先日、久しぶりに高田馬場駅から早稲田通りを早稲田に向かって歩く機会があり、懐かしくなって、飯田橋ギンレイホールと共に現在も健在な名画座である早稲田松竹の前で上映作品の看板を眺めた。
スチール写真などを貼ってあるウインドウの横にパンフレットを差し込んだスタンドがあったので、上映予定のパンフレットをもらって三月の上映作品を確認すると、まるで45年前の大学時代へタイムスリップした気分になった。
パンフレットには「まぼろしの市街戦」(1966年)「追想」(1975年)「勝手にしやがれ」(1960年)「気狂いピエロ」(1965年)「暗殺の森」(1970年)「水で書かれた物語」(1965年)「手をつなぐ子ら」(1964年)といったタイトルが並んでいた。
49年前、僕は早稲田大学近くの予備校に通っていたので、毎日、高田馬場駅から早稲田まで歩いていた。駅前の芳林堂(今も変わっていない)や早稲田松竹にはよく入ったものだった。たまには沿道のパチンコ屋にも入ったけれど、古本屋と書店と名画座が僕のテリトリーだった。
それにしても、早稲田松竹では時間が止まっているのではないか。ただし、入場料金は大人が1300円、学生が1100円になっていた。記憶が確かではないのだが、僕が通っていた頃は100円か150円で二本立てが見られたと思う。池袋の文芸坐や文芸地下、銀座並木座も同じくらいだった。
当時、150円あればラーメンが食べられた。だから僕は昼食を抜いて、名画座の椅子に身を沈める日々を送っていたのだ。高田馬場から早稲田の予備校まで歩いていたのも、バス代を節約するためだった。
僕は高田馬場から二つ目の池袋で赤羽線に乗り換え、一つ目の板橋駅を降りて五分ほどの滝野川の四畳半一間の安アパートで暮らしていた。僕は貧しく、痩せていて、そして若かった。
そんな思い出が甦ってきたその日、早稲田松竹のパンフレットを見て連想した作家がいた。アルベルト・モラヴィアである。「ベルトルッチ監督の『暗殺の森』は、たしかモラヴィアの『孤独な青年』が原作だったな」と、僕はつぶやいた。
アルベルト・モラヴィアを連想したのは、ゴダール特集として「勝手にしやがれ」と「気狂いピエロ」もパンフレットに載っていたからだ。ゴダールがブリジット・バルドー主演で撮った「軽蔑」(1963年)もモラヴィアの原作なのである。
僕がアルベルト・モラヴィアの名前を知ったのは、中学生のときだった。当時、定期購読していた早川書房発行の「エラリィ・クィーンズ・ミステリマガジン(後にハヤカワズ・ミステリマガジン)」の社告ページでモラヴィアの小説(「無関心な人々」だったと思う)が広告されていた。
その本が、なぜ僕の興味を引いたかというと、「ローマ法王によって発禁になった」というようなキャッチコピーがついていたからだった。当時、イタリアはカトリックの戒律が厳しくて何かというと官能的な小説が発禁になったり、エロチックな映画が上映禁止になっていた気がする。
ピエトロ・ジェルミ監督「イタリア式離婚狂奏曲」(1961年)という映画が上映された時代である。当時、イタリアでは離婚が認められていなかったし、避妊もダメだったから(検温で排卵日を避けるだけのオギノ式はいいんじゃないかという論議があったらしい)イタリア人は子沢山というイメージがあった。
ということから、イタリアで発禁になった小説は、きっと「イヤラシイ」(まだ猥褻という言葉を知らなかった)ものに違いないという短絡的な受け取り方を13歳の僕はしたのである。まあ、幼かったわけですね。その結果、アルベルト・モラヴィアという名前が僕の記憶に深く刻み込まれることになった
しかし、大学生になった頃、モラヴィアが文学的評価の高い作家だと知ることになる。当時、イタリアの作家というと自殺したチェーザレ・パヴェーゼの方が人気があったけれど、モラヴィアはイタリアの重要な現代作家だと教えられたのだ。
そして、アルベルト・モラヴィアの作品が多く映画化されていることにも気付いたのだった。「軽蔑」や「暗殺の森」は評判になったが、その他にも話題作があった。「ローマの女」(1954年)はジーナ・ロロブリジーダ主演だし、「河の女」(1955年)はソフィア・ローレンが日本で注目され、スターになるきっかけになった作品だった。
モラヴィアは、政治的な立場を鮮明にしていた作家だったらしい。そのためか、第二次大戦中はムッソリーニ政権から作品を禁書に指定され、新聞への執筆も禁じられていたという。戦後、ずいぶん経った1984年にイタリア共産党から欧州議会の選挙に立候補して当選した。
「暗殺の森」(原作は「孤独な青年」)はファシストの青年(ジャン=ルイ・トランティニャン)が主人公で、ある人物の暗殺を命じられ、その妻(ドミニク・サンダ)に惹かれていく物語だったが、第二次大戦前の複雑なイタリアの政治状況を背景にしていた。
また「軽蔑」では、女好きの映画プロデューサー(ジャック・パランス)と自分の妻(ブリジット・バルドー)を二人きりにしてしまうシナリオライター(ミッシェル・ピッコリ)は、共産党の党員証をポケットから落とすシーンがある。
政治的(コミュニスト)であり、官能的な物語を書いたから、モラヴィアの作品は厳格なローマ・カトリックによって発禁指定に遭ったのかもしれない。中学生の頃、下賤な目的で手に取らなくてよかったと思う。読んでも理解できなかったろうし、つまらなく思ったに違いない。
大学生になって初めて読んだから、それなりの理解ができたのだろう。いつ読むか、というのは大事なことだと思う。僕は、早くに読み過ぎたと思う本もけっこうあるので、もう一度読み返してみたいと思っているのだけれど、感銘を受けた本がまるで違った印象になったらどうしょうと、少し迷っている。
【そごう・すすむ】
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