◇明日からは秋ということにしましょう
コロこと川合です。8月だ! 夏だ! サマーだ! って前回言ってたら、その八月がもう最終日。今はどうか知りませんが、私が小学生の頃は八月最終日とは、すなわち夏休み最終日でして。毎年毎年、泣きながら宿題をする日でした。
締め切りが来ないと動かない性分。三つ子の魂百までとは良く言ったものです。
これが中学生になると、少し事情が変わります。先生が科目ごとに代わって、宿題の提出日が九月最初の日ではなく、その科目の最初の授業日になるのです。
八月の最終日に泣きながら宿題をしていた小学生時代とは違い、八月の最終日から数日間、毎日泣きながら宿題をする中学生に……まあ分散されただけ楽になりましたけども。
前回、夏と言えば八月だけど秋にぴったりの月がない、なんて書きましたが、改めて考えてみると、八月が終わると同時に夏が終わり、やっぱり九月からが秋ですかね。中秋の名月というのもだいたいは九月にありますし。今年の中秋の名月は10月1日らしいですが。
ということで、明日からは秋ということにしましょう。明日からは少し涼しくなると信じましょう。明日からは少し涼しくなると祈りましょう。
やー、もう、ほんと、暑い! 明日からでいいから涼しくなって! お願い!
今、天気アプリをみたら、明日の最高気温は今日より3℃も下がるらしいですが、それで33℃って。秋の気温じゃない……
そう言えば、前回の署名の後ろに「春夏冬二升五合」って書き添えていたあれ、「判じ物」という古い言葉遊びの一種です。
「春夏冬」で、秋がないから「あきない=商い」と読みます。
そして昔の計量器具である一升枡(いっしょうマス。一升は約1.8リットル)にかけて、「二升」で「ますます=益々」と読みます。
一升の半分が「五合」なので、半升。「はんじょう=繁盛」と。
つまり、「春夏冬二升五合」で「商い益々繁盛」と読ませるわけです。
判じ物には言葉だけでなく絵のものもありますが、言葉の方は判じ読み、絵は判じ絵なんて呼び分けもされます。私はこの判じ読みのような、いわゆる言葉遊びが大好物で。「春夏冬二升五合」はよく飲食店に書かれているのですが、見かけるとついニヤニヤしてしまいます。
ああ、商いと言えば、弊社はちょうど今日、八月末が決算日。
今日からしばらく毎日泣きながら決算処理をあれこれ進めなきゃいけないことを思い出してしまいました……そろそろ本題に移りましょう。
◎──巻第六「顔淵第十二」二十一
・だいたいの意味
樊遅が孔子先生のお供をして、雨乞いの祭壇の麓で遊んでいた。樊遅が孔子先生に、徳を高め悪心を除き、惑いをはっきりさせることについて、尋ねた。
孔子先生は仰った。
言い質問だ。行いを先にして、得ることを後にする。これは徳を高めることと言えるのではないだろうか。自身の悪心を責め、他人の悪心を責めないことは、悪心を除くことと言えるのではないだろうか。一時の怒りにその身を忘れて、近親を巻き込んでしまうのは、惑いと言えるのではないだろうか。
──巻第六「顔淵第十二」二十一について
弟子の樊遅(はんち)は、以前にもでてきたことがありますが、あまり利発なタイプではない弟子です。
前々回、「顔淵第十二」十で子張が、ほとんど同じ質問をしていますが、答えはかなり違っていて、今回の樊遅への答えの方が少し分かりやすいです。
孔子先生は相手に応じて答えを変えているんですね。
行いを先にして得ることを後にする、というのは「雍也第六」二十二で樊遅が仁について尋ねた時にも、仁者の行動として似た答えをされています。
まずやるべき事をやり、利益のことは後回し。これが徳に繋がるんですね。
悪心、よこしまな心を除くには、自身の持つ悪心を責め、他者のそれを責めることはしない。耳が痛いです。
そして、一時の怒りに我を忘れて周りを巻き込むのは惑い、迷いだと。これはちょっとピンとこないんですが、惑いとは自制心の欠如から起こるものだと、そういうことでしょうかね。これまた耳が痛いです。
◎──巻第六「顔淵第十二」二十二
・だいたいの意味
樊遅が仁について尋ねた。孔子先生は仰った。人を愛すことだと。
智について尋ねた。孔子先生は仰った。人を知ることだと。
樊遅は未だよく分からなかった。
孔子先生は仰った。実直な者を取り立て、曲がった者の上に置けば、曲がった者も矯正されるものだ。
樊遅は退室し、子夏に会って尋ねた。先ほど私は孔子先生にお会いして、智についてお尋ねした。先生は、実直な者を取り立て、曲がった者の上に置けば、曲がった者も矯正されると仰った。どういう意味だろうか。
子夏が言った。示唆に富んだお言葉だなこれは。舜が天下を治めた時、大勢から選んで皐陶を取り立てたので、不仁の者は遠ざかったのだ。湯が天下を治めた時、大勢から選んで伊尹を取り立てたので、不仁の者は遠ざかったのだ。
──巻第六「顔淵第十二」二十について
さっき「雍也第六」二十二で樊遅が仁について尋ねた話を書きましたが、同じ箇所で樊遅は智についても尋ねています。今回また、仁と智を尋ねました。
樊遅、お前何回同じこと聞くねん、なんてことは孔子先生は仰いません。
前回智について先生のお答えは、「民の義を務め、鬼神を敬してこれを遠ざく」でした。義に励んで、鬼神については敬いつつ距離を置く。それが智といえる態度だと。
今回同じく智について尋ねていますが、今回は「人を知ることだ」と。そして、「実直な者を取り立て、曲がった者の上に置けば矯正されるものだ」と。
実直な者を取り立て曲がった者の上に置け、という話は、「為政第二」十九で孔子先生は哀公にも同じ話をしています。
同じ質問でも相手によって答えを変える孔子先生ですが、今度は同じ相手から同じ質問をされた時には、また違った角度で答えてくれることが分かりました。
それでも分からず、同門の仲間に相談する樊遅。
まあ今回、それで樊遅が分かったのかどうかは不明ですが、なんとなく孔子門下の雰囲気が垣間見える話でした。
◎──巻第六「顔淵第十二」二十三
・だいたいの意味
子貢が友というものについて尋ねた。
孔子先生は仰った。忠告して善をもってこれを導く。それが適わなければ、引く。自ら辱められることの無いように。
──巻第六「顔淵第十二」二十三について
友達付き合い、友情というものは、相手が間違っている時には、誠意をもって善へと導くべきだが、相手が聞き入れない場合は、いったん引いて待ちなさい。嫌な思いをしないようにね、と。
これはそのまま現代でも参考になりますね。
孔子先生ってなんとなく、人付き合い苦手そう(失礼)なイメージでしたが、ここを見る限り、まったくそんなことなさそうです。
いやあ、これがなかなかできなくてケンカになるんですよねえ……
◎──巻第六「顔淵第十二」二十四
・だいたいの意味
曾子が言った。君子は文をもって友を集め、友をもって仁を助ける。
──巻第六「顔淵第十二」二十四について
君子は、学問や教養で友を引き寄せ、その友との付き合いが仁の心を育む、と。
教養を深めようとすると同好の士が集まってきて、そして互いに高め合うことに繋がるんですね。そしてその輪がさらに広がり好循環が生まれる。
……そう思ってこうして論語を読んでるんですけど、友はいずこに。
◎──今回はここまで。
これで巻第六「顔淵第十二」は終わりです。次は巻第七「子路第十三」へ。
六巻まで読み終えました。あと四巻です。文庫本一冊だと高をくくっていたら、さすがというかなんというか、読み応えありますねえ。
最後まで読めば、友達も増えるんでしょうか。
この暑い暑い暑い夏が終われば、読書の秋。せっせと読み進めていきましょう。
あ、そうだ『麒麟がくる』もついに再開しましたね。桶狭間の戦いも終わり、足利義昭も現れて、今後ますます光秀と信長が深く交わっていきます。
コロナ禍で麒麟がこない状況でしたが、そのおかげというか、大河で歴史考証を何度も務められている小和田哲男先生がYouTubeを始められました。
・「戦国・小和田チャンネル」
https://www.youtube.com/channel/UCtWUBIHLD0oJ7gzmPJgpWfg
大河と合わせて、こちらもぜひお楽しみください。
【川合和史@コロ。】koro@cap-ut.co.jp
合同会社かぷっと代表
https://www.facebook.com/korowan
https://www.facebook.com/caputllc
夜になると虫の声も聞こえ始めているんですけどね。それでも熱帯夜……