのを、やめようと思った。孔子は、賜(子貢)よ、あなたは羊を惜しむが、私は礼を惜しむ、と仰った。


◎──巻第二「八いつ第三」十七について

ここは説明がないと、いまひとつ分からないところです。告朔の礼という儀式は、羊を生贄に捧げることが行われていたんですが、この時代、儀式自体は廃れて、羊を捧げることだけが形式的に残っている状態だったそうで。

子貢はそれでは無意味だと、羊を捧げるのをやめようとしたんですね。

でも孔子先生は、羊を捧げるだけになってしまった儀式でも、それさえも無くしてしまえば、もう完全にこの告朔の礼は消滅してしまうだろうと。それなら、羊を捧げるだけでも続けられているほうが、まだましだと。

形骸化してしまってもはや本来の姿をとどめていない、無益な行為であっても、それでも残っていれば、いつか復活することがあるかもしれない。そのために、その行為だけでも残しておいたほうがいいだろうと、孔子先生は考えたんです。

悩ましいところですが、確かにそうかもしれませんね。そんな形ででも残っていれば、「これは元々は、こうこうこういう儀式があってね」と伝わっていく可能性がありますが、まったく消えてしまえば、きっかけも手掛かりも失っていくことになるでしょうから。

現代の伝統行事を振り返っても、そういう話はありますよね。渋谷で暴徒どもが好き放題やらかしたハロウィンも、ああいう出来事を受けて、ハロウィンは古代ケルトに起源があってね、なんていう話題が語られていましたし。

ハロウィンが下火になっても大した問題ではないですが、礼が失われてしまうのは孔子先生にとって大問題なんです。

孔子先生のことはさておいても、何らかの儀礼の痕跡から、歴史を振り返ってみるのはいいことかもしれません。たぶん、純粋に面白いと思いますし。

例えば、まあ儀礼ではありませんが、一昨日の文化の日。今では単なる祝日としてしか認識されていないと思いますが、そもそもは明治天皇の誕生日です。

そして1946年に日本国憲法が公布された日で、平和と文化を重んじる憲法だということから、「文化の日」とされることになったものです。なお日本国憲法が施行された5月3日は、「憲法記念日」とされました。

明治天皇の誕生日にたまたま日本国憲法が公布されたのではなく、おそらく、自然な形でその日を記念日として残したかったのだと思います。検索すると、日本側の「言い訳」や、GHQとの攻防なんかのエピソードが出てきて、面白いですよ。

なお再来週、11月23日の「勤労感謝の日」は、飛鳥時代に始まった豊穣を願う儀式としての宮中祭祀「新嘗祭」に由来するものです。

ちなみに、天皇が即位の礼の後に初めて行う新嘗祭のことを大嘗祭と呼びます。今上天皇の場合、喪が明けた平成二年に即位の礼が行われたので、平成二年に大嘗祭が行われました。来年はおそらく、およそ30年ぶりの大嘗祭ですかね。

上皇となられるのは1817年に太上天皇になられた光格天皇以来のことなので、今上天皇は約200年ぶりに、前任者として大嘗祭を迎えられる方になります。

新嘗祭は皇極天皇の時代に始まったと言われていて、中断を経て、江戸時代に復活した宮中祭祀です。皇極天皇ってあの大化の改新(乙巳の変)の時の天皇ですよ。そんな時代に始まったことを元に、今、祝日になってるんですよ。

……と、そんなこんなを考えると、孔子先生の仰ることも少し理解できる気が。


◎──巻第二「八いつ第三」十八

・だいたいの意味

主君に仕えるにあたって礼を尽くせば、人はこれをへつらいだと言う。


◎──巻第二「八いつ第三」十八について

礼を尽くして仕えることを、へつらいだと誹謗する輩に対する嘆きです。通常、主君に礼を尽くすことはそれほど不自然ではないんでしょうが、この時代は、孔子の主君である魯公は権威を失い気味で、三桓氏と呼ばれる三家の有力者が幅を利かせていたので、こんな陰口も出やすかったのでしょう。

礼を尽くす、というのは、際限なく媚びることではもちろんありません。ただしきたりに則って、過不足なく礼儀をわきまえることです。

三桓氏、これまでも何度か出てきていますが、魯の第十五代である桓公の子、次男、三男、四男を祖とする孟孫氏(仲孫氏)、叔孫氏、季孫氏のことです。なお長男は荘公です。徳川家で、徳川家康の子が御三家となったのをイメージすると分かりやすいかも。

次男が慶父、三男が叔牙、四男が季友といったので、その名をとっています。三桓氏が成立した頃の時代も面白いのですが、今は関係ないので割愛。

故事「管鮑の交わり」でも知られる、管仲や鮑叔がいた時代の話です。

管仲については『論語』でも話題として出てきます。次回には出てきます。


◎──巻第二「八いつ第三」十九

・だいたいの意味

(魯公である)定公が孔子先生に尋ねられた。主君が臣下を使い、臣下が君主に仕えるのは、どのようであるといいだろうか。

孔子先生が答えられた。君主は礼をもって臣下を使い、臣下は忠をもって君主に仕えるのがいいでしょう。


◎──巻第二「八いつ第三」十九について

上は下に敬意を払い、下は上に誠意を尽くせ、ってことですね。

定公(ていこう)は、亡命先の斉から魯に戻ってきていた孔子を抜擢した人です。この問答もどこか通じ合ってる感じがしますよね。

孔子が生まれたのは、第二十三代の襄公(じょうこう)の時です。襄公の子で第二十五代(先代は短命)の昭公(しょうこう)の時代、三桓氏が魯の軍事を私物化して、完全に権力を掌中に収めます。

今読んでいる「八いつ」の最初、三桓氏最有力の季孫氏が儀礼で庭に八列の舞を舞わせているのを憤っていましたが、これは昭公の時代、昭公が襄公を祀る儀礼が粗末なものであったのに、季孫氏があろうことか天子にのみ許されたとされる、八列の舞を行っていたことに憤慨したものと言われています。

昭公は三桓氏を押さえるべく季孫氏を攻めますが失敗、斉へ追放されてしまいます。孔子もそれを追って斉へ。異国文化(お隣ですけど)に触れます。

『論語』のややこしいところは、おおよそのテーマ別に編集されているため、時代は前後ばらっばらなところで。

今読んでいる「八いつ」では三桓氏に憤りまくりの孔子先生ですが、前の「為政」では、季孫氏の季康子に質問されて、民衆を統治する方法を語ってたりしましたよね。

あれは年代的にはだいぶ後で、わりと晩年のことです。季康子は、後々にも『論語』に何度も出てきますし、孔子と季孫氏の関係は複雑なのですが、まあそれは追々。


◎──今回はここまで。

半分ほどゲームの話になっちゃいましたが、次回には今の章も終わるかと。

有名フレーズは出てこなくなりましたが、それでも興味深い話がちょいちょい出てきますね。愚痴のような話とか、今では何の役にも立たなさそうな話も多いですけどね。その辺はさらっと読み流しつつ、どんどん先へ行きましょう。

それではまた次回。

【川合和史@コロ。】koro@cap-ut.co.jp
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