日々の泡[042]和製ジョゼ・ジョバンニと呼びたい【無頼 ある暴力団幹部のドキュメント/藤田五郎】
── 十河 進 ──

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藤田五郎は、「人斬り五郎」と呼ばれた本物のヤクザだった。ヤクザ時代の体験を元に、自伝的な小説を多く書いた。「無頼 ある暴力団幹部のドキュメント」は渡哲也によって「無頼シリーズ」(1968年)となり、今も僕のような(あるいは矢作俊彦さんのような)熱烈な支持者が存在する。

フランスにギャング出身のジョゼ・ジョバンニがいたように、日本には藤田五郎という作家がいた。後に、渋谷の安藤組出身だった安部譲二が元ヤクザの作家(自身の体験を元に「塀の中の懲りない面々」を書いた)として有名になるけれど、それよりずっと前から藤田五郎は作家として活躍していたのだ。





藤田五郎は渡哲也によって「人斬り五郎こと藤川五郎」となり、スクリーンにその姿を永遠に残した。「いつかカタギになる」という夢を抱いて、ヤクザ社会に愛想を尽かしながらも、先輩や若いモンのために必殺の黒匕首(ドス)を抜かざるを得なくなる渡哲也の姿は悲壮美の極みだった。

そして、藤川五郎はよく泣いた。幼くして死んだ妹のために、無惨に殺された先輩のために、引き裂かれた若き恋人たちのために、そして、そんな世界から縁が切れない自分の宿命に----。今も僕は思い出す。松原智恵子の姿と共に永遠に忘れられない、「無頼 人斬り五郎」のラストシーンを。

ヤクザの世界と縁を切り、慕ってくる松原智恵子と共にフェリーに乗って去ろうとするとき、「たばこ買ってくらあ」と言いおいていなくなった藤川五郎を探した松原智恵子は、黒い革ジャンに雪駄で桟橋に立つ五郎を見つける。

岸を離れたフェリーのボードは徐々に上がり、五郎の姿は見えなくなる。松原智恵子はデッキに駆け上り、「五郎さん」と何度か叫ぶ。渡哲也と松原智恵子のバストアップがカットバックされる。人斬り五郎は、殺された先輩や友人たちのために、封印したはずの黒ドスを抜くしかないのだ。

人でなしのヤクザたちとの死闘、傷ついた藤川五郎は塩田の端に横たわる。夕日が落ちていく。五郎が刺した悪辣なボスが掛けていたサングラスが落ちている。そのサングラスには夕日の丘が映っている。その丘に、人影が現れる。

フェリーで去ったはずの松原智恵子。五郎を慕って戻ってきたのだ。サングラスに映る松原智恵子の姿を見つめる藤川五郎は、涙をこらえているような泣き顔である。そして、「ヤクザを賛美している」として放送禁止になった主題歌の二番が重なる。

俺しか知らぬ 無頼の心
ドスで刻んだ おまえの名

僕がまだ若かった頃、藤田五郎は週刊誌の連載小説を書いていたこともある。文藝春秋社の「週刊文春」や講談社の「週刊現代」ではなく、「アサヒ芸能」(通称「アサ芸」)とか「週刊大衆」といった格落ち(ゴメン)の週刊誌だった。もちろんヤクザ小説である。

その頃、大学の同級生が青樹社という出版社に潜り込み、編集者として売れない頃の藤沢周平や人気絶頂の頃の宇野鴻一郎などを担当していたが、藤田五郎も青樹社から著作を出版していた。ある日、僕はその同級生から藤田五郎に会った話を聞いた。

----やっぱり、怖い人?
----そんな雰囲気はなかったよ

「藤田五郎=藤川五郎」というイメージを抱き続けていた僕は、やはり黒ドスを握りしめた渡哲也の映像しか浮かばなかった。思えば、渡哲也と藤田五郎は切っても切れない関係なのだ。

「無頼」シリーズはもちろん、渡哲也が最高の演技を見せた深作欣二監督の「仁義の墓場」(1975年)だって、藤田五郎の原作である。ちなみに「仁義の墓場」は病気からの復活第一作だったけど、この撮影後、再び渡は入院する。深作監督の現場は、相当にきつかったのかもしれない。

「仁義の墓場」のポスターの惹句は「俺が死ぬときは、カラスだけが啼く。凶暴無惨・石川力夫」だった。自分の組の親分を切りつけ、自分が自殺に追い込んだ妻の骨をかじり、無茶苦茶な三十年を生きて「大笑い 三十年のバカ騒ぎ」と刑務所の壁に刻んで、屋上から飛び降りた伝説のヤクザ石川力夫。

もしかして、藤田五郎はヤクザ時代に石川力夫と面識があったのだろうか。時代は重なっている。そんな凄絶な男たちの生涯を描き続けた藤田五郎は、書き続ける中で何かが己の体の中に澱のように溜まり続けたのかもしれない。一九九三年十二月十一日、藤田五郎は壮絶な死を選んだ。

それから二十七年後の八月十日、「東京流れ者」の不死鳥の哲、「無頼」の藤川五郎、「仁義の墓場」の石川力夫を演じた渡哲也は死んだ。七十八歳だった。一九六四年に日活に入社し、一九六五年に「あばれ騎士道」でスクリーン・デビュー、五十六年間の俳優人生だった。

淡路島で育ち、青山学院大学に入り空手部の部員として活躍していたが、日活が浅丘ルリ子の相手役募集をしたときに(例によって)友人が黙って応募し、石原裕次郎に会えるかもしれないと日活撮影所に赴き、そのままスカウトされて俳優になった。

デビュー当時は救いようのない大根役者で、日活が提携していた劇団「民藝」に勉強に出されたけれど、あまり演技は上達しなかった。当時の劇団「民藝」の長老は、宇野重吉と滝沢修だ。共産党系文学者だった中野重治から二字をもらって芸名を付けたという宇野は戦前からの演劇青年だったが、戦後、様々な映画に出演して顔の売れた役者になった。

しかし、左翼系の劇団を運営するのは大変だったらしく、戦後に製作を再開した日活と提携し、劇団員を日活映画に出演させて運営資金を稼いだ。だから、昔の日活映画には後に名優になる「民藝」の俳優たちがいっぱい出ている。宇野重吉と石原裕次郎の仲も日活時代に培われたものだった。

幸いなことに、渡哲也は「新劇的演技」には染まらなかった。おそらく、彼の目標は石原裕次郎だったのだ。自然体の演技、本人の魅力で惹きつける演技である。デビューしたばかりの頃の出演作、石原裕次郎主演の「泣かせるぜ」(1965年)を見るとよくわかる。演技者として見ればぎこちないが、素の部分で観客を魅了する「スター性」を持っていた。

渡哲也自身もインタビューで言っている。「演技は弟(渡瀬恒彦)の方がずっとうまい」と。しかし、デビューから四年後には、あの「藤川五郎」になるのだ。渡哲也を思い出すと、五十年以上昔の黒ドスを構えた泣き顔の藤川五郎が浮かんでくる。そして、僕は「ヤクザの胸はなぜにさびしい〜」と「無頼のテーマ」をまた歌い出す。


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