ヘミングウェイの短編集「われらの時代」と「男だけの世界」から抜粋した旺文社文庫のヘミングウェイ短編集が、中学の夏休みの課題図書になったことがある。最初に「インディアンの村」という短編が配置され、ニック・アダムスという少年を主人公にした物語が続いた。
「ヘンリーズ・ランチルームのドアがあいて、二人の男が入ってきた」というフレーズで始まる、「The Killers」という短編の主人公は青年に成長したニック・アダムスだった。食堂に入ってきた二人の男を「ニック・アダムスは、カウンターの反対の端から」眺める。その後、男たちとカウンターの中のジョージとの会話だけで物語は進む。
やがて二人の男はジョージとニックと調理場にいた黒人コックのサムを猿ぐつわをして縛り上げ、毎晩、決まった時間に食事にやってくるオーリー・アンダーソンという男を殺すために待ち伏せをする。しかし、その日に限ってオーリーはやってこず、二人の男は立ち去る。
ニックはオーリーの下宿を知っていたので、彼に二人の男が殺しにきたと報せにいく。しかし、オーリーはベッドに寝そべったまま「いいんだ、どうでもいいんだよ、そいつらの人相など」と言う。警察に知らせても無駄だし、もう手の打ちようがないと口にする。ニックは食堂に戻り、ジョージと会話する。
「あの人、どんなことをしたのかな?」ニックが言った。
「だれかを裏切ったのさ。それをやっちまうと、たいてい殺されるんだ」
文庫本で15ページほどの短編が深く印象に残ったのは、会話中心で描写されるスタイルが新鮮だったのだと思う。内面描写はなく、人物たちの行動と状況しか描かれない。「これがハードボイルドだ」と中学生の僕は、きっと興奮したのだろう。しかし、その叙述スタイルは登場人物に感情移入ができず、中学生にとってはわかりにくかったと思う。
ちょうどその頃、「殺人者たち」(1964年)という映画が公開された。テレビシリーズ「シカゴ特捜隊M」で好きになったリー・マーヴィンがサングラスをし、消音器のついた拳銃を構えている映画の広告が新聞に掲載され、それがヘミングウェイの短編「The Kiiiers」を原作にしていることを知った。監督は、ドン・シーゲルという人だった。
ある町の聾唖学校へ二人の男がやってくる。背の高い男(リー・マーヴィン)は銀髪でサングラスをし、黒いスーツを身に付けている。手足が長く、しなやかな動きを見せる。もうひとりは小男(クルー・ギャラガー)で、すばしっこい感じだ。やはり、黒いスーツでサングラスをしている。ふたりの会話は、ヘミングウェイの原作を思い出させる。
男たちは目的の男がいる教室をめざす。目的の男(ジョン・カサヴェテス)は聾唖学校の教師だ。受付からの電話で、男は二人の男が「そちらに向かった」と連絡を受けるが、現れた二人の男たちの銃口に逃げもせず、慫慂と死を受け入れる。
依頼を果たした殺し屋たちは、男がなぜ抵抗もせず、逃げもしないで銃弾を受けたか不審に思う。そして、男の過去を探り始めるのだ。やがて、男がレーサーだったことを調べ出し、相棒のメカニックから話を聞き出す。男はシーラ(アンジー・ディッキンソン)というファム・ファタール(運命の女)に出会ったという。
その女はジャック(後に大統領になるドナルド・レーガン)というギャングの情婦であり、現金輸送車強奪のためにレーサーを誘惑し犯罪に引き込んだことがわかる。おまけに現金を奪った後、女は男を裏切っていた。殺し屋たちが殺した男は、誰かを裏切ったのではなく、愛した女に裏切られ、生きる気力も失っていたのだとわかるのだ。
「殺人者たち」を見た十数年後、僕は「殺人者」(1946年)を見た。ヘミングウェイの「The Killers」を最初に映画化した作品だ。この作品では、冒頭の15分ほどはヘミングウェイの原作通りに物語が進む。異なるのは、ニックが報せた後、二人の男たちに男(バート・ランカスター)が殺されることである。
シーンが変わると、保険会社の調査員(エドモンド・オブライエン)が警察で事件のことを調べている。被害者の男の過去を調べると、男がボクサーだったこと、ファム・ファタールと出会い、やがて犯罪に引き込まれていったことなどがわかる。
その女(エヴァ・ガードナー)はギャングのボスの情婦で、事件の後で男を裏切ったことが判明する。「女に裏切られたとき、彼はすでに死んでいたのよ」というセリフが出てくる。ここで「殺人者たち」が「殺人者」のオリジナルストーリーのリメイクだとわかるのだ。
それにしても、文庫で15ページほどのヘミングウェイの短編は、その背景にどういう物語があったのかを想像させる力をもっていた。オリジナルの部分を加えて「殺人者」「殺人者たち」は成立したのである。どちらも、見応えのある映画化作品だった。
ちなみに、現在の翻訳では「The Killers」は「殺し屋」と訳されている。「殺し屋」という日本語がいつ頃から使われ始めたのかは不明だが、昔読んだ小林信彦さんの著書にそれらしいことが出ていた。アルフレッド・ヒッチコック・ミステリマガジン編集長時代のエッセイだったと思う。
それが正しければ、昭和三十年代に生まれた言葉なのかもしれない。「エラリー・クィーンズ・ミステリマガジン」「マンハント」など、翻訳ミステリ雑誌が乱立した時代があった。そんな頃に「殺し屋」という言葉が生まれたのだろうか。
八百屋、魚屋、果物屋、文房具屋などと並んで「殺し屋」なんて店があると怖いけれど、要するに職業的殺人者のことである。「日本に殺し屋なんかいない」と言ったのは、日活で殺し屋ばかりを演じた宍戸錠だそうだが、日活映画はずいぶん殺し屋を登場させたものだ。究極は鈴木清順監督の「殺しの烙印」(1967年)だろう。
それにしても「殺し屋」とは、言い得て妙かもしれない。それだけで「殺しを生業とする人」とわかる。英語で言えば「コントラクト・キラー/Contract Killer」あるいは「暗殺者」の意味を持つ「アサシン/Assassin」だろうか。最近では、「ヒットマン/Hitman」でも通じるかもしれない。ただ、英語が苦手な僕は「マーダラー/Murderer」と「キラー/Killer」の違いがよくわからない。
【そごう・すすむ】
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