◇立場がないのが、秋。
コロこと川合です。いつの間にか八月になってると思ったら、気がつけばお盆も終わりですよ! そして連日の酷暑ですよ! 真夏ですよ! サマーですよ!
なんでしょうね、夏といえば八月、八月と言えば夏ってイメージありますよね。
春と言えば? 四月のイメージ。これは桜や入学シーズンのせいでしょうか。
では冬は? これは意見分かれそうですが、私は十二月のイメージです。
四月、八月、十二月と、上手いこと均等に春、夏、冬のイメージ。
そうなってくると立場がないのが、秋。
秋にぴったりの月が印象にない。
九月のような気もしますが、八月を夏と言っておいて、九月に秋はちょっと。
同じ理由で十一月もない。十月ってのもなんか、いまひとつピンとこない。
そもそも三つの季節を均等割しちゃったんで、秋の入り込む余地がない。
実際には、気温だとか紅葉だとかで秋は確かに感じるんですが、しっくりくる月がぱっと思いつかない。
秋、ないですねえ。どうしましょ。いいですかね、ないままでも。
商売人気質の大阪人経営者としては、秋がなくてもまあいいかってなもので。
あきない、だけに。
……
今ちょっと蝉の声の向こうに秋風を感じました。
こんなくだらない話から入ったのは、くっそ暑い中、涼風をお届けしたかったというのもなくはないんですが、もうね、毎度毎度コロナの話ばかりを半年も続けていると、さすがに飽きてきまして。
あきない話をしたかったんです。
……
二度目の涼しさをお届けしたところで、今日はもうさっさと本題に入ります。
◎──巻第六「顔淵第十二」十六
・だいたいの意味
孔子先生が仰った。
君子は人の美を成す。人の悪を成さず。小人はこれに反す。
──巻第六「顔淵第十二」十六について
なんとなく雰囲気で伝わるので、あえてほぼ読み下し文のままにしました。
君子は人の善行をたすけ、悪行を抑止する、といったところでしょうか。君子の対義語である小人は、その逆であると。
これは君子が直接的にそのように手を出すというわけではなく、君子の存在が自然とまわりを感化して、そのようになるということですね。きっと。
君子たれ、というのと同時に、付き合う相手は考えろ、という話でもあります。
◎──巻第六「顔淵第十二」十七
・だいたいの意味
季康子が孔子先生に政治というものについて尋ねた。
孔子先生が答えて仰った。
政とは正なり。あなたが率いるにあたって正しくあるのであれば、誰があえて正しくないことをしましょうか。
──巻第六「顔淵第十二」一七について
政治とは何かを孔子先生に訊いてみようシリーズが、前回から続きますね。
政とは正なり。
かっこいい。
季康子は以前にも出てきましたが、何度となく孔子先生に教えを請う人なので、あまり悪い印象も薄いのですが、それでもあの三桓子である季孫子の人。君主をないがしろにして国政を握ってる人ですから、孔子先生はそっと釘をさして、正しくあることを求めています。
◎──巻第六「顔淵第十二」十八
・だいたいの意味
季康子が盗人を憂いて孔子先生に尋ねた。
孔子先生は答えて仰った。
あなた自身が無欲であれば、賞してやろうと言っても盗みをしないでしょう。
──巻第六「顔淵第十二」十八について
ちょっと分かりにくいので補足すると、為政者である季康子が無欲であるなら、盗人すら感化されて、盗んだら褒美をやると宣言したとしても、誰もみな盗みなどという恥ずかしい行為はしないでしょう、と。
いやあ、正直、上がいくら無欲で、振る舞いが君子でも、盗人は消えないって思いますけどね。浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ、ってね。
でも、減るのは減ると思います。
政治家だの官憲だのがやりたい放題だと、あいつらだって好きにやってんじゃねえか、って開き直りますからね。そうなると、間違いなく犯罪は増える。
小さな例では、今や1000点が100円という「テンピン」レートの賭け麻雀は、そこかしこで大手を振って行われてるでしょう。これまでは、コソコソしてたのに。どこぞの元検事長のせいで。
政治家、官僚、警察官、役人といった人は、自身の悪行が自身だけの問題では収まらないということを、もう少し意識してほしいものです。
官憲に限らないですけどね。教職員や会社経営者、上司、先輩、といった人も。身近なところでは親や兄、姉なんかもそうでしょうか。
少しでも人の上に立つ立場、少なくともそう思われている立場の人は、思わぬ影響力が、良くも悪くも働きかねないことを意識したいところです。
君子は人の美を成す。人の悪を成さず。
さっきのこれが、その象徴みたいな言葉です。
小人はこれに反す。
世の大半は小人ですから、浜の真砂は尽きるともってな話になるんでしょうが、君子と小人の陣取り合戦みたいなもので、君子が増えるほどそれだけ小人には悪いことがしにくい世の中になるはずですから、気持ちだけでも君子たらんとみなで心がけたいものです。
◎──巻第六「顔淵第十二」十九
・だいたいの意味
季康子が孔子先生に、政治というものについて尋ねた。もし、無道者を殺し、道を遵守する者を助けるようにするとしたらいかがか。
孔子先生が答えて仰った。
あなたが政治をするにあたって、どうして死刑を用いる必要があるのですか。あなたが善を欲すれば、民も善であろうとします。君子の徳は風、小人の徳は草です。草に風が吹けば、必ずなびいて伏します。
──巻第六「顔淵第十二」十九について
為政者が善をなす君子であれば、民は感化されて善になるのだから、無道者を死刑で殺して、見せしめを行うような真似をする必要は無い、と。
いやあ、そうはならないですよと言いたい。(笑)
でも、両面でいけばいいかと思います。為政者は善たれというのは大前提で、その上で無道者、無法者を取り締まり、罰する仕組みは整えて。
死刑がいいとは思いませんが、本当の意味での無期懲役くらいの罰は、いくら為政者が君子でも必要だと思います。
話は逸れますが、私は死刑には反対です。死は全てを無にしてしまいますから。
やまほど冤罪が溢れているからというのもありますが、死刑なんて、胸がすく以外に意味ないと思うんですよ。罪が確実なもので疑いの余地が微塵もないとすれば、その時は死ぬほどの懲役を死ぬまで味合わせればいいんじゃないって。
ほかにもまあ色々とありますが、この話は深入りすると危険なのでこの辺で。
専門家でもないし、まるで詳しくもないので、素人考えでメリットデメリットを秤にかけてみたところ、死刑は無意味じゃないかなあ程度の話です。
◎──巻第六「顔淵第十二」二十
・だいたいの意味
子張が孔子先生にお尋ねした。
士(ひとかどの人物)とは、いかなれば「達」と言えるのでしょうか。
孔子先生は仰った。
あなたの言う「達」とはどのようなものか。
子張が答えて言った。
国にありて必ず(その名声が)聞こえ、家にあっても必ず聞こえる者です。
孔子先生が仰った。
それは「聞」だよ。「達」ではないよ。「達」という者は、実直で義を好み、言を察して表情を見抜き、おもんぱかって人にへりくだる。国にありても必ず「達」し、家にありても必ず「達」する。一方で「聞」なる者は、表面上は仁を装いつつ行いは違えながら、そのやり方に居着いて疑いも持たない。それで国にあっても必ず聞こえ、家にあっても必ず聞こえる者だ。
──巻第六「顔淵第十二」十について
またちょっと分かりにくい話ですので、すこし整理していきます。
まず「士」とは、サムライではなく、ひとかどの人物。教養ある人。そんな人。
そういった人の中でも特に「達」というのは、どのようであればいいのかと、
子張が孔子先生に尋ねました。
達。達人の「達」ですね。
逆に孔子先生から、どのような人を「達」だと思ってるのかと訊かれて子張は、国に仕官していても、仕官せずに家にいても、その評判が聞こえて来るような人のことだと思っています、と。
そうすると孔子先生は、それは「聞」であって「達」ではないねえ、と。
ここから孔子先生は、「達」と「聞」がそれぞれどんな人かを説明します。
結論から言えば、「達」も「聞」も、どちらもその評判は聞こえてきます。
「達」の人は、実直で、義を好み、言葉の裏を、表情の裏を察してくみ取れる人で、配慮が行き届き、腰が低い人であると。その結果、評判になります。
「聞」の人は、表面上は仁で、実態は伴わない上にそれで良しと思っている。それでも上っ面は仁なので、評判は良い人だと。
噂レベルではどちらも同じく名声を得ていますが、中身がまるで違います。
そもそもの問いに対する直接的な回答ではありませんが、「達」と「聞」との違いに答えることで、「達」というべき人物像を教えてくれています。
単に評判の良い人ではなくて、中身だよと。
◎──今回はここまで。
やー、夏ですねえ。くっそ暑いの、嫌いではないんですが、不便でしかたない。汗かきなので特に。外ならまだしも、屋内にいて暑いのは、鬱陶しくてしかたない。
それに何より、暑さをしのぐにはお金がかかる!
冬の寒さは、コート着て布団被ってりゃしのげますけど、暑いのはどうにも、脱いでもすぐに限界がきますし。皮まで脱いでも、分厚いミートテックが下に。
エアコンなしでは、とても過ごせません。
この夏は外出もままならないですし、エアコンの効いた部屋で水分も取りつつ、論語読んだり、仕事したり、仕事したり、仕事したり、論語読んだりしましょ。
マスクも暑いですしね。熱中症には新型コロナ以上に気をつけてお過ごしを。
あー、早く秋こないかなあ。
【川合和史@コロ。】koro@cap-ut.co.jp
合同会社かぷっと代表
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春夏冬二升五合。求む、実りの秋。