日々の泡[036]大林宣彦監督のこと
── 十河 進 ──

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大林宣彦監督は、今年四月に亡くなりました。以下の文章は、それ以前に三重県で出ている映画同人誌「シネマ游人」8号に寄稿したものです。柴田さんにも関係する昔の思い出を書いているので、こちらにも再録させていただきます。




僕が昭和五十年に就職した出版社は玄光社といい、昭和六年の創業で名付けたのは北原白秋だった。「玄」には「クロ」や「漆黒の闇」という意味があり、つまり「闇と光の会社」である。写真関係の書籍出版を行う会社だったので、そう名付けたのだ。

戦後、株式会社になり、僕が入社した頃には「小型映画」と「コマーシャル・フォト」という月刊誌を出していた。写真業界や広告業界ではよく知られていた「コマーシャル・フォト」だったが、一般的な知名度はなかった。ただ、広告はよく入ったので社内の稼ぎ頭ではあった。

その「コマーシャル・フォト」がテレビCMを扱い始めたのは、僕が入社する数年前のことだった。杉山登志が「リッチでないのに リッチな夢など描けません」という有名な遺書を残して自殺した頃のことである。

杉山登志は、CMディレクターとして天才と言われた人である。図書館にいた少年が美しい年上の女性に憧れの視線を向ける資生堂のCMは、後々まで語り継がれる作品となった。その頃、CMディレクターが花形の職業としてスポットライトを当てられていた。そのひとりが大林宣彦さんだった。

僕が入社してすぐの頃、「コマーシャル・フォト」でCM部門を担当していた先輩が、ある日、「大林宣彦特集」を準備しているのを知った。僕は「大林さんに会いたいなあ」と先輩に言ってみたが、取材には同行させてもらえなかった。当時、大林さんは百恵・友和の製菓会社のCMなどを撮っていたと記憶している。

大林さんは、アラン・ドロンを使った「ダーバン」のCM、「さらば友よ」でブレイクしたチャールズ・ブロンソンを起用した「マンダム」のCMなどで注目された人だった。初期のCMに「レナウン・イエイエ娘」があるが、これはプランナーに電通の今村昭さんが加わっている。今村さんは映画評論家・石上三登志(石の上にも三年)として活躍した人である。

さて、大林さんは自主映画の先達としても注目された作家だった。「EMOTION=伝説の午後=いつか見たドラキュラ」(1966年)は、僕の高校生の頃には伝説の自主映画として八ミリ少年の夢を刺激したものだった。当時、大林宣彦、高林陽一、飯村隆彦の三人が自主制作映画の世界で活躍していた。

月刊「小型映画」には単独主催の「全日本アマチュア映画コンクール」とユネスコと共催していた「国際アマチュア映画コンテスト」があった。そのコンテストに大林さんたちも応募していたらしい。

僕が「小型映画」編集部に配属になった頃は自主映画界が盛り上がっていた時で、後に商業映画の世界に進出する若者たちがいっぱいいた。大森一樹、森田芳光、石井聡互、長崎俊一、黒沢清、松岡譲司、犬童一心などである。

大林宣彦さんは「小型映画」とも深い関わりがあったのだけど、僕が初めて会ったのは、たぶん「ねらわれた学園」(1981年)の撮影現場を取材したときだった。

「HOUSE ハウス」(1977年)で商業映画に進出したときには、「大林組」だったので「最近じゃ土建屋が映画を撮るのか」とスタッフに嫌みを言われたそうだが、その後、「ブラックジャック」の実写版「瞳の中の訪問者」(1977年)や百恵・友和の「ふりむけば愛」(1978年)を経て、人気絶頂だった薬師丸ひろ子のアイドル映画を撮る監督になっていた。

取材のときに驚いたのは、大林さんのあまりにもやさしい言葉と態度だった。あんなにやさしい話し方をする人には、その後も僕は会ったことがない。この人は声を荒げることがあるのだろうか、と僕は思った。

その取材の後、僕は親子対談という企画を立ち上げ、一回目に羽仁進監督と羽仁未央さんに出てもらい、二回目に大林宣彦監督と大林千茱萸さんにお願いした。手塚真くんと手塚治虫さんには「恥ずかしいから」と断られた。

大林父娘の対談は大林家の近くのレストランで行われたのだが、大林さんは娘に対しても大変丁寧でやさしい言葉遣いをした。この人は普段でも家庭でこんな風に話しているのだろうか、よほど育ちがいいのではないか、と育ちの悪い僕は思った。

その後、何度も大林さんの発言を聞く機会があったが、大林さんの丁寧すぎるのではないかと思える話し方は変わらなかった。ただ、僕は大林さんの作品が苦手だった。

劇場映画第一作の「HOUSE ハウス」とはまったく噛み合わず、取材した手前しかたなく見た「ねらわれた学園」も途中で出ようかと思ったほどだった。CMのセンスと劇映画の監督業は違うんだな、と僕は思った。

しかし、数ヶ月後、大林さんの事務所から一本の電話が編集部にかかってきた。「今度、作る映画の主人公が八ミリ少年という設定でして、彼の部屋の本棚に『小型映画』を二年分並べたいんです」と相手は言った。

僕は編集長の了承をとり相手に連絡すると、翌日、助監督らしき青年が「小型映画」二年分を受け取りにきた。僕が「何て映画ですか」と訊くと、彼は「『転校生』と言います。男の子と女の子の体が入れ替わっちゃう話です」と答えた。

半年ほど後のこと。試写状をもらって出かけた僕は、映画が終わってもしぱらく席を立てなかった。「転校生」(1982年4月17日公開)は傑作だった。「大林さん、せつない映画を創りましたね」と、僕は監督のやさしそうな顔を浮かべてつぶやいた。


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